五重塔跡地は小さな公園になっており、垣根に囲まれる形で五重塔の礎石が点在していました。通りに面した角には駐在所がある。
天王寺は、戊辰戦争で敷地の大半が焼失したのを統合して、明治7年(1874年)に共同墓地として開設されたもの。もちろんこの戊辰戦争というのは、上野戦争を指すものと思われます。上野寛永寺境内に彰義隊が立てこもって新政府軍と戦ったというあの事件です。
しかしその時もこの五重塔は焼けずに残り、関東大震災でも倒壊せず、あの東京大空襲でも焼けずに残っていたのですが、昭和32年(1957年)7月6日、放火心中のために焼け落ちてしまったのです。上野公園に日本初のモノレールが開通したのは、この年の10月14日のことでした。
高さはおよそ34m。江戸・東京の下町からはほとんどどこからでも眺めることが出来た五重塔であったと思われますが、それが紅蓮の炎に包まれ、姿を消してしまったのです。
この五重塔跡に来るまでに、おじさんが下町で生まれ、空襲の後、友人を頼って谷中に住むようになったことを聞いていましたが、ここへ来て、ふと思ったことは、谷中霊園のそばに住んでいたということは、この五重塔の火事のことをご存知かも知れない、ということでした。そこで、
「焼け落ちた時のことをご存知ですか」
と聞くと、
「ええ、見ましたよ」
との答え。
「見たんですか!」
と勢い込んだ私は、
「どうでしたか」
と聞きました。跡地にあった暗闇の中で炎上する五重塔の写真を見ての問いでした。
「きれいだったよ」
というのが、おじさんの答えでした。
火事が発生したのは真夜中3時頃。寝ていたおじさんは、「墓地の中が火事だ!」という声に飛び起き、家を飛び出て暗闇の中を墓地に走り、まだ中ほどまで火が上がっていない五重塔を目撃しました。おじさんは集まってきた人々と、塔が全焼し、焼け崩れるまで一部始終を眺めていました。その一番の印象が、
「きれいだった」
という言葉でした。
けだし、そうであったろうと思います。
当時、普通消防車では3層以上には放水できず、はしご車10台が到着した時には黒こげの骨格のみになっていた、という。
そのはしご車10台が到着する頃まで、おじさんはこの現場にいたようだ。
「少年の頃ですか」
と、おじさんの年恰好から推測して聞いたところ、
「いや、32の時です」
とのこと。
昭和32年(1957年)に32歳ということは、大正15年(1926年)か大正14年(1925年)の頃の生まれということになる。ということは現在84歳か83歳。
恰幅もよく、矍鑠(かくしゃく)としていて、そのようなお年には見えませんでした。
当時、会社員であったおじさんは、夜中3時過ぎから、塔が焼け崩れて黒こげの骨格ばかりになる朝まで、ここに立ち続けて眺めていた目撃者であったのです。
偶然にも、天王寺五重塔の火事の目撃者の1人と会い、その体験談を聞くことが出来たということで、これで今日の取材旅行を終えてもいい、と思ったほどでした。
おじさんは、それから森繁家(森繁久弥、竹脇無我の献じた卒塔婆がありました)や上田敏のお墓なども教えてくれましたが、そろそろ自宅へ戻られるということで、お礼を述べて別れたのが10:41でした。1時間余を案内してくれたことになる。
おじさんと別れてから、長谷川一夫家墓所や高橋お伝(1850~1879)の墓などを見て霊園事務所に立ち寄り、案内マップを手に入れ、その地図を見て一葉姉妹がたどったであろう道筋を推測しました。
網谷幾子の墓参の後、露伴の「五重塔」を念頭に五重塔を仰ぎ見て、それから右折して突き当たりの通りを左折。曲がりくねったその道を進んで「芋坂」を下ったに違いない、と考えました。わざわざ遠回りして「紅葉坂」を下る必要はなく、またお墓の間に入っていって「御隠殿坂」を利用する必然性も考えられない。
しかも(それは後になって知ったのですが)「芋坂」を下りきってから線路を渡り、やがて通りにぶつかるその右手角には、「羽二重団子」で知られるお店があるのです。
明治26年当時、一葉は21歳、妹くにが2歳下の19歳であることを考えると、墓参の後、根岸名所の「御行の松」を見物する途中で、この「羽二重団子」で知られた茶屋に立ち寄って、団子を購入してお店かどこかで食べた、ということも十分に考えられるところです。
案内マップを見て、おそらく「芋坂」であろうと判断して、「ふじむらや」という休憩所の左横から「芋坂」へと続く墓地内の曲がりくねった道を進み、法事の読経の声を聞いたり神道式の法事(?)の光景を見ながら、お線香の香りの漂う中を「芋坂」へと続くゆるやかな坂道を下り、やがて右側の墓が尽きるあたりで通りを左折。そのままJRの線路を越える跨線橋を渡るところを、かつての「芋坂」をたどって跨線橋手前で左折。そのまま下りましたが、その道はJRの線路で遮られ、右手はミニ公園になっていました。
そのことを確認した後、もとの跨線橋のところに戻って、長い跨線橋を渡りました。その跨線橋のところからは、「芋坂」が右手へ下っていき線路手前で途切れているようすが望見できました。あの「芋坂」に沿う家並みはおそらく一葉の頃はなかったであろうし、「芋坂」を下って鉄道の線路は越えたはずですが、その線路(踏み切り)の幅はずっと狭かったはずです。おそらく、「芋坂」の下は田んぼが広がっていたと思われ、その田んぼの中の道を歩いてぶつかった通りの右角に「羽二重団子」の店があったのだろう、と思われました。
「芋坂」の跨線橋を渡って、橋から下ったところは、東日暮里五丁目でした。
芋坂を下って通りに入ったその突き当たりに、日蓮宗善性寺があり、その寺の通り隔てた向かい、すなわち、芋坂から通りに出た右角に「羽二重団子」があり、せっかくなので休憩かたがた入ってみることにしました(11:09)。
続く
○参考文献
・『いま・むかし下谷・浅草写真帖』台東区立台東図書館編集(台東区教育委員会)
・『日本文学全集3 幸田露伴 樋口一葉』(集英社)
・『樋口一葉と歩く明治・東京』野口碩監修(小学館)
・『樋口一葉全集 第三巻(上)』(筑摩書房)
・「谷中霊園案内図」(谷中霊園管理所)
・『江戸東京年表』(小学館)
天王寺は、戊辰戦争で敷地の大半が焼失したのを統合して、明治7年(1874年)に共同墓地として開設されたもの。もちろんこの戊辰戦争というのは、上野戦争を指すものと思われます。上野寛永寺境内に彰義隊が立てこもって新政府軍と戦ったというあの事件です。
しかしその時もこの五重塔は焼けずに残り、関東大震災でも倒壊せず、あの東京大空襲でも焼けずに残っていたのですが、昭和32年(1957年)7月6日、放火心中のために焼け落ちてしまったのです。上野公園に日本初のモノレールが開通したのは、この年の10月14日のことでした。
高さはおよそ34m。江戸・東京の下町からはほとんどどこからでも眺めることが出来た五重塔であったと思われますが、それが紅蓮の炎に包まれ、姿を消してしまったのです。
この五重塔跡に来るまでに、おじさんが下町で生まれ、空襲の後、友人を頼って谷中に住むようになったことを聞いていましたが、ここへ来て、ふと思ったことは、谷中霊園のそばに住んでいたということは、この五重塔の火事のことをご存知かも知れない、ということでした。そこで、
「焼け落ちた時のことをご存知ですか」
と聞くと、
「ええ、見ましたよ」
との答え。
「見たんですか!」
と勢い込んだ私は、
「どうでしたか」
と聞きました。跡地にあった暗闇の中で炎上する五重塔の写真を見ての問いでした。
「きれいだったよ」
というのが、おじさんの答えでした。
火事が発生したのは真夜中3時頃。寝ていたおじさんは、「墓地の中が火事だ!」という声に飛び起き、家を飛び出て暗闇の中を墓地に走り、まだ中ほどまで火が上がっていない五重塔を目撃しました。おじさんは集まってきた人々と、塔が全焼し、焼け崩れるまで一部始終を眺めていました。その一番の印象が、
「きれいだった」
という言葉でした。
けだし、そうであったろうと思います。
当時、普通消防車では3層以上には放水できず、はしご車10台が到着した時には黒こげの骨格のみになっていた、という。
そのはしご車10台が到着する頃まで、おじさんはこの現場にいたようだ。
「少年の頃ですか」
と、おじさんの年恰好から推測して聞いたところ、
「いや、32の時です」
とのこと。
昭和32年(1957年)に32歳ということは、大正15年(1926年)か大正14年(1925年)の頃の生まれということになる。ということは現在84歳か83歳。
恰幅もよく、矍鑠(かくしゃく)としていて、そのようなお年には見えませんでした。
当時、会社員であったおじさんは、夜中3時過ぎから、塔が焼け崩れて黒こげの骨格ばかりになる朝まで、ここに立ち続けて眺めていた目撃者であったのです。
偶然にも、天王寺五重塔の火事の目撃者の1人と会い、その体験談を聞くことが出来たということで、これで今日の取材旅行を終えてもいい、と思ったほどでした。
おじさんは、それから森繁家(森繁久弥、竹脇無我の献じた卒塔婆がありました)や上田敏のお墓なども教えてくれましたが、そろそろ自宅へ戻られるということで、お礼を述べて別れたのが10:41でした。1時間余を案内してくれたことになる。
おじさんと別れてから、長谷川一夫家墓所や高橋お伝(1850~1879)の墓などを見て霊園事務所に立ち寄り、案内マップを手に入れ、その地図を見て一葉姉妹がたどったであろう道筋を推測しました。
網谷幾子の墓参の後、露伴の「五重塔」を念頭に五重塔を仰ぎ見て、それから右折して突き当たりの通りを左折。曲がりくねったその道を進んで「芋坂」を下ったに違いない、と考えました。わざわざ遠回りして「紅葉坂」を下る必要はなく、またお墓の間に入っていって「御隠殿坂」を利用する必然性も考えられない。
しかも(それは後になって知ったのですが)「芋坂」を下りきってから線路を渡り、やがて通りにぶつかるその右手角には、「羽二重団子」で知られるお店があるのです。
明治26年当時、一葉は21歳、妹くにが2歳下の19歳であることを考えると、墓参の後、根岸名所の「御行の松」を見物する途中で、この「羽二重団子」で知られた茶屋に立ち寄って、団子を購入してお店かどこかで食べた、ということも十分に考えられるところです。
案内マップを見て、おそらく「芋坂」であろうと判断して、「ふじむらや」という休憩所の左横から「芋坂」へと続く墓地内の曲がりくねった道を進み、法事の読経の声を聞いたり神道式の法事(?)の光景を見ながら、お線香の香りの漂う中を「芋坂」へと続くゆるやかな坂道を下り、やがて右側の墓が尽きるあたりで通りを左折。そのままJRの線路を越える跨線橋を渡るところを、かつての「芋坂」をたどって跨線橋手前で左折。そのまま下りましたが、その道はJRの線路で遮られ、右手はミニ公園になっていました。
そのことを確認した後、もとの跨線橋のところに戻って、長い跨線橋を渡りました。その跨線橋のところからは、「芋坂」が右手へ下っていき線路手前で途切れているようすが望見できました。あの「芋坂」に沿う家並みはおそらく一葉の頃はなかったであろうし、「芋坂」を下って鉄道の線路は越えたはずですが、その線路(踏み切り)の幅はずっと狭かったはずです。おそらく、「芋坂」の下は田んぼが広がっていたと思われ、その田んぼの中の道を歩いてぶつかった通りの右角に「羽二重団子」の店があったのだろう、と思われました。
「芋坂」の跨線橋を渡って、橋から下ったところは、東日暮里五丁目でした。
芋坂を下って通りに入ったその突き当たりに、日蓮宗善性寺があり、その寺の通り隔てた向かい、すなわち、芋坂から通りに出た右角に「羽二重団子」があり、せっかくなので休憩かたがた入ってみることにしました(11:09)。
続く
○参考文献
・『いま・むかし下谷・浅草写真帖』台東区立台東図書館編集(台東区教育委員会)
・『日本文学全集3 幸田露伴 樋口一葉』(集英社)
・『樋口一葉と歩く明治・東京』野口碩監修(小学館)
・『樋口一葉全集 第三巻(上)』(筑摩書房)
・「谷中霊園案内図」(谷中霊園管理所)
・『江戸東京年表』(小学館)
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