某年金生活者のぼやき

まだまだお迎えが来そうに無い

認知症に襲われたジョン・ヒューム

2015-11-29 02:20:36 | つらい話




 22日のIrish timesに北アイルランドのSDLP(社会民主労働党)創立者ジョン・ヒュームの病気を夫人が発表したという記事が載っていた。late '90年代に発病したとある。聖金曜日の合意がきまり、北の住民投票と南の国民投票でこの合意が承認されたのが1998年だから、恐らくその頃はじまったのだろう。オーストリアでの会議で発病したという。ノーベル平和賞をUUPのトリンブルと一緒に受けたのも1998年だった。あの頃既に発病していたのか?
 ヒュームはその後ブリテン議会の議員と北アイルランド自治議会議員を辞職し、EU議会の議員だけ続けていた。体調不良が理由だった。口さがないアイルランド人、特にトリニティの教授たちは「EU議員は報酬が一番高いから、それだけ残したのだろう」などと言っていた。勿論病気の事は誰も知らなかった。
 厳しい認知症で、家族で夕食を楽しんでも、愛娘(医者)に会っても、すぐ忘れてしまい、夫人は同じ話を一日に何十回も繰り返して、夜には疲れ果ててしまうと言う。世界中をノンストップで飛びまわっていたヒュームが今ではどこにも行きたがらず、デリーの街を楽しんで散歩するだけだと言う。「デリーは認知症に優しい街でヒュームが散歩していると、いつでもタクシーが乗せて、帰宅させてくれる」という。ヒュームだからであろうが。何故かクロスワード・パズルも出来ると言う。
 私は一度だけ会った事がある。アヴォン・デールの旧パーネルの館で。パーネル・サマー・スクールの開会式で彼が開講記念スピーチをした。ヘリコプターで飛んで来て、終わるとまたヘリでデリー(多分)に帰っていった。「道路を走るのは危ないからか。」その時はそうとしか思わなかった。握手した時の感覚がまだ残っている。厚いがっちりした手だった。今思うと、あの頃既に発病していたことになる。全然そうとは感じなかったが。
 北アイルランドでの暴力抗争を止めた最も重要な政治家として、これからも多くを期待された人物が認知症とは。
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パリ惨劇の犠牲者にロバート・エメットの兄の子孫

2015-11-18 01:26:30 | つらい話
 先週金曜のパリの惨劇で多くの方の命が奪われた。その中に、Valentin Ribet(26)というフランス人の若手弁護士がいる。彼はBataclanコンサートホールで銃乱射の犠牲になった。
 彼はダブリン蜂起(1803年)のリーダー、ロバート・エメットの兄トマス・アディス・エメットの5代目の子孫だとアイリッシュ・タイムズ紙は報じている。ユナイテッド・アイリッシュメン蜂起(1798年)の後を受けた1803年のダブリン蜂起でロバートは逮捕され処刑される。兄のトマスは1798年の蜂起に加わり逮捕されるが1802年に解放されパリに逃れる。翌年弟は処刑される。兄はその後アメリカに渡り、1812年ニューヨークの検事総長になる。その孫は同名のトマス・アディス・エメットで医者だがアイルランド系アメリカ人として指導的な活動家になり、1903年にはエメットのダブリン蜂起百年記念にアイルランドを訪れ、エメットの墓を探している。彼は1919年に91歳で亡くなる。始めアメリカで埋葬されるが、1922年にダブリンのグラスネヴィン墓地(独立運動の志士が多く葬られている)にうつされた。
 パリで先週殺されたヴァレンティンはその孫。娘の息子で、企業などの不正摘発に腕をふるう若手弁護士として信望を集めていたという。
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英国国旗生成史。良いのがあったので。

2015-11-08 01:38:59 | 連合王国の象徴



 この生成図解は、昔から毎年のように使っているものだが、インターネットで初めてコンパクトな物を見つけたので、ブログに乗せる気になった。ブログを読んで下さる方の中にも、案外、初めて知った、などという方がおられるかもしれない。大体の方は既にご存知だろうが。大分前に大阪のある大学で、この生成物語を話の初めにスクリーン一杯に写して説明したら、皆さん初めて知ったと喜んで下さった。イングランドの赤十字、スコットランドのブルー地に白の斜め十字などが、ロンドンのプロムナード・コンサート最終日に会場で乱舞する。それもビデオで写しながら説明したから「今でもまだあるんですね」と驚かれた。昨年スコットランドで独立可否の投票が行われたから、あの時の大阪の皆さんは、なるほど、と納得されただろう。自分の話した事が、忘れるくらい後になって何か役に立ったかも、と思いだすのは良い気分だ。何しろ私の仕事は「最大の努力で最小の結果」と文科省筋から馬鹿にされるものでしかないから。
 それにしても良い具合にまとまっているな。白斜め十字の幅の大小をめぐっていくらか議論があるらしいが、デザイン的にはちゃんと治まっている。実際の幅と違うとクレームがつているだけらしい。
 私が小学校五年生の12月に真珠湾攻撃が起こった。すると、それまで「英米」と言われていたのが「米英」と言われるようになった。何故かと聞いたら戦う相手が米国になったからだと、先生が言った。私は英国の旗がどう見ても「米」という字に見えて、「何故英国の旗が米なのだろう」と気になって仕方がなかったが、何度聞いても先生は教えてくれなかった。今の俺ならちゃんと教えられるのだが。
 ウエールズのドラゴン旗がはいっていないのがいつも気になる。来年か再来年もしスコットランドが独立したらブルーも白斜め赤十字もなくなる。デザイン的には間の抜けたものになるな。
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福島復興コンサート。キリテ・カナワと歌う高校生合唱団

2015-11-07 17:35:08 | 心を打つうた
 つけっぱなしのテレビがキリテ・カナワと言った。おやと思って見たら、キリテ・カナワの福島復興コンサートを放送していた。ニュージーランドで大地震があったのは、東日本大震災のすぐ前だった。彼女はあの時の日本の救援活動のお礼も兼ねて、福島復興の演奏会を希望していたという。沢山の被災地高校生の合唱団が彼女と同じ舞台で熱唱した。まだコンサートの写真がみつからない。そのうちに。







 磐城高校の学生たちと一緒に写っている彼女はやさしいお婆さん。若い頃はヨーロッパ風の美女だったが、いつの頃からか、ニュージーランドのマオリ族の逞しさを顔に刻みつけるようになった。唯綺麗な歌をうだけの歌手ではない。一番好きな歌手は?と聞かれるといつも私はキリテ・カナワを挙げる。
 音楽会の終わりに、高校生と一緒に「ふるさと」を歌った。二番を独唱した。日本語の歌詞を見事にきちんと歌った。客席の皆さんも歌った。高校生の中には涙を流しながら歌っている人も沢山いた。終わって舞台から彼女が去る前に、高校生が「蛍の光」を歌った。驚いたカナワはそのまま立ち止まって、じっと合唱団に向き合っていた。今度は多くの人が涙を流していた。感動的なシーンだった。
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へのこの綺麗な海と海岸

2015-11-07 13:48:56 | 海を汚すな




 アイリッシュ・タイムズに沖縄のへのこの海と海岸の写真が綺麗に紹介されていた。ここを基地にし、汚染と騒音の巷にする、アイルランドの読者はびっくりしているだろう。日本人は何ともったいない事をするか、と。残念ながら、日本の沖縄以外に住む人々は、アイルランド人ほどの関心も持っていない。亡国の民というべきか。
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