鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

2009.8月取材旅行「谷中~本郷~万世橋」 その4

2009-08-13 07:09:15 | Weblog
『江戸を歩く』によると、田中優子さんの父は根津清水町といって、根津神社の門前町通り西側裏(現在の根津小学校の東裏)に生まれました。祖父にあたる方は新潟の小国(おぐに)から江戸に出てきて、本郷本富士町や池之端を転々として根津に落ち着いたのだという。この根津清水町(今は存在しない町名)の表通りが根津権現の門前町で、ここには幕末から明治中期まで根津遊廓があり、本郷の大名屋敷や旗本屋敷に出入りする大工たちが通うことで繁盛し、明治に入るとますます繁盛した、とのこと。しかし西隣に帝国大学ができたことを理由に、明治21年(1888年)、深川の洲崎にその遊廓は移転させられたのだという。この田中さんの記述には、「お化け階段」のことも出てきます。なぜ「お化け階段」というのか疑問に思っていたのですが、P148の「お化け階段」の写真に付された解説によると、「向かって右がお化け階段。上がりと下りで数を間違えることからこう呼ばれたとも。」とある。上る時の階段数と、下る時の階段数がなぜかきまってずれた、ということなのでしょう。「藪下通り」や団子坂についての記述もあります。この団子坂のかつての賑わいについては、あの山本松谷がちゃんと描いていました。その絵を私は『目で見る江戸・明治百科四 明治時代四季の行楽と博覧会の巻』で見つけました。同書P89の絵がそれで、さすがに松谷、明治30年前後の団子坂と、その菊人形の際の非常な賑わいを丁寧に、生き生きと描いています。「団子坂の菊人形の賑わいとは、ああ、たしかにこういうものだったのか」と、その光景を髣髴とさせる絵です。大きな幟(のぼり)には、「菊細工」・「弁天小僧」・「佐倉宗五郎」・「太功記」・「八犬傳」・「弁慶五條の梯」・「文覚○○」などの芸題が書かれ、また「植重」・「種半」・「植惣」などの名が見えますが、井出鏗二郎(こうじろう)の言う「花戸」、すなわち植木屋の名前がそれらであったのです。これらの植木屋(もともとは染井の植木職人)がその庭園に舞台を作り、木戸銭を取って趣向を凝らした菊人形を見せたというわけです。明治42年(1909年)に、名古屋の黄花園というのが両国国技館に進出すると、この団子坂の菊人形は滅びたのだという。この絵に描かれる狭くて、急で、ゆるやかに曲がった団子坂が、今のように拡張されてゆるやかになったのは、それ以後のことであるのでしょう。 . . . 本文を読む