某年金生活者のぼやき

まだまだお迎えが来そうに無い

消された画像

2016-01-05 13:20:43 | 怖い経験
 大分前にこれに似た写真を画像に取りこみブログで公開した。今回のとはちょっと角度が違う。
前回のを、あとで画像一覧で探したら、消えていた。これだけ。

 


 前回のはどなたか知らぬが外国の方が私にメールして下さった物。今回のはIrish Timesの2015年回顧特集のトップにあった写真。横から撮っているので、このほうが一層可哀そう。
 それにしても、私の知らぬ間に、画像が消されていた(ブログにも載せてある。それだけは残った。)日本でもこんな事があるんだな。死体を写真にのせてはいけない、という規則でもあるんだろうか。それとも業界の自主規制?そうだとしたら情報業界の自殺ではないか。外国の新聞に2015年の最重要情報写真の一つとして載せられているものが、日本では自主規制でカットとはねぇ。どこで何をやられているか分かったものじゃない。ひでえ話だ。怖い話だ。 
 
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広島と長崎で被爆したアイルランド人たち

2014-08-12 01:48:12 | 怖い経験
 アイリッシュ・タイムズ紙に広島で被爆したアイルランドの女性と長崎で被爆した男性の話が載っていた(8月6日)。女性はカトリックの修道女でJulie Cannyさん。アイルランド西部のゴールウエイ生まれで、ニューヨークから広島の女子修道院に1939年に派遣された。2年後に日米開戦。始めはアメリカ人と思われて収容されてしまうが、後にアイルランドは中立だとわかって女子修道院に戻される。8月6日朝には修道院の庭でお祈りをしていて被爆した。爆心から2キロのところだったという。幸い放射能による障害に耐えて日本での修道女の生涯を貫き、東京で1987年93歳でなくなった。亡くなる2年前にその体験がAndersonstown Newsという新聞に載せられているという。
 長崎で被爆したのはDr.Aidan MacCarthyさん。コーク出身。RAFで捕虜だったというからイギリス空軍の軍医だったのだろう。被爆した時、近くの三菱の工場で500人もの女性が即死したと語ったという。1995年に亡くなったが、其の直前にA Doctor's Warというタイトルで本を出版しているという。
 広島、長崎ではどれほど多くの外国の人々が被爆しているのだろう。捕虜だけでもかなり多くの国の人々になるだろう。
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泥酔

2014-08-04 01:47:29 | 怖い経験
 泥酔は多分一回だけした。都合の悪いことは忘れる癖があるから、実はもっとしているかもしれないが。自分の事はさておき、何故「泥酔」つまり「泥のように酔う」と言うのだろう、とこれも悪い癖で前から気になっていた。気になるだけで何もしていなかった。それが先日ひょいとわかった。本に書いてあった。
 「泥」というのは、中国の昔の本に出てくる想像上の虫で、南海に住んでいるそうだ。水の中ではしっかりした姿形をしているが、水がないと泥のように溶けてぐちゃぐちゃ(どろどろ)になるという。そこから、酒を飲み過ぎて正体がなくなり、ぐでんぐでんになっている姿を、「泥=でい」という虫の脱水状態のような「酔いっぷり」と言うようになったのだそうだ。めちゃくちゃに疲れて眠っている時は「泥睡」。「泥という虫の脱水状態」のような睡眠というわけだ。「なまこ」がモデルかな。
 今日は義弟のお葬式と孫の演出する演劇「ロベール・トマ作『Trap~罠~』」の観劇で一日悲しんだり楽しんだり。帰りに一杯やったが、泥酔にはならなかった。おかげでこのブログが書けた。飲んでも酔わないのは良いのか悪いのか。酔わないんなら、無駄だから飲むな、と言う人がいる。本当に無駄なのかな。(8月3日夜)
 
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機銃掃射

2014-08-02 23:24:30 | 怖い経験
 8月にはやはり戦争の記憶がよみがえる。中でも機銃掃射で狙われたのが、今でも思い出すとゾッとする怖い経験だ。しかも2度あった。中学2年と3年の時だ。最初は昭和20年の3月、列車で熊本に行く途中久留米のあたりの山の中で、米戦闘機の攻撃を受けた。列車は停車し私達は一斉に線路わきの林に逃げ込んだ。間をおかず車両に弾が雨のように射こまれた。逃げる乗客の姿が見えたのであろう、今度は林に射ち込んで来た。こっちは太めの木の幹にへばりついて爆音の反対側に身をずらすだけ。人間のものとは思えないような凄い声(悲鳴)が聞こえるがそっちを見る余裕もない。機関車はトンネルの中に入っていたので、艦載機の攻撃が済んでしばらくすると列車は走り出したが、無残な車両の中で恐怖心はいつまでもおさまらなかった。
 二度目は同じ年の6月頃、常磐線が不通になって中学から線路沿いに歩いて帰る途中、飛行場を攻撃する艦載機に狙われた。線路わきの土手にへばりついて震えていた。動けば見つかる、狙われたら終わりだ。しかし、身を隠すところもない。幸い一人だった。もし集団だったら、どうしても見つかるだろうから一巻の終りだったろう。戦闘機はまっすぐ私に向かって射ちながら飛んできた。何度も何度も。実は私の真後が飛行場で、そこを狙っていたのだが、「見つかった、もう駄目だ」と何度思ったことか。制空権はとっくに米軍に奪われていたから、アメリカのパイロットは遊び半分の練習気分だったのだろうが、こっちは半分死んだような気分だった。あの飛行場「いわき飛行場」には戦後原子力発電所ができ、それが大震災で爆発した。私がへばりついていた土手のあたりはまだだれも住めない。列車も通っていない。
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