某年金生活者のぼやき

まだまだお迎えが来そうに無い

中学生の8月15日

2010-08-27 16:17:47 | ぼやき
 盛夏になるといやでも8月15日を思い出す。また、良く聞かれる。テレビもその関連のものを流すからなおさらだ。当時私は中学3年生で海岸の国民兵本部に勤務していた。
 自分はあの時何をしたのだろう、といつかまじめに思いだそうとした。
 放送については、はっきり覚えている事がある。近所のラジオを大勢で聞いた。雑音でよく聞き取れなかったが、負けたことは分かった。放送が終わって皆が帰りはじめたら、ラジオの持ち主だったご隠居さんが、大声で「天皇陛下は皆しっかりやれ、と言ったんだ(「不敬」なことに、「おっしゃった」などとは言わなかった。)関東軍百万まだ健在だ。ただ飯を食っていたわけではあるまい」と言った。誰も答えず、黙って散った。ご隠居さんも含めて、皆、負けたことがわかっていたのだ。
 家に帰って、私は、そのご隠居さんから借りた直木三十五の全集第一巻「足利尊氏」を座敷にひっくり返って読んだ。全然頭に入らない。仕方なしに、今度は親父の本棚から本山荻舟の『美味廻國』を引っ張り出して、アサリのシチュウ、だの 鎌倉ハムなどというのをよだれをたらしながら読んで、なんとか不安を押しのけようとしていた。昼間から大の字にひっくり返っているのに、母は叱りもしなかった。
 『美味廻国』は今でも持っている。不思議なことに、直木の足利尊氏も百円均一で先年入手した。変な中学生!
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閻魔様とキリスト

2010-08-19 14:41:35 | ぼやき
 ちょっとした事情で長くブログをかけずにいました。やっと再開できます。また読んでください。
 
 8月9日のテレビでしばらくぶりに長崎の平和祈念像を見た。北村西望さんのあのたくましい像を見ると、私はヴァチカンの壁画を思い出す。プロレスラー並みに若くたくましいキリストが最後の審判を下している図だ。多くのものがあそこから地獄に落とされる。あの図を背にして教皇が立つ。一番先に断罪されるのは教皇だというミケランジェロの怒りが目に見えるようだ。
 あのたくましいキリストと長崎の像は雰囲気が非常によく似ている。並べてみれば、立ったり座ったり、お顔も違う、となるが、伝わってくるものは同じだ。彫刻の専門家に何度もこの両者の類似性をどう考えるか聞いているのだが、納得できる答えを聞いたことがない。
 閻魔様は毎日大勢の亡者をさばき、多くのものを地獄に落とす。最後の審判の時のキリストと同じだ。しかし、人間を無間地獄に落とすなんてのは一番罪の深い行為だ。だから、一番処罰されねばならぬのは閻魔様。毎日、ある時間になると、それまでおとなしくしていた赤鬼、青鬼、亡者らが一斉に立ち上がって閻魔様を押さえつけ、ドロドロに溶けた灼熱の銅を口に流し込む。五臓六腑は焼けただれ、閻魔様は凄まじい苦痛にさいなまれる。それを日に三回やられる。たまったもんじゃない。だから、閻魔様の願いは唯一つ。人間が立ち直って、地獄に落とされるような悪事をしないようになること。そうなれば、毎日三回の激痛から閻魔さまは解放される。
 キリストも激痛にさいなまれ、父を恨む言葉を発して死んだが、甦った。(最後の言葉 エリ エリ ラマ サバクタニ。恵理子という学生が試験答案の最後にそう書いて余白を埋めたが、甦りは不可能だった。)
 キリストも閻魔大王も人間の罪のために死の苦しみを味わい、人間の立ち直りを心から願っている。こう考えてみると、全く縁もゆかりもないようなこの両者が一つに見えてくる。悪いのは人間、しかし、平安を願うのも人間。キリストや閻魔様に苦痛を与えるのも、人間。あの二人が願う人間の立ち直りは可能なのだろうか。
コメント (4)
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