某年金生活者のぼやき

まだまだお迎えが来そうに無い

陸軍登戸研究所

2011-08-22 15:06:48 | ぼやき
 昨日小田急線生田駅の近くにある明治大学平和教育登戸研究所資料館に始めて行った。大和市平和都市推進事業実行委員会主催のピースリングバスツアー。
 10年ほど前、生田駅そばの書店で伴繁雄『陸軍登戸研究所の真実』芙蓉書房出版2001年(伴氏は元所員の陸軍技術少佐)という本を求めて以来ずっと気になっていた。しかし、今、そこは明治大学生田校舎になっている。古い建物を部外者に公開するわけはなし、その方面の研究者でもない者が見たいといっても、野次馬お断りと門前払いをくらう位が関の山と諦めていた。
 それが、ようやく昨年(2010年3月)多くの方々の努力のお陰で、明治大学の資料館として一般公開された。十年来の夢がようやくかなった。
 一応知っているつもりだったが、やはり百聞は一見に如かず。一番感激したのは、この旧研究所の史的研究の開始、特に伴さんに貴重な証言を語らせ、書かせたのは長野の赤穂高の生徒たちと川崎の法政二高の生徒たちの交流、熱心な研究と取材によるものだったということだ。そう聞いてから読みなおすと、確かに伴さんの本の解説にそう書いてあったが、前にはあまり気に留めなかった。彼らの研究交流を記す『高校生が追う、陸軍登戸研究所』教育史料出版会1991年という本まで解説には紹介されているのに。俺はどうも一番大事なところを読み損なう悪癖があるようだ。
 此処で研究開発し、生産されたものは、毒ガス、細菌兵器、電波兵器、風船爆弾、スパイ用器具、偽札など。特に偽札(主に中国札)はかなり精巧なものが大量に印刷されたらしい。怖いのは細菌兵器。牛を一発で殺す菌、作物を枯らす害虫などが作られ、中国で「実験的」に散布されたという。動物実験、捕虜への人体実験も行われたらしい。「実験動物」の碑がある。犠牲になった人間もその中に入っているのだろうか。そういえば此処で「開発」された青酸カリ系の毒薬が「帝銀事件」で使われた毒薬と同じではないかと、ひところ大騒ぎになったことがあった。悪名高い731部隊と同じ「研究活動」。こっちからあっちに発展したのだろう。
 登戸研究所と731部隊との共通点の一つは、どちらも戦後アメリカ軍に史料を全部押収(提供?)され、詳細な報告をし、見返りに責任者も所員も皆戦犯裁判を免除されたこと。ベトナム戦争での枯葉作戦をはじめ、沢山の生物兵器研究がこの日本の「研究所」の資料の助けも借りてアメリカで大規模に行われているが、ほとんどベールに隠されていることは天下周知の事実だ。
 
 毎年8月に行われる大和市の平和研究バスツアーには私も数回参加した。市の主催で一切無料(昼飯代だけ自己負担)だから、私のような方向音痴の年金生活者には大変有難い。丁寧な資料まで用意して下さる。今回は夢の島の第五福竜丸展示館、川崎市平和資料館も訪れた。企画し準備する方々は大変ご苦労様だが、いつも良い企画だからこれからも参加して、遅まきながら見聞を広げたいと思っている。
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猛暑と吹矢

2011-08-21 00:32:41 | ぼやき
 昨年に続いて今年も先日までクーラーなしで猛列な暑さに耐えていた。昨年夏から2年続けて熱中症予備軍。期せずして省エネの先駆者になっちまった。
 そのせいか、記録を見ると昨年の7・8月は吹矢の練習記録(点数)が悪い。剣道では土用稽古というのが大変重要な稽古だから、吹矢にもよかろうとやってみたのだがろくな点数にならなかった。今年の7月以来、家の工事の都合上、的を7メートル先にしか置けなかった間は、いくら猛暑でも、さすがに毎日満点続きで天狗になっていた(汗でずぶぬれになったが。)それが、的を9メートル先に置けるようになったら全く駄目になった。暑いからか焦るからか、腹式呼吸がうまくゆかない。矢があらぬ方にすっ飛んでゆく。満点が出ても、前と違ってきちんと出来た気がしない。たまたま5本当たったというだけで、納得のゆく一連の動作の結果、とはとても思えない。
 来週山梨の恵林寺に行く。「心頭を滅却すれば火もまた涼し。」その辺が分かれば、吹矢の点数も良くなるかな。
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与謝野晶子「駄獣の群」

2011-08-15 15:36:36 | ぼやき
 14日(日)の朝日に、与謝野晶子のこの詩を田中康夫が「社会保障一体改革」会議での発言で引用したと紹介してあった。大正4(1915)年12月に読売新聞に発表されたものだという。私はこの詩も田中氏の発言も知らなかったので、遅まきながら調べてみた。いや大変な詩だ。「君死にたもうことなかれ」以上かもしれない(晶子の孫「与謝野氏への嫌がらせだ、撤回し謝罪しろ」と仙石官房副長官が怒ったというおまけまでついている。)今まで知らなかったのが恥ずかしい。知らない方もおられるか、とここに先ず掲載する。インターネットで簡単に調べられるし、ご存知の方々も多いと思う。でも、私のお節介を怒らないでください。

 与謝野晶子「駄獣の群」

ああ、此国の/怖るべく且つ醜き/議会の心理を知らずして/衆議院の建物を見上ぐる勿れ。/禍なるかな、/此処に入る者は悉く変性す。/たとへば悪貨の多き国に入れば/大英国の金貨も/七日にて鑢にて削り取られ/其正しき目方を減ずる如く、一たび此門を跨げば/良心と、徳と、理性との平衡を失はずして/人は此処に在り難し。/見よ、此処は最も無知なる、/最も悖徳なる、はた最も卑劣無作法なる/野人本位を以て/人の価値を最も粗悪に平均する処なり。/此処に在る者は/民衆を代表せずして/私党を樹て、/人類の愛を思はずして/動物的利己を計り、/公論の代わりに/私語と怒号と罵声とを交換す。/此処にして彼等の勝つは/固より正義にも、/聡明にも大胆にも、雄弁にもあらず、/唯だ彼等互いに/阿附し、/模倣し、/妥協し、/屈従して、/政権と黄金とを荷ふ/多数の駄獣と/みづから変性するにあり。/彼等を選挙したるは誰か、/彼等を寛容しつつあるのは誰か。/此国の憲法は/彼等を逐ふ力無し、/まして選挙権なきわれわれ大多数の/貧しき平民の力にては・・・/かくしつつ、年毎に、/われわれの正義と愛、/われわれの血と汗、われわれの自由と幸福は/最も醜き/彼等駄獣の群に/寝藁の如く踏みにじらるる・・・ 

 最近の出版物では、入江春行『与謝野晶子とその時代』新日本出版社 2003年刊 にこの詩がのっているらしい(私はまだ読んでいないが。)

 大正デモクラシーと言われ、なにやら良さそうな「良い時代」にこのような激しい詩が発表されていることに驚く。それも選挙権を奪われている女性が、男ども何をやているんだ、と激しく叱りつける口調で書いているから迫力がある(まだ普選の時代ではないから貧乏な平民男子にも選挙権はなかった)。勿論、この批判は「政党の腐敗堕落批判、昭和維新」へとゆがんで行く危険もある。しかし、これを現今の議会の泥試合批判と読み替えて見ると、田中康夫ならずとも引用し一撃を加えたくなる。百年近い昔の女性の詩がこれほど現代批判になっているとは。偉いものだ。「私語と怒号と罵声」。議会中継で皆驚くのは今でもこれだ。「政権と黄金」「悪貨は良貨を駆逐する」今も全く同じ批判を多くの方が持っている。「あの人当選するまでは凄く良い人だったのにね」と。だが、彼らを選んだのは誰だったか。
 「騙された」では済まない。「戦争中は騙された、戦後も騙された、原発でも騙された。」そういう素直さが日本の政治を駄目にしているということに、もう気づくべきだろう。「騙した奴が悪いのか、騙された奴が馬鹿なのか。」ただの馬鹿で済むならいいけれど、加害者になっちまう。
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流言飛語

2011-08-14 14:56:02 | ぼやき
 在京富岡友の会という会があって、だいぶ前(勿論今回の大震災よりはるか前)から首都圏在住の富岡町出身者が集まって、故郷訪問や故郷産食品定期購入などを行っていた。私も参加している。まさか大震災と原発破壊で町ぐるみ避難などという事態が起ころうとは夢にも考えていなかった。町の医者が、原発で働く人の症状におかしなことがあっても「風邪」と診断して(そう書いてくれと頼まれている)あとは不問に付す、という噂を会合のたびに聞いて「やっぱり危ないね」と他人事のように話の種にしているだけだった。
 町ぐるみ避難してもう5カ月以上になる。苦しい生活をこれほど長く続けさせられては、どうしても嫌な話が蔓延する。友の会の役員会にもそのような話が持ち込まれる。所謂「流言飛語」の類いだ。例えば、「津波が引いた後に残った金庫」という話がある。開けてみたら、中に札束が五億円あった。一緒にあった文書から町長のものと分かった。どうなっているんだ、という話。これを聞いた別の人が、「私が聞いた時は一億円だったよ」と言って皆で大笑いした。話がだんだん大きくなり、五億まで太ってしまったらしい。馬鹿な話で、誰も信じないだろうと思ったら、「そういう噂があるから、義捐金を出さない」と断る人が出ているという。
 また、屋根に一番早くブルーシートをかぶせて修理をしたのは町政の有力者で、「うまく屋根が修理できるかどうかテストしたのだ」と弁解していたが、その後は誰のところも修理されていない、という話がある。「自分のことしか考えない奴」と言われた。しかし、皆避難して文字通りゴーストタウンになっているのだから(玄関までの通路がすっかり雑草に覆われている家が多い)、屋根瓦の修理など出来っこないのに、見当違いの勘ぐりだけが独り歩きしている。長い避難生活、先行きの不安、それらに苛まれて辛い思いをしている人々の神経をこれ以上逆なでしないでほしいと思う。
 近頃は「流言飛語」と言わず、「風評被害」という。流言飛語なら誰かが悪い火種を撒いたと聞こえるが、風評被害といえば、誰も責任を取らない。皆被害者。京都の大文字焼きの薪拒否など馬鹿馬鹿しい過剰反応に思えるが、京都の人は自分たちが被害者だと思っているのだろう。本当は流言飛語の火種のくせに。どうも京都の人間にはいやな奴がいるね(これもちっと過剰反応か。)
 
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伊東壮『1945. 8. 6. ヒロシマは語りつづける』岩波1979年

2011-08-06 10:49:44 | ぼやき
 友人の伊東壮(1929~2000)がこの本を出してからもう30年以上たった。彼は国立町で原爆被害者の会を結成し、亡くなる2000年まで長く日本原水爆被害者団体協議会事務局長や代表委員を務めた。
 彼は中学四年生のとき、広島で被爆した。知り合ったのは一橋大学入学時。彼は大学構内の如意団という変な名前のあばら家に数名で住んでいて、学生食堂の経営?を担当していた。食堂と彼ら数名の関係はとうとう分からず仕舞だったが、このあばら家で遊んでいると、たまに、当時(昭和24年)貴重品だった炊きたての銀シャリに生卵をかけて御馳走してくれた。その凄まじい美味さがまだ舌に残っている。
 同室に曽我部もいた。彼も被爆者だった。夏の暑い盛りに雷が鳴ったりすると頭を抱え押入れに半分隠れたりして慄いていた。原爆のトラウマでどうにもならなくなってしまうのだ。原爆の被災者と知り合い、その被害の凄さを少しだが直接聞いて知ったのはこの頃が初めてだった。
 伊東は山梨大学に就職し、しばらく会えずにいたが、共通の恩師高島善哉先生の追悼会などで上京してくる度によく二人でしゃべりあった。私のゼミの学生藤田君が広島修道大学に保険論の教員として就職し、広島市民の保険加盟状況をゼミ生たちと調査したことがある。被爆者が保険加入を断られ、住む地域で差別され、さらに結婚等でも差別されている状況を学生たちは細かく聞き取りしてきた。立派な報告書ができ上がった。藤田君に伊東壮を紹介し、その報告を送った。伊東自身が被災者だから、良く読んでくれて丁寧な良い返事をくれた。大学一年生の時からの付き合いが弟子の仕事にまでつながった。
 学長になったと知って喜んでいたが、発病し任期を終えて間もなく亡くなった。大腸がんとか膀胱癌とかいう人がいたが、何にせよ原爆が原因であることは確かだろう。今度の原発事故を知ったら伊東は何というだろうか。地元出身のお前たちがもっと本気で反対すべきだったんだ、と叱られそうな気がする。
 
コメント (2)
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