鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

2009.8月取材旅行「谷中~本郷~万世橋」 その6

2009-08-15 06:12:20 | Weblog
台東区立台東図書館編の『いま・むかし下谷・浅草写真帖』のP9には、明治40年(1907年)頃の谷中墓地の写真が掲載されています。これは現在の霊園管理所の前辺りから北方向を望んだ光景と思われます。道の奥が天王寺がある方向で、繁った樹木の間から五重塔が見えます。この五重塔は、天王寺の二代目の五重塔で、寛政3年(1791年)に棟梁八田清兵衛らによって再建されたもの。“総棟梁ののっそり十兵衛”を主人公にした幸田露伴の名作「五重塔」は、この再建時の話を素材としているという。この露伴の「五重塔」は、明治24年(1891年)11月から『国会』に掲載され、後に単行本『小説尾花集』に収録されました。この「五重塔」発表当時、露伴は数え年わずかに26歳。発表当時、評論家の石橋忍月は、「近来第一の小説は露伴の五重塔也」と激賞したという。この露伴の「五重塔」を一葉は目を通しているはずで、明治26年(1893年)6月25日、妹くにと網谷幾子の墓参りをした際、五重塔を仰ぎ見た一葉の脳裡には露伴の「五重塔」のことがあったものと思われる。「五重塔」と「血紅星」の2編を収めた『小説尾花集』が嵩山堂より出版されたのは明治25年(1892年)10月のことで、一葉が網谷幾子の一周忌に合わせて谷中の墓地に墓参りする前年の秋のことでした。この幸田露伴が、明治29年(1896年)7月20日に、森鴎外の弟三木竹二(森篤次郎)に案内されて、丸山福山町の一葉宅を訪ねて来ます。一葉の「みずの上日記」によれば、次の通り。「雨風おひたゝし。午後二時ころ斗(はか)らず三木君幸田君を伴い来る。はしめて逢い参らす。我れは幸田露伴と名のらるゝに有(あり)さまつくづくうち守れば色白く胸のあたり赤く丈はひくくしてよくこえたり。物いふ声に重みあり。ひくゝしずみていと静かにかたる。めさまし草に小説ならすとも何か書きもの寄せられたし。こをハ頼みに来つるなりといふ。」一方、その時の露伴の一葉に対する印象はどうであったか。「その時分のそのくらいの年の女としては少し野暮の方でしてね。勿論初対面だけでしたからでもありましょうが、思うこともまあ十のものなら七つは呑んでしまって口へ出せないという調子の人に見えました。…勿論不器量というのじゃないけれども、そんなに奇麗な女というのじゃありません。」一葉が肺結核で死んだのはその年の11月23日のことでした。 . . . 本文を読む