鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

2009年 夏の「西上州~東信州」取材旅行 西上州その5

2009-08-28 07:12:18 | Weblog
碓氷峠を兆民が越えた時に利用した馬車や鉄道馬車(両方とも新道=国道を走る)については、『軽井沢町誌 歴史編(近・現代編)』や、『信州の鉄道物語』小林宇一郎・小西純一監修(信濃毎日新聞社)が詳しい。それらによると碓氷峠を越える新国道(碓氷新道)の建設が始まったのは明治16年(1883年)6月で、開通したのは明治17年(1884年)の5月22日。工期わずか10ヶ月の突貫工事でした。火山灰を路面に敷いてローラーでならし、橋梁はすべて木材でしたが、橋台はすべて石材を使ったという。新道が出来ても、坂本・沓掛・追分の各宿場町は依然として道路沿いでした。この新国道の完成によって、車が碓氷峠を越えることが可能となりました。車とは、馬車・荷馬車・牛車・荷車・人力車など。貨物の輸送にあたったのは、「長野中牛馬会社」や「高崎中牛馬会社」などの運送会社で、生糸・繭・蚕種・味噌・醤油・米などさまざまな物資が、荷馬車などによって運ばれることになりました。旅客を運ぶ馬車を運行させていた会社としては「長野西北馬車会社」というのがありました。二頭立ての幌馬車で、たとえば追分発の一番馬車(始発)は、早朝4時の早立ちで、横川停車場始発列車に間に合うように運行されていました。もちろん旅客を乗せる馬車は横川からも折り返し出ていたはずだから、明治20年の兆民は、おそらくこの馬車を利用して碓氷峠を越えたものと思われます。この新国道を利用するかたちで「碓氷馬車鉄道」が開業したのは明治21年12月1日のこと。軌間は約50cm、レールの高さは約4,3cm、レールの底幅は約6cm。車両・線路ともにフランス製。馬車鉄道は長野県内ではこの碓氷峠を走るのが唯一でした。出発時刻は、横川・追分とも、午前8時、午前11時、午後2時、午後4時50分。上等車は一頭引き5人乗りで、10人乗りは二頭引きで背中合わせに乗りました。貨車は長さ約1m、幅72cm、高さ15cmほどの台に木枠を組み立てたもの。この馬車鉄道の客車に乗った一人にあの文豪森鴎外(林太郎)がいます。鴎外が乗ったのは明治23年(1890年)の8月17日。「みちの記」によると、木の腰掛にフランケットが2枚敷いてあり、車体は木製で、外は青いペンキで塗られていました。左右に木綿の帳(とばり=カーテン)があって、上下に筋金を引いて、それで帳を開け閉めできるようになっていました。 . . . 本文を読む