鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

2009.8月取材旅行「谷中~本郷~万世橋」 その3

2009-08-12 06:38:34 | Weblog
林順信さんの『都電が走った街 今昔Ⅱ』を紐解いてみると、P80に「根津八重垣町」(根津二丁目)」が出てきます。このページの写真に写っている通りは「不忍通り」で、東京メトロ(地下鉄千代田線)の根津駅を出て直面したのがこの通りで、また、団子坂を下って「団子坂下」で交差したのがこの通りでした。この「不忍通り」は、「その外周の山手線に一応添うかたちで環状的に不忍池畔から目白通りに出るまでつづく」という。上の写真は昭和42年(1967年)3月26日に林さんが撮影したもので、下の写真は平成10年(1999年)1月14日にやはり林さんが撮影したもの。22年の間に通りおよびその両側のようすが大きく変貌していることがわかります。この写真は「根津八重垣町」(停留所)から「駒込千駄木町」(停留所)方面を写したもので、その次が「団子坂下」となり、「駒込動坂(どうさか)」や「神明町車庫前」などに続いていくことになります。違いは都電の軌道や敷石が無くなっていること以外に、通り両側の建物が高層化していることが挙げられます。22年の間に東京の下町でさえ高層化がどんどん進んでいったことがわかります。林さんは、この写真の左側に入ったところで育ち、少年の頃は、竹竿にベエゴマを挟んで、ここから手前の藍染橋(根津一丁目)までを何度も往復してベエゴマの名品を手造りしたのだという。隣ページの「池ノ端七軒町(池ノ端二丁目)」を見ると、池ノ端二丁目から根津一丁目にかけてはトロリーバス101系統が併走していた時代があったとのこと。説明によると、「ここから右手に見える屋根瓦葺きが二つ」あって、「左側は二階建ての会津木工店で、右の方の三階建ては、爪革(つまかわ)でならした三田商店で、娘さんの三田澄江さんは私の小学校同級生」であり、「今は串揚げのはん亭となっている」という。この「はん亭」の前を、私はまだ通ったことはありませんが、たまたま田中優子さんの『江戸を歩く』を見ていたら、P150にその写真が出てきました。次のように田中さんは記されています。「根津に戻ると木造三階建てのめずらしい建物がある。今は串揚げの店となっているが、もと爪革問屋だったという。下駄の爪革も必要なくなったが、このような建物もめったに見られない。料理屋になって残ることができてよかった。吉原にはこういう建物が並んでいた。」 大正時代の建物であるらしい。 . . . 本文を読む