「七冠王フィーバー」があったころ 羽生善治vs谷川浩司 1995年 第44期王将戦 その3

2020年09月26日 | 将棋・シリーズもの 中編 長編

 前回(→こちら)の続き。

 いろいろあった、ありすぎた「七冠王」をかけた1995年谷川浩司王将羽生善治六冠第44期王将戦も、ついに最終局に突入(第1回は→こちらから)。

 将棋ファンも騒然だが、なぜか一般のマスコミも「七冠王」に反応しまくり。

 会場となった青森県の「奥入瀬渓流グランドホテル」には、総勢50社150人近い取材陣が押し掛けたそうな。

 もう、とんだ大騒動で、「藤井聡太フィーバー」での各社の出陣が50人だったというから、このときの盛り上がりは、皆どうかしていた

 泣いても笑っても、これが最後の一局。

 どちらに転んでも、この将棋ですべてが決まるはずの世紀の一番は、まずここで千日手になった。 

 

 

 

 △15銀▲25飛△24銀▲26飛△15銀で無限ループ。

 おおお、マジか! 

 「これがラス1」と意気ごんでいたこちらは、思わずつんのめりそうになるが、即日指し直しということで、先後を入れ替えてやり直し。

 この指し直し局が、40手目まで千日手局とまったく同じ形で進んで、これまた観戦者をおどろかせる。

 

 

 

 両者とも意地を張ったのか、

 

 「やり直しやけど、さっきと同じ将棋で決着つけようや」

 「望むところッスわ。これで言い訳なし。吐いたツバ、飲まんといてくださいよ」 

 

 といったやり取りが指し手から伝わるわけで、なるほど

 

 「棋は対話なり」

 

 というのは、こういうことを言うのであろう。

 羽生はここで▲75歩と突っかけたが、谷川は▲35歩と手を変える。

 以下、中央で競り合って、この局面。

 

 

 

 ▲55銀と中央を制圧し、谷川がやれる展開だ。

 羽生は△37歩とするが、▲44歩△42金引▲46銀

 アッサリ飛車見捨てるのが好判断で、△38歩成▲34角で、攻めがヒットしている。

 

 

 △58飛の反撃に、▲52角成と取って、△同金▲57銀と、と金をはずすのが、また落ち着いた手。

 △同飛成▲67金引で、自陣を引き締めながら角道を開通。

 

 

 上ずっているうえに、角道遮断していた金をこんな味よく好形に、それも先手を取りながら締れるなんて、手がしなりそうなところ。

 この手を見て「あー、これは谷川が勝つなあ」とボンヤリ思ったことを今でもおぼえている。

 △48竜▲53歩が、快調なタタキ。

 

 

 

 谷川の好打が続いているが、ここが最後の勝負所だった。

 ここでは△42金右とかわして、▲43歩成△同金左▲11角成

 そこで△22銀と入れれば、まだ一勝負できたよう。

 

 

 だが、羽生はこの順は選ばず、△53同金と取った。

 これには▲51飛とおろして、先手の勝ちが決まる。

 とはいえ、▲53に強力な拠点がゼロ手で残る△42金右は、あまりにもつらすぎるスーパー利かされであり、選べないのもわかるところだ。

 最後の最後で、羽生がねばりを欠いたようだが、このあたりはテレビで見ていて、あまり逆転しそうな気配がなかった記憶がある。

 最後はサッパリしたもので、111手目▲16桂まで、谷川浩司が王将を防衛。

 夢の七冠はならなかった。

 

 

 ここまで来て七冠王達成ならずとか、そんなことがあるんやなー、「現実」ってすごいなーと妙な感慨にふけったものだ。

 ここで七冠王が実現しない「物語」はありえないわけで、未練もあったのだろう、なんだか現実感がとぼしかった。

 こうしてすべてが終わり、

 

 「もう、こんなすごいことは、きっと二度と起こらへんのやろうなあ」

 

 なんて思ったものだが、あにはからんや。

 羽生はこの挑戦失敗のあと、王将戦と同時進行だった棋王戦森下卓3-0で退ける。

 そこからも、名人戦森下卓4-1棋聖戦三浦弘行3-0

 王位戦郷田真隆4-2王座戦森雞二3-0竜王戦佐藤康光4-2(第4局の激戦は→こちら)と次々に防衛。

 王将リーグでも5勝1敗の1位通過で(そこでの絶妙手は→こちら)、2年連続挑戦者に。

 七番勝負も、もはや抵抗する気力も奪われたであろう谷川王将を4-0のストレートで下し、ついに七冠王が実現。

 これに関しては、あまりに強すぎてボーっと見ていたら、いつの間にかなっていたという感じだった。

 羽生の七冠王の価値はといえば、単になっただけでない。

 このように、「あとひとつ」で逃すという虚脱感などものともせず、「1からやり直し」のミッションを、ノーミス全クリアで達成してしまったことなのだ。

 ちょっと意味のわからなすぎる、超人的なリカバリーであり、今でも人間業とは思えないが、その過程では信じられない大逆転勝ちなどもあり、実は「紙一重」でもあったりする。

 それが今から、約25年前

 ずいぶん時がたち、すっかり「歴史」の一部になった感もある、この七冠王フィーバー。

 私は「欲しがり」のファンなので、もちろん「もう一回」あってくれてもかまわない。

 「記録なんか、どんどん塗り替えていったらええやん」派なので、八冠王など羽生さんを抜いてくれたって全然OK。

 それをやってくれるとしたら、藤井聡太王位棋聖か、もしかしたら彼のあとから出てくる別の「天才」か(新四段になった伊藤匠くんはどうかな?)。

 もちろん、今は力をためている若手棋士でもいいし、羽生さんがまたやってくれてもいい。

 時代は変われど、ファンの想いというのはひとつ。それはもう、

 

 「オレはシビれるような将棋が、たくさん見たいんやー!」

 

 につきるわけで、これからの将棋界にも、もっともっと「フィーバー」を期待したいところだ。

 

 (元祖「さばきのアーティスト」大野源一の振り飛車編に続く→こちら

 

 

 

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「七冠王フィーバー」があったころ 羽生善治vs谷川浩司 1995年 第44期王将戦 その2

2020年09月24日 | 将棋・シリーズもの 中編 長編

 前回(→こちら)の続き。

 「七冠王」なるかで将棋ファンのみならず、世間一般も巻きこんでのお祭りになった、1995年第44期王将戦(第1回は→こちらから)。

 開幕局を谷川浩司王将が制したところで、阪神淡路大震災というとんでもないことが起ってしまったが、谷川はそのショックにも屈せず第2局勝利。

 ここまで羽生善治六冠に、大きいところで負かされまくっていた谷川だが、最終防衛線を死守するこの七番勝負は、やはり気合がちがった。

 だが、ここで引き下がっては頭上に輝く6つのクラウンが泣くということで、羽生も第3局で1番返す。

 続く第4局も、手厚い指し回しを見せ、終盤をむかえた。

 

 

 

 図は羽生が△47桂と打ったところ。

 後手は3筋の駒がすごいことになっているが、うまく▲39や、下段の飛車をいじめながら凝り形を解消していけば、敵陣へのトライで不敗の態勢を築ける。

 ただ飛車を逃げるだけの手では、どんどん押しこまれそうだが、ここで谷川が見事な突破口を開く。

 

 

 

 

 ▲55歩と突くのが、ピュウと口笛でも吹きたくなる、センス抜群の軽妙手。

 △同歩なら、▲56銀と強引にチャージをかけて、△同歩に▲同金から押し戻せる。

 

 

 △同飛なら▲同飛で、取れば▲57飛詰み。こうなると、3筋のがモロにたたってしまう。

 羽生は△59桂成と根本の大砲を取り払うが、一回▲23と、と利かすのがソツのない手。

 △43金と代わって、そこで▲56金打が強烈なヘッドバット。

 

 

 △44玉▲46金上とくり出して、△同銀▲同金でついに後手のプレスを突破に成功するのだ!

 

 

 頼みの厚み雲散霧消した羽生は、△69馬と逃げながら先手陣にプレッシャーをかける。

 押えこみから一転、攻守所を変えたが、ここで谷川が対羽生戦で犯してしまいがちな過ちを見せてしまった。

 本譜は▲45銀と押さえて、△53玉▲79金と一回受けたが、ここでは自陣を見ず▲44歩△42金▲54銀△62玉▲43歩成と、バリバリ攻めを継続していけば先手が優勢だった。

 こういう攻めていけばいいところで、ひるんでしまい、また受けなければいけないところで暴発してしまう。

 谷川にかぎらず、羽生に痛い目にあわされた棋士たちは、同じようなミスで自滅してしまうのだが、ここでそれが起こってしまった。

 相手を「疑心暗鬼」にさせるのも、また羽生の強さのひとつだった。

 以下、△62玉と早逃げし、▲44歩△42金▲54銀△67金と攻め合われて一手負け。

 せっかくいい手を指して挽回したのに、対羽生戦の「あるある」のようなことをしでかしてしまい惜敗。

 これで2勝2敗のタイに。

 流れはこれで挑戦者に傾いたかと思われたが、やはりこのシリーズの谷川は一味違った。

 第5局では相矢倉から、後手ながら谷川が攻勢を握る。

 

 

 △25銀取りになってるのもかまわず、△88歩とおそいかかるのが谷川「前進流」の踏みこみ。

 これが好判断で、以下▲25飛△89歩成、▲同玉、△33角▲66歩

 そこで△68銀から「光速の寄せ」を発揮して快勝。

 

 

 ▲25にある飛車が、攻防ともに働かないことを見抜いた、見事な構想である。

 これで3勝2敗と防衛に王手。

 続く第6局も谷川ペースで進み、相矢倉から先行して好調な攻めが続く。

 

 

 

 ▲45桂と跳ねた局面は、攻め駒が全部さばけて全軍躍動

 明らかに先手優勢だが、ここまで来て負けるわけにもいかない羽生も、土俵際で返し技を模索する。

 

 

 

 

 

 △24香が、七冠への執念で放った、乾坤一擲の勝負手。

 この手に谷川が揺らいだ。

 ここでは▲53角成とすれば良かったが、▲53桂成としてしまう。

 といっても、これは最短を逃したというだけで、依然谷川がハッキリ優勢であることには変わりない。

 少し進んで、この場面。

 

 

 先手玉に詰みはないから、ここでは▲53角成のような、遠巻きの攻めでも勝てるし、おそらく他にも、いくつか寄せの筋がありそうだ。

 ところが谷川はここで、▲24歩と打ってしまう。

 これが信じられない「一手バッタリ」という大悪手で、すかさず△79銀と打たれ、▲78玉△66銀逆転

 

 

 

 ▲24歩がなければ、たとえば▲53角成としても、△79銀▲同玉と取って、△87桂成にはもらった銀で▲13銀と打って詰み。

 

 

 先手玉は怖いようでも、駒を渡さずに攻めるのは難しいから、

 

 「なにか駒が手に入ったら詰ますぞ」

 

 この権利さえキープしておけば、後手は指しようがなかった。

 それを自ら放棄した▲24歩は、まさに「ココセ」(相手に「ここに指せ」と指令されたかのような大悪手のこと)としかいいようがない手。

 なぜ谷川ほどの使い手が、ここで誤ってしまうのか、まったく不思議である。

 七冠王阻止まで、まさにあと一歩とこぎつけながら、またもや羽生の「幻影」に惑わされ、着地に失敗した谷川浩司。

 その苦しみようは、まるでシェイクスピアの悲劇のようだが、こうしてフルセットまで、戦いは持ち越されることに。

 ドラマチックなうえにも、ドラマチックな展開となった、この「七冠シリーズ」。

 もはやどっちが勝つか予想など不可能であり、こちらとしてはもうただただ、子供の数えジャンケンではないが、どちらにしようか、

 

 「神様の言う通り」

 

 としか言いようのない心境であった。

 

 (続く→こちら

 

 

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「七冠王フィーバー」があったころ 羽生善治vs谷川浩司 1995年 第44期王将戦

2020年09月22日 | 将棋・シリーズもの 中編 長編

 前回(→こちら)の続き。

 1995年1月。

 将棋界は、いや日本列島は「七冠フィーバー」で湧きに湧いていた(第1回は→こちらから)。

 もうすぐ開幕する第44期王将戦谷川浩司王将羽生善治六冠が挑戦する七番勝負。

 これを羽生が制すれば、竜王名人棋聖王位王座棋王王将の七大タイトルをすべて保持する「七冠王」が誕生するからだ。

 これだけでも大変な事件だが、このころさらにすごかったのが、われわれのような将棋ファンのみならず、世間一般からも大注目されたこと。

 テレビはもとより、新聞、雑誌など各種媒体が取り上げ、対局場には大人数の取材陣がかけつける。

 ついには羽生に、人気タレントのような「おっかけギャル」がつくなど、もうてんやわんや。

 その様子はまさに、藤井聡太王位棋聖が「29連勝」を目指していたときのような熱狂だったが、ともかくも、日本中の耳目を集める世紀の大勝負が開幕だ。

 そんな風雲急を告げる中、このシリーズにさらなる大きな衝撃があたえられることとなる。

 1995年1月といえば、特に関西在住の人間には、忘れられない出来事。

 そう、17日早朝の阪神淡路大震災だ。

 七番勝負は12日に開幕して、初戦は谷川が、羽生のひねり飛車を打ち破って先勝

 後手番での勝利とあって、幸先のいいスタートを切ったところだった。

 そこにこの悲劇。神戸市の六甲アイランドに住んでいた谷川も当然、被害にあった。

 家族もふくめ無事なのは幸運だったが、これでまともに、将棋を指せるのかと心配されたもの。

 このときの谷川の心境は、いろんなところでの取材やインタビューなどで読むことができる。

 だが、当時の谷川は自身の今の状況や、将棋と震災をメディアの好む「浪花節」「お涙頂戴」的な、安易な物語としてあつかわれるのを、避けているフシがあった。

 なので私ごときが、わかったようなことを書き散らかすのは避けたいが、もちろん影響がまったくなかったなどは、ありえないことだろう。

 混乱の中、震災の6日後に行われた第2局も、第1局に続いて谷川のキレ味するどい将棋が見られる。

 相矢倉から、後手の羽生が5筋の歩を交換して、急戦調の展開に。

 

 

 

 後手が△35に攻防のを打ったところ。

 玉形に差があり、の位も大きく先手が指せる展開。

 後手のが一瞬不安定で、先手のの位置もよく、いかにもがかかりそうなところ。

 その通り、ここで谷川は一気の踏みこみを見せるのだ。
 
 

 

 

 

 ▲13桂成△同香▲44歩が、キリで急所を一突きする鋭手。

 飛車とたくさん取る手があるが、どれを選んでも▲36歩とか▲46銀とか、角交換して▲55角

 さらには好機に▲14歩▲24飛の補充もきいて、これらを組み合わせていけば、先手は攻めが切れることはない。

 手段に窮した羽生は△57銀成と特攻するが、▲43歩成から▲32と

 一直線に踏みこんで、角交換後に▲65角が、間接王手飛車で勝負あり。

 

 

 

 「前進流」「光速の寄せ」の良さが存分に出た形で、これで開幕2連勝

 羽生の勢いや、「七冠王爆誕!」を期待する世論の声に押されるのではという懸念は、ここに払拭されたと言っていいだろう。

 意外と言っては失礼だが、谷川の好スタートに

 

 「あれ? ここまで来て七冠はおあずけ?」

 

 風向きが変わりそうと見せかけて、あの羽生善治は、ここで簡単に引き下がるタマではない。

 もちろん震災の衝撃や、谷川の奮起に思うことはあったろうが、勝負となれば話は

 また羽生はこういうときに、ブレないというか、斟酌のようなことはあり得ない男だ。

 当然、ここから逆襲をねらってくるわけで、第3局相矢倉から羽生が穴熊にもぐって激しい攻め合いに。

 

 

 

 最終盤、△87と、とを取った瞬間に▲41飛と打って一手勝ち。

 以下、△31金打▲42と、で先手玉に詰みはない。

 穴熊の深さを生かしたクレバーな勝ち方で、これでひとつ星を返す。

 この結果に思わず指がパチンと鳴る。こうこなくては。

 七冠王が実現するか、谷川が意地を見せるかは時の運というか、最後は神のみぞ知るだが、われわれ見ている方の望みはどちらに肩入れしようと、

 

 「この時間を、とにかく、たくさん味わいたい」

 

 で決まっているのだから。

 

 (続く→こちら

 

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「七冠王フィーバー」があったころ 羽生善治vs佐藤康光 1993年 第6期竜王戦 第5局

2020年09月20日 | 将棋・シリーズもの 中編 長編

 前回(→こちら)の続き。

 1994年末から1995年の初頭にかけて、日本列島は「七冠王フィーバーで、湧きに湧いていた。

 そこで、まずは「七冠王」までの道程を紹介しているわけだが(「七冠王」をかけた第44期王将戦に興味のある方はこちらまで飛ばしてください)、その主役である羽生善治はデビュー以来、各種棋戦で次々と優勝

 「対局数 勝率 勝数 連勝」の記録部門独占最優秀棋士賞受賞、竜王獲得など、スーパーエリート街道を驀進していた。

 その後、少しばかり挫折の時期があり、初タイトルの竜王を充実著しかった谷川浩司に奪われる。

 1勝4敗というスコアもさることながら、内容的にも圧敗

 

 「谷川が強すぎる」

 「羽生の棋界制覇はまだ先の話だ」

 

 というアピールをゆるしてしまったが、そのダメージもなんのそので、すぐに棋王南芳一から奪い無冠返上する。

 さらには福崎文吾から王座も奪って二冠に輝き、NHK杯全日プロでそれぞれ2回目の優勝。

 トップ選抜の日本シリーズも制するなど、相変わらずの安定ぶり。

 1992年の第5期竜王戦(→こちら)では、谷川浩司竜王にリベンジマッチを挑みフルセットの末奪取

 同時に、谷川を挑戦者にむかえた棋王戦(→こちらでも防衛で「往復ビンタ」を喰らわせる。

 ここがターニングポイントとなったようで、「谷川三冠」「羽生二冠」が「谷川二冠」「羽生三冠」になったインパクトが強烈だった。

 これで谷川に対して、苦手意識を植えつけたのか、続く棋聖戦でも勝ち四冠王に。

 なんと運命の王将戦まで、谷川は羽生にタイトル戦でシリーズ7連敗を喫するという、信じられない偏りになってしまう。

 

 「ナンバー2を叩け」

 

 という、テニスのロジャーフェデラーも実践した王者の必勝パターンを確立した羽生は、今度は同世代のライバル郷田真隆から、王位をストレートで奪い五冠王

 本人も認めるように、このあたりから周囲も

 

 「え? 七冠王あるの?」

 

 色めき立つが、翌年の第6期竜王戦で、佐藤康光に敗れて一歩後退。

 このときの佐藤は踏みこみも素晴らしく、とても強い将棋だったから、ここで少し取り上げてみたい。

 今でも憶えているのは第5局

 羽生と佐藤康光の初タイトル戦で、それぞれ先手番をしっかりキープして2勝2敗のタイ。

 この第5局も、そのころの2人らしいガッチリとした相矢倉になって、むかえたこの局面。

 

 

 

 まだ序盤で駒組の段階だが、実はすでに勝負所である。

 テレビの解説によると、この局面はかなり研究が進んでおり、ここで△55歩と仕掛ければ、後手が指せるという結論になっていたそう。

 このころ名人戦竜王戦は1日目と2日目両方とも、午後4時から6時まで、最後にダイジェストが放送されていた。

 2日目の6時で終わりとか、一番ええところ見られへんやんけ!

 不満タラタラだったが、まあ、そういう時代だったのである。

 でだ、1日目午後4時にテレビをつけると、画面に映ったのがこの図だった。

 △55歩の解説からはじまって、あれこれやっているのだが、だんだんと妙な空気になってきたのは、佐藤七段に、まったく次の手を指す気配がないから。

 将棋に長考はつきものである。ましてやそれが、持ち時間8時間の竜王戦なら。

 しかしだ、それにしても長い。

 次の手は、ほぼ△55歩で決まりなのである。

 それでも指さない。佐藤はひたすら盤上に没入している。

 解説はすべての変化を語ってしまった。雑談するにも限度がある。まさか「早く指して」とカンペを出すわけにもいかない。

 今なら、こういうときメールを読んだり、おやつを食べたりできるが、そういう文化もなかった。

 そもそも、手が進まないと「気まずい」のが、将棋中継の持つ最大の弱点だ。

 「長いなあ」とあきれること2時間、なんと佐藤康光はそのまま1手も指さず、封じ手に入ったのだ。

 羽生と佐藤康光のタイトル戦を楽しみにテレビをつけたら、なんたることか、そこから手がまったく動かなかった

 ちょっと待てーい!

 果たして翌日、封じ手によって示された手は「△55歩」だった。

 

 「それやったら、早く指せよ!」

 

 ……とは、もちろん言えないんだけど、そりゃあんまりやで康光センセ、とブツブツ言ってた私は、この後の展開を見て、その不明を恥じることになる。

 なんと、この△55歩以下、佐藤康光はそのままノンストップで攻めまくって、羽生にチャンスらしいチャンスをあたえないまま、押しつぶしてしまったのだ!

 これには、驚きのあまり言葉がなかった。

 え? もう勝っちゃったの? と、お口あんぐりである。

 あの空気を読まない大長考で、この男はすべてを読み切っていたのだ。

 われわれが、呑気にあくびをしている間に、羽生はとっくに鍋に入っていた。勝負は1日目の昼すぎ、すでに着いていたのだ。

 少なくとも、佐藤康光の頭の中では。

 すさまじい読みの力であり、まだ駒もぶつかってないのに

 「ここで仕留める」

 と決意を示した、その気迫集中力には怖気が走ったもの。

 若手時代の佐藤といえば「優等生」キャラだったが、そのイメージがはじけ飛んだのが、この将棋だった。

 この人は気が狂っている。優等生なんて、どこの国のパプアニューギニアや。もうムチャクチャに、カッコええやんかー!

 終盤も見事だった。

 

 

 

 ▲72と、とせまられ、次に▲62とと取られる形が飛車当たり。

 △31になってるのも気になるが、次の手が好手である。

 

 

 

 

 

 △71銀とするのが、カナ駒を1段目に引きずり降ろして威力を弱めるという、おぼえておきたい受けの手筋。

 ▲同と、しかないが、これでと金を使いにくくして△97角成が、敵陣にせまりながら自玉の逃げ道を開通させる、すこぶるつきに味のいい手。

 

 

 見事な将棋で羽生の先手番をブレークした(こういうとき「後手番ブレーク」という人がいるが、これはテニスサービスゲームをイメージしてる言い回しだから、先手番をキープ」「ブレーク」が正解)佐藤康光は第6局も制し初タイトルを獲得。

 大長考のド迫力といい、その腕力といい、こういうのを見ると、

 

 「羽生も強いけど周りもすごいから、七冠とか口で言っても、そう簡単ではないか……」

 

 という気にもさせられ、それがふつうの感想のように思われたが……。

 七冠熱は少し冷めたとはいえ、現実的に「四冠王」というのは棋界制覇といっていい内容。

 その勢いはおとろえることを知らず、今度はA級順位戦で勝ち星を重ね、プレーオフでまたも谷川を下して挑戦者に。

 「50歳名人」で話題になった米長邦雄から名人を奪い、すぐさま五冠復帰どころか、翌年の竜王戦で佐藤康光から竜王も奪い返し(羽生はこのように失冠後すぐ奪い返すケースが多い)、とうとう六冠

 一歩後退どころか、まさかの「七冠王」にリーチがかかった。

 もちろん、その間のタイトル戦はすべて防衛しているわけで、とんでもない勝ちっぷり。

 そうなると注目は、当然王将戦に集まるわけで、羽生はここでも期待に応え、強豪ひしめく王将リーグ5勝1敗でフィニッシュ。

 挑戦者決定プレーオフでも郷田を破って、なんと谷川王将の待つ七番勝負に上がってきてしまったのだ。

 少々かけ足だが、羽生のデビューから「七冠フィーバー」まで、当時の状況はこういう感じであった。

 ふつうに考えればありえない「七冠王」だが、この強さを見せられれば、もはや実現しても不思議ではない。

 しかも、相手にしているのは谷川浩司森下卓佐藤康光森内俊之郷田真隆村山聖といった、すごすぎる面々。

 さらには高橋道雄南芳一中村修塚田泰明島朗ら「花の55年組」などを加えれば、史上最強クラスといえる時代だ。

 ここをつるべ打ちしての結果なのだから、数字以上の偉業であり、その価値はまさにはかり知れない。

 単に強いだけでなく、島朗八段の

 

 「ここまできたら、一度は七冠王を見てみたい気もする」

 

 という発言のような、世論の後押しもありマスコミはかつてないほど将棋界に群がり、一般の関心まで高まるという大事件に発展していったのだ。
 

 (続く→こちら

 
 

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「七冠王フィーバー」があったころ 羽生善治vs谷川浩司 1990年 第8回全日本プロトーナメント決勝

2020年09月18日 | 将棋・シリーズもの 中編 長編

 将棋で「フィーバー」と聞いて思い浮かべるのは、世代によってそれぞれだろう。

 昭和の将棋界を知る人は「21歳名人」の谷川浩司フィーバー(→こちら)。

 「A級から落ちたら引退」という危機を、何度も奇跡的にしのいで「将棋界の一番長い日」という文化を作った、大山康晴十五世名人の超人伝説(→こちら)。

 悲願の「50歳名人」で話題になった「米長邦雄名人」誕生。

 平成なら渡辺明羽生善治の永世竜王をかけた「100年に一度」の決戦に(その模様は→こちらから)、その完結編ともいえる「羽生永世七冠」獲得のシリーズ。

 今のファンなら、言うまでもなく「藤井聡太フィーバー」だろうが、自分の世代だとやはり

 羽生善治の「七冠フィーバー」。

 これで決まりということになろう。

 現在、活躍する棋士からも、

 

 「羽生七冠王にあこがれて将棋をはじめた」

 

 という声を聞くのはしょっちゅうで、これは羽生個人だけでなく、将棋界全体にも大きな影響をあたえた事件だった。

 現在、藤井聡太王位棋聖が羽生善治の後継者になるのは、ほぼ決定的とも言えるが、「羽生超え」なるかどうかはこれからの物語で、私としても興味津々。

 前回は久保利明九段の「さばき」を生んだ大野源一九段の振り飛車を紹介したが(→こちら)、今回は少しばかり「七冠王」のことを思い出してみたい。


 1995年の幕開け、将棋界はかつてない興奮と熱気に包まれていた。

 1月から開幕する、谷川浩司王将羽生善治六冠で争われる、第44期王将戦七番勝負。

 これを羽生が制すると、竜王名人棋聖王位王座棋王王将を同時に保持するという、前人未到の

 「七冠同時制覇」

 が実現することとなったからだ。

 まさに空前にして絶後であり、なぜこんな、信じられないことになってしまったのか。

 いい機会なので、元の元から話をしてみたいが(第44期王将戦七番勝負まで飛ばしたい方は→こちら)、まず羽生善治が四段プロデビューを果たしたのが、1985年のこと。

 当時のタイトルホルダーは、

 

 中原誠名人・王座

 米長邦雄十段

 桐山清澄棋聖

 高橋道雄王位

 谷川浩司棋王

 中村修王将

 

 大山康晴十五世名人はまだ現役。「ひふみん」こと加藤一二三九段も、A級でがんばっていたころだった。

 羽生はこのころかというか、奨励会時代からすでに「名人候補」の筆頭だった。

 デビュー初年度にいきなり勝率1位賞(同率1位に中田宏樹四段)を獲得し、その後も天王戦(2連覇)、新人王戦NHK杯で優勝。

 また「対局数 勝数 勝率 連勝」の記録4部門を独占で「最優秀棋士賞」受賞など、前評判にたがわぬ活躍を見せる。

 その実力はすでに、A級やタイトルホルダーに勝るともおとらず、タイトル戦こそなかなか結果が出なかったため、

 「もしかしたら、勝負弱いのではないか」

 という、今となっては笑い話のような推論を呼んだりしたが、1989年の第2期竜王戦で、ついに挑戦者に。

 持将棋をはさんだ8局におよぶ激戦の末、フルセットで島朗竜王から奪取して、19歳2か月で初タイトル獲得(当時の最年少記録)。

 当時話題になったのは、谷川浩司名人との「竜名決戦」となった、1990年、第8期全日本プロトーナメント(今の朝日杯)決勝3番勝負。

 谷川の先勝を受けての第2局

 羽生は相掛かりから、横歩を取る積極策を見せる。

 むかえたこの局面。

 

 

 

 先手の羽生が、▲77桂と跳んだところ。

 飛車交換になりそうなところだが、ここで谷川にカッコイイ手が飛び出す。

 

 

 

 

 △25飛とタダのところに回るのが、空中戦らしい軽やかな一着。

 ▲同桂なら、そこで△64歩と取って、▲25桂馬が、うわずっているから後手が指せると。

 ならばと羽生は、取れる飛車を無視して▲84飛と回る。

 △28飛成にいったん▲29歩と受け、△19竜に自分も▲82飛成と成りこんだ。

 華々しいやり取りがあって、この図。

 

 

 

 

 後手が△27歩成と、せまったところ。

 先手はを作っているが、まだこれという攻め手はなく、と金で守備駒をけずられる形で、あせらされている。

 左辺の金銀も浮き駒な上に、にもなっていてピンチのようだが、ここからの羽生の指し手が見事だった。

 

 

 

 

 

 ▲29香、△17竜、▲27香、△26歩、▲同香、△同竜、▲82竜(!)。

 まず、打ちから、と金を除去してしまうのが好判断。

 駒損だが、を追い飛ばして、これですぐに負けることはない。

 そこで、じっと▲82竜が当時絶賛された、すばらしい一着だった。

 △26同竜の局面は、必死の防戦でようやく手番が回ってきたとあっては、ふつうなら一気に反撃と行きたいところ。

 そこを黙って、▲91で蟄居しているを活用。

 森内俊之との新人王戦で見せた「伝説の▲96歩」もそうだが(その将棋は→こちら)、こういう急ぎたい場面でじっと手を渡せるのが、羽生善治という男のおそろしいところで、

 

 「この落ち着きが19歳とは信じられない!」

 

 各所で絶賛されたものだった。

 ここから2連勝で逆転し、全日プロ初制覇。

 どうであろう、この羽生の進撃ぶり。

 記録部門総ナメ、勝率8割で各種棋戦で優勝しまくり、タイトルも獲得。

 とどめに、名人として頂点に君臨する谷川浩司まで、大舞台で破ってしまう。

 とここまで聞けば、その強さは圧倒的で「七冠王」もありえるんでね?

 くらいに感じるかもしれないが、この時代のおそろしいところは、これが決して「ひとり勝ち」というわけではなかったこと。

 まず羽生のデビューから、少し遅れて四段になった17歳佐藤康光が、勝率8割ペースという、ライバルに負けない勢いで勝ちまくる。

 1990年には王位戦挑戦者になり、谷川王位相手にフルセットの健闘を見せたが、内容的にはここで奪取しても、おかしくないほどだった。

 続けて16歳森内俊之が、佐藤の四段昇段の2ヶ月後、追いかけるように参戦。

 やはり、新人離れした勝ちっぷりを見せ、新人王戦早指し新鋭戦優勝

 2年目には全日本プロトーナメントで、谷川浩司名人を破って、羽生より先に全棋士参加棋戦優勝と、ドデカイ花火を打ち上げる。

 さらには屋敷伸之が、大豪中原誠から棋聖を獲得

 18歳6か月で、史上最年少タイトルの記録をあっさり更新。

 郷田真隆も四段のころから棋聖戦に2度、王位戦でも挑戦者になるどころか、谷川王位からタイトルを奪取する(しかし、このころの谷川さんは苦労してるな……)。

 他にも17歳村山聖はデビューから12勝1敗で走り、C級2組を1期抜けするわ、先崎学20歳NHK杯を獲得するわ。

 少し上の森下卓も、優勝こそ恵まれないものの各棋戦でファイナリスト常連になるなど、もう若手棋士(それも10代から20代前半)大暴れの時代。

 いわば、毎年のように藤井聡太クラスのスタートダッシュを披露する若手が、それも下手すると複数人飛び出してくるイメージだ。

 今と昔では棋士のの厚さが違うから、単純には比べられないが、ともかくも

 「少年棋士たち(だったんだよなあ……)が強すぎで、旧世代の棋士や評論家が大困惑におちいる」

 そういう祭のような季節だったのである。

 しかも、ここからまだ

 

 丸山忠久

 藤井猛

 深浦康市

 三浦弘行

 久保利明

 

 とかが出てくるんだから、こわれた蛇口状態で、まだ終わらんのかい、と。

 そんな才能の奔流から、ひとり飛び出したのが羽生善治だったのだ。

 

 (続く→こちら

 

 

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サマセット・モーム『月と六ペンス』 「天才」ストリックランドと「凡才」ストルーヴェ

2020年09月15日 | 
 前回(→こちら)に続いて、サマセット・モーム『月と六ペンス』について。
 
 この小説における「」とストリックランドの関係は、同じようなストリックランド的友人の多い自分には、わりとすんなり理解できるのだが、取りようによってはものすごくドライで、人によっては不快と感じるかもしれない。
 
 そのことが、さらに端的に表れているのが、ストリックランドに次ぐ、この物語の名キャラクターといえるストルーヴェだ。
 
 ストルーヴェはストリックランドと同じ画家を生業とし、「マネタイズ」という点ではむしろ食えている分、彼を成果で上回っているとも言える。
 
 にもかかわらず、彼自身は(かなしいことに)自分が、ストリックランドの足元にもおよばない絵しか描けないことを知っている。
 
 まさにモーツァルトサリエリの悲劇。
 
 天はストルーヴェに「通俗的売れる絵の才能」と同時に、「天才理解する才能」を残酷にもつけ加えた。
 
 これにより、「勘違いできる幸せ」を奪われた彼は、やはりモームによる「英国流アイロニー」で徹底的に道化として描かれるが、ここでのポイントはその描かれ方の距離感とでもいうのか。
 
 一言で言えば、ストルーヴェは「愛されキャラ」である。
 
 才能は並だが絵を愛し、冴えない男だがを愚直に愛し、食うに困っているストリックランドに家を提供するほど友情にも厚い。
 
 そんな、男としてはやや頼りないが、としては愛さずにはいられないストルーヴェだが、モームの彼の対する視点は、いっそすがすがしいほどに冷淡である。
 
 普通、こういう「顔で笑って心で泣いて」なキャラクターは、その哀れな分、とことんまで作者にも読者にも愛されなければならない。
 
 ストルーヴェは自らの平凡な才能に劣等感を抱き、最愛の妻にも裏切られる。すべてを失い、尾羽うち枯らして、失意のまま故郷へと帰っていく。
 
 それゆえに、作者と読者は彼に感情移入するものだ。
 
 本来ならば拾われるはずもなかったものの人生をすくい上げ、それを救済する。
 
 弱者敗者の、や、やさしさを取り上げ、「物語」の力でへの意志や魂へと昇華する。
 
 そのことこそが、「創作」「芸術」というものの、偉大なる存在理由のひとつであるからだ。
 
 若きウェルテルも、ジャンヴァルジャンも、ネロパトラッシュも、皆そうだったはず。
 
 それこそ山田洋二監督とかなら、それはそれはうまく「泣かせ」にもっていくのではあるまいか。
 
 どっこい、このストルーヴェの場合は、どうもそうではないらしい。
 
 モームの中にそういった「愛」「救い」があったかは大いに疑問だ。
 
 ここでいう「救い」はもちろん単なるハッピーエンドではなく、仮にどんな人生でも「拾い上げた」ことによって生まれる救済(ネロとパトラッシュのような)もふくむわけだが、どうもそれすらなさそう。
 
 モームは彼のことを、シェイクスピアにおけるフォルスタッフや、ドストエフスキーにおける酔っぱらいのマルメラードフのような
 
 
 「愛すべき道化」
 
 
 として育てる気は、毛頭ない
 
 ストルーヴェは、あれだけの「愛されキャラ」の属性設定セリフ回しを与えられなながら、作者からとことんまで突き放されている。
 
 そう、ストルーヴェにとって哀れなのは、才能がないことでも、妻に裏切られたことでもない。
 
 産みの親であるサマセット・モームに、とことんまで物語の中で「技巧的に描かれる」ことなのだ。
 
 
 「きみだって、もうわかってるんだろう。僕には人間としてのプライドが欠けてるんだ」
 
 
 こんな忘れがたきセリフを残しているにもかかわらず、作者に思い入れも持たれず、さりとて憎まれこづき回されるわけでもなく、最後の最後まで
 
 「効果的な舞台装置のひとつ」
 
 くらいの距離感で語られる。
 
 一番すごいのが、ストリックランドのすごさや、本当に深遠な芸術を理解するのに必要な要素を得々と語ってから、「自分には才能がない」と自虐する彼に、妻が
 
 
 「そんなことない。じゃあ、あたしがあなたの絵を見てすばらしいと感じるのはどうして?」
 
 
 そう、たずねるシーン。
 
 ここのやりとりは、ぜひ本文を参照してほしいが、本当に意地が悪いというか、私がストルーヴェやったら耐えられません。
 
 自分のことを心底愛してくれている妻に、
 
 
 「ボクの絵に感動できるのは、キミが教養もモノを見る目もない、ただのバカだからだよ」
 
 
 なんて、何重にもの意味で言えるわけないやん! かオマエは!
 
 しかも、おそらく作者はそこに「憐み」も「軽蔑」「嘲笑」すらも乗っけてない。
 
 薄ら笑いすら浮かべず、お茶でも飲みながら淡々と、こんな挿話を入れてくる。
 
 そこが、えげつないではないか。高畑勲か。
 
 この小説では、ストリックランドの強烈なエゴが読者の心をざわつかせることがあるが、私にはそれよりもなによりも、
 
 
 「サマセット・モームのストルーヴェに対する立ち位置」
 
 
 のほうが、よほどエゴイスティックに見えるのだ。
 
 こんなん、よう読まんわ。ヒドイ人やで、サマセット・モームってオッサンは!
 
 
 
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久保利明と元祖「さばきのアーティスト」 大野源一vs二上達也 1962年 第18期A級順位戦

2020年09月12日 | 将棋・名局

 大野源一の振り飛車は美しい。

 振り飛車という戦法はプロでは(最近では将棋ソフトからも)きびしい評価を受けがちだが、アマチュアには昔から根強い人気がある。

 そんな少数派とはいえ、たしかな権勢をほこる振り飛車の、その元祖はといえば、これが大野源一九段に行きあたる。

 大野が活躍していたころの将棋界は、私もさすがに知らないが、その振り飛車は現代にも、継承されている部分は多い。

 そこで前回は、渡辺明名人を例にとって、藤井聡太王位棋聖が先日達成した「二冠」がいかに難事か語ったが(→こちら)、今回はぐっと時代が下がったヴィンテージもの。

 ……と見せかけて、実はすこぶる現代感覚にあふれていた「さばき」を見ていただきたい。

 

 1962年A級順位戦

 大野源一八段と、二上達也八段の一戦。

 序盤戦。先手になった大野が、5筋の位を取って中飛車にかまえる。

  

 

 

 オーソドックスな形で、それこそ菅井竜也八段や、ゴキゲン中飛車の祖である近藤正和六段が指している、といっても通じるところ。

 ここからの、大野のさばきが美しい。

 まずは▲59角と引いて、急戦を迎え撃つ下準備。

 後手は△75歩と仕掛けるが、▲同歩、△72飛▲48角が、この際の形。

 △42金と一回自陣の整備をしたところで、軽やかに▲78飛が「争点に飛車を回る」振り飛車の大鉄則だ。

 

 

 △45歩、▲同歩に△54歩と、後手は眠っているを使うが、一回▲44歩と突くのが、筋の良い手。

 

 

 △同角は、なにかのとき手に乗って▲45銀と出られる筋があるから、△同銀だが、▲54歩と取りこんで、△55歩に▲47銀と引くのが好形。

 以下、△45銀には▲76飛と軽く浮いて、△54銀▲77桂△43金右▲58金と締まって盤石。

 

 

 先手陣は見事なダイヤモンド美濃が完成しており、石田流に組み替えて桂馬も好機に使えそうで(振り飛車は左桂が命!)、ほれぼれするような形。

 なにかもう、「達人の振り飛車」としかいいようがなく、こんなもん並べたらその日から、すぐマネしたくなるではないか。

 この将棋は寄せも見事だった。

 

 

 終盤戦。

 後手陣は相当攻めこまれているのに、先手陣は手つかずで、攻めさえ続けば勝てる。

 軽やかに舞っていた大野だが、ここからは体重の乗ったパンチを、次々くり出して行く。

 

 

 

 

 

 ▲53角成、△同金、▲65金

 

 「寄せは俗手で」

 

 と言う通り、こういうところは、わかりやすい攻めがいい。

 ▲44に歩の拠点があるから、そこに駒を打ちこんでいけば、自然に寄り形になる。

 米長邦雄永世棋聖の名言通り、
 
 
 「将棋とは相手の駒をハガすものなり」
 

 △同銀に▲同桂とさばいて、盤上の駒が全部使えての、まさに全軍躍動。

 こうなると、先手の4枚美濃が、頼もしすぎる。

 大野の振り飛車の特徴は、金銀4枚で囲って、あとは自陣を見ずに攻めまくるという、今でいう穴熊感覚を身につけた強みがあった。

 それには飛車で細い攻めをつなぐ技術が必要だが、それを得意にしているのは、本譜の順を見ればわかる。

 ▲65同桂△52金と引くが、▲54歩と打つのが、これまた指におぼえさせておきたい手筋。

 

 

 △同飛に▲43銀と打ちこんで、△同金、▲同歩成、△同玉。

 さらに▲53金とブチこみ、△同飛、▲同桂成、△同玉とシンプルにバラシて、▲51飛が気持ちよすぎる打ちこみ。

  

 

 振り飛車とは、こんなに気持ちよく勝てる戦法なのかと、あきれたくなる強さ。もう、やりたい放題である。

 このあと大野は、▲66飛車▲26に回って、▲23飛成と成りこみ、2枚ので、上部脱出をねらった二上玉を寄せ切った。

 この将棋を観て、

 

 久保利明九段の将棋みたい」

 

 と感じたアナタは、なかなかスルドイ。

 その通り、あの久保九段が振り飛車を指すのに参考にしたのが、大野の将棋なのだ。

 5歳(!)のころから軽くさばいていく大野源一にあこがれ、その棋譜から学んだという。

 大野から久保、久保から菅井

 歴史はつながっているのだ。

 昨今、将棋ブームの余波を買ってか、過去の名棋士達の『名局集』が多く編まれている。

 大山康晴中原誠など超一流どころだけでなく、勝浦修石田和雄といった玄人好みのチョイスもあるのはすばらしいが、不満なのはそこに大野源一の名前がないこと。

 この将棋のように、大野のさばきは今でも通用するどころか、ガッチリ現代振り飛車にもつながっている。

 また、アマチュアにもマネしやすい豪快さと軽やかさを持ち合わせており、再評価という流れになれば、一気に人気も出るのではないかと期待しているのだが、どうであろうか。

 

 (羽生善治の「七冠王フィーバー」編に続く→こちら

 (大野のさばきの続編は→こちら

 

 

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サマセット・モーム『月と六ペンス』 ストリックランドのことを、ただ知りたいだけ

2020年09月09日 | 
 サマセットモーム月と六ペンス』は私的に共感度大の物語である。
 
 モームといえば学生時代に、『』『赤毛』などの短編を読んでから、お気に入りの作家。
 
 この『月と六ペンス』はまた、著者お得意の「イギリス流アイロニー」が、これでもかと炸裂しまくった、全編苦笑いでしか読めない大傑作だ。
 
 ロンドンに住む主人公の作家は、あるパーティーでチャールズストリックランドという男と出会う。
 
 妻子を養うため、日々まじめに仕事に出かけるだけの平凡な男に見えたストリックランドだったが、ある日突然、すべてを投げ打って失踪することとなる。
 
 わけもわからないまま消えた彼に当惑する家族や友人は、主人公に帰宅するよう説得の依頼をするが、パリへ渡っていたストリックランドはそれを拒否
 
 彼は絵描きになることに決め、もはや家族地位名誉友人も、何にも価値を見出すことはないとキッパリと宣言するが……。
 
 というのが導入部。
 
 この物語のキモは、やはりチャールズ・ストリックランドのエキセントリックな魅力であろう。
 
 「絵を描く」ことに人生をささげた彼はゴーギャンがモデルらしいのだが、それはそれとして、なんとも無茶な人である。
 
 だれに対しても態度は悪いし、ロクに仕事もしない。
 
 友人(とストリックランド自身が思っていたかどうかは別として)のを寝取って、その彼女が自殺未遂をしても、へとも心揺るがすことがない。
 
 そもそも、彼女を本当に愛していたわけでもなさそうで、「誘われたから、抱いただけやん」と、どこまでも他人事な態度なのだ。
 
 そもそもが「つかみ」で、と小さな子供をほっぽらかして「勝手に生きればいい」と突き放すところからして、女性からしたら好感度ゼロであろう。
 
 もっとも、ストリックランドの嫁と子もまた、「わかりやすいなあ」と苦笑いするほど見事なくらいの俗物で、ここもモームのクールな意地の悪さが存分に発揮されていていると同時に、彼が「通俗作家」と批判される面でもあるのだろうが。
 
 なんかねえ、意地悪が「わかりやすすぎる」んですね。そこが軽く見られるのでは。
 
 ともかくも、彼の中にあるのは絵を描くことのみで、それ以外はどうでもいい。
 
 金にも名誉にも愛にも、興味がカケラもないにもかかわらず、その一点に関してはおそろしいほどにエゴイスティック。
 
 要するに、我々の中にある典型的な
 
 
 「わがままな天才」
 
 
 のイメージ。それこそが、この物語の主人公チャールズ・ストリックランドなのだ。
 
 それゆえこの物語は、一応ストーリーはあるものの、読み所自体はストリックランド自身のキャラクターに負うところが大きい。
 
 奇行の人ではあり、行動も周囲には迷惑千万だが、決して悪人ではない。
 
 いやむしろ、「絵を描く」ことに特化すれば天才であるし、その情熱や周囲を顧みない「強さ」は日々をなんとなく生きる我々には、ある意味「うらやましい」とさえいえる。
 
 実際、語り部である作家の「私」がこのストリックランドを変なヤツと思いながらも、全然否定しないというか、一応はストリックランドが誰かに迷惑をかけると
 
 「ひどいと思わないのか」
 
 なんて詰問するが、すぐその後で、
 
 
 「だが、義憤なんてものは結局『自分はこのような出来事に腹を立てられる心の優しい人間だ』ということを確認する自己満足に過ぎない」
 
 
 みたいなスカした言葉で、一人納得していたりする。
 
 作者はストリックランドのことを、ちっとも「変人」「悪人」だとは思っていない。
 
 「ひどいと思わないのか」というのも、
 
 
 「あんまりクールすぎると読者のテンションも下がるだけだろうから、一応は怒ったフリをしときまーす」
 
 
 くらいのエクスキューズ付な義憤であって、そのことで物語が大きく動いたりしないのだ。
 
 その意味では彼は登場人物ですらない、便利な「つっこみ」というか「解説」役。副音声みたいなものなのだ。
 
 彼は「作家」であるが、最後までどんな小説や戯曲を書いているかという描写がない。
 
 その設定や人間性、さらには彼の意見までもが、この物語ではほとんど必要とされていないからだ。
 
 作者は徹頭徹尾レポート役にすぎず、そのことは
 
 
 「作家は断罪しようなどとは思わない。ただ知りたいと思う」
 
 
 というセリフに、はっきりとあらわれている。
 
 この、「ただ知りたいと思う」というフレーズは、個人的にもっとも印象に残ったところ。
 
 というのも、私の友人知人の中には、いわゆる「変わった人」というのが、ちょいちょいいるからだ。
 
 ストリックランドのような、いわゆる「芸術家」もいるし、その他にもおかしなというか、世間的な常識に照らし合わせると浮いていたり、生き方が独自路線すぎて理解されない人などが目白押しだ。
 
 で、そういう人とつきあっていると、よく聞かれるわけだ。
 
 「なんでそんな人らと仲いいの?」と。
 
 特にリア充系の人から、彼ら彼女らよりも「ストリックランドたち」の誘いを優先したりすると、心底不思議そうに。
 
 たしかに、「奇人」とつきあうより、彼らと飲み会スポーツ観戦鍋パーティーでもしたほうが、普通に見て楽しそうなことは間違いない。
 
 そもそも、変人と言われがちな彼ら彼女らと「仲がいい」かも、あやしいもんだ。
 
 でも、その理由はこの『月と六ペンス』の中で、モームが簡潔に解説してくれている。
 
 私は作家ではないけど、「ただ知りたいと思う」から。
 
 モームは『お菓子と麦酒』という小説でも似たようなテーマをあつかっているから、同じようなことを訊かれて当惑している人は、存外に多いんだろう。
 
 これがなかなか、わかってもらえないものなのだなあ。
 
 
 (続く→こちら
 
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藤井聡太「二冠」って、どうすごいの? 「20歳竜王」渡辺明二冠への長い道

2020年09月05日 | 将棋・雑談

 藤井聡太棋聖王位も獲得した。

 という出だしから、ここまで

 「簡単に二冠とか取ってるけど、ホンマはメチャクチャ大変なんよ」

 というシリーズをお送りしているが、前回の羽生善治九段の「二冠ロード」(→こちら)に続いて、今回は先日ようやっと名人になった渡辺明三冠(棋王・王将)について。

 

 渡辺明といえば、小4小学生名人になり、その後、羽生や谷川と同じく2000年に「中学生棋士」となる。

 いわば、早熟のスーパーエリートだが、意外なことにデビューしたころは、それほどの爆発は見せなかった。

 C級2組順位戦では、競争相手だった野月浩貴五段との直接対決に敗れ、1期抜けのチャンスを生かせないなど、今ひとつパッとしない。

 いや、弱いわけではないのだが、勝率もそこそこで、まあ「普通に強い若手」くらいだった。

 本人の弁によると、高校生活を楽しんで将棋に力が入っていなかったそうだが、期待とくらべると拍子抜けな感じ。

 『対局日誌』で有名な河口俊彦八段が、奨励会時代から渡辺を買っていたとよく言われているが、河口老師によると、その将棋は一度も見たことがなく(おいおい……)、期待するのも、

 

 「将棋界に天才は定期的に現れるから」

 「大山康晴十五世名人に似ているから」

 

 という、とんでもなくいい加減なもので(まあ、ものすごく河口八段らしいですが)、実際伸び悩んでいる渡辺について、

 

 「彼はたいしたことないですよ」

 

 なんていう、嫌味を言われたりしたそうだ。

 そんな評価のむずかしい若手時代の渡辺だったが、高校を卒業し、本格的に将棋と向き合いだしてから、かけ上がるのは一瞬だった。

 まず、2003年の第51期王座戦で挑戦者になると、羽生善治王座相手に不利の下馬評(渡辺曰く「勝てるかって? 相手は羽生ですよ、羽生!」)をくつがえして、2勝1敗と奪取に王手をかける。

 そこから羽生が意地を見せ、逆転で防衛するが、最終局では詰ましにいった手が震えて、駒が持てないという異常事態が発生した。

 

2003年第51期王座戦五番勝負の最終局。
どっちが勝つかわからない熱戦の中、羽生の放った△11歩が手筋の受け。
これが「この手があるんですよね」と渡辺を落胆させた好手で、羽生が苦しみながら、かろうじて防衛。

 

 

 敗れはしたものの、

 

 「羽生の手をフルえさせた男」

 

 として名をあげた渡辺は一気の大ブレイクで、翌年には竜王戦の挑戦者に。

 挑戦者決定戦で、A級棋士森下卓九段をストレートで破ったときには「順当勝ち」という雰囲気だったから、いかに渡辺の評価が上がっていたか、わかろうというものではないか。

 七番勝負でも、大豪森内俊之相手にフルセットで勝利し、20歳の若さで棋界の頂点に立つ。

 そこからも、木村一基佐藤康光というビッグネームを退けて防衛(佐藤との2年連続の激闘は→こちら)。

 2008年の第21期竜王戦では、羽生善治名人永世竜王(羽生は永世七冠も)をかけた決戦を3連敗からの4連勝という、これ以上ないドラマチックな展開で制し(最終局は「100年に1度の大勝負」と呼ばれた→こちら)防衛。

 2010年の第23期竜王戦でも、リターンマッチを挑んできた羽生に、4勝2敗で返り討ちを喰らわせる。

 このシリーズはスコア的にも内容的にも、渡辺が完全に

 

 「羽生を上まわった」

 

 という印象を残し、ここにハッキリ「格付け」が決まったというか、

 

 「時代は羽生から渡辺へ」

 

 という空気感はバリバリだったのだ。

 だが、その後もうひとつ「渡辺時代」とならなかったのは理由がハッキリしていて、羽生の巻き返しもあったが、なかなか竜王以外タイトルを取れなかったことも大きかった。

 2007年の第78期棋聖戦で挑戦者になるも、佐藤康光棋聖に敗れる。

 2011年の第36期棋王戦でも、久保利明棋王に退けられ、またも二冠のチャンスを逃す。

 

 

 久保利明との棋王戦。久保が2勝1敗リードの第4局。

 渡辺必勝の終盤戦だったが、▲73角成で勝ちのはずが、△75にいる玉を△76に早逃げするのが「詰めろ逃れの詰めろ」になることを見落としていて大逆転。

 フルセットの決戦になるはずが、急転直下のシリーズ終了で、さすがの渡辺も呆然とするしかなかった。

 

 

 竜王はのちに9連覇を果たすのに、そもそも奪取どころか、タイトル挑戦回数も少ないというのが解せないところだ。

 そんな渡辺が壁を超えたのは、棋王戦敗退後の王座戦

 ここで羽生王座をストレートで降し、ようやっと二冠

 これは羽生の王座連覇を19(!)で止めたところも価値が高かった。

 このあたりから渡辺もタイトル戦の常連になり、2年後には三冠王となる。

 そして今では名人なのだから、河口老師のテキトーすぎる見立てはともかく、モノが違ったのは確かだ。

 そんな男が二冠になるまで初タイトルから8年、デビューからは11年もかかっているとは、おどろきだ。

 それを見れば、18歳で二冠になった藤井聡太が、いかにスゴいことをやってのけたか、よくわかるではないか。

 

 

    (元祖「さばきのアーティスト」大野源一の振り飛車編に続く→こちら)  

 

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「報われない努力があるのならば、それはまだ努力と呼べない」という王貞治理論に懐疑的です

2020年09月01日 | ちょっとまじめな話

 「【無敵理論】って議論に勝ったように見せるに便利だけど、だからこそNGワードにしたほうがええよなあ」

 というのは、意見やイデオロギーがぶつかる場面で、いつも思うことである。

 前回、ウィスコンシン州で起こった、警官による黒人男性銃撃事件に抗議する大坂なおみ選手を支持したい、といったことを書いた(→こちら)。

 そこで、彼女を攻撃する声にちょいちょい見られる、

 

 「スポンサーの迷惑」

 「多くの人がかかわっているのに、その気持ちを考えろ」

 

 といった、

 「どんな意見や反論も、あたかも相手側に非があるように見せられる詭弁

 に警戒すべきと語ったが、これは本当にあらゆるところで出てくるもので、注意が必要だ。

 たとえば、偉大な人なので、名前を出すのは少々はばかられるが、王貞治さんの有名な言葉にも似たものを感じる。

 

 「努力は必ず報われる。もし報われない努力があるのならば、それはまだ努力と呼べない」

 

 私はこう見えて、意外と努力主義である。

 人間がんばれば、それなりに、いいことが返ってくると信じている。

 だからこそ「努力はかならず報われる」的な発想には懐疑的だ。

 努力すれば自分を高められるし、ある程度のスキルも身につくだろうし、自信を得ることも大きい。

 でも、それはあくまで「自分」がどうなるかという問題で、努力と、その結果「報われる」かは、かならずしも因果関係があるとはかぎらない。

 少なくとも必要条件かもしれないが、充分条件ではない。

 下手すると、必要条件ですらないケースもあるのだ。

 「自分を高める」は自分だけですむが、「結果」は他者など競争相手の存在や、才能出会いの有無、経済力時代の要請。

 などなど、数え切れないほどのランダムネスの介在があって、決して自分だけではコントロールできない。

 「一所懸命勉強」すれば、たいていの人は成績が多少なりとも上がるが「第一志望に必ず受かる」かといえば、それは断言などできない。

 試験に出る問題や当日のコンディション倍率の高さや、はたまたそもそも高望みしているかもなど、「努力」でそれを「100%」にはできないのだ。

 それをつかまえて、

 

 「報われてないあなたは、努力が足りないから」

 

 ですむなら、世界のありとあらゆる、おそらくは特定不可能な様々な要因からはじき出されたはずの「結果」を「努力不足」で切り捨てられることになる。

 それは、

 

 「上に立つ者」

 「結果を出せた者」

 

 にとって都合はいいかもしれないが、あまりにも単純で、もっといえば「都合が良すぎる」のではないか。

 これはどんな人にも、結果が出ないだけで「努力不足」って、あたかもその人に責任があるかのように糾弾できる「無敵」の理論。

 正直、かなり理不尽だし、卑怯と言って悪ければ「フェアでない」と思うんだよなあ。

 どうしても、「便利すぎる」ように見えてしまう。

 だって、頭使わず「それだけ」言ってりゃいいんだから、楽なもんだ。

 また、私のようなボンクラより、まじめな人や、がんばっている人ほど乗せられてしまいそうな話なのが、困りものだ。

 もちろん、王さんにそんな気はないんでしょうが、その構造に「気づいてない」可能性は大だし、わかったうえでマウントを取る「卑怯者」もいることだろう。

 中条一雄さんの『デットマール・クラマー 日本 サッカー改革論』という本を読むと、1936年ベルリン・オリンピックで、たまたま「報われた」(はっきり言って大まぐれで)メンバーたちが、いかにそれを振りかざして、日本サッカー発展の足を引っ張ったかよくわかる。

 結果が「努力」だけで生まれないことは、

 

 レナード・ムロディナウ『たまたま』

 フランス・ヨハンソン『成功は“ランダム”にやってくる!』

 

 とか、いろんな本に書いてある。

 あのダウンタウンの松本人志さんですら「芸人が売れるのは」と言っているのだ。

 昨年、はじめてタイトルを獲得した将棋の木村一基九段は、それまで6回も挑戦に失敗してきたが、その理由が、

 

 「今は努力したが、昔は努力が足りなかったから」

 

 では絶対ないはず。

 あまりにイノセントすぎる考え方だし、なにより、そんなのは木村九段に対して、あまりにも失礼ではないのか。

 芦田愛菜さんのように、この言葉に感銘を受け、礎にしてがんばっていくというのは、すばらしいことである。

 けど、だれかが「結果」を出せなかったり、「報われなかった」と失望したり、その実力や才能よりも得られるはずの実りが少なかったとて、それを、

 

 「努力と呼べない」

 

 で片付けてしまうのは、

 「なーんか、それだけではねーんでないの?」

 と感じてしまうのだ。ハッキリ言って、論点のすり替えでしょう。

 

 「努力はかならず報われる」

 「失敗したのは、自分のがんばりが足りなかったからだ」

 

 というのはシンプルでわかりやすく、ある意味「美しい」言葉なので、人が惹きつけられるのは理解できる。

 だからこそ、警戒が必要なのだと思うのだ。

 チェスの元世界チャンピオンであるガルリ・カスパロフ氏も「才能」や「努力」「結果」というものを、道徳的観念単純化すること、つまり、

 

 「X選手のほうが才能があるのにY選手が勝った。それはY選手の努力が上まわったからだ」

 

 という言い回しを、「いささか滑稽に聞こえる」と著書の中で書いている。

 世界はもっと複雑で、個人の能力や感覚や経験では、はかれないことが山のようにある。

 それを無視して「努力不足」の一点で人を断罪するのは、

 

 「一瞬、いいこと言ったように見える」

 

 という誘惑はあるけど、「フェアでない」し、不幸の総量をいたずらに増やすだけ。

 場合によっては視野狭窄におちいり、「原因の究明」や「改善策の検討」といった健全な考えを「見ないふり」したり、最悪なのは「言い訳」「サボり」と決めつけたりしがちだ。

 そうなると、結果的に「報われる」とこからも遠ざかる恐れがあるから、私は今ひとつ懐疑的なのだ。

 

 

 

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