鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

2009.8月取材旅行「谷中~本郷~万世橋」 その2

2009-08-11 07:41:46 | Weblog
 「藪下通り」に入り、途中、左折して淡く緑色に苔むしたコンクリートの階段を上ってみました。階段の両側は、丸石が積み重ねられています。この階段を上がったところから下を左右に走っている「藪下通り」をデジカメで撮り、再び戻って「藪下通り」を進むと、右下からテニスを打つ音が聞こえてきました。見ると、汐見小学校のアスファルト敷きのグラウンドで、地域の人たちがテニスの練習をしていました。グラウンドには一周のコースが白く塗られています。グラウンドとしてはたしかに余り広くはなく、テニスの練習をするのにはちょうど手頃な大きさなのかも知れない。

 このあたりから「藪下通り」はやや上り坂になる。

 汐見児童遊園を過ぎた右手にある「藪下通り」のガイドパネルは、もうすでに何回も目を通していますが、今回も目を通してみました。

 「両側は笹藪」で「雪の日には、その重みでたれさがった笹に道をふさがれて歩けなかったという」というのが、かつての「藪下通り」のようす。

 以前、東海道の箱根峠を、峠上から三島方向へ下ったことがありますが、時期は冬で、やはり両側の笹が雪の重みで旧東海道をふさぐように真ん中に垂れていたことを思い出しました。雪を載せた笹が両側から真ん中に垂れ下がり、笹のトンネルのようになっていたのです。そのトンネルを潜ったり、またいだり、また迂回したりして、旧東海道を残雪を踏みつつ進んでいきました。

 もちろん現在の「藪下通り」は、笹薮はなく、道もしっかりと舗装されていて、雪が降っても垂れた笹薮に行く手を遮られることはなく、残雪による泥濘で悩まされる心配もありません。

 「観潮楼」跡の玄関口に着いたのは7:47。鴎外記念室は、依然休館のままでした。いつ開館になるのかという説明は、不思議なことにまったくありません。

 団子坂上に出て、前回は左折しましたが、今回は右折して坂道を下ります。

 団子坂の菊見の賑わいについては、平出鏗二郎(ひらでこうじろう・1869~1911)の『東京風俗志 下』に、挿絵(P273)とともに、「菊見」という項目で次のような記述が見られます。

 「菊は駒込団子阪著しく、皆花戸の養へる所にして、ただ花の見事なるをこそ賞美すべけれ、清高なる趣はこれを見ること能はず。いづれも戸毎に舞台を構へ、当年興行の演劇の芸題などを取りて、菊にて人形を作り、それぞれの俳優の顔に似せ、廻り舞台、せり上げ道具を設くるなど、さまざまに意匠を凝らせり。概ね資金幾千円を費すといへり。されば、かかるたわいもなき作り物、却つて主となりて、花壇に植ゑつけられたるは、ほとんど客となりたり。十月の季より始まり、十一月の下旬に至る。小春日和のうちつづくに、人の遊処に乏しき折柄なれば、自ら集ひ来りて雑沓を極む。」

 この団子坂の菊人形の全盛期は、明治20年から30年頃と言われますが、その雑沓を極めた菊人形の風景を想起しながら歩くのには、今の団子坂のようすはあまりにも変貌してしまっています。

 天気は薄曇。あまりカンカン照りに暑くはなく、歩くにはありがたい。

 「不忍通り」と交差する「団子坂下」交差点をそのまま直進。

 左手の標示に「谷中霊園700m→」とある。この入ったところの通りの名前は「団子坂下柳通り」。「圓朝まつり実行委員会」と染め出された幟(のぼり)が翻っているのが目を引きました。近くの全生庵というお寺には、山岡鉄舟のお墓とともに三遊亭円朝のお墓もあるらしい。それにちなむおまつりなのでしょうか。

 左手に「団子坂 菊見せんべい総本店」がありましたが、まだ早いので開店してはいません。

 しばらく進むと、「藍染川と枇杷橋(合染橋)跡」のガイドパネルがありました。この藍染川は現在は暗渠になっているらしい。暗渠工事が始められたのは大正10年(1921年)より。この藍染川は水はけが悪く、よく氾濫を繰り返したのだとのこと。暗渠化が大正10年から始められたということは、一葉の時代にはこの川はここを流れ、ここにはその藍染川に架かる枇杷橋(合染橋)があったということになる。この藍染川は、水源を染井の内長池とし、西ヶ原村→駒込→根津谷→不忍池→三枚橋下(ここで忍川となる)→三味線堀を経て、隅田川に流れ込む。流路の多くは、現在は、台東区と文京区の区境の道路となっているという。

 ここで右へ折れる道と左に折れる道がありますが、左折する道が「よみせ通り」で右折する道が「へび道」。この道が、かつては藍染川だったのです。

 右折するとすぐに左手に、「やなか」という特別養護老人ホームなどの入った非常用スロープのある施設がありました。左側は台東区谷中二丁目で、右側は文京区千駄木二丁目となっています。たしかに、暗渠化した藍染川の流路は、台東区と文京区の区境の道路となっています。

 歩いてみると、この道が「へび道」と言われているようにくねくねと曲がっているのがよくわかります。街中のこんなにくねくねと曲がっている細い道を歩くのは、初めてのように思われます。細いといっても、車1台は通れる幅はある。すれ違うのはまず無理。

 ずんずん紆余曲折する「へび道」を歩いていって、右手に「守谷歯科医院」が見えてきたあたりから、通りは真っ直ぐになります。

 この守谷歯科医院を過ぎたところで、右手の千駄木二丁目の路地から、手押し車を押したおばあちゃんが現れ、私を見ると、親しげに「何か調べてなさんの」と声を掛けてきました。


 続く


○参考文献
・『樋口一葉全集 第三巻(上)』(筑摩書房)
・『樋口一葉と歩く明治・東京』野口碩監修(小学館)
・『明治の東京』馬場孤蝶(現代教養文庫/社会思想社)
・『東京風俗志 下』平出鏗二郎(ちくま学芸文庫/筑摩書房)


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