某年金生活者のぼやき

まだまだお迎えが来そうに無い

どこの国の大学生が勉強するか

2012-03-31 17:19:50 | ぼやき
 パブでの戯言。国際経済思想史学会で(多分バーミングハム大学の時だったと思う。30年も前か)夜、大学のパブで皆と飲んでいた。カウンター席で隣の若い人(ケンブリッジ大の教員)に「日本では大学改革が急務になっている」と言うと、「大学はいつも改革という。議論するだけだけど」と分かりが良い。彼「日本では何を変えようとしているんだ」私「もっと卒業しにくくしろというんだ」彼「何故だ」私「日本では入るのは難しいが、出るのは楽なんだ」彼「そんな良い制度を何故変えるんだ」私「楽に卒業できるから学生が勉強しないんだ」彼「どこの国の大学生が勉強するか」私「イギリスやアメリカの学生は勉強しないと卒業出来ないというじゃないか」彼「アメリカの学生は教科書をうのみにするだけで何も考えない。読まない奴の方がまっとうだ」と厳しい。続けて彼「私の学生―日本流にいえばセミナー生―に夏休み前に論文の抜刷りを渡し、読んでコメントを書けと宿題を出した。休みが明けても誰も出さない。何故だというと、夏中働いていて読む暇がなかったという。ではクリスマス休暇までに書いて来い、と言った。期日になってもまた誰も出さない。何故だといったら、授業に出るのが忙しくて読む暇がなかったといった。こんな薄い抜きずり一部すら彼等は読めないんだ。」私「それでは、どうやってブリテンのアカデミックな水準を高く維持出来ているんだ」彼「それは大学院だ。院生は良く勉強している」
 そういうことか、と分かった。大体の学部生はどうでもいいんだ。適当に過ごして出てゆけばいい。リードするのは一部のエリート。ケインズの言うハーヴェイ・ロードの知性だ。「無私無欲」で「世の為人の為」に働くエリート官僚や研究者たちだ(ちょっと必殺仕掛け人的。)あとの大衆は言われるとおりにすればいい。頭はいらない。
 日本でも同じようなことを言う人がいた。今もいるが。
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果てしなき議論の後に 

2012-03-30 18:17:20 | ぼやき
 今頃また大学の九月入学の是非があちこちで話題になっている。東大がやると云い出したから取り上げられるのだろう。早稲田など一部の大学では既に部分的にやっているし、検討中のところも少なくない。何故東大が云い出すと取り上げるのか。但し否定的に。やりたいところがやればいいだろうに、全部が歩調をそろえなければいけないと「偉い人たち」は思いこんでいる。教育の国家統制。
 昔、私も九月入学を検討しろ、と朝日に投書したことがある。掲載されたすぐ後で、公明党が議会で質問に使っていた。しかし、それ以外はろくな反応もないまましぼんでしまった。一寸早すぎたのかもしれない。
 NHKで先日九月入学についての「意見」を誰か偉そうな人が述べていた。色々言っていたが、要するに、九月入学の是非を論ずるより前にやるべきことが多くある、という話。一言でいえば、大学生にもっと勉強させるにはどうしたらよいか、それを先ず考えろ、という話。何か提案があるといつもこうだ。中身の無い無意味な発言。産湯と一緒に赤ちゃんも流してしまう輩。言うのは簡単だ、「それより前にやるべきことがあるだろう」と。偉そうに聞こえるが、実は何も言ってない。しかし、本人はそれで大満足だから困る。
 戦前の日本の小学校で、四月入学と九月入学の二通りの入学制度をやっていたところがある。私立の成城小学校。早生まれの子には遅生まれの子と生まれ月によっては一年近い生育期間の差があるから、其のハンディを少なくするために、派や生まれの子は九月まで入学を延期したのだ。全員三年生で同じクラスになった。その上飛び級もあった。特別に良く出来る子は小学5年生から中学に飛び級した。大正6年に出来た学校だが、敗戦前までそうだった。国定教科書は使わなかった。小学生は式で君が代を歌わなかった(子供達には意味がわからないから、教えなかった)
 戦前の日本でもそんなことが出来た。成城学園でいえば、高等学校卒業生は、他校と同じく大学に進学できた。飛び級などのお陰で、普通より2歳若く大学に入学する生徒も少なくなかった。今はこうしたことは一切認められない。規定の年数だけ在籍しないと進学(受験)の資格を与えられない。変な平等主義。
 此の話はもっとすべきだろうが、ちょっと横にそれ過ぎた。九月入学などの提案に対する「評論家」「解説者」の発言には、啄木ならずとも、「果てしなき議論の後に}と言いたくなるだろう。「ヴ・ナロードと叫びいずるものなし」と。なんとかしようと懸命になって汗をかいている人々を尻目に、偉そうに「その前にやることが沢山あるだろう」とのたまう。やな連中だな。
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スコットランド旅行―英語は難しい

2012-03-22 21:31:55 | ぼやき
 多分1972年だったと思う。スコットランド一周バス旅行をした。グラズゴーでバスに乗り、エディンバラでも乗せて北に進む。始めのうちは「歴史的」建造物もあったが、あとは行き交う車なく、したがって信号一つない荒野を唯走る。見る物がないから、運転手のオジサンはサービスに小話を始めた。途中までは分かるが、落ちが分からない。大体の客はゲラゲラ笑うが、私と隣に座っているアメリカ人だけ笑えない。運転手も気にしている様子。幸い、通路の反対側に若い女性が独りでいた。オーストラリアからグラズゴーのおばあさんのところに来ていて3年になり、帰国するので始めてスコットランド見物をするという。早速くだんのアメリカ人と相談して彼女を「雇った。」二人の間に座ってもらい、皆がゲラゲラ笑うと、何が面白いのか解説してもらった。確かにオカシイ。われわれ二人がワッハハと喜ぶ。運転手君大喜び。すぐ次をやる。結構際どい話でも彼女きちんと解説してくれる。すごくいい「英語」の勉強だった。
 お茶の時間に、乗客の小母さんたちが彼女をほめていた。スコットランド英語がとても良く分かっている、と。車の中で、小母さんたちは彼女の解説に聴き耳を立てていたのだ。それで分かったのだが、スコットランド見物なのに、乗客はほとんどがスコットランドの人だった。若いスコットランド出身のご夫婦もいて、スエーデンで働いている電気技師だと言ったが、休暇で故郷に帰ってきたので始めて一周旅行が出来る、と喜んでいた。英語は難しい、と私が言ったら、「私にも難しい。anyとsomeがどう違い、どういう風に使い分けるのか、最近まで知らなかった。否定や疑問ではanyが多いんだな。any questions?」と笑っていた。そういえば私も日本語の文法は殆ど知らない、と笑った。でも、中学(戦時中)ではanyと someの使いわけを散々教えられた。日本の方が英語教育はまっとうじゃないか、と、これはひそかに腹のなかでだけ。
 ホテルで夕食をすますと皆で「キャバレー」に行く。舞台の前に木のベンチが並んでいるだけの広い部屋で、酒を飲みながらトークショウを聴いたり見たりするだけ。日本でいえば、村役場の会議室で漫才を聴いているようなもの。始めは凄かった。いきなり「SEXカウンティーから来た人は手を挙げて!」と怒鳴った。イングランドにはサセックスだのエセックスだのがあるから、Hなイングランド人は誰だ、とスコットランド人が威張っているのだ。次に、「遠い国からきた人は?」ときた。喜んだのは私達バス御一行様。同じところにかたまって座っていたから、皆で両手を挙げて「ジャパン」と怒鳴った。どう見てもスコットランドのおばさんたちが、いきなり日本人になった。司会者はびっくりしたのか、すぐには反応出来なかった。
 早めにホテルに着いた時、くだんのアメリカ人と散歩した。職業を聞くと「プレスビテリアンのミニスターだ」という。ウヘー、キリスト教の大臣か、とびっくりしたが、どうも変だ。恥を忍んで訊くと、プレスビテリアン(日本では長老派という、スコットランドの「国教」)という宗派(プロテスタント)の「牧師」のことだった。それをミニスターというとは知らなかった。足を引きずっているので、フットボールで怪我したか、と少々お世辞を言ったら、「ソフトボール」と返ってきた。おかしな坊さんだ。その時、どこかからなじみのある曲が聞こえた。二人して顔を見合わせ同時に「鳥の歌!」と言った。国連で、カザルスがあの曲を演奏し「カタロニアでは鳥はピース、ピースと鳴く」と訴え、世界中を感激させたのは、あの頃より少し前だった。同じ報道を彼はニューヨークで、私は東京で聴いて、ともに感激していたのだ。
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モーツァルト『レクイエム』ー市民の祈り

2012-03-20 02:20:32 | ぼやき
 先日府中アカデミー合唱団の定期演奏会を聴きに行った。もう26回目だという。ゼミ卒業生の吉田君が合唱団でうたっているので招待してくれた。3.11で亡くなった方々を悼み、復興を祈ってプログラムが組まれていた。
 第一部「追悼と復興の祈り」。砂山、おぼろ月夜、村祭り、紅葉、故郷。(砂山は私の好きな中山晋平作曲の方だった。)小学唱歌が、不幸な目にあった子供達をなぐさめる祈りのように聴こえて、不覚にも目頭が熱くなった。
 イギリスの音楽家の編曲で綺麗だった。合唱団はすごく上手だった。そのせいで、小学生の素直なうたい方が逆になつかしく思い出されたり、村祭りのひなびた雰囲気がないなと生意気なことをチラッと思ったりした。難しいもので、歌はうまけりゃ良いというわけに行かないらしい。ウマけりゃウマいで、いろいろ贅沢な感想が沸いて出る。音楽評論家(私のあまり好きでない人種)の仕事が尽きないわけだ。
 第二部「フランスの香り」。珍しくフランスの作曲家たち(フォーレ、ドビュッシー、プーランクなど)の合唱曲。始めて聞く曲ばかりだったが何故かなじみのある曲のようにゆったりと楽しく聴けた。特に、フォーレの「ラシーヌ賛歌」というのは良い曲だった。合唱団の方々はフランス語でうたうのが苦手なように思えたが。(勝手な推測だが、多分、普段はドイツ語がラテン語の曲を歌っているのだろう)
 第三部「鎮魂」モーツアルト『レクイエム』
 別の合唱団でうたっている妹と一緒に行ったのだが、彼女も何度かこれを歌っている。したがって、私も何度か聴いている。いつ聴いてもすごい曲だ。荘厳で比類ない美しさを備えている。全曲これ祈り。此処でも目頭が熱くなった(歳のせいかな。)歌っている人々も涙を流しているのではないかと思われるほどだった。聴く度にいつも思うのだが、この曲は、不気味な黒衣の使者に依頼されたときから、モーツアルトは自分の為に作曲したのだ。しかも、完成出来ずに、彼自身が死んでしまう。あまりの美しさと完成度の高さから、最後の部分の補筆・完成には当時の大作曲家ですら二の足を踏み、一時は断念した程だった。
 珍しいことに、合唱のアンコールがあった。モーツアルトの「アヴェ ヴェルム コルプス」。祈りの3時間だった。 
 府中アカデミー合唱団は、レクイエムを僅か70人の団員で見事に歌い上げた。バスのパートにいる吉田君も普段とはまるっきり違った顔でうたっていた。もう銀行を定年退職して何年もたつのに立派なものだ。テレビのコマーシャルに奥さんと一緒に出ているというが、まだ見られないでいる。コマーシャルの予告表というのがないから困る。
 それにしても、良い一日だった。
 
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メーデー事件60年。

2012-03-13 16:10:26 | ぼやき
 あれからもう60年になるのだ。 
 1952年5月1日。学友約百人と一緒にメーデーに参加した。何故か私が旗持ちで、大学の大きな旗を捧げ持ってデモした。会場から日比谷公園まで行進した。いつの間にか私たちが一番先頭になっていた。素人の悲しさで、どんなことが次に待っているか、全然何も知らなかったのだ。皇居前広場は集会禁止にされていたので、「広場に行こう」「人民広場奪回」と、横断歩道を渡った。お巡りさんが少しいてちょっと「阻止」されたが、たいしたこともなく広場に入り突きあたりのお堀まで行った。一番乗りだ、と旗を振って気勢を上げていた。何故か皆宮城の方を向いていて、中には最敬礼する奴もいた。まだ戦時中の習慣が抜けきらなかったのだろう。次第に学生や労組が到着し、次には何をするのかな、と少々待ちくたびれていた。「バイトに遅れるから」と何人かは帰って行った。すると、後ろからいきなりドドーッと群衆が押し寄せてきた。バチバチ叩く音と右往左往する人の動きで、何か騒ぎが起こったと知った。次の瞬間、何かが飛んできて、友人が殴られた。後はもう訳が分からない。ただ必死に逃げた。棍棒で頭を殴られ、眼鏡を叩き落とされたが、やっと「味方」の中に飛び込んだ。大学の旗のことなどすっかり忘れていた(今でも、あれをどうしたかは思い出せない。)警官隊とわれわれデモ隊員がかなり間を明けて対峙した。催涙弾が飛んでくる。ガスが目に染みるので拾っては投げ、拾っては投げを繰り返す。熱くて手のひらをやけどした。警官たちが棍棒を振り上げて突進してくる。一目散に逃げる。何人もの友人がけがをした。近所の病院に担ぎ込み手当をしてもらう。どこの病院も混雑していた。
 車をひっくり返す人々もいたようだが、私たちは東京駅前に集結し「寮付近には警官が見張っているだろうから帰るな、分散して友人のところに泊めてもらえ」と言い渡して解散した。
 私は水野の家に泊めてもらった。お母さんが「ご苦労さま」と言ったので良い気になり、風呂で泥を落とし、お酒を頂いて、二人で自慢たらたら「武勇伝」を語り合っていた。いつの間にか水野の兄さんが部屋にいた。彼は大先輩で興銀のエリート社員だった。いきなり雷が落ちた。「いつまでいい気になっているんだ。赤穂義士の討ち入りじゃないんだぞ」「いいように利用されて、まだ分からないのか」と。恥ずかしくなり、シュンとして寝てしまった。法政大の近藤さんという人が警官のピストルに撃たれて死亡した、と後で知った。
 翌日から、先輩が何人も逮捕された。一説には、病院の名簿に本名と住所を書いたため手配されたという。本当かうそかはしらない。しかし、友人たちは後で保険を使うために皆本名を書いた。これも素人の悲しさだろう。そうした「素人」たちは誰も逮捕されなかった。やはり、前から目を付けられていた人々が狙われたのだろう。
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