鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

2009.8月取材旅行「谷中~本郷~万世橋」 その7

2009-08-16 07:25:22 | Weblog
筑摩書房の『樋口一葉全集』第三巻(下)の巻末索引の次に、「明治20年代後期東京市街部分図」というものが掲載されていることを知りました。「(1)麹町区西部」から始まって「(23)本所区向島附近」で終わりますが、これらに私が今まで一葉関係で歩いてきたところは、東京市街についてはほぼすべてカバーされています。菊坂も龍泉寺町界隈も、新吉原も、丸山福山町も、日本橋・京橋なども。しかもありがたいことには、一葉に関係する人物の家や訪れた店の場所などが、その地図にしっかりと指し示されています。この市街図は、牛込区を除いて、明治29年の調査図を使用しているとのこと(牛込区のみは明治40年頃のもの)。つまり一葉晩年の頃の東京市街図がほぼここに掲載されていることになるのです。これは非常にありがたい資料です。これが掲載されていることを私はつい最近まで知りませんでした。今、歩いている(と言っても取材後ふりかえってのことですが)谷中霊園(当時は「谷中墓地」)が載っているのは「(19)下谷区上野公園附近」。この地図の①が中島(網谷)幾子の墓で、この周辺が谷中墓地。これと「谷中霊園案内図」と照らし合わせてみると、その墓地の形、規模、墓地内を走っている道のようすなど、ほとんど変わっていないことに驚かされます。五重塔があるところは四角い枠が記されています。「芋坂」の方へ通じる曲がった道もほぼそのまま。寛永寺が管理する徳川家墓地の形もほぼそのまま。谷中墓地入口の左手には「茶屋町」があり、路地を挟んで10軒ほどの茶屋が並んでいます。また田中みの子宅や丸茂医院(桜井病院)が、谷中墓地へ行く途中の道筋にあったこともわかります。五重塔を仰ぎ見ながら墓地内の曲がりくねった通りを進んで、やはり曲折した「芋坂」を下っていくと、線路の踏み切りを渡り、おそらく田んぼの中の一本道を進んで通り(「王子街道」)にぶつかりますが、その突き当たりにあったのが日蓮宗善性寺(このお寺は地図上には記されていない)で、そして右角手前にあったのが「羽二重団子」の店でした(これも地図には記されていず)。この通りに出たところで右折すれば、やがて根岸名所(東京名所)の「御行の松」に出る道に至るのです。 . . . 本文を読む