鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

2009年 夏の「西上州~東信州」取材旅行 軽井沢その1

2009-08-29 06:49:10 | Weblog
中江兆民は、明治20年(1887年)11月19日と明治25年(1892年)2月2日に、横川から碓氷峠を越え軽井沢を通過しています。20年の時の同行者は小山久之助ら(他の人々の名前はわからず)。小山久之助は、兆民の愛弟子で小諸の出身でした。おそらく長野西北馬車会社の馬車に乗っています。25年の時の同行者は小山太郎(1871~1965)。太郎は小山家(総本家)の24代小山清太郎(1848~1920)の長男で、後に25代当主となる人物。清太郎の弟が久之助だから、久之助と太郎の関係は叔父・甥の関係になる。明治20年に小山家に泊まった兆民は、この時16歳の太郎と会っているはずだから、明治25年2月2日の朝、磯部温泉鳳来館で会った時は、5年ぶりの再会ということになる。この小山太郎は「雅俗日誌」という日記を残していますが、そこに、この再会のところが詳しく乗っています。前に記したことがありますが、再度、押さえてみます。明治25年1月31日、21歳の太郎は、午後7時5分発の終列車で小諸を出発。その日は軽井沢の追分宿「油屋」に宿泊しています。翌2月1日、太郎は午前5時発の鉄道馬車(賃銭40銭)に乗り、午前8時に横川の「万屋(よろずや)」に到着。この約3時間の鉄道馬車の車中から、太郎はアプト式鉄道の開鑿工事の様子を目撃しています。明治25年の1月末においても、アプト式鉄道の工事(橋梁やトンネルの建設工事)が、多数の労働者を動員して、突貫工事で進められていたことがこの日誌からわかります。この横川の「万屋」で、太郎は兆民を待ちますが、到着する汽車にはいずれにも兆民は乗っておらず、やむなく太郎は午後4時過ぎの鉄道馬車に乗り込み、追分宿の「油屋」に戻っています。しかし、おそらく太郎はこの「油屋」で、兆民がこの日、磯部温泉の鳳来館に泊まったことを知ります。兆民は高崎から横川に向かう途中、どういう理由でか磯部停車場で途中下車し、そこから磯部温泉の鳳来館に赴き、そこで一泊することにしたのです。ということで、太郎はその翌日の2月2日、今度はなぜか鉄道馬車には乗らずに人力車で「油屋」前を出立。午前7時に横川停車場に到着して、始発の汽車に乗り、磯部停車場で下車。鳳来館で兆民と再会した太郎は、午前11時発の鉄道馬車(10人乗り)に兆民とともに乗り込みます。軽井沢で汽車に乗り、小諸到着は午後2時55分でした。 . . . 本文を読む