モスクワ総力戦vs皇帝ピート 1995年デビスカップ決勝 ロシア対アメリカ その5

2016年11月28日 | テニス

 前回(→こちら)の続き。

 1995年デビスカップ決勝は、アメリカロシア1勝ずつ分け合って2日目に突入した。

 この日はダブルス対決。

 再三言っているが、デ杯はダブルスがポイントである。

 昨今、錦織圭というスーパースターがいながら、日本がときおり格下のチームに苦戦を強いられるのは、ダブルスに頼れるコンビがいないからだといわれている。

 この決勝戦でもアメリカのネックとなるのが、ダブルスになるのではと推測されていた。

 アメリカにもリッチーレネバーグというダブルスのスペシャリストはいたが、彼とペアになる巧者が不足していたのだ。

 一方ロシアはアンドレイオルホフスキーエフゲニーカフェルニコフ組で実績も経験も充分。戦力的には圧倒的にアドバンテージがある。

 前回の復習をすると、ロシアの計算では、開幕戦でアンドレイチェスノコフが、1敗覚悟でピートサンプラスを徹底的に削り、第2試合ではカフェルニコフがジムクーリエを蹴散らしてタイ

 その後、ダブルスを順当に取り、最終日疲弊したサンプラスをカフィがたたいて3勝目いただき。これがロシアによる「勝利の方程式」だ。

 ここまでは、笑いだしたくなるくらいに作戦通りだったわけだが、ここにその計算を狂わせる男がいた。

 だれあろう、王者ピート・サンプラスであったのだ。2日目のダブルス、アメリカチームはこの男を急遽エントリーしてきたのだ。

 これにはカフィをはじめ、ロシアチームには二重の驚きだった。

 まずひとつは、初日にチェスノコフにあれだけ痛めつけられたのに、ということ。

 全身ケイレンで試合後歩くこともできなかったのだ。そのダメージを考えれば、最終日にはベストの状態で出られないはず。

 いやそれどころかリタイヤという結末も考えられる。ロシアからすれば、そこまでの希望的観測すらあったはずである。

 それが、まさかのダブルスに連投

 ましてや、カフェルニコフとちがって、サンプラスはダブルスにまったく出ないタイプのシングルス・プレーヤーである。

 ダブルス・ランキングでもトップ10に入っているカフィと比べると、はっきりと見劣りするはずなのだ。

 この思わぬ「サンプラス投入」はロシア側に大きなショックをあたえた。

 ロシアからすれば、アメリカが送りこんでくるのは、専門家のリッチー・レネバーグと、シングルスでは控えであるトッドマーチンと見切っていたらしい。

 それをはずされた意味もあるが、それよりもなによりもサンプラスが初日の消耗をものともしていないこと、さらには経験値の少ないダブルスに志願してまで勝ちにこようとしている。

 ピートからすれば、「勝ったつもりか知らないが、そうはいかんぞ」と言いたかったのだろうか。「なめるなよ」と。

 その気持ちの強さに、ロシアはもしかしたら、押されてしまったのかもしれない。

 現に、ロシア有利のはずのダブルスでは、オルホフスキーもカフェルニコフも予想以上に力を発揮できなかった。

 その一方で、ピート・サンプラスは元気いっぱいだった。得意のサーブ&ボレーを駆使して、次々とポイントを奪っていく。

 ペアを組んだマーチンも決して完璧というわけではなかったが、その分すらもひとりでカバーする勢いだった。

 ロシアペアは明らかに、それに気圧されていた。そのままずるずるとポイントを失い、この鍵となる2日目を落としてしまう

 まさかのダブルス敗戦に、ロシアチームの計算は総崩れとなった。

 それでもスコアはまだアメリカから見て2勝1敗

 ナンバーワン決戦に出てくるカフィも、ロシア決勝進出の立役者チェスノコフも残っている。勝負はまだこれからのはずだ。

 だが、残念なことにロシアチームにはそこから挽回する力は残っていなかった。

 シングルス第3戦はサンプラスがやはり神懸かり的なテニスを披露し、気落ちしたカフェルニコフを攻めまくる。

 地元の大声援を背に、なんとか事態を打開しようともがいたカフィだが、一度狂わされた歯車がかみ合うことは、もうなかった。

 天王山となる決戦は、6-26-47-6のストレートでサンプラスが快勝

 これで3-1。アメリカが1992年以来の優勝を飾ることとなった。メディアやファンは大活躍の王者を称え、ロシアのピョートル大帝にたとえて「皇帝ピート」と呼んだ。

 ロシアは前年度に続き、またも敗れた。

 だが、これはカフィを責められるものではないかもしれない。彼らはベストをつくして戦ったのだ。

 ただ、ことこの決勝戦に関しては、二日目のダブルスに、サンプラスが電撃的に登場した時点で勝負がついていた。

 結果論的にいえば、いかに勢いがあろうが戦略があろうが、王者に、あんな劇的な展開で主役の座をかっさらわれてはいけないのだ。

 傷ついた体をものともせず2日目のコートにあらわれ、ロシアチームの度肝を抜いた時点ですべては決まっていた。あとの2試合はすべて、単なる「手続き」にすぎなかったのだろう。

 まったく論理的ではないし、ロシアチームにとっては不条理極まりない話だが、英雄が生まれる瞬間というのは、そういうものではあるまいか。

 こうしてきびしい敗北を喫したロシアだったが、ここで終わらなかったのは偉いところ。

 カフィはその後フレンチ全豪グランドスラム二冠に輝き、世界ナンバーワンにものぼりつめる。

 またマラトサフィンという、これまたロシアテニス史に残る天才を得たチームは、2002年決勝にみたび進出し、強豪フランス相手に見事悲願の初優勝を飾ることとなる。




 ☆おまけ 1995デビスカップ カフェルニコフ対サンプラスのダイジェスト映像は→こちら







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モスクワ総力戦vs皇帝ピート 1995年デビスカップ決勝 ロシア対アメリカ その4

2016年11月27日 | テニス

 前回(→こちら)の続き。

 1995デビスカップ決勝ロシアアメリカ戦は、ピートサンプラスアンドレイチェスノコフというカードで開幕した。

 ドイツ大逆転で下した立役者となったアンドレイは勢いバリバリ。一方、ピートの方はアウェーの戦いの上に、クレーコートが大の苦手ときている。予想の難しい戦いとなりそうだった。

 実際、試合の方はフルセットにもつれこむ泥仕合となる。

 前半こそ得意のスピーディーなテニスでリードを奪ったサンプラスだが、決めどころで押し切れないと、チェスノコフのねばり強さに手を焼くこととなった。

 必殺のサーブ&ボレーを封じられ、じわりじわりと持久戦で体力を削られていく様は、あたかもナポレオンやドイツ軍が、ゲリラ山岳パルチザンに翻弄される姿を彷彿させる。

 準決勝でチェスノコフに敗れたミヒャエルシュティヒは、試合後、息も絶え絶えの様子で、



 「僕はすべてを使い果たしてしまったが、アンドレイにはあと少しだけガソリンが残っていたようだ」



 その心身の強さに舌を巻いたそうだが、王者サンプラスもまさにそれに飲みこまれようとしていた。

 すわ! チェシーまたも大金星か! 世界中のテニスファンが色めき立ったが、最後の最後でサンプラスが王者の意地を見せ、懸命にすがりつくチェスノコフを振り切った。

 と同時に、マッチポイントを決めたばかりのサンプラスがコートに倒れこんだ

 勝つには勝ったが、激戦のダメージによる全身ケイレンで、もう一歩も動けなかったからだ。

 すべてを使い果たし、スタッフに両方からかつがれて退場する王者の姿を見て、モスクワのファンたちはその強さと執念に慄然としたことだろうが、ロシアの要であるカフェルニコフだけは余裕の表情でそれを見つめていた。

 そう、チェスノコフは負けはしたが、実のところを言えば、彼の真の役割は勝つことではなかった

 もちろん、運よく1勝かせげれば言うことなしだが、それよりもなによりも彼の仕事は、



 「過酷な環境の中、サンプラスに1秒でも長くプレーさせること」



 最終日のカフェルニコフとの対決で、いかに力を出させないか。それこそが開幕投手の役割だったのだ。

 ベテランはものの見事にその任務を完遂した。ロングマッチに引きずりこみ、絶対王者をギリギリと万力にかけ、試合終了の握手もままならないほどに、しぼりつくしたのだ。

 まさに玄人の仕事、怖ろしいほどにあざやかな「エース殺し」であった。 

 シナリオは、おもしろいほどロシアの理想的に動いていた。第1試合の結果に気をよくしたのか、第2試合でカフェルニコフはジムクーリエを一蹴し、スコアを1ー1のイーブンに戻す。

 フレンチオープン2度優勝しているジム・クーリエは、本来なら決して楽な相手ではないはずで、実際ロシアチームは、



 「ピートよりジムの方が要警戒だ」



 といった挑発的ともいえるコメントを残していたが、カフィはまるで鼻歌でも歌いながらのごとく、見事に快勝してしまった。

 なんという余裕。よほど勝てる見こみがあったのだろうか。

 もちろん、そこにはカフィの実力に対する信頼があるわけだが、それにしても自信勢いというのはおそろしいものである。
  
 カフィの勝利で、ロシア優勝の方程式は完成しつつあった。次は自信のダブルスで確実に1勝を奪い、最終日のエース対決でカフィが疲れきったサンプラスを料理する。

 これでおしまい。戦力では劣るが、かけひきで勝つという団体戦特有の勝負術が炸裂したように見えた。

 だが、話はここで終わらない。完璧に見えたはずのロシアの作戦、それをものの見事に粉砕する男がいたからだ。

 そう、一度は破壊されたと思われた、王者ピート・サンプラスのことである。


 (続く→こちら






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モスクワ総力戦vs皇帝ピート 1995年デビスカップ決勝 ロシア対アメリカ その3

2016年11月26日 | テニス

 前回(→こちら)の続き。

 1995年デビスカップ決勝を語るには、その前の準決勝ドイツロシア戦から取り上げていかなければならない。

 ボリスベッカーミヒャエルシュティヒを擁する強敵ドイツに、彼らのパワーとスピードをなんとか封じようと、ロシア陣営はクレーコートをまきまくるという奇策に出る。
 
 だが、何事も過ぎたるは及ばざるがごとしで、コートはグチャグチャになりすぎてプレーができず、ロシアチームは国際テニス連盟からメチャクチャに怒られたうえに罰金まで払わされるハメになる。

 いくら勝ちたいとはいえ、なんともマヌケなことになったものだが、ともかくもコートが乾きかけたところで試合開始。

 敵の醜態に気をよくしたのか、ベッカーがアンドレイチェスノコフを、シュティヒがエフゲニーカフェルニコフをそれぞれ破って2連勝。ドイツが決勝進出にあっさり王手をかけた。

 大騒ぎしたわりには、こんなもんかと思われたが、「デ杯はダブルス」というのはここで、アンドレイオルホフスキー&カフェルニコフ組が、2日目にベッカー&シュティッヒのバルセロナ五輪金メダルコンビ相手に1勝返すと、もうこれで勝負はわからない。

 1-2とスコアは押されていても、「勝ってエースにつなぐ」というのは、勢いの面で相当に大きいからだ。

 その証拠に、まだ負けていてもロシアチームは元気いっぱいだった。さらにロシアにが吹くことには、ドイツチームがここで、守護神ボリス・ベッカーの欠場を余儀なくされてしまったこと。

 ベッカー、シュティッヒの2枚看板を単複両輪で使えるドイツは相当負けにくいチームのはずだが、あえて弱点をあげるなら、それ以下のがいかにも薄かった。

 代打で急遽出場したのはベルントカールバッヒャーであったが、前日の勝利で気をよくしたカフィに対して、の中堅選手であるカールバッヒャーというのは、いかにも荷が重すぎた。

 まるで勝負にならず、カールバッヒャーはカフェルニコフの軍門に下ってしまう。

 これで2勝2敗のタイ。ついに勝負は最終マッチ、シュティヒ対チェスノコフで決まることとなる。

 ここまできたら、もう実績もランキングも関係ない完全な闇試合。実力的にはシュティヒが勝って当然だが、流れはどう見たってロシアである。

 なりふりかわず作った「のコート」が効果を発揮したのか、シャープなテニスで鳴らすシュティヒ相手に、チェスノコフは文字通り泥くさい、ねばりのテニスで対抗。 

 大一番はファイナルセットまでなだれこみ、しかもそれが延々と終わらないマラソンマッチとなる。

 その後も試合はもつれにもつれたが、シュティヒの9本にもおよぶマッチポイントをすべてしのぎきり、チェスノコフが大金星を手にすることとなった。

 最終セットのスコアが14-12の激闘だった。

 かくして、ロシアは掟破りの盤外戦術まで駆使して、決勝に進出。

 叱責されようが罰金カマされようが、まさに勝負の世界は「勝てば官軍」なのだ。

 説明が長くなったが、そう、ロシアチームのこの決勝進出のの立役者はカフィだが、MVPは地味なベテラン、アンドレイ・チェスノコフだった。

 ここまで聞けば、サンプラスの初戦が決して「ふつうにやれば」なんてできるはずもないことがわかろうというもの。

 モスクワ開催と激遅クレーコートという「二重のホーム」、さらには準決勝の勢いから120%の力でぶつかってくるチェスノコフ。

 土のコートを大の苦手にしているサンプラスにとって、これ以上なく勝ちにくい相手といってもよかったのだ。


 (続く→こちら





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モスクワ総力戦vs皇帝ピート 1995年デビスカップ決勝 ロシア対アメリカ その2

2016年11月25日 | テニス

 前回(→こちら)の続き。

 新星エフゲニーカフェルニコフの活躍で、デビスカップ決勝進出を果たした1995年ロシアチーム。

 迎え撃つのは王者ピートサンプラス率いるアメリカ。

 戦力的にはアメリカ有利だが、アンドレアガシ欠場と開催地がモスクワであることを考慮に入れると、ロシアにも充分すぎるほど勝機はあった。

 デビスカップはシングルス2本ダブルス1本シングルス2本の5本勝負。

 メンバーはアメリカがシングルスでサンプラスとジムクーリエダブルスはスペシャリストのリッチーレネバーグトッドマーチン

 一方ロシアは絶対的エースであるカフェルニコフと、ベテランのアンドレイチェスノコフシングルスに。ダブルスはカフィとアンドレイオルホフスキーという不動のコンビ。

 アガシ以外はというか、その代役が元ナンバーワンのクーリエなのだから、双方ほぼベストメンバーという布陣。

 まさにがっぷり四つのぶつかり合いだが、カフェルニコフは「我々が勝つ」と自信を持って宣言していた。

 果たして、その堂々とした態度は本物なのか。いよいよ試合開始である。

 オープニングマッチは、サンプラスとチェスノコフ。

 デ杯では3日目第1試合で双方のナンバーワン同士が「エース対決」として戦うことになるから、1日目はそれをタスキにずらすこととなる。

 ナンバーワンと2番手選手。となると、初日は順当にいけばエースがまず1勝をするのが必勝パターン。

 ましてやこの開幕戦では、ピート・サンプラスが出てくるのだ。相手のチェスノコフは過去最高9位までランキングをあげた実績があるものの、今ではのベテラン選手である。

 ふつうにやれば、サンプラスがあっさりと勝つに決まっているはずなのだ。

 そう、あくまで「ふつうにやれば」の話だが。

 ここで含みのある言い方になってしまったのは、見ている側にとって、この戦いはそんな簡単なものではないと予測できたから。

 その伏線は準決勝、対ドイツ戦にあるので、そこまでさかのぼって見なければならない。

 1995年のロシアチームは、デ杯にかけていた。

 その前年に初めて決勝に進出したものの、ステファンエドバーグマグナスラーソンに率いられたスウェーデン1勝4敗完敗を喫したからだ。

 リベンジに燃えるロシアは、ありとあらゆる手を使って勝ちにいくつもりだった。

 そこに立ちはだかるのは、アメリカやスウェーデンももちろんいたが、その前にドイツという大きな壁も存在したのである。

 英雄ボリスベッカーに、あらゆるサーフェスを苦にしないオールラウンド・プレーヤーであるミヒャエルシュティヒの2トップに支えられたドイツは、パワー、テクニック、経験値、すべてにおいてロシアを上回っていた。

 そんな強敵相手に、ロシアが持っていたのは準決勝も「地元開催」というカードのみ。

 そこでチームは、そのたった1枚の切り札を最大限に活用することとなる。

 まず、モスクワのオリンピックスタジアムクレーコートを敷いた。これは当然である。

 シュティヒはまだしも、ベッカーはその実力からは信じられないことに、クレーの大会で一度も優勝してない。それほど土のコートと相性が悪い。

 そこで赤土によりボリスのパワーを封じようとしたのだが、ここにひとつ誤算があった。

 モスクワに敷いたクレーが、思ったよりも遅くなかったのである。



 「これでは、ボリスがのびのびとプレーしてしまう!」



 選手たちからクレームがつき、あわてたロシアチームは急遽対策を練ることとなった。そこであがってきた案というのが、



 「コートに水をまいたらいい」



 土が固く、球速が落ちないなら、でビチャビチャにしてしまえばいい。

 そうすれば、のようなコートはボールの勢いを殺し、ストローカーであるカフェルニコフやチェスノコフには断然有利に働く。

 そこでロシアチームのスタッフは、バケツやホースでせっせと散水し、コートをのようにしてしまう。

 あまりに水をまきすぎて、審判から「プレーするに危険」と試合はいったん据え置きになり、スタッフは総出でヘアドライヤー(!)を持ってきてコートを乾燥させるという珍事になった。

 騒動はそれで終わらず、いかにもフェアプレー精神を欠いたこの行為に、ロシアチームはITFから罰金25,000ドルを課されることにもなる。

 そりゃ勝ちたいのはわかるけど、なにをやっているのかという話だ。

 だが、おそろしいことに、この「泥沼化」問題が最終的にはロシアを勝たせることになるのだから、



 「正義はかならず勝つ」

 「スポーツマンシップにのっとり、正々堂々と戦うことを誓います」
 
 
 なんて言葉が、大金と国の威信のかかった勝負の世界では屁のようなものであることを実感させられる。


 (続く→こちら



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モスクワ総力戦vs皇帝ピート 1995年デビスカップ決勝 ロシア対アメリカ

2016年11月24日 | テニス

 1995年デビスカップ決勝は死闘だった。

 テニスファンにとってこの季節は、なんといってもデ杯

 テニスではめずらしい国別対抗の団体戦ということで、ふだんは一人で戦うプレーヤーたちが、国の威信とチームの連帯感(ときには確執)を背負ってコートをかける姿は、平時のツアーとは一味も二味も違う熱気があるのだ。

 1995年決勝にあがってきたチームはアメリカロシアだった。

 当時のアメリカは、ピートサンプラスアンドレアガシマイケルチャンジムクーリエといった綺羅星のごときトッププレーヤーを有し、黄金時代をほしいままにしていたころ。

 当然、優勝候補バリバリだったが、われわれが注目していたのはむしろロシアであったかもしれない。

 ソ連時代をふくめて、ロシアは常にスポーツ大国であったが、ことテニスにかぎっては、それほどの実績がなかった。

 ソ連が自国選手の外国での試合を禁じていた時代があったからだが、それが解放されたのち、南部の小さな街ソチよりエフゲニーカフェルニコフという男があらわれたところから、ロシアテニスの大爆発が始まる。

 この年、まだ21歳だったカフェルニコフ(愛称カフィ)はフレンチオープンベスト4に入る活躍を見せ、このデビスカップでも当然のごとく優勝をねらっていた。

 ただ、試合前の下馬評では、戦力的に見て単純にアメリカ有利

 なんといっても当時のアメリカには、世界ランキング1位の絶対王者、ピート・サンプラスがいた。

 このシーズンも、全豪こそ準優勝に終わったものの、ウィンブルドンUSオープン優勝し、アンドレ・アガシに奪われていたランキング1位の座もうばいかえしていた。

 タイトなスケジュールをやりくりしなければならず、またポイント的うまみも薄いため、トップ選手はあまり出たがらない傾向もあったデ杯だが、このときのサンプラスは高いモチベーションで優勝に向かって邁進していたのだ。

 これに加えて、アガシ、クーリエも参加を表明しており、さらには控えにトッドマーチンもいるというその層の厚さ。

 唯一の不安材料はダブルスだが、これもリッチーレネバーグというスペシャリストを擁しており、まともにぶつかればアメリカが4ー1くらいで勝ちそうとは、素人でも予測できるところだ。

 だが、デ杯というのはそう単純なものではない。

 まず、ロシア側には、先述したカフェルニコフという頼れるポイントゲッターがいる。

 まだ荒削りで、まともにぶつかればサンプラスやアガシにはおよばないところも多いが、なんといっても若さの勢いがある。

 また、カフィはダブルスもうまいのが売りだ。

 シングルスの選手は、基本的にはダブルスにあまり力を入れないものだが、彼はそちらも積極的に進出していた。

 またチームには不動のコンビ、アンドレイオルホフスキーという息のあった名パートナーがいるのも心強い。

 デ杯は「ダブルスが重要」というのはテニスファンにとって定跡のようなもの。

 急造ペアで戦うことになりがちなこの大会で、「通いなれた道」を歩けるのは、ものすごく大きいことのだ。

 そしてなにより、開催地がロシアということが最大に予測を難しくさせる要素でもある。

 スポーツにはそもそも「ホームタウンディシジョン」というのが存在するが、デ杯では開催地側にコートサーフェスを選択する権利があり、そのことが、さらに有利さを加速させる。

 当然、ロシア側は球速の遅いクレーコートを敷いてアメリカチームを迎え撃つこととなる。

 これだけで、勝負は一気に互角か、それ以上にロシアに勝ち味が倍増するのだ。

 なぜなら、カフィをはじめロシアの選手たちは皆クレーコートで育った、バリバリの「スペシャリスト」にも関わらず、アメリカのナンバーワンであるピート・サンプラスはクレーが大の苦手ときているのだから。

 おまけに、アメリカ側は直前にアガシの欠場というハンディも負うことになった。これに勢いづいたロシアは、相当なる自信をもつこととなる。

 事実、試合前の記者会見でもカフィは堂々たるもので、「地元で優勝する」と意気ごんでいたものだ。

 こうして役者はそろった。

 モスクワのオリンピックスタジアムで、シーズン最後を飾る大一番、ロシア対アメリカのデビスカップ決勝が幕を開けたのである。


 (続く→こちら



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マイケル・ムーアは杉作J太郎と組んで、『応答せよ巨大ロボット、ドナルド・トランプ』を撮れ!

2016年11月21日 | 時事ネタ

 「ドナルド・トランプ初号機、リフトオフ!」。

 と思わず号令しそうになったのは、あるナイスな映像を見たからであった。

 すでに伝えられた通り、注目のアメリカ大統領選は、当初の予想を大きく裏切って、ドナルド・トランプ氏が当選を果たした。

 政治経済にうとい私であるので、この結末には株価とか日米同盟がとか以前に、

 「きっと、だれかが恐竜狩りツアーで、うっかり蝶を踏みはったんやな」

 なんて思ってしまったわけだが(意味がわからない人はレイ・ブラッドベリの『サウンド・オブ・サンダー』という短編を読みましょう)、世界はまさかの逆転に大混乱らしい。

 たしかになあ。イデオロギーうんぬんは別にしても、インパクトだけなら

 「日本で奥崎健三が総理大臣に」

 くらいのものであろうか。もしくは羽柴誠三秀吉。でも、日本も石原都知事とかいたし、あまり人のこと言えないかも。

 まあ、結果はともかく、こういう世界的イベントというのは、その国の歴史や文化を学ぶ良いチャンスで、私もこれを機にデイビッド・ハルバースタムの『ザ・フィフティーズ―1950年代アメリカの光と影』を読んだり、映画『リンカーン』を鑑賞したりした。

 それら付焼刃的学習の中で、いくつかおもしろかったものを今回は紹介してみたい。



 まず、映画『ウォルマート~世界最大のスーパー、その闇~』。

 何年か前、「松嶋×町山 未公開映画を観るTV」で見たのを再見。

 アメリカの大手スーパー「ウォルマート」が、いかにえげつない手口で勢力を拡大し、アメリカの格差を肥大化させたかを暴くドキュメンタリー。

 最初見たときも、経営側のあまりの非人道的、かつ巧みなやり方にゾッとしたが、あらためて見直してもヒドイ話。

 私の世代だと、『包丁人味平』に出てきた「マイク赤木商法」といったらわかりやすいと思うけど、

 「こういうアメリカを作ったのが、ヒラリー側の人間」

 と言われたら、そらいくらトランプがアレでも、票を集めるのもわからなくもない。それくらいに、「資本家の横暴」が凄惨。

 世が世なら、革命起こってまっせ! って、あそうか、トランプ当選ってのは、その意味では「暴動」「打ちこわし」「米騒動」みたいなものなのか。

 「未公開映画」シリーズは、どの映画も良作ぞろいで、

 「キリスト教原理主義」

 「イラク戦争をあおったFOXテレビ」

 「ヒーロー幻想によるステロイドの過剰使用」

 「神父による子供の性的虐待」

 などなど、日本ではなかなか知ることのない「アメリカの暗部」にふれることができる。とても興味深いモノばかり(映画の予告編は→こちら)。

 次は識者の論文。

 トランプ当選に関しては、某コメンテーターが「オレの言ったとおりだろ」と自慢して醜態をさらしていたが、そんなオレ様アピールよりも、実際のところなぜにてドナルドが勝てたのか、ちゃんとした分析がなされているなら聞きたいところだ。

 そのひとつが、マイケル・ムーア監督の「ドナルド・トランプが大統領になる5つの理由を教えよう」という記事。

 まだ大統領選前に発表されたものだが、もちろんのこと思想的にマイケルは反トランプ。

 だから、きっと「自分の予言が当たらないでくれ!」と祈りながら書いたことだろうが、結果はむなしかった。

 ただ、分析の内容自体は、なるほどと感じさせてくれ、読みごたえはある(「5つの理由」全文は→こちら)。

 笑えるものもひとつ。

 ここまでは、わりとまじめな話ばかりだったので、最後はスカッとバカなもの。

 いろんな所で紹介されているみたいだけど、エール・ダミアーニさんという人が監督したショートフィルム。

 トランプ大統領といえば、

 「メキシコとの国境に壁を作って、不法移民を皆追い出す!」

 この発言が有名だが、まさにこれは強大な壁が国境に建てられているという設定。

 しかも、その向こうからバンバン人が飛んでくる。なんと、大統領自らが操縦する「巨大トランプ・ロボ」が、不法移民をつかまえて、次々と壁の外側にロングスローで放り投げているのだ!

 ダッハッハ! なんちゅうもん作るのか。しかも、こんなおふざけなネタなのに、映像のクオリティーがめちゃくちゃに高い! トランプ・ロボ、カッケー!

 しかも、それに対抗するのがメキシコ名物のアレとかコレとか、最終兵器があんなとか、もう爆笑! アステカの偉大なアレがアイツかよ! フンしてるし!

 ベタななんだけど、作り手のセンスがいいからか、えらいことおもしろいの。だれか、日本とか世界各国版も作って!(トランプ・ロボの活躍は→こちら

  


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闘牛とスペイン現代史 ラリー・コリンズ&ドミニク・ラピエール『さもなくば喪服を』

2016年11月05日 | 

 ラリーコリンズドミニクラピエールさもなくば喪服を』を読む。

 コリンズとラピエールといえば負け戦が濃厚になり、やけっぱちになったアドルフヒトラーの、



 「撤退時には、パリに火を放って廃墟にしたったら、ええんちゃうんけ!」



 といった無茶な命令と、それを受け、任務と倫理の狭間で苦悩するドイツ将校の揺れを書いた、ヨーロッパ戦線版『日本のいちばん長い日』ともいえる『パリは燃えているか』が有名だが、もうひとつの代表作といえばこの作品。

 なんといっても、あの沢木耕太郎さんが、


 「僕が読んだノンフィクションの中で最も素晴らしい作品のひとつだと思います」

 
 絶賛したことでも知られているのだ。

 まず出だしからして激シブである。


 
 「泣かないでおくれ、アンヘリータ、今夜は家を買ってあげるよ。さもなければ喪服をね」



 目の肥えた読者を引きつけるにも十分なインパクトあるセリフで幕を開ける、この物語の主人公はマヌエルマロノ)・ベニテス、通称「エルコルドベス」(訳すなら「コルドバ人)というスペイン闘牛士

 ヘミングウェイの小説などで有名な、スペインの内戦時代に生を受けた彼は、



 「闘牛士になって、いい生活をしたい」



 その夢と野望だけを胸に、仲間と極貧の放浪生活を送り、様々な運命に翻弄されながら、ついにはスペインでもっとも有名、かつをかせげるスーパースターにまで昇り詰める。

 二人の作者は、エル・コルドベスの一世一代の晴れ舞台となるマドリードでのデビュー戦の模様と、彼の生い立ちから闘牛士としての名声を得るまでの過程を、波乱のスペイン現代史とクロスオーバーさせながら同時進行で語っていく。

 これがなんとも熱くて、ページをくる手が止まらない。

 物語の骨格としては、貧乏な青年が根性才能だけを武器にチャンスを求めてさまよい歩き、ついには幸運を手にするというシンデレラストーリー

 舞台や主人公の泥臭さからいえば、どちらかといえば日本的な「成り上がり」という言葉の方が似合いそうだが、この俗っぽい言葉がたまさか時代とシンクロすると、歴史うねりに影響を与えることとなる。

 19世紀後半から20世紀にかけてのスペインは、はっきりと後進国だった。

 各種技術の発展に民主主義資本主義をうまく融合させ、現代的国家としての繁栄を得る英仏独など北側諸国と比べて、当時のスペインはいかにも見劣りした。

 ピレネーという壁に閉ざされたイベリアの大国は、いまだを独占する大地主や、人権意識の低さ、厳格なカトリックの教義による息苦しさなど、発展を阻害させるものには事欠かなかったのだ。

 エル・コルドベスが台頭した時代は、まさに内戦で破壊されたスペインとスペイン人の心が、少しずつ変わっていき、それでもまだテイクオフできない歯がゆさ憤懣、これから新しい時代を築こうとする意志希望が混じりあった、まさしくもっとも「ホット」なころだった。

 もともと闘牛はスペインの国技ともいえる競技だが、その熱気と彼の戦いぶり、そしてなにより生まれ変わりつつある「新生スペイン」の歩みとが絶妙に混じりあい、エル・コルドベスは国の代名詞ともいえるほどの象徴へと祭り上げられる。

 まさにスター誕生の瞬間であり、時代というのはスターなくともなんの呵責もなく進んでいくが、スターの方は時代とのシンクロなしではありえないことを、今さらながらに思い知らされる。

 ひとりの人間と、ひとつの国が「激動変化」という共通項によって、見事な物語のハーモニーを生み出す。

 その筆さばきに圧倒されること間違いなし。そら、耕太郎も絶賛するはずや、と。

 またこの本は、主人公の劇的な物語もさることながら、当時のスペインの臨場感あふれる描写がすばらしい。

 特にマロノの生まれたアンダルシア地方のそれは、あたかも映画の1シーンのように、その乾いた光景が目に浮かぶようなのだ。うますぎるよ。

 沢木さんはこの本を、スペイン旅行中に読んだそうだが、それはそれはきっと幸せな読書体験だったにちがいない。

 あともうひとつ、この本の大きな魅力は、なんといっても書名であろう。

 『さもなくば喪服を』。

 なんという見事なタイトルであろうか。

 この響きだけで、あんたらもう勝ったも同然だってばさ。



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東海林さだお、大いに怒る! 学生食堂いまむかし その2

2016年11月02日 | B級グルメ
 前回(→こちら)の続き。

 「本食堂」「経商食堂」「法文食堂」「社学食堂」と実に4つの食堂を擁する我が千里山大学(仮名)。

 味も値段も大同小異だったこの四天王に、大きな変革がおとずれた。「経商食堂」が取り壊されることとなったのだ。

 なんとまあ、気の毒に。では経済学部と商学部の学生はどこでご飯を食べればいいのかという話だが、食堂を別途また作るのだという。

 で、数か月後に新しくできた経商食堂を見ておどろいた。

 そこにあったのは、めちゃめちゃきれいで明るい建物だったのである。名前も「経商カフェテリア」とモダンなものになっていた。

 メニューの方も充実していた。

 我が法文食堂にはないカキフライや甘辛チキン南蛮などがあり、女の子向けのヘルシーなサラダなどもある。

 ゴハンはアツアツで、なんとみそ汁には具が入っていた。

 我が法文食堂のみそ汁は、そんなよけいなものなど混入していないエコ仕様だった。ハシでお椀をつつきながら、だれかが「おい、ソナーを持ってこい!」と、さけんでいたのが聞こえたほどだ。

 そこを経商カフェテリアは、具が無いどころか、豚汁やけんちん汁なんてのも販売されている。大盛もOK。お前らは、どこの国の特権階級サマや!

 食堂を失った彼らを嗤うべく、地獄坂をわざわざくだってきた我々文学部偵察隊は、これに大いなる衝撃と嫉妬を覚えた。

 ただでさえ卒業が比較的容易なうえ雰囲気も明るい、経済・商両学部にルサンチマンをいだいている学生が多い我が学部である。

 そのうえさらに、彼らのアドバンテージが増えるところなどゆるされてはならない。

 特に商学部など「らく商学部」「あそびま商学部」などと呼ばれるほど、いつも女の子を連れて、合コンだ春はテニス冬はスキーだと楽しそうなところなのだ。

 はっきりいってチャラい。われわれが『若きウェルテルの悩み』みたいな辛気臭い本の原書を、辞書片手にコツコツ読んでいる横で、夜の飲み会の相談をしてやがる。

 まさに「仮想敵国」である。МN爆弾でも落としたろうかしらん。

 まあしかし、それも法文食堂が改装されるまでのこと。ウチらの学食も遺跡レベルの古さとボロさをほこっていたから、こちらもきっとキレイになることだろうと皮算用していたら、あにはからんや、そこにこんな情報が。

 「経商以外の食堂改築予定はなし」

 な、なんということか。我々はどうなる。無視か。

 経商の連中が、王様のような食事をしている中、ワシらは掘っ立て小屋で「終戦直後」みたいなメシ。

 これでは完全に「二等国民」あつかいではないか。このような暴挙が許されていいのか。ふざけるな。経済と商ゆるすまじ。万国の労働者よ団結せよ。やつらを高く吊るせ!

 これまで、貧しいながらもつつましく暮らしていた我々だったが、嗚呼、格差社会というのは、かくも憎しみを生み出すのである。

 「小さいながらも、楽しい我が家」。もう、あの幸福な時代には戻れないのだ。

 そこで決然と立ち上がった私は、法学部の友人ヤマダ君と、キャンパスから隔離された場所にあるうえ校舎が最もきたなく雰囲気も暗い「三等国民」社会学部のトヨツ君を招集。

 経商包囲網を布くため彼らと法文社三国同盟を結成。「四民平等」「五族共和」の旗印の下、経商カフェテリアへと進駐した。

 そこで我々は

 「ドリンクのみで長々と席を占領する」

 「食べるときに不快な音を立てる」

 「ごちそうさまをいわない」

 「女子学生の隣にすわり、大声で猥談をする」

 などといったレジスタンス活動を行った。人は衣食足りないと、礼節などへっぽこのぷーなのだ。我々にも、具の入ったみそ汁を!

 我々は「文学部ウザ!」「社学部キモ!」との、ヒンシュクの目にひるむことなく、勇猛果敢に戦ったが、残念ながらキッチンからの

 「あんたら、少し静かにしなさい!」

 の一言により、無念の撤退を余儀なくされたのであった。

 嗚呼、われら勇気ある戦士も、元気印なパートのおばちゃんにはかなわないのである。いつも、おいしいゴハンをありがとう。私はチンジャオロースーが好きです。

 それにしても、あの時は本当にねたましかったものである。

 我々は坂の上で、ぬくい墨汁のようなコーヒーを飲みながら、そうかあ、共産主義ってこういうところから生まれたんやなあと、はからずも勉強になったものであった。

 こんな思い出があるため、東海林さんの「おいしい学食ゆるすまじ」という怨念には、非常なる共感を覚える。

 今でも大学の話で、「経済学部です」「商学部です」って人に会ったら、つい「敵、発見!」って気分になるものなあ。

 お前ら、遊びまくりで、うまいメシまで食いやがって! と。

 まこと、食い物の恨みと私の人間の小ささはおそろしいのである。



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東海林さだお、大いに怒る! 学生食堂いまむかし

2016年11月01日 | B級グルメ
 「学生食堂がおいしいなどというのは、けしからん!」

 そんな怒りの声をあげたのは、東海林さだおさんであった。

 私は東海林さんのファンで、特に「丸かじりシリーズ」は、トイレに風呂に銀行や歯医者の待ち時間にと、スキあらば読み返しているもの。

 そんなショージ君が、あるとき若者に「いかがなものか」な苦言を呈したことがあり、それが母校である早稲田大学の学生食堂をおとずれたときのこと。

 学食というのは「安価でお腹いっぱい」が基本にあり、味というのはさほど重視されないというのが昭和の常識だったが、ショージ君が見た近年のそれは、はるかに豪華なものへと変貌していた。

 レストランのような内装、メニューもステーキやイタリアンなどハイカラなものが並び、BGMにはピアノの生演奏まであったという。

 これには「月一度のごちそうがレバニラ炒め」という青春期を過ごした大先輩も怒り心頭となり、

 「早稲田も地に落ちた」

 そう宣言してしまうのだ。

 これにはページをくりながら爆笑してしまったのだが、ひとしきり腹をかかえながら思わず、

 「わっかるわあ」

 そう力強く同意してしまう自分もいたのである。

 学生時代、私の通っていた大学は坂の上にあった。

 駅からキャンパスまでのなだらかな傾斜になっており、それを上がれば学舎が見えてくるのだが、私の学んでいた文学部(および法学部)は、さらにもうひとつ坂の上に校舎がある。

 その坂というのが校門までのそれと違い、いきなり傾斜がきつくなり、登るのが大変だった。

 正式名称は法文坂というのだが、我々学生は「地獄坂」と呼んでいた。落差があるぶん、よけいにしんどく感じるのだ。

 この地獄坂の苦しさは、今でも鮮明におぼえており、我が千里山大学(仮名)の法文学生は、なぜ自分たちだけがこんな苦行を強いられるのか、という抗議に加えて、

 「経済学部、合コンしすぎ」

 「商学部、授業楽すぎ」

 「社会学部は、今時ヘルメットかぶって革命がどうとかいって、女子にウザがられてるからゆるす」

 などなど、他学部生への八つ当たりをぶつぶつつぶやきながら、毎朝シーシュポスのごとく山を登っていくのである。

 さてそんな山頂にあるキャンパスの、さらにその裏側という南極点のような僻地に、薄汚い掘っ立て小屋が建っていた。

 看板があり、そこには「法文食堂」と書かれてある。

 これがなになのかと問うならば、読んで字のごとく文学部と法学部の学生用の食堂なのだ。

 我が大学は人口2万7千人を誇る、いわゆるマンモス大学であった。

 必然、食堂がひとつだけでは学生たちを収容できない。というわけでキャンパスには校内中央部にある「本食堂」。

 それにくわえて、経済学部と商学部のための「経商食堂」。社会学部のための「社学食堂」。そして我が「法文食堂」と、実に4つの食堂を擁していたのである。

 そう聞くと、なんだか豪華なようだが、そんな法文食堂のご飯はどうだったのかといえば、学生食堂といったもののご多分にもれず、

 「安くてまずいが、とにかく腹だけはふくれる」

 という学食非核三原則を忠実に守ったシロモノであった。

 麺はのび、カレーには肉が入っておらず、日替わり定食のフライものやハンバーグはどんな油を使っているのか食べ終えた後、胃に天才桜木の見事なダンクを食らったのではというくらいに、ドシンともたれる。

 しかしまあ、これはどこの食堂も大同小異であったため、学生たちは別に不満など感じることなく食事をしていた。

 特に法文生は他のところに食べに行くと、また地獄坂を上がってこなければならず、味はともかく法文食堂ですますことが多かったのだ。

 ところがここにある変革が起こり、貧しくも平等であった学食四天王の一角にひびが入り、大きな紛争へと発展するのである


 (続く→こちら



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