鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

2009.8月取材旅行「谷中~本郷~万世橋」 その4

2009-08-13 07:09:15 | Weblog
 「上野桜木」交差点で左折し、谷中霊園への道を辿ると、左手に「下町まちしるべ 旧谷中町」があり、また大雄寺というお寺がありました。このお寺には高橋泥舟のお墓があるという。この高橋泥舟は、勝海舟・山岡鉄舟とともに「幕末の三舟」の一人に数えられる人物。

 左に「谷中岡埜栄泉」、右に「警視庁下谷警察署谷中交番」が見えてくると、もう谷中霊園入口の雰囲気が濃厚になってきます。

 右手に「坂本家」「金子屋」「ふじむらや」といったお墓参りの客のための休憩所、左手に店先に花を並べた「創業明治元年」の「花重」(お花屋さん)、「三原屋」「おもだかや」などのやはり休憩所。それぞれが趣きがあって、ちょっとすると映画のセットのようにも見えて来ます。異空間に入り込んだような印象で、谷中霊園の入口がこのようなものであるとは全く想像していませんでした。

 こういう休憩所のたたずまいは、これほど立派でなくても、一葉の頃にも見られたもので、また「創業明治元年」の「花重」も、この入口左手のところに店を構えていたのでしょう。

 左手には「霊園管理所」もありました。

 さて、谷中墓地入口にやってきた一葉姉妹は、ここからどういうルートで、中島歌子の母網谷幾子のお墓へ向かったのか。またそのお墓参りの後、どういうルートで根岸の方に下り、そこからどういうルートで「御行の松」に向かったのか。

 谷中霊園に足を踏み入れて、まず最初に目に付いたのは、右手にあった「徳川慶喜墓」という標示でした。この標示は「乙7号甲1側」にありました。その慶喜の墓へと通ずる道の路面には、黄色いペンキで「↑ YOSINOBU」と書かれています。この奇抜な案内標示は、ここを訪れる外国人向けなのでしょうか。ほかには黄色いペンキで書かれた標示は見かけなかったから、慶喜のお墓に限ってのものであるようです。

 途中、左手に条野伝平のお墓を見つけました。この条野伝平は、『東京日々新聞』(現在の『毎日新聞』)の創始者。明治34年(1901年)の1月24日に71歳でなくなっています。

 この道の突き当たりは高い塀になっているため、そこで左折して時計まわりに塀に沿うような形でぐるりと回っていくと、ほぼ塀を一周するかと思われたところに「徳川慶喜公墓所」がありました。

 正面の鉄の門扉の間から中を覗いてみると、上の円丘部が白石で覆われ、側面が石塀のようになったお墓が、横に三つ並んでいます。右のには「徳川美賀子之墓」と刻まれた標柱が立っており、真ん中のには「徳川慶喜之墓」、左のには「徳川家之墓」と刻まれた標柱。まるで古井戸の上に白い石が円丘状に積み上げてあるような一風変わったお墓が三つ並んでいるのが、「徳川慶喜公墓所」でした。

 では、私がぐるっと回ってきた高い塀に囲まれた墓域(その一郭に慶喜の墓所がある)は何であったのかというと、それは後で教えられてわかったのですが、寛永寺の管理になる徳川家墓地、もう少し厳密に言うと「一橋家」の墓地であったのです。

 この谷中霊園には、この一橋家の墓地以外にも、高い塀で囲まれた墓地があるのですが、それらはほとんどが徳川家の墓地(寛永寺の管理になる)であったり大名家のお墓であったりしていることを、やはり後で教えられることになりました。

 乙4号9側に、石鳥居のある、明治大学創始者の一人である「岸本辰雄先生墓碑」を見つけたり、乙6号5側に「大原重徳」のお墓を見つけたりした後、目的であった中島歌子の母網谷幾子のお墓を探しました。

 手引きとなったのは、『樋口一葉と歩く明治・東京』のP89、「谷中霊園にある中島歌子と中島家の墓。母・幾子の墓参に一葉はたびたび訪れている。墓の位置は『乙3号9側』」という、お墓の写真に付された記述でした。

 標示をたどって、先ほどの入口に戻っていくような形でお墓を探していくと、やがて道の左手に「乙3号9側」の標示を見つけ、そのほん側に中島歌子のお墓があるのを知りました。

 中島歌子の墓石には、「従七位中島歌子之墓」と刻まれていました。中島歌子が亡くなったのは明治36年(1903年)であるから、もちろんこのお墓はそれ以後に建てられたもの。

 歌子は武蔵国入間郡の森戸宿で代々名主を務めた中島家に生まれますが、生後間もなく、川越絹を商う父とともに江戸に移り、父が買収した旅宿池田屋を定宿にしていた水戸藩士・林忠左衛門と18歳で結婚。水戸へ赴きますが、夫忠左衛門は藩内の急進派(尊王攘夷派)である「天狗党」に属していたために、陰惨な抗争の末、自害。21歳で未亡人になった歌子は江戸に戻って、加藤千浪に師事して、和歌や書道、国学などを学びました。やがて池田屋の奥に教場を設けて手跡指南の塾を始め、その後、明治10年(1877年)に歌塾・萩の舎を開くことになりました(『樋口一葉と歩く明治・東京』による)。

 この歌塾・萩の舎に学んだ一人が樋口一葉でした。

 おそらく一葉は、この歌子の母である網谷幾子にたいそうお世話になったか、あるいは親しみを抱いていたのでしょう。

 幾子が亡くなってからも、その恩義や姿を追憶し、谷中墓地にあった幾子のお墓参りをしばしば行っていたのです。母たきと来ることも、また妹くにと来ることもありました。樋口家の大恩人である真下(ましも)専之丞の娘黒川まき子の墓参りも、しばしば行っていたようでもある。

 この中島歌子の墓石の左手前に中島家の墓誌があり、その墓石の右隣りに「中島家之墓」がありました。

 この「中島家之墓」の左側面には、「俗名 中島庸 昭和十九年七月十八日歿」と刻まれていました。よもや、と思って墓誌の方を見てみると、「従七位中島歌子 明治三十六年一月三十日歿」と刻まれた左隣に、「正五位勲三等功四級砲兵大佐 中島庸 昭和十九年七月十八日 サイパン島にて戦死」と刻まれていました。

 またその左隣には「中島あい」と刻まれ、「昭和六十二年十一月十八日歿」となっていて、さらに左隣に「大森晶子 中島庸、あいの長女として生まれ、大森家に嫁ぐ 平成七年九月十日歿 行年六十三才」とある。

 中島庸はあいと結婚し、その二人の間に出来た長女晶子が12歳の時に、庸はサイパン島にて砲兵大佐として戦死していることになります。

 墓誌の「中島歌子」の右隣が「網谷幾子」。つまり中島歌子の母になる。亡くなったのは明治二十五年六月三日。

 ということは、明治26年6月25日に妹くにとともに網谷幾子のお墓参りをした一葉は、幾子の一周忌に合わせた形でお墓参りをしたことになる。

 その「網谷幾子」の右隣は、「中島又右衛門 安政五年十二月十五日歿」。この中島又右衛門が、おそらく歌子の父親(幾子の夫)であると思われる。

 この墓誌を見ただけでも、中島家の歴史が見えてくるような気がしました。

 中島歌子の墓は、このサイパン島で戦死することになる中島庸が建てたものでした。ということは、おそらく昭和になってから建てられたものであるということになり、中島家のお墓も、歌子の墓も、また中島家の墓誌も、昭和になってから建てられたもので、一葉の頃には、当然のこととして無かったということになります。

 つまり、一葉が妹くにとともにお墓参りした時の墓地のようすというと、網谷幾子の新しい墓石だけがここに建っていたとも推測できるのです。あるいは父中島又右衛門のお墓が一緒にあったということも考えられる。

 いや、谷中の墓地自体が、今のそれとは大きく違っていたはずで、今は建っていない天王寺の五重塔が、ここからちょうど真北方向に、建ち並ぶ墓石の上からすっくと天空に向かって聳えていたのです。


 続く


○参考文献
・『江戸を歩く』写真・石山貴美子 田中優子(集英社新書ヴィジュアル版/集英社)
・『目で見る江戸・明治百科四 明治時代四季の行楽と博覧会の巻』(国書刊行会)
・『樋口一葉と歩く明治・東京』野口碩監修(小学館)


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