鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

2009年 夏の「西上州~東信州」取材旅行 軽井沢その2

2009-08-30 06:52:57 | Weblog
明治25年(1892年)の2月2日、兆民と小山太郎は、軽井沢停車場から汽車に乗り、午後2時55分に小諸停車場に到着しています。ということは、小諸~軽井沢間に鉄道がすでに敷かれているということになりますが、その5年前の明治20年(1887年)、兆民と小山久之助が軽井沢から小諸に向かった時には、まだ鉄道は敷かれておらず、兆民一行はおそらく馬車で、軽井沢から小諸まで、北国街道を揺られていったと思われます。では、長野県内の鉄道敷設状況はどうであったのか、という点を見ていくと、直江津~長野間が全通したのは明治21年(1888年)5月。長野~上田間が開通したのが同年8月15日。そして上田~軽井沢間が開通したのが同年12月1日のことでした。つまり直江津~軽井沢間が全通したのは明治21年12月1日であった、ということになります。軽井沢停車場が設けられたところは、軽井沢宿よりもはるか南方1500mほどの地点でした。さて、この明治21年12月1日というと、この日は碓氷馬車鉄道が横川~軽井沢間の全通したまさにその当日であり、この日より、東京(上野)~高崎~横川~〔馬車鉄道〕~軽井沢~長野~直江津が、一部、馬車鉄道に乗り換えるとしても、鉄道でつながったということになるわけです。明治20年の11月、兆民は横川~小諸間を馬車(ないし人力車)で行くしかありませんでしたが、明治25年2月には、横川~小諸間を、馬車鉄道と汽車を利用して移動できたことになるわけです。軽井沢から小諸までは、御代田を経由しておよそ1時間の乗車時間でした。この状況は、明治26年(1893年)4月1日の碓氷線(アプト式鉄道)の開通(運転開始)によって、さらに大きく変化することになります。碓氷線の工事が始まったのは明治24年(1891年)2月のこと。完成したのが翌明治25年(1892年)12月26日のことで、運転が開始されたのが明治26年の4月1日のことでした。小山太郎も兆民も、明治25年の2月2日、横川から軽井沢まで鉄道馬車に乗りながら、アプト式鉄道建設工事が大々的に進められている現場を目の当たりにして、碓氷峠(新道=国道)を越えていったのです。この碓氷線の開通により、鉄道馬車で2時間半~3時間かかっていた横川~軽井沢間は、1時間15分と、半分ほどに短縮されることになりましたが、この建設工事は歴史に残る難工事でもありました。 . . . 本文を読む