某年金生活者のぼやき

まだまだお迎えが来そうに無い

伊東壮『1945. 8. 6. ヒロシマは語りつづける』岩波1979年

2011-08-06 10:49:44 | ぼやき
 友人の伊東壮(1929~2000)がこの本を出してからもう30年以上たった。彼は国立町で原爆被害者の会を結成し、亡くなる2000年まで長く日本原水爆被害者団体協議会事務局長や代表委員を務めた。
 彼は中学四年生のとき、広島で被爆した。知り合ったのは一橋大学入学時。彼は大学構内の如意団という変な名前のあばら家に数名で住んでいて、学生食堂の経営?を担当していた。食堂と彼ら数名の関係はとうとう分からず仕舞だったが、このあばら家で遊んでいると、たまに、当時(昭和24年)貴重品だった炊きたての銀シャリに生卵をかけて御馳走してくれた。その凄まじい美味さがまだ舌に残っている。
 同室に曽我部もいた。彼も被爆者だった。夏の暑い盛りに雷が鳴ったりすると頭を抱え押入れに半分隠れたりして慄いていた。原爆のトラウマでどうにもならなくなってしまうのだ。原爆の被災者と知り合い、その被害の凄さを少しだが直接聞いて知ったのはこの頃が初めてだった。
 伊東は山梨大学に就職し、しばらく会えずにいたが、共通の恩師高島善哉先生の追悼会などで上京してくる度によく二人でしゃべりあった。私のゼミの学生藤田君が広島修道大学に保険論の教員として就職し、広島市民の保険加盟状況をゼミ生たちと調査したことがある。被爆者が保険加入を断られ、住む地域で差別され、さらに結婚等でも差別されている状況を学生たちは細かく聞き取りしてきた。立派な報告書ができ上がった。藤田君に伊東壮を紹介し、その報告を送った。伊東自身が被災者だから、良く読んでくれて丁寧な良い返事をくれた。大学一年生の時からの付き合いが弟子の仕事にまでつながった。
 学長になったと知って喜んでいたが、発病し任期を終えて間もなく亡くなった。大腸がんとか膀胱癌とかいう人がいたが、何にせよ原爆が原因であることは確かだろう。今度の原発事故を知ったら伊東は何というだろうか。地元出身のお前たちがもっと本気で反対すべきだったんだ、と叱られそうな気がする。
 
コメント (2)
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