鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

2009.8月取材旅行「谷中~本郷~万世橋」 その7

2009-08-16 07:25:22 | Weblog
 この「羽二重団子」のお店の壁には、俳句の記されたパネルや、案内板などが多数掛けられてあって、このあたりのようすや由来がよくわかる。

 「芋坂」については、「いも坂みち」という看板がありました。それによると、このあたりで自然薯(山芋)が取れたことがこの坂道の名前の由来であるという。またこの芋坂は、上野に立てこもった彰義隊の退却路であったとも伝えられており、慶応4年(1868年)5月15日(旧暦)、上野の戦争で敗れた彰義隊士数百名は、かねて定めていた「芋坂」の退却路に至り、官軍の追跡を逃れるために、台上から日光を目指して落ちて行くことに衆議一決、負傷者数名を乞われるままに絶命させて、この「芋坂」を駆け下りていったいった、とのこと。

 またこういうことも書いてあります。

 その折数名が当店に侵入、刀、槍を縁下に投げ込み、野良着に変装して行った。その彰義隊士の遺したものは当店舗内に展示してある。

 俳句は、ほとんどが正岡子規のもので、ここ根岸が晩年の子規が住んでいたところであることを示しています。

 たとえば、

 「根岸名所ノ内 芋阪の団子屋寝たりけふの月 正岡子規 明治三十年」

 「名物や月の根岸の串団子 正岡子規 明治三十一年」

 「正岡子規・泉鏡花と当店」という看板もあり、そこには「根岸に琴の鳴らぬ日はありとも、此店に人の待たぬ時はあらじ」と、その繁盛振りを記した子規の文章が紹介されていますが、この記事が新聞『日本』に掲載されたのは明治32年(1899年)10月2日のこと。

 この「羽二重団子」の前の通りは「王子街道」と呼ばれ、王子へと通ずる道。

 「団子の由来」という看板によると、この店の創業は文政2年(1819年)のことで、王子街道を往き来する人々相手の茶屋(「藤の木茶屋」)として繁盛したのだという。190年の歴史を持つ老舗なのです。

 店内に入ると、右手レジの前に店舗を写した写真や絵が三枚飾ってありましたが、その右端が創業期の「藤の木茶屋」を描いた絵で、真ん中が「内庭の見える芋坂みち店舗。明治22年から昭和7年(1932)まで」のお店を写した写真。

 一葉が妹くにとともに「芋坂」を下って、この「羽二重団子」の店に立ち寄っていたとしたら、その店はこの写真のようなものであったことになります。

 このお店で、内庭を眺めながら「抹茶セット」(抹茶とミニ団子)」を頂きながらしばし休憩。

 それから、「子規庵」に向かうことにしました。

 クリーニング屋さんのところで右折。架線橋下手前を左折して、途中で右折。左手のミニ公園のところで左折、と、やや入り組んだところに目指す「子規庵」はありました。

 この「子規庵」は、もちろん昔のそのままのものではなく、昭和26年(1951年)に復元されたもの。もともとは侍長屋であったものを移築したもので、ここに子規は晩年の8年間を過ごしました。母のやえ、妹のりつとともに過ごしています。

 正面六畳間は、漱石や高浜虚子や伊藤左千夫らが集まったところ。ガラスがはめ込まれた雨戸(ガラス戸)になっていますが、これは明治32年当時にはまだ珍しいものであったという。病床の子規が窓から庭や外を眺められるように友人たちが配慮したものだとのこと。「子規終焉の間」(四畳半)に置いてある机は、立て膝を入れる部分を四角くくりぬいて作られていますが、これは、子規の左足が曲がったまま伸びなくなっていたため。

 ここで、子規は34歳11ヶ月の人生を終えたのです。

 一葉といい、啄木といい、そしこの子規といい、短い人生です。

 「子規終焉の間」には、赤石定蔵が撮影した子規の写真が置かれていますが、そこには右肱を枕の上に置き、半身を蒲団の外に出した子規がいます。

 子規によれば、枕元にあるのは俳稿歌稿「我病」の原稿で、柱に掛かっているのは蓑(これを持って元気であった頃はほうぼう旅をしたもの)、白瓶に生けてあるのは桜の蕾で、その桜の上にわずかに見えているのが支那製の団扇、枕のすぐ前にあるのは国分寺瓦の硯でした。

 受付の方に、

 「あの庭にいちはつの花は咲きますか」

 とお聞きすると、

 「咲く年と咲かない年がありますが、大きい花が咲きますよ。芙蓉の花と鶏頭の花が咲いていますが、その間のところに、季節になると咲きます」

 とのことでした。

正岡子規には、病床から庭に咲く「いちはつ」の花を見て詠んだ歌、

 「いちはつの 花咲きいでて 我目には 今年ばかりの春行かんとす」

 というのがあることを、「いちはつ」について調べていた時に知りました。

 内部を見た後、庭を一巡して、芙蓉の花の下にたしかにいちはつが植わっていることを確認し、ちょうど12:00に子規庵の門を出ました。

 子規庵を出て表通りに出ますが、この表通りが「尾久橋通り」。ここの横断歩道を渡り、少し通りを戻って国際理容美容専門学校のところで右折、右手に水遊びの子どもたちの歓声が聞こえる日暮里南公園まで来ましたが、傍らの駄菓子屋さんのご主人に「御行の松」への道を聞くと、この道ではないということがわかり、道を引き返して専門学校のところを右折。先ほどの尾久橋通りを進んで「竹台(たけのだい)高校前」で左斜めに伸びる道に入り、その通りを直進。「東日暮里四丁目南」交差点を突っ切っていくと、やがて見覚えのある「柳通り」に出ました。

 「こゝめ大福竹隆庵岡埜」の手前信号で左折すると、やがて右手に「御行の松 不動尊」の看板が見えて来ます。

 この「根岸御行松」については、山本松谷が貴重な絵を残しています。『百年前の東京絵図』のP168~169の絵がそれ。

 幹回りが4mもあったという、この松の巨木。現在は残念ながらこのような姿を見ることはできません(枯れ死したため)。

 この絵では松の木の下で、松を見上げている人々の姿が描かれていますが、一葉姉妹もこのように松の巨木を見上げたことでしょう。もしかしたら手には、「羽二重団子」で買った串団子の入った紙袋を提げていたかもしれません。

 すぐに「御行の松」をあとにして、「柳通り」を進んで、「柳通り」交差点で右折して「金杉通り」に入り、左手に小野照崎神社(ここには富士山の熔岩を利用して造った富士塚があり一見の価値がある)を見て、「北上野」交差点を過ぎて上野駅前に出たのが13:05。

 高架を潜って「公園山下」の信号を渡り、京成上野駅前を通過して横断歩道を渡ったところで右折、不忍池のほとりに出てベンチに座り、密集する一面の蓮の葉の間に咲く蓮の花を眺めながら、遅めの昼食を摂りました。


 続く


○参考文献
・『樋口一葉全集 第三巻(下)』(筑摩書房)
・「谷中霊園案内図」(谷中霊園管理所)
・『百年前の東京絵図』山本松谷画/山本駿次郎編(小学館文庫/小学館)


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