素浪人旅日記

2009年3月31日に35年の教師生活を終え、無職の身となって歩む毎日の中で、心に浮かぶさまざまなことを綴っていきたい。

続・内田樹著「街場のメディア論」の中の言葉

2010年10月08日 | 日記
第1講ではキャリアに関することに終始したが、第二講以下は本筋であるメディアの話になる。

【第二講 マスメディアの嘘と演技】より

 メディアの価値を考量するときのぎりぎりの判断基準は「よくよく考えれば、どうでもいいこと」と「場合によっては、人の命や共同体の運命にかかわること」を見極めることだろうと思います。そういうラディカルな基準を以ってメディアの価値は論じられなければならない。どのメディアが生き残るべきで、どのメディアが退場すべきかがもっぱらビジネスベースや利便性ベースだけで論じられていることに、僕は強い危機感を持っています。

 今、障害者団体向け割引制度を悪用して大量のダイレクトメールを格安発送したとして、郵便法違反などの罪などに問われている事件に関わって、とてもややこしい状況になっているが、その中でメディアだけはカメレオンのように状況に合わせてのうのうと報道しているというモヤモヤ感がある。

 村木さんが逮捕された時、言うところの検察の描いたストーリー(これが今は非難の的)を垂れ流し(関係者の話によるとという表現)さらにドラマチックに演出していたのではないかと思う。ところが、村木さんが無罪となり大阪地検の検事が逮捕されるや否や、今度は最高検の描いたストーリーを垂れ流しているように思う。前田検事の上司2人は容疑を否認し続けているが、最高検は前田検事の供述をもとにストーリーを描いている。上司の1人は弁護士に「最高検のストーリーにはのらない」と言っているそうだ。何とも皮肉な話である。したがって現在は真実ははっきりしていないという事実があるだけである。

 今回だけではなく、容疑者となった段階でメディアは真犯人であるがごとく報じることが多い。なぜメディアは急ぐのか、そこには視聴率、購読数など広告収入と密接に関わる数字があるからではないか。反面、それが自己規制となって報道すべきことをひかえているということもあるのではないか。司法が独立し、裁判が最終的に終わらない限り、罪の判定はされないという建前がメディアの報道を通じて誰が責任をとるでもない判定が生まれているのではというモヤモヤ感が私の中に増している。もっと、センセーショナルに正義を振りかざすような報道にうんざりすることが多くなってきた。もっと、私よりも近いところにいて、たくさんの情報を持っているのだから、しっかり分析して冷静に事実と課題を提示してほしいと強く思う。

 でも、僕は報道に携わる人間にとっては「こんなことが起きるなんて信じられない」というのは禁句だと思うんです。 それは口にすべきではない言葉でしょう。「知らなかった」ということを気楽に口にするということは報道人としては自殺行為に等しいと思うのです。

 それは先ほどから繰り返し言っていますように、「世界の成り立ち」について情報を伝えることがメディアの第一の社会的責務だからです。人々が「まだ知らないこと」をいち早く「知らせる」のがメディアの仕事であるときに、「知らなかった」という言い逃れが節度なく濫用される。けれども、「知らなかった」という言葉はメディアの人間としては「無能」を意味するのではないですか。

 


今日で読み終わった。ボチボチ紹介していきたいと思ってる。
 

 
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