平山夢明『デルモンテ平山の「ゴミビデオ」大全』で、エンジョイZ級映画!

2019年02月26日 | 映画
 平山夢明デルモンテ平山の「ゴミビデオ」大全』を読む。
 
 ホラー作家である平山夢明さんが、『週刊プレイボーイ』に連載していた映画レビューを単行本化したもの。
 
 1980年代家庭用ビデオデッキの普及とともに、日本中に雨後の筍のごとくあらわれた「レンタルビデオ」店に、わけのわからないまま置かれていたB級にもならないXYZ級のダメ映画を取り上げている。
 
 バンドブームファミコンブーム、「泣ける映画」乱発にSNSでの発言など、文化的バブルの活気のにはかならず、あぶく銭いっちょ咬みで踊りながら消え去った、「ゴミ」な作品が跋扈する。
 
 そこで生まれた、どうしようもないビデオの数々と、「鬼才」平山夢明の腰くだけな文体に、脱力しながらもどこか戦慄すら走るという、まさに現代の奇書と言える内容になっているのだ。
 
 取り上げられる映画のインパクトは、まずタイトルからしてうかがい知れるところがある。
 
 この連載のきっかけとなった、『殺人豚』をはじめ、
 
 
 
 
 『デブコップ』

 『吸血バンバンジー』

 『殺人パン屋いらっしゃい』

 『快楽美女集団 ボイ~ンってやっちゃうよ』

 『セックス発電 男女100人絶頂物語』

 『死刑執行ウルトラクイズおだぶつTV』

 『吸盤男オクトマン』

 『安全失禁電撃ボビー!』

 『カバチョンパ 殺人カバの恐怖』
  
 
 
 
 もうタイトルを並べるだけでも、お腹いっぱい
 
 もちろん、中身も題名以上にスットコで、オクトマンはタコの怪人なのに着ぐるみを濡らしたくないから水に入らないとか、東芝パルック(ただの蛍光灯)がそのままで「侵略宇宙人の乗るUFO」とか。
 
 メイクする予算がないから、肉屋で買ってきたハラミやタンを貼りつけて「ゾンビ」にしたり。
 
 SMプレイDVと勘違いして両親をで殺した少年が、そのトラウマでジェイソンのような斧殺人鬼になったり。
 
 いじめられっ子がパパの発明品で、股間の「ゴールデンボーイ」を巨大化させたらモテモテになるけど、それをめぐって「高校生秘密結社」と戦うハメになったり……。
 
 ふだんは偉そうな文化人などが「人類は愚かだ」なんて言い出したりするのを、
 
 
 「自分のことはカウントしてへんのかい! どの立場から言うてるねん。《ハワイは日本人が多くてイヤ》とかいうトホホ日本人と同じやないか!」
 
 
 なんてつっこんだりすることがあるが、この本を読むと、心の底から素直に、
 
 
 「そっすねー、マジ超オロかっスねー」
 
 
 そう同意できる。『赤毛のアン』で有名なルーシーモードモンゴメリーの『丘の家のジェーン』という小説で、主人公ジェーンのパパに、
 
 
 「勇気をもって生きなさい。世界は愛でいっぱいだ」
 
 
 というセリフがあるんだけど、これには私も、
 
 
 「勇気をもって生きなさい。世界はホンマ、阿呆ばっかりやからなー!」
 
 
 そう踊りだしたくなるもの。人生ってすばらしい。
 
 とにかくこの本は、ビデオのどうししようもなさと、デルモンテ平山の投げやりともいえる文章が見事な化学反応を起こし、とてつもなくバカバカしいのが、いっそすがすがしい
 
 論より証拠と、短いものをひとつ引用してみよう。『バズーカファミリー ヘッド博士はテクニシャン』という映画では(改行・引用者)、
 
 
 大馬鹿アーパーギャルが太くてデカい男を捜してウロウロウロウロしていると、天の恵みか地獄のさたか、なんとチンポの形の頭を持つエイリアンがあらわれました。

 いくらハリー・リームスがデカくても《頭》には負けます。女どもも興奮のあまり失禁したり発狂したりするのですが、エイリアンにとっては、その姿が怖くてしかたありません。

 なんとか気の弱いなにも知らないエイリアンをだまして、その頭を使おうとする六本木ぶら下がり的アーパーたちは必死になって

 「あなた、ここはお帽子なのよ~ん」

 などとコーマン開く馬鹿もいれば、エイリアンの頭がツルリンなのをいいことに、

 「あなたこれはヅラの毛よ~ん」

 などと毛ダワシをおっかぶせようとしたりします。

 しかし好事魔多し。なんと巨大チンポ頭を持つエイリアンはオカマのオナニストだったのです。

  逆上したギャルは使えないならいらないとエイリアンを皆殺しにするのでした……ポンポン。
 
 
 
 ポンポンって、なんやそれという脱力感だが、そうでもいわないと話がオチないギャランドゥ。
 
 この手のレビュー本は、
 
 
 「ここまでヒドイと、逆に見たくなる」
 
 
 というのが定番の感想だが、この本に関しては、
 
 
 「ここまでヒドイうえに、逆に見たくすらならないところがすごい」
 
 
 ここで紹介されているビデオは、愛も勇気も冒険もテーマもないトホホ度420%の怪作ばかり。
 
 それを「精読を拒否する文体」で語る平山さんのやり方は見事な「正解」だ。
 
 「2人が出会った奇跡って、あるんやな」
 
 思わずつぶやいてしまいましたとさ、ポンポン。
 
 
 
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「一歩竜王」番外編 藤井システムに影響をあたえた棋士たちと、ある女性のフリフリ その2

2019年02月21日 | 将棋・シリーズもの 中編 長編

 前回(→こちら)の続き。

 「藤井システム」に影響をあたえた将棋は様々だが、そこに関わっているのが、

 「ある女性のフリフリ

 

 



 

 その局面がこれ。

 これだけ見たら

 

 「また藤井が魅せてくれたぜ!」

 

 色めき立つかもしれないが、実はこれがある女流棋士の将棋なのである。

 一体、だれのものなのか。

 今のヤング諸君にはわからないかもしれないが、答は林葉直子さん。

 1990年度、王座戦の畠山鎮四段戦で見せた、なんともユニークな形なのである。

 



 林葉さんというと、正直なところスキャンダルのイメージが強いかもしれないが、女流棋士だったころは、非常に才気あふれる将棋を指していたもの。

 また、そのビジュアル文才など、幅広い魅力を持った人気棋士だったのだ。

 



 そんな彼女は「初手▲36歩」など、独特の戦型レパートリーを持っていたが、中でも目を引くのがこれだろう。

 飛車を振ったあと、相手が左美濃にしたら、すかさず振り戻して玉頭をねらう。

 プロの序盤はこまかくて、むずかしいことも多いが、これはわれわれアマチュアにもわかりやすいどころか、すぐにでも実戦で使えそうではないか。

 林葉さんは才能型なので、あまり深い研究があったわけではなかったのか、畠山鎮にしっかりと受け止められ完敗した。

 とはいえ一見奇襲のようでも、相手の一番うすいところを攻めるという意味では理にかなっており、きわめて論理的な発想ともいえる。

 この指し方が、矢倉一辺倒で(いつの時代もプロ将棋は同じ戦型に偏りがちなのだ)同じ形の将棋ばかり取材させられていた、観戦記者たちの心にヒットした。

 ある記者が、



 「一回振った飛車が同じ位置に戻るから《ブーメラン飛車》と呼んではどうか」


 
 そう提案したのを受け、別の記者も、



 「振り飛車を、もう一回振るわけだから《フリフリ飛車》というのも捨てがたい」



 これには発案者の林葉さんが、

 


 「フリフリ飛車がかわいくていいですね」


 

 ここに新戦法「フリフリ飛車」が誕生したのだ。

 この作戦は単なる一発ねらいではなく、同じ年の女流棋戦でも採用し、中井広恵女流王位に勝っている。

 

 



 で、なんとこの将棋を、藤井猛九段は指しているのだ。

 以下、河口俊彦八段の『対局日誌』から(改行引用者)。



 序盤の藤井君の作戦は奇想天外。左美濃に対し、1筋に飛車を回して、1筋、2筋の歩を交換。つづいて銀冠の銀を棒銀形にくりだした。

 後で「変な手を考えるね。研究してあったの?」と訊くと

  「いや、その場の思いつきです。林葉さんがあんな形を指していましたね」

  藤井君はケロリとしていた。そうなんだ、かねてから林葉さんはセンスがいいと思っていた。


 


 明らかに、「フリフリ飛車」のことだ。

 この将棋が1995年で、なんとあの伝説の井上戦の5か月前のこと。

 ちなみに、こういう形。

 

 

 たしかに、林葉さんの影響が見える。

 藤井システムには、本当にさまざまなアイデアが組みこまれている。

 こういう将棋を(また女流だからといって)見逃さないセンスもさすがだ。

 さらにおどろいたことに、あの羽生善治九段もしばらく後にこの「フリフリ飛車」を指している。

 

 

 1996年3月の全日本プロトーナメント(今の朝日杯)準決勝。

 相手は屋敷伸之七段

 結果は羽生が逆転で敗れたが、△85歩の玉頭攻めがきびしく、中盤以降はずっと必勝形だった。

 このシーズンは羽生が「七冠王」を達成した年で、羽生七冠も優秀と認めるフリフリ飛車。

 注目すべきは、この年の羽生は七冠の他にも、NHK杯早指し選手権優勝していたこと。

 つまり、この全日プロを取ればタイトルだけでなくトーナメント全冠の、グランドスラムならぬ「ゴールデンスラム」達成だったのだ。

 七冠にくわえての、さらなる大記録(今思い返しても、ちょっと信じられないよ……)をかけて採用したのが、この「フリフリ飛車」。

 羽生が、決して伊達や酔狂で選んだわけではないことが、おわかりいただけるだろう。

 ちなみに、このとき決勝で待っていたのが藤井猛六段だった。

 実は藤井も、この屋敷戦とまったく同じ形を構想していたのだが、羽生に先に指されてしまい、おどろいたそうだ。

 以上の経緯が、「藤井システム」に影響をあたえた「フリフリ飛車」という存在だ。

 将棋の戦法は、こうして玉突きや、キャッチボールをくり返しながら進化していく。

 よく冗談で、



 「将棋の戦法に著作権があれば、藤井猛は御殿をいくつも建てている」



 なんていわれるけど、もうけそこなってる藤井九段にはもうしわけないが、将棋の発展とファンの楽しみのためには、そうならなくてよかったところはあるだろう。

 実際、藤井九段がよく振り飛車党の後輩に、

 

 「もっと、藤井システムやってよ」

 

 なんて言うのも、冗談めかしてはいるが、こういう進化の歴史を身をもって体感していることも大きいに違いない。
 
 
 (久保利明のさばき編に続く→こちら

 (藤井猛の華麗な終盤戦は→こちら

 (先崎学の語る藤井猛の天才性は→こちら

 

 

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「一歩竜王」番外編 藤井システムに影響をあたえた棋士たちと、ある女性のフリフリ

2019年02月20日 | 将棋・シリーズもの 中編 長編

 「おいおい、藤井猛九段と女のフリフリの話って、なんやねん」


 先日、近所の立ち飲み屋で、そんなことを言ったのは将棋ファンの友人エビエ君である。

 あー、あれね。あったなあ。

 前回まで私は竜王時代の藤井猛九段と、それにまつわる「一歩竜王」というキーワードについて書いた(→こちら)。

 そこで、世にいう「藤井システム」というのは、奥に深遠な研究があり、その歴史がすこぶるおもしろいのだが、そこに



 「あの女性のフリフリ」



 が関わってくるとは知らなんだ。

 といったことを書いて、あとはそのまま忘れていしまったのである。

 というか、今さら取り上げるのがめんどいので、忘れたままでいたかったものだが(将棋ネタは楽しいけど、調べものなどが、ちょっと手間なのです)、つっこまれたらしょうがないといううことで、ここに説明してみたい。

 「藤井システム」というのは、

 「居飛車穴熊に組まれる前に、攻めつぶす戦法」

 というのが、一般的なイメージである。

 かくいう私自身、特に疑問もなくそう思っていたのだが、藤井猛九段のインタビューや各種将棋の本を読んで、実はもっと奥の深い思想があったことを知ったのである。

 くわしいことは各種「藤井システム」の専門書などを参照してほしいが、ここで簡単に流れだけでも、説明してみたい。

 まず「藤井システム」のスタートは、穴熊ではなく「左美濃」攻略からはじまった。

 システム前夜の将棋界では、腰の重い棋風の森下卓九段高橋道雄九段南芳一九段といったところが、左美濃で勝ちまくって、振り飛車党は激減していたのだ。

 そこでまず、藤井猛は、ここをつぶすことにする。

 得意の「タテの突破力」を生かして、▲87玉型天守閣美濃を、玉頭攻めで攻略することに成功したのだ。 

 



 1994年棋聖戦 藤井猛vs室岡克彦 これが「藤井システム」の基本図

 

 左美濃を玉頭から攻めるのは、奨励会時代の杉本昌隆八段が指していたそうだが、そこから藤井猛は独自に研究を進めていく。

 そして、△83金という新手を編み出し、ここに対左美濃の、必勝定跡を生み出す。

 

 

 

 これがなんと74手目で、勝又清和七段の連載記事をはじめ、当時この図はあらゆるところで取り上げられたもの。

 ここまで事前に研究し、あらゆる膨大変化をつぶして登板させたとあっては、プロでも恐れをなすというものだ。

 

 

 
 上の図の、さらに3か月後の将棋で、またも室岡を圧倒。これで左美濃は完全に崩壊


 その破壊力に恐れをなした居飛車党の面々は、あわてて穴熊に避難するが、それは我々もおなじみの「居玉で攻めつぶす」形で破壊する。

 囲う形を徐々に減らされ、やむをえず竜王戦羽生のように急戦を選択すると、それこそが藤井猛のねらいだった。

 藤井猛九段といえば、振り飛車の達人であった、大山康晴十五世名人に傾倒していることで有名。

 そこで、その将棋を徹底的に研究し、あいまいで大山のアドリブに近かった急戦対策(大山は研究されることを嫌ってわざとそうしていた)を完璧に体系化して、定跡を整理し、それを自らの血肉としていた。
 
 このあたりは藤井九段と鈴木宏彦さんの共著『現代に生きる大山振り飛車』という本(超名著です!)にくわしいが、そういうこと。
 
 藤井システムにおいて、穴熊に囲う前に攻めるというのは、あくまでオプションのひとつ。

 その真の狙いは、相手の選択肢をひとつずつせばめていき、その網をしぼった先にある、居飛車急戦の土俵に誘いこむことにあったのだ。
 
 そうすれば「大山康晴とのタッグ」で、いくらでも白星を稼げる。

 本や、将棋雑誌のバックナンバーをひっくり返しながら、そういった「藤井システム・サーガ」をひとつひとつ読み解いていくと、
 
 
 「やっぱ藤井猛は天才や!」
 
 
 さらなる感嘆の声を呼ぶのだが、そんな藤井が受けた様々な影響も、また興味深い。

 いくら藤井猛が、すぐれたクリエイターとはいえ、そこに「触媒」がなければ錬金術も生まれない。

 左美濃攻略の先駆者である杉本八段は、序盤で▲15歩と端を突き越す形も昔から指していた。
 
 
 
 
 
 また、穴熊への攻撃には小林健二九段の「スーパー四間飛車」もかかわってくる。



 
居飛車穴熊退治の猛威を振るった「スーパー四間飛車」。
▲65同歩、△同銀、▲66歩に△76銀と飛びこむのが必殺の一撃。
▲同金に△67歩と打つのが激痛で、▲59銀(▲同銀は△57桂成)に△57角成で後手必勝。
このタテの攻めが、小林のA級復帰の原動力になった。




 対穴熊で桂馬をいきなり跳ねる攻撃は、あの井上戦の2か月前に行われた、竜王戦がつながっている。
 
 羽生善治九段が、佐藤康光九段に見せた、△93桂からの展開(今でいう「トマホーク」のような形)からひらめいたという(くわしい内容は→こちら)。



 
 「藤井システム」に羽生善治の影響があることは、藤井本人も語るところ。
 
 
 
 また、対左美濃の新手「△83金」も、1993年の日本シリーズ。
 
 羽生善治五冠と、郷田真隆五段との一戦から、発展させたものだ。
 
 
 
 
 「七冠王」へ向かって走り出そうかというころの羽生将棋。結果は郷田勝ちだが、この自陣飛車が話題になった。


 もちろんこれらは単にマネしただけでなく、それこそ「居玉で攻める」など、画期的アイデアを加えて、自分のものにしている。

 そんな中、左美濃対策で藤井が、ある将棋について言及していた。
 
 これがめずらしく女流棋士の将棋であり、おもしろいなと思って、そのアイデアを参考にしたというのだ。

 まずは対局者の名前を伏せて見てもらおう。
 
 

 

 
 
 天守閣美濃に、一回振った飛車を戻してロックオン。
 
 これだけなら「先手 藤井猛」と言われても、信じてしまいそうだが……。



 (続く→こちら


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藤井システムと「一歩竜王」 羽生善治との王座戦&竜王戦の12番勝負 その3

2019年02月13日 | 将棋・シリーズもの 中編 長編

 前回(→こちら)の続き。

藤井猛竜王羽生善治五冠(王位・王座・棋王・棋聖・王将)で戦われた、第13期竜王戦最終局は、芸術的な駒組で藤井が序中盤を圧倒する。

 手段に窮した羽生は、なんと△86歩と、僻地を突いて手を渡した。

 

 

 

 まるで王座戦の再来のようで、羽生はこうした1手パスのような手を駆使し、数え切れないほどの逆転勝ちを生み出してきたが、こればっかりは、さすがに苦し紛れ感がかくせない。

 いや、それどころかこの手が最終盤で、とんでもないドラマを生む「敗着」(意味は違うが感覚としてはそうなる)になるのだが、それについては『将棋世界に掲載された、先崎学九段の「一歩竜王」という観戦記を読んでいただきたい。

 ……というのがベストなんですが、現在この文が収録された本などがないようなので、ポイントの局面だけでもここで語ってみたい(先崎九段の名文は『将棋世界』2001年3月号に。振り飛車党と藤井ファンは古書店をまわる価値あり)。

△86歩には、当然▲25歩と突いて、玉頭から押しつぶしにかかる。

△同歩に、▲56金と力強く出て、△22角▲44歩が、筋中の筋という気持ちよすぎる突き出し。

 




 

 後手は△86突いたからには、どこかで△87歩成としたいが、それには▲48飛の活用が今でいう「絶品チーズバーガー」。

 やむをえない△同角に、▲45金とブルドーザーがぐいぐい前進し、気分はド必勝。

 パンチが急所に次々と入り、藤井流の表現を借りれば、

 

 「そろそろ帰り支度をはじめるところ」

 

 という形に見える。

 ここまでいいところのない羽生だが、▲45金に、ここで△42飛と眠っていた飛車を活用。

 

 

 これがしぶとい手で、先崎九段いわく、

 


 「ここまでで唯一ともいえる、羽生らしい手」


 

 これに幻惑されたのか、▲34金と捨て、激しく寄せに言ったのが疑問で、ややまぎれ形に。

 さすがの藤井も勝ちを意識したのか、寄せ方がぎこちなく、もてあまし気味に見えたが、ここでふんばって、最終盤は先手に勝ちがありそう。

△66角と打ったのが、羽生の祈りをこめた最後の勝負手だが、まだ詰めろではない。

 

 

 

 

 なら、ここで後手玉に一手スキをかければハッキリ勝ちだが、先手はまだ攻め駒が1枚足りない。

 だがそれが、思いもかけないところに、落ちているではないか……。






 

▲86歩と、ここで取るのが、「一歩竜王」の意味だった。

 中盤での△86歩の手渡しが、これまで幾多のドラマを生み出してきた「羽生マジック」のタネ駒が。

 この最後の最後という場面で、まさかの裏の目に出てしまった。▲24歩以下の詰めろに、受けがない。

 もちろん、羽生が△86歩と突いた時点で、両者がここまで考えていたわけではない。さすがに、そんなことは不可能だ。

 だからこれは紙一重、まさに歩が一枚分の「」としかいいようがない。

 この12番勝負はどちらも、86の歩が勝負を分ける、不思議なめぐりあわせになっていた。

 こうして激戦の末、藤井竜王が防衛を決めたが、このとき私は確信したのである。

 「藤井猛こそが最強の棋士である」と。

 将棋界には、藤井よりもたくさん勝ったり、タイトルを取っている棋士はいる。

 だが、強さと創造性を両立させることに関して、藤井猛を超えるかもしれないという棋士が、そう多くいるとも私には思えないのだ。




 (藤井システムの成り立ち編に続く→こちら


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藤井システムと「一歩竜王」 羽生善治との王座戦&竜王戦の12番勝負 その2

2019年02月12日 | 将棋・シリーズもの 中編 長編

 前回(→こちら)の続き。
 
 藤井猛竜王羽生善治五冠(王位・王座・棋王・棋聖・王将)の「12番勝負」は、当時の棋界の最強者決定戦ともいえた。

 まず王座戦は、羽生が意地を見せた。

 今度は竜王戦だが、正念場となったこの防衛戦で藤井は、キャリア最高かもしれないほどの輝きを見せる。

 そのことは羽生の戦型選択を見れば、ある程度想像はつき、



 第1局・後手番羽生が、飛車先を突かない工夫を見せるも藤井完勝

 第2局▲46銀型急戦で羽生が勝ち

 第3局・羽生が地下鉄飛車を目指すも、藤井が玉頭戦を制して勝ち

 第4局・羽生が天守閣美濃から四枚銀冠。藤井の仕掛けが機敏で快勝

 第5局・後手の羽生が意表の棒銀。藤井に見落としがあり中押し

 第6局急戦玉頭銀のねじりあいから羽生勝ち。





 こうして見ると、羽生が穴熊を志向してないことがよくわかり、つまりは藤井システムとの正面衝突を避けているのが明白なのだ。

 好奇心旺盛で、相手の得意形に飛びこむことをいとわない羽生が、これだけハッキリと「勝率9割」(勝又清和七段がはじき出した、振り飛車党には絶望的なデータ)の穴熊を捨てた。

 これはかなりの衝撃であり、やはり当時それだけ、藤井の研究が恐れられていたわけだ。

 それでも、なんのかのといいながら、カド番を2つしのいで、3勝3敗タイに持ちこんだのはさすがで、いよいよこの大勝負に決着のときが来た。

 最終局は藤井が先手になった。

 後手番では、指す戦法がないのではと懸念された羽生は、とりあえず持久戦にし、第4局同様、天守閣美濃にかまえる。

 そうして静かに駒組が進んで、むかえたこの場面。

 




 

 双方しっかりと堅陣を作り、さあこれからに見えるが、実はこれがすでに先手必勝の局面だといったら、おどろいていただけるだろうか。

 んなアホなと笑われそうだが、これが多少大げさではあるものの、決して私のホラというわけではない。

 その根拠は、以下の手順でわかる。

 後手は玉頭がうすいから、銀冠か、できれば穴熊に組み替えたい。

 だが、△12玉から△23銀など、連結がくずれた瞬間に仕掛けられると、一気につぶされる怖れがある。

 かといってこれ以上有効な手待ちもなく、ままよと△55歩と仕掛けることに。

 ▲同角△54金と出て、中央を制圧しに行ったところで、▲45歩が力強い反撃。

 


 

 

 △55金と取るのは、▲同銀で厚みと駒の勢いがちがいすぎるから、△45同歩と取るも、そこで一回▲66角が、機敏なバックステップ。

 

 


 後手は△44銀と勢力を足すが、先手も▲46歩とドンドン戦力を投入し、パワーで押しつぶしにかかる。

 △22角と必死の援軍にも、強く▲45歩。

 以下、△55銀▲同銀△同金▲同角△同角▲98飛と清算した局面を見ていただきたい。

 

 



 

 将棋の形勢を見るには、

 

 「駒の損得」

 「玉の固さ」

 「駒の働き」

 「手番」

 

 この4つを主な判断材料にするが、まず駒の損得は角金交換で後手が駒得

 駒の働きも△55角が中央にさばけて、先手の飛車を押さえている。手番後手にある。
 
 だがこの局面、すでに先手大優勢なのだ。

 そのカラクリは王様の形。

 先手が銀冠の堅陣なのに、後手は玉頭がさびしすぎる。

 次、▲25歩と突かれるのが、あまりにもきびしく、後手は手厚い銀冠に玉頭戦で勝ち目はない。

 多少の得では、とても釣り合わず、ここですでに後手から、攻守とも有効な手がない。

 飛車が隠遁し、駒損手番を失って、これで先手優勢という藤井竜王の構想力がすばらしく、検討していた控室も大絶賛だった。

 羽生からすれば、藤井システムによっての設置されたジャングルを細心の注意を払ってつま先立ちで歩き、なんとか抜け出したと思ったら、そこに敵の大戦車部隊が待っていた。

 そんな脱力感だったろう。

 そう、あの▲65歩と角道を開けた図は、なんということのないように見えて振り飛車必勝

 これこそが「藤井システムの勝利宣言」ともいえる、まさに藤井猛絶頂期の芸術作品なのだ。



 (続く→こちら

 

 

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藤井システムと「一歩竜王」 羽生善治との王座戦&竜王戦の12番勝負

2019年02月11日 | 将棋・シリーズもの 中編 長編

 前回(→こちら)の続き。

 自ら編み出した「藤井システム」を駆使し、見事竜王のタイトルを獲得した藤井猛。

 羽生善治四冠、谷川浩司竜王の当時2強をぶち抜いての戴冠は、それだけでもはなれわざだが、そこにくわえて「創造性」でも勝利したことは称賛してもしすぎることはない。

 深い研究に裏打ちされたシステムと、藤井竜王はまさに盤石だった。

 続く第12期竜王戦では、勢いある若手の鈴木大介六段を挑戦者にむかえるも、今度は居飛車で戦い4勝1敗のスコアで完勝(決着局の模様はこちら)。

 そして翌年が、藤井にとって大きな意味を持つシーズンとなる。

 王座戦でトーナメントを勝ち上がり、挑戦者決定戦でも谷川にまたも勝利。

 ついに竜王戦以外のタイトル戦にも、登場することとなったのだ。

 相手は王座戦といえばこの人の、羽生善治王座(王位・棋王・棋聖・王将)。

 だが二冠のチャンスに浮かれてはいられない。「本丸」の竜王戦では、今度は羽生が本戦を勝ち上がって挑戦者に。

 羽生相手のダブルタイトル戦となれば、結果次第では、いよいよ藤井の「棋界制覇」も視野に入ってくるが(大げさでなく、このころの藤井はそれくらい強かった)、逆に敗れることになると、

 

 「やはり羽生には勝てない」

 

 という意識を植えつけられ、「2番手コース」に入りかねない。

 チャンスであり、同時に試練の12番勝負は、まず王座戦からスタート。

 このシリーズ、単純な勝敗と同時に注目だったのは、当然のこと羽生の藤井システム対策だ。

 これまでの羽生は、時には負けることもあるわけだが、そういう場合もかならず次の機会にリベンジするどころか、負けた分のダメージを、2倍3倍にして返してきた。

 ならば2年前煮え湯を飲まされたシステムを、完膚なきまで、たたきつぶしにこようとするのは目に見えているわけで、実際、羽生は序盤戦を穴熊含みの持久戦で戦う。
 
 だが、これを藤井は受け止めてしまう。

 振り飛車らしいさばきと、「ガジガジ流」の力強さを存分に発揮し、2勝1敗とリードを奪うのだ。

 将棋の内容も「らしい」もので、

 

 「こりゃ、藤井二冠あるで」

 

 色めきだったが、カド番に追いこまれた羽生は、ここで意表の急戦策に出る。

 くやしいだろうが、とりあえずシステム攻略はあきらめて、いったんは勝負に徹しようというのだ。

 第4局▲45歩早仕掛けから、で香を捨て一歩手に入れる「郷田流」を採用。

 終盤の冷静な受けが光って、2勝2敗のタイに戻す(その将棋はこちら)。

 


 
 先手が指しにくいといわれた定跡から▲95歩と突くのが、郷田真隆九段の新手。
 △同歩、▲同香、△同香と一歩手にして▲43歩とたたき、△52飛に▲44角と銀を取る。強引なようだが、端から遠い舟囲いの特性が生きる形。





 注目の最終局、やはり羽生が選んだのは急戦だった。

 事ここにハッキリしたのだ。羽生は認めたわけだ。

 

 「藤井システムに当方、今のことろ対策はありませんで御座候」



 この選択だけでも、ある意味「藤井猛の大勝利」といえるが、もちろん盤上の勝負となるとまたで、ともかくも現実に目の前の一番を勝たなければならない。

 一方の羽生も、急戦で行ったからといって、実は藤井システムを回避できたわけではない。

 いや、当時はまだクローズアップされていなかったが、藤井システムの本当のねらいは

 「相手の選択肢をつぶし、最後に急戦を選ばせて、そこで仕留める」



 という構想にあったので、おそろしいことに、これもまた「藤井の掌の上」でもあったのだ。

 その思惑通り、藤井は振り飛車らしい、さわやかな指しまわしを見せる。

 


 


 ▲46の好所に設置して後手の飛車を封じ、▲56に出たも端攻めをかわしながら手厚いかまえ。

 振り飛車党なら一見「さばけている」よう感じるかもしれないが、そうではなかった。

 ここで、羽生にすごい手が飛び出すからだ。






 

 

 △86歩と、相手玉の反対側にある歩を突いたのが、プロもうなる、まさに羽生善治にしか指せない1手だった。

 この手の意味は一目ではわかりにくいが、簡単に説明すると、まずこの局面で後手が一番使いたいのは、で遊んでいる飛車だ。

 とはいえ、単に△95飛と出ても、▲99△97と金の配置が悪く、なかなかうまく成りこむことができない。

 なのでまず8筋を破って、△95から△85というルートを使えば、進路オールグリーンと、邪魔駒なくスムーズにを作ることができるということ。

 その間、先手からの速い攻めがないことを見切った、まさにこの将棋の趨勢を決定づけたスーパー絶妙手であり、私がもっとも好きな「羽生の妙手」でもある。

 こんなものを食らっては、さしもの藤井もガックリきたことだろう。

 以下、羽生は1筋から、もう一方のも攻めて圧倒。

 

 

 

 

 8筋1筋をかき回すだけかき回し、先手の駒が押しこまれたところで悠々△42金直と締まる。

 第4局に続いて、この落ち着いての陣形整備が決め手となった。

 また今では△67と金となって先手陣を食い荒らしているのが、あの△86歩

 しかも、このと金はその後、先手の飛車と交換になるのだから、恐ろしいとしか言いようがない。

 苦戦を予想させたが、

 


「最後は羽生さんが勝つゲーム」


 

 という言葉を実証させたような結果となった。

 ここ一番での、すさまじい勝負強さは、さすがとしかいいようがない。

 12番勝負、まずは羽生が防衛

 さあ、こうなると今度は、藤井がふんばらなければならないターンだ。

 ここで竜王まで取られたら、多くの羽生に負かされた棋士同様「やっぱりな」というあつかいになってしまう。

 ただ、追いつめられたように見える藤井竜王だが、決して悲観していたわけではなかった。

 そう、王座戦での勝負は負けだったが、まだ「藤井システム」自体が打ち破られたわけではなかったからだ。



 (続く→こちら

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藤井システムと「一歩竜王」 振り飛車革命と「藤井猛竜王」誕生の衝撃

2019年02月10日 | 将棋・シリーズもの 中編 長編

 前回は「丸山忠久名人」誕生の1手を紹介したが(→こちら)、今回は「藤井猛竜王」について話をしたい。

 藤井猛九段といえば、藤井システムによるブレイクのイメージが強いが、それ以前から実力自体は評価されていた。

 泉正樹六段との新人王戦で、実力者相手に相振り飛車から快勝しているなど、奨励会時代から結果を出していたのだ。

 

 

 1991年の新人王戦。後手から△37歩成とせまったのに、▲29玉が読み切りの一手。

 危ないようだが、先手玉に詰みはなく、以下も王手ラッシュを正確に逃げ切って、強敵の泉に快勝。

 

 

 デビュー後の藤井は、しばらくはまだ「期待の若手」の枠内だったが、それでも順位戦では比較的早くB級2組まで上がるなど、まずまずの活躍を見せる。

 そして、むかえた1995年度が、お待たせ藤井システム爆発の年。

 B級2組順位戦井上慶太六段との対戦から、あの将棋界の歴史を変えた伝説がはじまるのである。

 

 

 

 穴に組もうとする居飛車側に、居玉から桂跳ねの速攻で、一気につぶしてしまうこの形。

 おそらく将棋の戦法史に、未来永劫残ることとなる図の誕生である。

 のちA級八段になる井上慶太を、わずか47手で粉砕した、おそるべき破壊力だった。

 ここから居飛車党の棋士は、突然あらわれたこのモンスターへの対策に、長く眠れない夜をすごすことになるのである。

 ただ、当時の感覚では、まだこの指し方は大勢の理解を得られたとはいえず、「奇襲戦法」ととえらえる人もいて、評価ははっきりと定まっていなかった
 
 というか、そもそもこの戦法は世間でイメージされる

 「対居飛車穴熊用の強襲

 という面はあくまで氷山の一角にすぎない。

 むしろ、そこにいたるまでの研究過程こそが、実はめっぽうおもしろいのだが、そんな深遠なものをパッと見て、いきなり理解しろというのは不可能だろう。

 かくいう私も、

 「藤井システム=対穴熊専用

 という狭い見地にとらわれており、その後藤井自身が語るところや、各種の棋書などを読んで、



 「ええ! 藤井システムって、こんなに深くておもしろい歴史があったん? しかもそこに、《あの女性》のフリフリまで入ってるって……」



 そう目からウロコが落ちまくるのだが、ちょっと長くなるので

 「え? 将棋に女子の服装がなんの関係あるの?」

 という疑問はいったん置いて、先をすすめることにしたい。

 かくして、鮮烈デビューを果たした「藤井システム」だが、藤井によると意外なことに、その後はしばらく使用は控えていたそう。

 それは、自分でも思っていた以上の手応えがあったため、育てるために温存していたかららしいが、それでいて藤井将棋自体の勢いは止まらず、若手棋士の登竜門である新人王戦2連覇(のちに3度目の優勝も飾る)。

 早指し新鋭戦でも優勝し、全棋士参加棋戦である全日本プロトーナメント(今の朝日杯)でも、決勝で屋敷伸之七段に敗れるも準優勝を果たす。

 これでトップへの足場を十分作った藤井は、1998年の第11期竜王戦で一気に挑戦者決定戦3番勝負に進出。

 ここで待っていた相手が、羽生善治四冠王

 当時、勢いある若手が活躍することの多い竜王戦で勝ち上がることを「竜王戦ドリーム」と呼んだが、なんと藤井はこの最強の男を2勝1敗のスコアで退けてしまう。

 特に第3局は、一歩損を甘受して時間をかせぎ、その間に穴熊にもぐるという、変則的な形を選んだ羽生の工夫をものともせず完勝

 この将棋は羽生が終盤、まるで若手棋士のころに戻ったかのような「クソねばり」を見せ、めずらしく形も作れずボロボロになって敗れた。

 それだけくやしく、またショックでもあったのだろう。

 藤井猛、堂々の凱旋図である。


 
 いかにも気持ちよい打ちこみ。後手の穴熊はハッチが吹き飛んで見る影もない。



 こうして挑戦者になり、周囲をおどろかせる藤井猛だが、これがまだ伝説のプロローグにすぎないのだから、この男のすごさにはあきれるばかりだ。

 むかえた本番の7番勝負でも、なんと4連勝のストレートで谷川浩司竜王を破っての初戴冠。

 谷川の不調や、システムに対する過剰な警戒もあったが、それ以上に藤井の研究構想力が勝った形だ。

 棋譜を並べればわかるが、特に第2局からはすべて圧勝で、「藤井強し」を決定的に印象づけた。

 

相振り飛車になった第2局。「攻めは飛角銀桂」の理想形からバリバリ攻めて勝ち。

 

 

第3局。藤井システム模様から、石田流へと華麗に組み替えたのが好着想。

「居飛車感覚の振り飛車」「タテの突破力」と言われる藤井だが、「さばき」もうまいもの。

 

 

 「藤井竜王」誕生の図。

 大差の中押し勝ちで、谷川浩司相手に、ここまで戦意を喪失させた藤井の充実ぶりが見てとれる。

 

 

 こうして、予選開始時にはだれも予想しなかった(藤井は4組から勝ち上がった)「藤井竜王」が誕生した。

 それも、自らが編み出したオリジナル戦法で、将棋界に大革命を起こしながらだ。

 勝負と創造性の同時で結果を出すという、棋士として、いやもっと広く言えば「表現者」として、これ以上ない栄誉を獲得した藤井竜王。

 本人はもちろん最高の気分だったろうが、かつてゲーテがフランス革命を目撃し、



 「この日ここから、世界史の新しい時代が始まる」



 と言い残したように、「新しい時代」に立ち会えた感動を、われわれファンもまた深く味わったのである。


 (続く→こちら
 

 

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将棋 この絶妙手がすごい! 丸山忠久の「成香冠」と名人位を引き寄せた桂打ち その2

2019年02月07日 | 将棋・好手 妙手
 前回(→こちら)の続き。
 
 成駒を自陣に使い「成香冠」なる珍型を披露するなど、入玉を視野に入れた独特の棋風だった、若かりしころの丸山忠久九段。
 
 そんなマルちゃんのもっともすばらしい戦歴が、やはり名人2期であり、またそこで披露した将棋も、丸山流としかいいようのない個性的なものだった。
 
 2000年度、第58期名人戦で挑戦者になった丸山八段は、十八番の角換わり腰掛銀と、横歩取り△85飛車戦法を駆使し、時の名人佐藤康光に挑んだ。
 
 3勝3敗でむかえた最終局
 
 先手になった丸山は、やはり必殺の角換わりを採用。
 
 当時から丸山の先手角換わりは無敵といわれ、後手番でこれを破れるのは村山聖九段だけといわれたほどの強さだった。
 
 はたしてこの一戦も、スペシャリストの腕と経験がモノをいって、丸山ペースで終盤へ。
 
 
 
 
 
 むかえたこの局面。
 
 玉形の差が歴然なうえの存在も大きく、先手が優勢に見えるが、負けられない佐藤も△71自陣飛車を打って、あと100手はいくぞと徹底抗戦を宣言している。
 
 手番は先手だが、手駒のはまだ使いにくく、一撃では決まりそうにない。
 
 どう攻めるのかむずかしいと思われたが、ここで丸山は独特としか言いようのない手で後手陣にせまるのだ。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 ▲83桂と、ここに打つのが意表の一手。
 
 いわゆる「B面攻撃」とか「駒のマッサージ」といわれる手だが、パッと見、意図はわかりにくい。
 
 いや、まあ飛車香車両取りなのはわかるけど、そんな王様の反対側の、それも、まったくといっていいほど働いてない不動駒を取りに行くなど、考えられないではないか。
 
 解説によれば、後手の望みは上部脱出だから、そのためには香車は大きな戦力であり(次▲25歩と打つのが、香打ちをねらってきびしい手)、それを補充すること。
 
 を手放してもったいないようだが、どこかで▲81成桂と飛車取りの先手で取り返せるから、損はしていない。
 
 それに、ここで後手のをはらっておけば、もともと盤石な自陣が、さらに怖いところがなくなる。
 
 万一、時間切迫などから後手に入玉されたとしても、押さえの駒を掃除しておけば、自分も敵陣に悠々と入れるという算段だ。
 
 相入玉になれば、せまい場所で渋滞してる相手の飛車を、どっちか取れそうだから(実際その後、△82に居た飛車は取られてしまった)、点数勝負で負けることはない。
 
 つまりこの桂打ちは、
 
 
 「戦力の補充」
 
 「自陣の補強」
 
 「万が一寄せ損なっても、相入玉での勝ちが確定する」
 
 
 という意味があり、ギリギリの終盤で何通りにもわたって保険をかけた
 
 「理論上負けがなくなる」
 
 という究極の「勝着」なのだ。
 
 なんてことを説明されれば、まあわからなくもないけど、それにしたってすごいところに手が伸びるものだ。
 
 まさか佐藤康光名人も、ねばりまくってやる、と打ちつけたはずの△71飛が、こんな形で逆用されるとは不覚だったろう。
 
 
 
 
 自陣は無敵で、寄せに使うも手にし、も絶好の活用で先手勝勢
 
 その後、佐藤も死に物狂いの脱走術を見せ、丸山陣にトライするも△19の地点で詰まされて敗れた。
 
 あんな、血みどろの塹壕戦を戦っている最中、離れ小島で突然、イモ畑を耕しはじめるような手を食らって負けるのは、アツかったのではないか。
 
 最果ての地で憤死した佐藤の投了図に、その無念さがあらわれていた。
 
 
 
 
 
 かくして、遅れてきた羽生世代の丸山忠久が、名人の座に就いた。
 
 名人戦においては、数え切れないほどの「すごい手」が登場してきたが、これほど表現の仕方がむずかしい「すごさ」は他にない。
 
 それこそが、丸山忠久の将棋。
 
 自分の持ち味を存分に出した手で、頂点に立ったのだから、これは称賛されるべきではあるまいか。
 
 
 
 (藤井猛編に続く→こちら
 
 
 (丸山忠久による、もうひとつの「魂の桂打ち」は→こちら
 
 
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将棋 この絶妙手がすごい! 丸山忠久の「成香冠」と名人位を引き寄せた桂打ち

2019年02月06日 | 将棋・好手 妙手
 前回の郷田真隆編(→こちら)に続いて、今回も将棋の妙手の話。
 
 将棋の勝ち方には、その人の特徴が出るといわれる。
 
 終盤、勝勢になった局面で、どう決めるかだが、これは谷川浩司九段のように、
 
 
 「詰みがある場面では、長手順でも詰ますのがプロ」
 
 
 という人もいれば、
 
 
 「長い詰みより短い必至」
 
 
 の格言通り、リスクの少ない順を選ぶ人もいて、プロアマ問わず基本的にはこれが現実派で、おそらくは「正解」だろうが、中には大山康晴十五世名人のような、
 
 「いかに相手に敗北のダメージを残すか」
 
 を重視した勝ち方をする人もいて、その思想は様々である。
 
 だがときに、
 
 「え? そんな収束の仕方、アンタしかしませんで!」
 
 おどろかされる人がいて、その代表格といえば私にとっては丸山忠久九段
 
 丸山といえば、名人2期に棋王1期、全日本プロトーナメント(今の朝日杯)やNHK杯優勝(全日プロで見せた「激辛流」は→こちら)、公式戦24連勝
 
 などなど、様々なビッグタイトルや栄誉を得ているが、強さとともに語られるのが、そのキャラクターだった。
 
 私生活をほとんど語らないスタイルのようだが、かといって偏屈というわけではなく、いつも笑顔で「ニコニコ流」などと呼ばれている。
 
 そのさりげない、やさしさや気づかいで、女流棋士をはじめ女性人気も上々。
 
 そんな、とらえどころのない人柄だが、それ以上に個性的だったのが将棋。
 
 特に若いときは、序盤から入玉を視野に入れた独特の指し方をしたり、終盤は
 
 
 「激辛流」
 
 「友だちをなくす手」
 
 
 といわれるような、冷たいとどめの刺しかたに定評があった。 
 
 有名なのがこの将棋。
 
 1991年に行われた、大島映二六段との王位戦。
 
 
 
 
 
 相矢倉での中盤戦。
 
 △94▲98の差で、後手がやや指しやすそうにに見えるが、ここでの丸山の指し手が、いかにもというものだった。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 △15歩と裏口から手をつけるが、若手時代のマルちゃん流。
 
 先手の方から、▲15歩と端攻めするなら普通だが、そのを行くのが丸山将棋だ。
 
 以下、当然の▲同歩に△同銀と、掟破りの「逆棒銀
 
 ▲同香に△同香端を破って(いや、おかしい、おかしい!)、そのねらい(?)はここから60手以上戦ったところで、はっきりする。
 
 
 
 
 
 
 終盤のこの局面。
 
 一目おかしな駒があるのが、おわかりだろうか。
 
 そう、△23にある成香だ。
 
 普通、この位置にはか、せいぜいが▲23歩とたたかれて△同金がいるものだが、そこに謎の成香
 
 なぜ、そこに成駒が。
 
 そう、なにをかくそう、この成香こそが△15歩と突いて走ったなのだ。
 
 以下、△17香成と成って、△16△15△14△13と一段ずつ後ろ歩きし、ついには堂々、王様の守備隊長に任命されたわけだ。
 
 こうなってみると、盤面の右側は先手の駒がほとんどなく、完全に制圧されている。
 
 後手玉を、どう攻略していいかわからないし、上部に逃げ出されても止める形がない。
 
 実戦も、△23の成香が、絶大な守備力を発揮して圧勝
 
 敗れた大島六段も、さぞやグッタリさせられたことだろう。
 
 そんなマルちゃん流の集大成といえるのが、やはり名人位を獲得した、あの強烈なインパクトを残す一局ではないだろうか。
 
 
 
 (続く→こちら
 
 
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「将棋は情念のゲーム」 郷田真隆vs先崎学 順位戦C級2組の泥仕合

2019年02月03日 | 将棋・好手 妙手

 少し優勢だと思っていたこの局面で指された5手1組の手順を、僕は、一生忘れないだろう。
 
 
 そんなことを言ったのは先崎学九段であった。
 
 前回は佐藤康光九段の好手や妙手を紹介したが(→こちら)将棋の「いい手」というのは様々。
 
 詰みのように100%正しい手から、深い読みの入った将棋ソフトが推奨するような手もあるが、そのほかにも、
 
 
 「不利な局面を持ちこたえる手」
 
 「相手の読み筋をはずす手」
 
 「挑発してカッとさせる手」
 
 「ミスしやすい局面に誘導する手」 
 
 
 などがあり、これがときに悪手疑問手でも、盤上で効果を発揮することがある。
 
 将棋というのはメンタルの要素も大きいので、要するに
 
 
 「相手の嫌がる手」
 
 
 というのは広義で「いい手」に入りやすいのだが、そういった「場合の好手」で思い出すのが、冒頭の先崎九段の言葉なのである。
 
 
 1990年、第49期C級2組順位戦の5回戦。
 
 先崎学五段郷田真隆四段の一戦。
 
 このふたりは、ふだんは友人同士であり、先崎はエッセイなどで郷田をリスペクトするようなことを書いているが(棋聖獲得のときなど)、勝負となると話は別だ。
 
 特に郷田はすでに2敗しているが、先崎は4連勝で首位を走っている。
 
 ライバルとして、「どうぞお通り」というわけにはいかないだろう。将来のA級候補(実際2人ともそうなった)同士の大一番である。
 
 戦型は郷田先手で、「総矢倉」という古風な形に。
 
 後手の先崎が仕掛け、おたがい玉頭にアヤをつけあったのが、この場面。
 
 
 
 
 
 
 まだ大きな差はなさそうだが、先手の玉が、いかにもあぶなっかしく見える。
 
 囲いから露出して、どうやってまとめるのか気になるところだが、ここで郷田は▲84歩と打った。
 
 「大駒は近づけて受けよ」のようなものか。
 
 これには△同角の一手だが、郷田はここで▲85玉と力強く桂馬を取る。
 
 
 
 
 あやうい自玉を、さらに危険地帯に一歩前進。
 
 意表の一手で、これには△83飛でよさそうだが、先崎の解説によると▲72銀と切り返して、先手優勢らしい。
 
 強いというか、いっそずうずうしくもあるこの王様の頭突きに、後手はしっかり考えて△73角と引く。
 
 
 
 
 自然な手に見えたが、これが郷田のさらなる強手を誘発した。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 ▲74玉と、なんと大将自ら、さらに突進。
 
 でここに両取りをかける筋はよくあるが、まさかこんなゴールキーパーのショルダータックルなど、見たこともない形だ。
 
 ここで冒頭の先崎九段の言葉に戻るのだ。この手を予想できず、その前の△73角を大いに後悔し、
 
 

 「玉というのは強い受け駒だとはじめて知った」
 
 
 動揺をかくせない。
 
 もちろん、これで将棋が終わったわけでなく、そもそもこの突進が好手かどうかもわからないのだが、先崎にあたえた精神的衝撃は大きかったようだ。
 
 そこから後手も△72銀と土台を作って、それ以上の侵入を防ぐが、郷田も玉を▲75▲66ときわどいステップでかわし、後手の追撃をぬるぬるとかわそうとする。
 
 
 
 
 この命がけのオイルレスリングを制したのは郷田だった。
 
 上部に厚みを建造し、ついに入玉に成功する。
 
 寄せのなくなった後手は、今度は自分も入るしかなくなった。
 
 矢倉の堅陣を捨てて、今度は攻守所を変えた郷田の猛爆の中、なりふりかまわぬ匍匐前進を見せるが、秒読みの中、駒を数えて、なんと1点足りないことに気づく。
 
 持将棋では、大駒を5点、小駒を1点で計算し、24点ないと問答無用で負けになる。
 
 先崎はドローに持ちこむのに、たった1点、一枚のが足りない。
 
 これはただの1点ではない。
 
 順位戦C級2組の地獄が、うめき声をあげながら手を伸ばし、要求する1点だ。
 
 ある棋士はこんなことを言った。
 
 

 「C2からの脱出切符は、仮に1億円出すといっても、ゆずってくれる者などいないだろう」
 
 
 人数の多いCクラスでは、1敗するだけで、あっという間に馬群に飲みこまれてしまう。
 
 投げるに投げられない先崎は、懸命に1枚の駒を追って指し続けるが、冷静な郷田はそこからさらに1点、また1点と、瀕死の先崎から希望をむしり取っていく。
 
 一応、ここに投了図を置いておこう。
 
 後手の駒は、わずか数枚しかない悲惨な図だ。
 
 
 
 
 
 総手数287手だが、入玉形になってからは100手以上、ほとんど観戦するには意味のない手が続いた。
 
 その空虚な手順こそが逆に、この一番の持つ重さを如実に表現していた。
 
 有名な郷田語録に、
 
 

 「将棋は情念のゲーム」
 
 
 というのがあるが、絶対負けられないライバルとの戦い、順位戦の深い闇、深夜に延々と続く大義なき駒の取り合い、廃墟のような投了図。
 
 まさに郷田の言葉には、うなずくしかない。
 
 敗れた先崎は、9回戦の1敗対決で森内俊之に激戦の末屈し、昇級を逃す。
 
 「天才」と呼ばれた先崎学がC2を脱出するのは、この5年後のことである。
 
 
 
 (丸山忠久編に続く→こちら
 
 (先崎学のC2時代の苦難は→こちら
 
 
 
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