鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

2009年 夏の「西上州~東信州」取材旅行 西上州その2

2009-08-25 06:24:37 | Weblog
上野~高崎間の鉄道(日本鉄道)が全通し、高崎駅の開業式が明治天皇の臨席のもとに行われたのは、明治17年(1884年)6月24日のことでした。では、高崎~横川間はどうかというと、高崎~横川間の工事が着手されたのが同年10月20日。開通したのが翌18年(1885年)10月15日のこと。わずか1年ばかりで工事が完了したことになります。上野から横川まで汽車でやって来ることができるようになったわけですが、そこから先は中山道を歩くことになるのかというと、実はそうではない(幸田露伴のように旧中山道を歩くことを選択した人もいましたが)。実はこの明治17年5月に碓氷新道が一応完成し(起工は明治16年の2月)、明治19年(1886年)には「国道」として開通しているのです。道は、旧中山道と同様にくねくねと曲がっており、また旧街道より約3km長くなってはいるものの、急勾配はほとんどなくなり、道幅も四間(約7m余)と広くなりました。つまり、馬車や人力車、大八車などが行き交うことができる道として計画され、そういう道として完成されたのです。では、この国道を利用して、群馬から長野へは何が運ばれ、長野から群馬へは何が運ばれたのかというと、群馬から長野へは、魚・薬種・呉服太物・こんにゃく玉・舶来品・砂糖・材木・塩など。長野から群馬へは、繭・生糸・穀物(米や麦など)・麻・畳糸など。それらの物資の運送にあたったのは、「信濃中牛馬会社」や「内国通運会社」の馬や荷馬車などでした。人を運ぶ馬車としては、横川~追分宿間を約3時間半で結ぶ「西北馬車会社」というものがあって、一日4回運行していたようです。横川と追分は、物資や人々の集散地として賑わい、横川駅では明治18年10月15日、「おぎのや」が、にぎり飯にお新香を付け、竹の皮で包んだものを五銭で人々に売り出すようになりました。これが「駅弁」の誕生であったのです。明治20年(1887年)の上野~横川間の汽車時間表によると、横川までは、熊谷と高崎で2回乗り換えが必要で、高崎~横川間の停車場は、飯塚・安中・磯部・松井田の4駅でした。高崎~横川間の所要時間はおよそ2時間であったという(『関所のまち・よこかわ』『碓氷峠』による)。追分まで馬車で約3時間半かかったとなると、高崎~追分までは休憩も入れて、およそ6時間前後の行程ということになるのでしょう。 . . . 本文を読む