素浪人旅日記

2009年3月31日に35年の教師生活を終え、無職の身となって歩む毎日の中で、心に浮かぶさまざまなことを綴っていきたい。

薮入り

2015年01月16日 | 日記
歴史手帳のスケジュール欄に、昨日は小正月、今日は薮入りとあった。いずれもすたれてしまった慣習である。

 14日の『余録』も小正月を話題にしていた。平安、鎌倉時代の宮中での様子について興味深い話が紹介されていた。邪気を払い、農事の新年として大切な日であったことがわかる。そこにあった今も残っている行事〈どんど〉を広辞苑であらためて引いてみると〈①小正月(1月15日)に村境などで行った火祭り②小正月に門松・竹・注連縄(しめなわ)などを集めて焚く習俗。どんどやき。とんど。→左義長〉とあった。

 最後の左義長にちょっとひかかった。昨年、ヴォーリズの建築を求めて近江八幡を探訪した時に左義長の話もうかがった。 どんどとの関連は記憶がない。春になったら来てください。と言われたので近江八幡の観光協会のページで確認してみた。起源についてこう書かれていた。

 平安時代に宮中で、毬杖・毬打(ぎっちょう・ぎちょう)と呼ばれる道具を使用して行う打毬(だきゅう)と言う正月のめでたい遊戯がありました。

左義長はこの打毬で破損した毬杖を、清涼殿の東庭で青竹を束ね立てたものに結び、さらに扇子や短冊などを吊るし、陰陽師(おんみょうじ)が謡いはやしながらこれを焼く行事が起源とされ、この毬杖を3つ結んだことから各書物には、三毬杖・三鞠打・三木張、散鬼打、などと記され、しだいに左義長と呼ばれるようになったと考えられます。

 現在でも正月15日前後に、どんど焼、さいとやき、三九郎焼(さんくろうやき)、ほちょじ、ほっけんぎょうなどの名称で、正月の松飾りや注連縄(しめなわ)を集めて焼く火祭りの行事として行われ、この火にあたると若返るとか、餅を焼いて食べると病気をしないなどと言われています。

 全国的には1月に左義長を行っている地域が多く、近江八幡の左義長まつりも江戸時代には1月の14日・15日に執り行われていたようですが、明治時代に入ってからは、太陽暦の採用に伴い3月に変更され、昭和40年代からは3月14・15日に近い土日曜日に開催されるようになりました


 そういうことかと納得。  時代の流れで小正月の影が薄くなっていくのは仕方がないが、せめて成人の日は1月15日と固定しておいて欲しかったとあらためて思った。薮入りについても調べてみると

 藪入りの習慣が都市の商家を中心に広まったのは江戸時代。本来は奉公人ではなく、嫁取り婚において嫁が実家へと帰る日だったが、都市化の進展に伴い商家の習慣へと転じた 。

 藪入りの日が1月16日と7月16日になったのは、1月15日(小正月)と7月15日(盆)がそれぞれ重要な祭日であり、嫁入り先・奉公先での行事を済ませた上で実家でも行事に参加できるようにという意図だった。

 藪入りの日となると、主人は奉公人たちにお仕着せの着物や履物を与え、小遣いを与え、さらに手土産を持たせて実家へと送り出した。実家では両親が待っており、親子水入らずで休日を楽しんだ。落語の薮入りもそれにちなんだ人情話である。また、遠方から出てきたものや成人したものには実家へ帰ることができないものも多く、芝居見物や買い物などをして休日を楽しんだ。

 明治維新で、太陰暦から太陽暦への改暦が行われると、藪入りは正月と盆の付随行事であったため、正月の新暦移行に伴いそのまま新暦へと移行した。文明開化後も商家の労働スタイルにはそれほどの変化はなく、さらに産業化の進展に伴い労働者の数が増大したため、藪入りはさらに大きな行事となった。藪入りの日は浅草などの繁華街は奉公人たちでにぎわい、なかでも活動写真(映画)などはこれによって大きく発展した。

 第二次世界大戦後、労働基準法の強化などにより労働スタイルが変化し、日曜日を休日とするようになると藪入りはすたれ、正月休み・盆休みに統合されるようになった。藪入りの伝統は正月や盆の帰省として名残を残している。


 労働スタイルはますます多様化し、過疎化、高齢化、少子化が進むと「帰省」という言葉も「薮入り」同様に消えていく言葉になるのかななどと考えた。「省」は親の安否を問うの意がある。

 
 
コメント
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