旅のトラブルで、歯は最強かもしれない。
道に迷った、お腹をこわした、荷物を盗られた、病気になったなどなど、旅行中なれない土地でピンチに立たされるケースというのは、ままあるものであるが、
「どないしようもない感」
で上位に来るのは歯痛ではあるまいか。
モロッコを旅行したときのこと。
砂漠の国で、なぜか海が見たくなった私はエッサウィラという街にやってきた。
エッサウィラは大西洋岸にある港街。世界遺産にも登録されており、白とブルーを基調にした街は抜けるような色合いであざやかに美しく、かつエキゾチック。
小さいながらも、すこぶるつきに、魅力あふれたところであったのだ。
宿を探してチェックインすると、さっそく屋上に上ることにした。
泊まった宿はいわゆる安宿だが、立地だけは抜群によく、海のすぐ側にあったからで、屋上に立った私は思わず「わー」と声を上げた。
そこから見えるのは、一面の青い海だったのだ。
なんという美しさ。すばらしいロケーション。この宿は大当たりだ。
さわやかに流れてくる海風が頬に心地よい。タンジェやマラケシュでは、旅行者にたかる不良モロッコ人だらけだったが、この街はなんと落ち着くのか。
嗚呼、旅に出てよかった。
こんなものを見せられては山ではないが、ベタにヤッホーとでも思いっきり叫び声を上げたくなるのが人情。
よし、やってみるか。
童心に帰った私は両手を口にメガホン状にそえ、その塩っぽい風を胸一杯に大きく吸いこみ、せーのでヤ……。
いだ、いだだだだだだだだ!
風に乗るはずだった呼び声は、情けないダダケ声となって、さわやかな海に響き渡った。
ぐがあ、い、痛い痛い。いったーい!
突然の強烈な痛みに襲われた私は、コバルトブルーの海に向かって無様な叫び声を上げたのであった。
いったー、なんじゃこりゃあ。
あまりの激痛に気絶しそうになりながらも、いったん深呼吸したところで正体がわかったのである。
虫歯だ。
歯かよ。激痛の正体は歯だ。
げ、まずい、こんなところで、えらいことになった。
どうすりゃいいんだと検討する間もなく、痛みの第二波がやってきた。それも、今度は一発目の3倍アタックである。
いだあああああああ!痛い、痛いよう(泣)。
旅にトラブルはつきものであるが、その対処法というのは、たいていの場合はガイドブックに載っているものだ。
迷子なら人に道をたずねればいいし、お腹をこわせば薬を飲む、盗難にあったら保険のために盗難証明書を書いてもらえばいい。
が、虫歯はそうはいかない。
日本にいても、どうにも対処のしようがないのが歯の痛みであるが、海外だとそれがより、どうしようもなくなる。
どうすればいいのかといえば、ふつうは歯医者に行くしかない。
しかしである。ただでさえ歯医者なんぞというのは、日本でも、あらゆる理由をつけていきたくないところである。
それをさらに、海外。それもモロッコの歯医者など、悪いけど信用でけるんかいな。
さらに悪いことに、歯の治療には旅行保険がきかない。
そら、命に関わることでもないし、パスポート紛失みたいな、出入国に関わるようなトラブルでもない。
第一それを認めたら、勝手に海外で保険使って、高い治療を受けようとするヤカラがいるのであろう。
実際、お年寄りの中には保険を使って海外の病院に入院して、格安で休養を取るという強者もいる。なので、歯に保険が、きかないのは理解できる。
となると、何も考えず治療してもらったら、あとでいくら請求されるかわかったもんではない。十三あたりの、ボッタクリバーみたいなみたいな目に合うのでは。
それに、腕の方も疑問である。
技術大国で医療レベルの高い日本だからこそ、嫌々でも歯をまかせられるのだ。
それを、モロッコの医療水準はどんなもんか知らないが、日本より上ということはないだろうし、どうにも、たかり屋の多いモロッコ人など(ホント頭きます)、果たして信用していいものか。
うかつに口を開けたりしたら、映画『マラソンマン』みたいに、元気な歯に穴を開けられたりしないか。いや、これは日本でもハズレの歯科医に行くと、ないこともないしな。
それでもまだ、治療してくれれば、マシかもしれない。雑誌『旅行人』の蔵前仁一編集長はインドかどっかで歯医者に行ったら、
「この治療はどこでやったんだ、すごい技術だ、何? 日本? そうか、さすがたいしたもんだ。もっと見せてくれ」
治療そっちのけで、助手たちも集めて、大研究会がはじまってしまい、蔵前さんは治療室で間抜けに口を開けながら
「はやぐなおじでぐれー」
情けない声をあげたそうで、そんなことになったら目も当てられない。
そうしてアレコレ考えた結果、結論としては
「根性でなんとかする」
ということになり、安宿のシーツにくるまってひたすら耐えた。
かつて妄想……大和魂だけを頼りに50倍の火力を持つアメリカと一戦を交えた、大日本帝国の先輩たちにならったのである。
もちろんのこと、そんなことで口中の悪魔を振り払えるはずなどないのだが、他に手がないのだからしょうがない。
結局、激痛で一晩中、一睡もできなかった。死ぬかと思いました。
幸いなことに、次の日になったら痛みは奇跡的に引いていき、なんとか旅行を続けることができたけど、もしあの痛みが、ずっと続いていたらどうなっていたかと想像すると、これはゾッとする。
帰国後すぐ歯医者に飛んで抜いてもらったが、もしこれから旅行に出るという方がいらっしゃったら、パスポートや着がえとともに、歯のチェックも忘れないようにしたほうがいいかもしれない。
旅行者の中には
「これから世界一周するぞ」
勇んで出かけて、三日後くらいに歯の痛みで、一時帰国を余儀なくされた、という人の話も聞いたことがある。
ふだんは平気でも、環境が変わったことによって、いきなり痛み出すこともある。
ゆめゆめ、虫歯をあなどってはならないのだ。あー痛かった。