萩原進さんの『碓氷峠』(有峰書店)によれば、坂本宿が完成したのは寛永2年(1625年)。七間型と三間半型の人家が160軒ほど軒を連ねました。東と西に木戸があり、その両木戸の間は約400間(約720m弱)。宿の道幅は8間1尺(約15m)とかなり広いものでした。英泉の絵でもその広さを伺うことができます。その道の中央に幅4尺(約1,2m)の用水が流れていました。用水は街道中央ばかりか、両側の人家の裏を南北ともに流れ、東口で合流していました。これは防火用水でもあったようです。本陣、脇本陣とも2軒ずつ、そして問屋も2軒。160軒ばかりの人家のうち、半数近くの70軒ばかりが「飯盛女」という女郎を置く旅籠でした。この坂本宿の「飯盛女」の場合、出身は越後・信州・三河・尾張の出身者が多く、「やりて婆(ばばあ)」は信州人が多かったという。この坂本宿には、家が通りにびったりと面しておらず、いくらか斜めになって建っているのが見受けられましたが、これは「はすかい屋敷」(斜交屋敷)と言うもので、軍事的な目的を持つものであるらしい。この坂本宿が徹底的な打撃を受けたのは、明治26年(1893年)の横川~軽井沢間の鉄道全通でした。それまでは、碓氷馬車鉄道が走っていた時代もあり、以前に較べればやや翳(かげ)りが見えていたとは言え、それなりに賑わいを保っていたのです。前にも記したように、馬車鉄道の軌道が宿場内の街道のどこを走っていたのかはわかりませんでしたが、用水路を埋め立てたとは考えられず、用水路のどちらかの側の通りに敷設され、その上を馬車の引っ張る車両(鉄道馬車)が旅客を乗せて走っていたのです。この碓氷馬車鉄道が、横川~坂本間に開通したのは明治21年(1888年)8月9日のこと。これが碓氷峠を越え、軽井沢追分宿まで全通したのが同年12月1日のことでした。この鉄道は、明治19年(1886年)に完成した「碓氷新道」(国道)を、ほぼ利用するものでした。この鉄道馬車が写っている写真がないか探してみたところ、『関所のまち よこかわ』(うすいの歴史を残す会)のP34に、5両の小さな車両が写った写真が掲載されていました。どうもこれが唯一の碓氷鉄道馬車の写っている写真のようです。しかしこの馬車鉄道は、横川~軽井沢間にアプト式鉄道が開通して明治26年4月1日より営業が開始されると、間もなく廃業に追い込まれました。 . . . 本文を読む