鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

2009.8月取材旅行「谷中~本郷~万世橋」 その最終回

2009-08-17 04:00:22 | Weblog
正岡子規の『病牀六尺』は、新聞『日本』に連載され、死の2日前まで書き続けられた随筆集。明治35年(1902年)5月5日から始まり9月17日に終わっています。子規が亡くなったのは、その2日後の19日のことでした。最後の「百二十七」は「俳病の夢みるならんほとゝぎす拷問などに誰がかけたか」で終わっています。上田三四二さんの「解説」によると、新聞が子規の病状を心配して休載の日をつくったことがあった時、子規は以下のように訴えたという。「僕ノ今日ノ生命ハ『病牀六尺』ニアルノデス。毎朝寝起ニハ死ヌル程苦シイノデス。其中デ新聞ヲアケテ病牀六尺ヲ見ルト僅ニ蘇ルノデス。今朝新聞ヲ見タ時ノ苦シサ。病牀六尺ガ無イノデ泣キ出シマシタ。ドーモタマリマセン。若シ出来ルノナラ少シデモ(半分デモ)載セテ戴イタラ命ガ助カリマス。」自分の書いたものが新聞に掲載される、すなわち自分の書いたものが新聞の読者に読まれている、ということが「死ヌル程苦シイ」闘病の日々を送る子規の支えであったのです。これは物書きに従事する者の、ある意味ではまさに「真骨頂」といっていい。このすさまじいまでの闘病生活を、根岸の自宅で送っていた子規は、中江兆民の『一年有半』を読んでいました。兆民が、気管切開手術を受け、発声不能のため筆談によりながら『一年有半』の執筆を始めたのは明治34年(1901年)の6月のことでした。脱稿したのは8月3日で、兆民はその原稿を幸徳秋水に託します(8月4日)。兆民は、その秋水の勧めで生前の刊行を決意し、それが博文館によって出版されるのは早くも翌月の9月2日のことでした。出版後一年間のうちに23版、20万部が売れるというベストセラーになりますが、その一冊を子規は手に入れ目を通しています。それがわかるのが「七十五」の記事(P123~124)。それによれば、子規はあるところで、兆民は「あきらめる事を知つて居るが、あきらめるより以上のことを知らぬ」と評したことがあったらしい。そして次のように記しています。「兆民居士が『一年有半』を著した所などは死生の問題についてはあきらめがついて居つたやうに見えるが、あきらめがついた上で夫(か)の天命を楽しんでといふやうな楽しむといふ域には至らなかつたかと思ふ。」子規が「病気を楽しむ」という域に達したかどうかはともかく、子規が兆民の闘病生活を意識していたことは確かなことです。 . . . 本文を読む