磯部温泉については、『磯部温泉誌』(安中市観光協会)がもっとも参考になりました。この手の本は神奈川の地ではまず見ることができず、やはり現地(地元の図書館)に赴くことが大事であることを再認識しました。この本によると、ここに温泉(厳密には鉱泉)が湧出したのは、天明3年(1783年)のこと。なぜ天明3年かというと、この年7月6日に浅間山の大噴火があり、その影響で新しく湧き出したのだという。以来、馬の足の疾病(創傷・打撲・瘍等の外傷)に効果があるとして近隣の村々に知られるようになりました。文久2年(1862年)、この磯部村の大地主であった大手万平が、関口某より浴場の権利を買い取り、明治12年(1879年)には旅館名を「鳳来館」と命名し、本格的に旅館業を営むようになりました。この頃には、飲用に特にすぐれた効果(胃腸病に効く)があるとして知られるようになっていたようです。この磯部温泉の発展のきっかけは、明治18年(1885年)の鉄道の開通にありました。『磯部温泉誌』にも「磯部温泉は明治十八年十月十五日の鉄道開通と同時に始まった」と記してあります。明治19年(1886年)には旅館の数は10軒に増え、さらに大木(喬任)文部大臣や井上(馨)外務大臣等の別荘が次々と完成していました。またこの年、大手万平の「鳳来館」は増築が行われており、木造3階建ての新館が5月に落成、新築披露が盛大に行われています。兆民がここに泊まる5年近く前のことです。兆民が泊まった時の「鳳来館」は、まだ新築されて間もないピカピカの建物であったということになる。10軒の旅館の中には幸田露伴が宿泊した「共寿館」もありました。磯部停車場前には、「鳳来館」や「林亭」など各旅館の案内所があったそうで、そこからやや離れた旅館まで客の荷物を持って案内する人がいたのでしょう。明治20年の11月3日には、万平の長男宇佐吉とその妻のぶとの間に大手拓次が生まれています(次男)。同書に掲載されている明治中頃の磯部温泉街の地図を見てみると、停車場前の通りを突き当たると赤木神社があり、そこが井上馨の別荘のあるところでした。左手の警察分署(明治20年新設)のところを左折すると温泉街があり、その通りの突き当たりに「鳳来館」がありました。客室は100余、収容人員は500名。2階から風呂場へ行く橋があり、その下を潜った正面突き当たりが玄関でした。 . . . 本文を読む