坂本宿は日本橋から中山道17番目の宿場町。
私は以前から、この坂本宿が現在どうなっているかをぜひ見てみたいと思っていました。
きっかけは、『木曽街道六拾九次』に描かれた「坂本宿」の浮世絵にあります。描いたのは広重ではなく英泉。この絵は、坂本宿をやや斜め上空から俯瞰(ふかん)したもので、広いまっすぐな街道の真ん中には用水が流れ、その用水の両側を多数の旅人や商人、また馬や馬子などが行き交っています。
用水にはところどころ木橋が渡されています。
街道両側には2階建ての旅籠や平屋の茶店などが整然と軒を連ねており、その宿場町の左手背後にまるでお椀を逆にしたような山が聳(そび)えています。
宿場町の全体(かなりの部分)が、上空から俯瞰するように描かれている浮世絵を私はそまで目にしたことがなく、宿場とはこういうものであったのか、という思いを強く抱いた印象的な絵であったのです。
この坂本宿については、藤島亥治郎(がいじろう)さんの『中山道 宿場と途上の踏査研究』という分厚い本にも、もちろん記述がありました。
それによれば、坂本宿は、中山道中においても特殊な「完全計画都市」であって、碓氷峠直下の丘陵台地に直線道路を造って、その両側に付近の住民や、遠く安中や高崎あたりからも人を集めて宿場町にしたものであったという。
藤島さんが初めてこの坂本宿に実査のために訪れたのは昭和24年(1949年)10月18日のこと。この時、藤島さんは、坂本宿の写真を撮影しており、同書にも掲載されていますが、それを見ると、街道両側には、切妻造・平入(ひらいり)・柿(こけら)葺きの2階建てで、出桁造りの特徴を持つ、江戸時代からそのまま続いて来たと思われるような人家が軒を並べています。
藤島さんは、「中山道の宿場中でも、これに越すものがないほどに美しい」と絶賛しています。
私が、「峠の湯」近くの駐車場に車を停め、旧街道に出て左折し、坂本宿を歩き始めたのは17:00過ぎでした。
かつては、この通りの真ん中に用水路があったことを想起しながら歩き始めました。
それぞれの家にはかつての「屋号」が記された看板が掛かっており、その中には説明が書かれている家もありました。
「たかさごや」・「つたや」(若山牧水宿泊)・「だいこくや」(「はすかい」の建物)・「かぎや」・「脇本陣酒屋」(坂本入牧地区生涯学習センター)・「脇本陣永井」・「金井本陣跡」・「みょうがや」・「本陣佐藤家」・「中澤屋」などといった、かつては旅人を泊めた旅籠や本陣・脇本陣などが、かつての姿そのままに、あるいは新しい建物になって、残っていました。ところによっては櫛の歯が欠けたように長細い空き地になっているところもあります。
通り真ん中にあった用水は、まるで谷川のように清冽で、軽やかな音を立てて流れていたに違いないと思いました。
夕方ということもあって、この旧道を往き来する車は少なく、かつての碓氷峠直下の宿場町としての賑わいを想像するのは難しく、また、藤島さんが初めて訪ねた昭和24年以後の景観の変貌ぶりについては、時代の流れや生活スタイルの変化により仕方がないこととは言え、そこに住まぬ旅人の身勝手とは知りつつも、ちょっと残念な気持ちを味わいました。
下木戸のところから道を戻りましたが、直線道路ではあるけれども、ゆるやかな上り道になっていることを実感しました。
さて英泉の絵に描かれているお椀を伏せたような山ですが、これは刎石山(はねいしやま)という山でした。下木戸から真っ直ぐに延びる街道の正面突き当たりやや左手に、 この刎石山はそびえています。形は英泉の描く山の形そのまま。英泉はほとんど誇張することなしに、この山の形を描いています。
ただ、山の位置は実際とは異なります。
横川駅を出発する鉄道馬車は、この通りに沿って走っていた(つまり鉄製の軌道がこの通りに敷設されていた)と思われますが、その痕跡らしいものは、私が歩いた限りでは見つけることは出来ませんでした。
「芭蕉句碑」を見てから、先ほど車を泊めた「峠の湯」の駐車場に戻りましたが、そこへ向かう新しい道の右側に用水が音を立てて流れていて、かつての宿場町の通り真ん中を流れていた用水も、このような流れであったろう、と思わせる清冽なものでした。
そこから磯部温泉の立ち寄り湯「恵みの湯」に赴き、そこで磯部の湯を味わってから、近くの「道の駅」で車中泊(一泊目)をしました。
続く
○参考文献
・『磯部温泉誌』(安中市観光協会)
・『中山道 宿場と途上の踏査研究』藤島亥治郎(東京堂出版)
私は以前から、この坂本宿が現在どうなっているかをぜひ見てみたいと思っていました。
きっかけは、『木曽街道六拾九次』に描かれた「坂本宿」の浮世絵にあります。描いたのは広重ではなく英泉。この絵は、坂本宿をやや斜め上空から俯瞰(ふかん)したもので、広いまっすぐな街道の真ん中には用水が流れ、その用水の両側を多数の旅人や商人、また馬や馬子などが行き交っています。
用水にはところどころ木橋が渡されています。
街道両側には2階建ての旅籠や平屋の茶店などが整然と軒を連ねており、その宿場町の左手背後にまるでお椀を逆にしたような山が聳(そび)えています。
宿場町の全体(かなりの部分)が、上空から俯瞰するように描かれている浮世絵を私はそまで目にしたことがなく、宿場とはこういうものであったのか、という思いを強く抱いた印象的な絵であったのです。
この坂本宿については、藤島亥治郎(がいじろう)さんの『中山道 宿場と途上の踏査研究』という分厚い本にも、もちろん記述がありました。
それによれば、坂本宿は、中山道中においても特殊な「完全計画都市」であって、碓氷峠直下の丘陵台地に直線道路を造って、その両側に付近の住民や、遠く安中や高崎あたりからも人を集めて宿場町にしたものであったという。
藤島さんが初めてこの坂本宿に実査のために訪れたのは昭和24年(1949年)10月18日のこと。この時、藤島さんは、坂本宿の写真を撮影しており、同書にも掲載されていますが、それを見ると、街道両側には、切妻造・平入(ひらいり)・柿(こけら)葺きの2階建てで、出桁造りの特徴を持つ、江戸時代からそのまま続いて来たと思われるような人家が軒を並べています。
藤島さんは、「中山道の宿場中でも、これに越すものがないほどに美しい」と絶賛しています。
私が、「峠の湯」近くの駐車場に車を停め、旧街道に出て左折し、坂本宿を歩き始めたのは17:00過ぎでした。
かつては、この通りの真ん中に用水路があったことを想起しながら歩き始めました。
それぞれの家にはかつての「屋号」が記された看板が掛かっており、その中には説明が書かれている家もありました。
「たかさごや」・「つたや」(若山牧水宿泊)・「だいこくや」(「はすかい」の建物)・「かぎや」・「脇本陣酒屋」(坂本入牧地区生涯学習センター)・「脇本陣永井」・「金井本陣跡」・「みょうがや」・「本陣佐藤家」・「中澤屋」などといった、かつては旅人を泊めた旅籠や本陣・脇本陣などが、かつての姿そのままに、あるいは新しい建物になって、残っていました。ところによっては櫛の歯が欠けたように長細い空き地になっているところもあります。
通り真ん中にあった用水は、まるで谷川のように清冽で、軽やかな音を立てて流れていたに違いないと思いました。
夕方ということもあって、この旧道を往き来する車は少なく、かつての碓氷峠直下の宿場町としての賑わいを想像するのは難しく、また、藤島さんが初めて訪ねた昭和24年以後の景観の変貌ぶりについては、時代の流れや生活スタイルの変化により仕方がないこととは言え、そこに住まぬ旅人の身勝手とは知りつつも、ちょっと残念な気持ちを味わいました。
下木戸のところから道を戻りましたが、直線道路ではあるけれども、ゆるやかな上り道になっていることを実感しました。
さて英泉の絵に描かれているお椀を伏せたような山ですが、これは刎石山(はねいしやま)という山でした。下木戸から真っ直ぐに延びる街道の正面突き当たりやや左手に、 この刎石山はそびえています。形は英泉の描く山の形そのまま。英泉はほとんど誇張することなしに、この山の形を描いています。
ただ、山の位置は実際とは異なります。
横川駅を出発する鉄道馬車は、この通りに沿って走っていた(つまり鉄製の軌道がこの通りに敷設されていた)と思われますが、その痕跡らしいものは、私が歩いた限りでは見つけることは出来ませんでした。
「芭蕉句碑」を見てから、先ほど車を泊めた「峠の湯」の駐車場に戻りましたが、そこへ向かう新しい道の右側に用水が音を立てて流れていて、かつての宿場町の通り真ん中を流れていた用水も、このような流れであったろう、と思わせる清冽なものでした。
そこから磯部温泉の立ち寄り湯「恵みの湯」に赴き、そこで磯部の湯を味わってから、近くの「道の駅」で車中泊(一泊目)をしました。
続く
○参考文献
・『磯部温泉誌』(安中市観光協会)
・『中山道 宿場と途上の踏査研究』藤島亥治郎(東京堂出版)
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