鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

2009.8月取材旅行「谷中~本郷~万世橋」 その1

2009-08-10 07:08:42 | Weblog
今回の取材コースも、前回と同じく、『樋口一葉と歩く明治・東京』(野口碩監修/小学館)によりました。前回は本書P96の「竜泉・吉原コース」をメインとしましたが、今回はP64の「上野・湯島コース」とP65の「谷中・根津・千駄木コース」を合体させています(一部変更し、また追加もしています)。基本的には樋口一葉が歩いたことのあるコースを辿ってみるという取材旅行で、特にメインとしたところは谷中霊園。一葉は母たきや妹くにとともにしばしば谷中霊園を訪れていますが、墓参りの対象は、萩の舎を主宰する中島歌子の母である幾子(網谷幾子)のお墓と、両親の恩人である真下(ましも)専之丞の娘黒川まき子のお墓でした。このうち網谷幾子のお墓と、同じく谷中霊園にある馬場孤蝶およびその兄である馬場辰猪のお墓をぜひ見ておきたい、というのが今回の取材旅行のポイントの一つでした。明治26年(1893年)の6月25日の午後、行水をした一葉は、妹くに(国子・邦子)とともに谷中霊園に赴いています。「天王寺に中嶋老君(網谷幾子=中島歌子の母)寺参りす」。墓参りを済ませた二人は、それから、根岸の「御行(おぎょう)の松」を見物し、坂本→山下→五条天神(上野停車場前)→上野広小路→池之端(不忍池)→馬見場(競馬場)→本郷菊坂69番地の自宅、というふうに歩いています。夕立の後に家を出て、根岸の「御行の松」では日が暮れかかり、不忍池の馬見場では福島中佐の歓迎場を設置する工事のために「かがり火」が焚かれていたというから、この6月25日、夕方4時頃から7時半頃までを、一葉は妹くにとともにこの行程を歩き通したものと思われます。自宅から谷中霊園まで、また谷中霊園から根岸の「御行の松」まで、さらに「御行の松」から上野を経て自宅まで、実際にどういった道筋を辿ったのかを推測するべく、歩いてみることにしたわけです。谷中霊園では、たまたま挨拶を交わした土地の方に、私が見学を予定していた以外のお墓をいろいろと案内してもらい、その上詳しい説明もしてもらえるという、たいへんありがたい出会いもありました。以下、その報告です。 . . . 本文を読む