某年金生活者のぼやき

まだまだお迎えが来そうに無い

カラヴァッジオ「キリストの捕縛」の数奇な運命

2016-04-02 14:55:11 | 忘れられた歴史



 先日のアイリッシュ・タイムス紙から。
 長く失われたと思われていたカラヴァッジオの名画「キリストの捕縛」Taking of Christ(1602年頃製作)が蘇ったのは1990年頃のことだった。これは、長い事ダブリンのジェズイット教団の食堂に、煤に汚れてかかっていた。ダブリン国立美術館にクリーニングと鑑定を依頼したら、カラヴァッジオの失われた名画だとわかった。あのときは大ニューズだった。暖炉の前の壁に長い事ぶら下がっていたから誰も真面目に見ない程薄汚れていたらしい。
 この絵は数奇な運命を辿った。元の所有者はリー・ウイルスン夫人(1971年没)。夫君はイギリス軍大尉でフランスで戦っていたが、復活祭蜂起~独立戦争の頃はダブリン警察に帰ってきていて、義勇軍兵士や共和主義者の捕虜を残酷に扱っていたという。そのためマイケル・コリンズの命令で暗殺された(1920年。)
 夫人はカトリックだが(そのためイギリス人でプロテスタントのリー・ウイルスン氏との結婚に大反対されたらしい)夫君の没後ダブリン大学トリニティ・カレッジに入学して医者になり、小児科医師として評判の名医になった。或る時スコットランドに旅行し、この絵を買った。当時は「キリストへの裏切り」Betrayal of Christというオランダ人画家ホントォスト(Honthorst 発音が分からない)というカラヴァッジオ風の絵を上手く書く画家の作品とされていた。いくら払ったかはわからないが、本物ではないと思われていたわけだから、たいして高くはなかったのだろう。夫人は、夫君の死に際して大変親切にしてくれたジェズイットの神父さんにこの絵を贈った。以来食堂に掲げられていた。カラヴァッジオの失われた名画とわかって大騒ぎになったのは夫人の死後20年以上たってからだった。
 ある日、私がダブリン国立美術館でこの絵を見ていたら、館員がスペインから来た中学生たちに絵の解説を始めた。捕えられているキリストの顔が二つある。一つは神の命に従う宗教者で神の子の顔。後ろで手を挙げて絶叫しているのは生身の人間キリストの絶望と嘆きをあらわにしたもの。このどちらもキリストそのものだ、と。カラヴァッジオは人間キリストも一緒に描く事で近代的なキリスト像を示していると。スペインの子供達は神妙にうなずいていた。こうやって彼等は自分の時代のキリスト教を理解してゆくのだな、と感じた。館員はまた「捕えている兵隊がちょっとおかしくないか」と聞いた。すかさず一人の子が「鎧がキリストの時代の物じゃない」と言った。鋭い。館員は喜んで「そうだ、この鎧はカラヴァッジオの時代のスペインの鎧だ。ローマは当時スペインに支配されていた。だから、カラヴァッジオは捕えられたキリストをスペインに支配されているローマとして描いているのだ」と。良いね。こうやって彼等は歴史を自分の物として学んでゆくのだ。

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パリ・コンミューンと無名戦士の墓

2016-03-18 20:08:36 | 忘れられた歴史
 今日は3月18日。1871年 3月18日と言えば、パリ・コンミューン開始の日。5月28日までパリ市民による歴史上最初の自治市民会議が市政を統括した。
 東京港区の青山霊園に「解放運動無名戦士の墓」と言うのがある。ここの合葬追悼会式典、墓前祭は1948年から3月18日に行われているという。勿論、パリ・コンミューン記念日だからだ。亡くなった家内の父親もここに合祀されたので初回には参列したが、その日がパリ・コンミューン記念日に合わせて設定されているとは気がつかなかった。「心ここにあらざれば見れども見えず聞けども聞こえず」の典型だな。
 この墓は1935年に「無名戦士の墓」として建立された。資金は細井和喜蔵の『女工哀史』の印税。既に10 年前に亡くなった細井の本がベスト・セラーになり、その印税を管理する細井和喜蔵遺志会が墓地の権利を買った。「無名戦士の墓」では世界各国の戦死者の墓と同じ。戦後(1948年)管理を引き受けた労農救援会(後の国民救援会)が「解放運動」と付け加えた。悲願だったろう。墓を作った1935(昭和10)年ころには、こんな文言は着けられなかった。この墓に参るだけでも官憲が付きまとって煩かったそうだから。
 細井和喜蔵は1925年に28歳で亡くなっている。沢山の著述を残しているからもっと年をとっていると思っていた。奥さん(高井としを)はもっと若い。結婚したのは和喜蔵25歳、としを20 歳。亡くなった時、奥さんは23歳。所謂内縁の妻。赤ちゃんは生後1週間でなくなっている。つまり細井の印税を受け取る資格が奥さんにはない。一文も貰えない。内縁は「ない縁」か。不道徳の代名詞みたいな扱われ方、ひどいもんだ。
 その後高井氏と再婚したが、彼も牢屋に居る方が多い生活で大変に苦労したらしい。それでもがんばり通して、和喜蔵没後五十年で元気な良い詩を書いている。長いから別校にしよう。
 たまたま、細井平州を調べていて、そう言えば『女工哀史』も細井姓だと思いついて検索したら、無名戦士の墓にであった。インターネットはこれだからやめられない。だが、和喜蔵と平州に姻戚関係があるかどうかは全然わからない。どうやって調べたらよいか。また宿題を背負っちゃった。


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