マリファナ(大麻)と覚醒剤 副作用とか何が悪いの? その2

2016年03月30日 | ちょっとまじめな話
 前回(→こちら)の続き。

 「覚醒剤やなくて、マリファナにしといたらよかったのに」。

 有名人のドラッグ事件のニュースに接すると、いつもそんなことを思うのである。

 マリファナはいろんな意見があるにしろ、

 「副作用がどうとかより、労働力が低下するからやってほしくない」

 という「支配者側の都合」だが、覚醒剤は別である。

 ドラッグの世界は俗に「ケミカルはダメ」「白いモノには手を出さない」が原則と言われる。

 マリファナだとせいぜいが、ヘラヘラ笑ってだらしなくなるくらいだが、覚醒剤やヘロインやコカインはがっちり中毒になるし、禁断症状はキツイし、人間としてこわれてしまう。

 「ラリッて殺人」とかは、たいていがこれら「白い」ドラッグである。こっちはシャレにならないので、法とか以前に人としてやってはいけない。

 ソフトドラッグは

 「ハッピーになって働かなくなるから、やってほしくない」

 だから禁止。ハードドラッグは

 「マジで終わるし、人にも大迷惑」

 だから禁止。その思想が、根本的に違うのだ。

 なもんでこの手のニュースを見るたびに、衝撃とかよりも、

 「マリファナなら逮捕だけですむのに」

 などと、的外れな感想をいだいてしまうのだ。いやいや、つっこむとこそこやない、と我ながら思いますけど。

 この手の話は、昔ヨーロッパを旅行したときに、アムステルダムのユースホステルでいろいろ聞いたものだ。

 「ここで吸うために1年がんばって働いている」

 というガンジャ大好き日本人旅行者から、

 「マリファナの自宅栽培法」
 
 「EU圏内を陸路で密輸するには」

 「ニオイをごまかすには、このデオドラントが一番!」

 といったイリーガルなお話から、

 「大麻栽培って光を当てなあかんから、おまわりはまず電気メーターをチェックするんや」 

 「ヨーロッパはパスポートコントロールがなくなって、楽になったわあ」

 「某空港では、尻の穴自分で広げさせられて、中調べられたわ」

 などといった愉快な(?)「あるある」ネタまで、今ではネットがあるからさほどでもないだろうけど、当時は「おお、そんな世界もあるんや」と興味深く聞かせてもらったもの。

 もっとも、他の日本人旅行者がさざ波のようにひいていくのには、まいりましたけど。

 なんてことを呑気に話していると、「おまえはマリファナをすすめているのか」と怒りの声が届きそうだが、別にそういうことを主張するつもりはないし、私自身もやったことはないし、やる気もない。

 大麻自体は、イメージほど悪いものとは思わないけど、法で禁じられている以上それは遵守すべきとは考えている。

 やりたければ、めんどくさいけどオランダなりインドなりに出向きましょう。

 あと、マリファナに興味を持っている人がいれば、それを止める決定的な一言というのが存在します。

 それは副作用であって、ハッパを吸っても基本的に『バスケットボール・ダイヤリーズ』のデカプーみたいに、地獄の禁断症状に苦しめられることはないけど、もれなくこれがついてくるという。

 「吸うと、食欲が増す」

 たぶん、心身がゆるくなって満腹中枢がサボるんだろうと思うんだけど、とにかくお腹が減って、ばくばく食べてしまうそうです。

 だからガンジャを決めると大デブになる可能性が。医療大麻では食欲不振の治療に使うくらいだから、本当に食べたくなるのだろう。

 「実はね、ちょっと大麻が手に入りそうなんだけど、やってみない?」

 好奇心からそんなことをつぶやく女の子には、ニッコリ笑って、

 「でも、太るらしいよ」。

 他のどんなデメリットを語るより、これで結構な数の女性を踏みとどまらせることはできるんではなかろうか。ホンマかいな。


 

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マリファナ(大麻)と覚醒剤 副作用とか何が悪いの?

2016年03月29日 | ちょっとまじめな話
 「覚醒剤やなくて、マリファナにしといたらよかったのに」。

 というのが、清原和博容疑者逮捕の報を受けての第一印象であった。

 清原選手や、少し前ならASKAミュージシャンなど、ヒロポンで逮捕される人を見るたびに、いつも抱くがこの感想である。

 蓮舫議員ではないが、

 「なぜシャブなんですか? ハッパじゃダメなんですか?」

 というと、「いやいや、ガンジャもだめだっつーの!」と、つっこまれそうであるが、同じ「麻薬」としてくくられがちなこの2つは、決定的な相違というものが存在するといわれる。

 マリファナは「法律で禁止されてるからダメ」

 覚醒剤は「法律で禁止されているうえに、人間がこわれるからダメ」

 マリファナは中島らもさんのような「解放論者」が言うように、ドラッグとしては相当にゆるいもの。人によっては、酒や煙草よりも安全と主張することもある。

 たしかに酒は依存しすぎると、こわれるうえに死ぬが、マリファナでそういう話はあまり聞かない。

 強烈な禁断症状に悩まされたり、「副作用で錯乱して銃乱射」とかそういったものも、アルコールやハードドラッグの専売特許。

 というと、マジメな人の中にはムキになって

 「そんなことはない。マリファナにだって中毒性や副作用はあるよ!」

 と主張して、それはたぶん間違ってはないんだけど、覚醒剤やアルコールとはまた違う次元のものなのだ。

 マリファナがイメージほど危険でない証拠に、オランダのアムステルダムでは場所さえ守れば自由に楽しめるし、アメリカの一部の州などでは病気の治療に「医療大麻」を用いている。カナダもふくめ、基本的に北米は解禁傾向にある。

 よく凶悪な犯罪者が逮捕されたときに、「目が血走っていた」「わけのわからないことをわめいて暴れた」なんて情報のあと、「容疑者は大麻を保持し」という流れになることがある。

 これに司会者が「やっぱり」などとコメントすることもあるが、これは報道側の手抜きか勉強不足。

 大麻は基本的にはダウナー系で、吸いこむとゆるゆるになる。

 目が血走るどころか、むしろそういう暴力衝動を抑える作用があり、多少ハッピーになってテンションの上がることもないことはないけど、「マリファナを吸って暴れる」というのは、「冷蔵庫でモノを温める」みたいな矛盾があるわけだ。

 私もアムステルダムでキメキメになって、フワフワしてる人をいっぱい見たから、それはわかります。

 では、なぜにて法はマリファナを規制しているのかと言えば、

 「国民が働かなくなり、戦場にも行ってくれなくなるから」。

 国というのは特に帝国主義的大国(もしくはそれに従属するか、あこがれている国)にとって「労働力」と「軍事力」というのは、欠かせない戦力である。

 ところが、国民がマリファナを吸ってハッピーになると、

 「そんなしんどいこと、なんでせんならんねん」

 そう言って、ボイコットされてしまう。現に、ベトナム戦争に反対していたヒッピーたちはマリファナを吸って「ラブ&ピース」とやってた。

 そう、大麻を吸うと愛と平和を重んじる、ゆるい心持ちになれる。だから、支配する側はそれを嫌がる。もちろん勤労意欲は失せるから経済力も落ちる。

 端的に言えば「支配力」がなくなる。幸せにはなれるが、国力が弱くなるのだ。

 それを「堕落」ととらえるか「ハッピーでいいじゃん」ととらえるかが、大麻反対論者と賛成論者の分かれるところだろうか。

 一方、覚醒剤はダメ。こっちは、間違いなく人間がこわれるから。


 (続く→こちら



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ノバク・ジョコビッチもまた男である! と独眼鉄先輩は言った その2

2016年03月26日 | テニス
 前回(→こちら)の続き。

 「ノバク・ジョコビッチは男の中の男だ」

 そう言い切る根拠は、彼が無敵の王者だからではない。いやむしろ、痛恨ともいえる敗北を喫したあと語った言葉にある。

 フレンチ・オープン決勝でまさかの逆転負け。最大の目標であったタイトルを目の前でかっさらわれたノバクは、ここで落ちていくのかと思いきや、雄々しく試合後のインタビューや取材に応えた。

 そこで言ったことというのが、

 「テニスにおいてもっとも重視されるべきなのは結果だが、それ以上に大事なことがある。それは気骨を見せることと、対戦相手に敬意を払うことだ。僕はそのために出てきた。そしてスタンのテニスはすばらしかった。勝利に値するプレーだった。優勝おめでとう」。

 雑誌でこの一文を読んだとき、私は大げさではなく震えた。人目もはばからずに立ち上がり、吠えたのである。

 「くわあ、ノバク、おまえ、カーッコエエエエエエエエエエエエー!

 スポーツにおいて絶対的な正義というのは勝つことだが、勝負というのはいつもそうあれるわけではない。

 ときには負けることもあり、テニスのような相手のいるスポーツでは、結果を100%自分ではコントロールできないのだ。

 ならば、逆の目が出てしまったときにどういう態度をとれるかが、試されることであるといえる。

 勝って、はしゃいだり、名言を言ったりするのは、きっとたやすいことなのだ。でも、すべてがうまくいかなかったときにどうすべきか。

 気骨を見せること、そして対戦相手に敬意を払うこと。

 これ以上ないほどの見事な解答。正しく、完璧で、そしてなにより正義の答えだ。

 しかも彼は、それを皆の前ではっきりと実践した。

 グチらず、泣き言も言わず、言い訳もせず、ライバルをおとしめることもなく、彼は気骨を見せた。

 おそらく、泣きたかったろう、いや実際トイレでひそかに泣いたかもしれない。マッチポイントが決まった瞬間からこのかたずっと、ショックで、その場にへたりこみたかったにちがいない。

 それをグッと飲みこんで、スタン・ワウリンカに拍手する。なんてカッコイイ。私はこういう強がりや、やせがまんを軽く見ない。本当に強くないと、人は案外強がったりできないものなのだから。

 そして、さらにすごいことに、ノバクは次のウィンブルドンで見事に優勝した。

 もちろん、勝負の世界は「切り替えが大事」だし、「敗戦の傷をいやすのは次の勝利」でもあるわけだが、それにしても、そんな簡単にできることでもないはずだ。

 それをまあ、かくも鮮やかにやってみせる。それどころか、USオープンも取り、マスターズ6勝をふくむ年間11勝、最終戦も勝って、勝率9割越え、本人も納得の「最高のシーズン」でしめくくったのだ。すごい精神力ではないか。

 この事実をもって、独眼鉄先輩に言いたい。「真の男は、ノバク・ジョコビッチである」と。

 テニスの強い男はかっこいい。優勝する男もかっこいい。

 だが、もっともかっこいいのは、きびしい敗北のあと、胸を張ってあらわれ、そして「気骨を見せ」「対戦相手に敬意を払える」そんな男だ。

 それが王者ノバク・ジョコビッチである。

 こんなシビれる男に、テニスの神様がもう意地悪などするはずがない。

 今年こそノバクはフレンチ・オープンを、それも「今までのもたつきはなんだったんだ?」と思わせるほどの圧倒的な強さで取り、見事「ジョーカースラム」を達成することだろう。

 そのことを私は、ほぼ間違いないと確信している。




 ☆おまけ ジョコビッチといえば、この試合。2012年全豪決勝のナダル戦(→こちら)。5時間53分
の死闘でした。





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ノバク・ジョコビッチもまた男である! と独眼鉄先輩は言った

2016年03月25日 | テニス
 ノバク・ジョコビッチは男である。

 「男とはなんぞや……!?」と問うたのは男塾三号生の独眼鉄先輩だ。

 この答えには「男は度胸」「男は甲斐性」「いやいや、しょせんは顔か金でしょ」などなど諸説あるが、私はここに断言したい。

 「ノバク・ジョコビッチこそが、真の男である」と。

 と大上段に振りかぶると、世のテニスファンからは、

 「いやいや、そりゃそうでしょ。なんたって現テニス界の不動のナンバーワン。今年のオーストラリアン・オープンでも錦織にフェデラー、マレーといったトップ選手を寄せつけずに3連覇。強すぎるよ。こんなん、だれが見たって、男の中の男じゃん!」

 などと笑われてしまうかもしれないが、それはちょっと違うのである。

 もちろん、今のノバク・ジョコビッチは強い。無敵のチャンピオンだ。

 その存在感は、もはや師匠であるボリス・ベッカーをもしのぐ勢いで、もしかしたら「生ける伝説」「史上最強」といわれたロジャー・フェデラーにも迫るのではないかとすら感じさせる。

 だが、私がノバクを「男だ」と言い切るのは、彼が強くて常勝だからではない。

 いや、むしろ逆だ。私が彼を高く評価するのは、負けたときのこと。そう、健闘むなしく敗れ去ったときに取ることのできた態度。

 そここそが「男の中の男や!」と感嘆せしめたところなのである。

 他を寄せつけぬ勢いでツアーを席巻するジョコビッチだが、彼に唯一欠けているタイトルというのが存在する。

 そう、フレンチ・オープンのトロフィーだ。

 テニスでは全豪、全仏、ウィンブルドン、全米の、4大大会すべてに勝つことを「グランドスラム」と呼ぶが、ノバクは他のタイトルはすべて複数回取っているにもかかわらず、ローラン・ギャロスのみが準優勝3回。いまだ優勝することができていない。

 グランドスラム達成にフレンチで苦戦するというのはテニス界の「あるある」であり、ジミー・コナーズをはじめ、ステファン・エドバーグやボリス・ベッカー、ピート・サンプラスなど、幾多のチャンピオンがこのタイトルだけ取れず涙を呑んできた。

 ノバクもまたご多分に漏れず、クレーを苦手としているわけでもないのに、なかなかカップを掲げることができない。

 特に、昨年度の大会はクレーシーズン負けなしの絶好調で、準々決勝では過去10年で9回の優勝を誇る(今さらながら無茶苦茶やな……)「クレーキング」ことラファエル・ナダルに完勝し、決勝の相手は相性の良いスタン・ワウリンカで、しかも第1セットを先取しながらも、そこから逆転負けを食らっての、グランドスラム達成ならず。

 まさか私も、あそこで負けるとは思わず、マッチポイントが決まったあと、しばらく呆然とすわりこんでしまったくらいだ。それくらいに、まさかまさかの結果だった。

 で、話はここからだ。普通に考えたら、このタイトルに狙いを定めて、調整も万全で、絶好調のまま無敗で決勝まで行き、最後の最後に敗北。

 1年間の努力が水泡に帰したのだ。この脱力感といったらないだろう。

 2009年のウィンブルドン決勝で、テニスキャリアのすべてをかけて戦い敗れたアンディ・ロディックや、1997年USオープン準決勝で、ほぼ優勝確実と思われながらも足元をすくわれたマイケル・チャンなど、ビッグマッチで敗れて、その落胆から下降線をたどってしまう選手というのは多いものだ。

 われらが錦織圭も、おそらくは「ねらっていた」はずの2015年USオープンでマッチポイントから、まさかの1コケを食らったときは、その後明らかに、シーズン前半の勢いを失っていた。

 かくも、大一番を敗れたところから立て直すのは、百戦錬磨のトップ選手ですら困難を極めるのだ。

 そこに、まさかのフレンチ敗退である。この敗北に打ちのめされたノバクも、もしかしたらおかしくなってしまうのかと感じた方も多いのではないか。

 ところが彼はそうではなかった。本来なら落胆のあまり、一歩も外にだって出たくないような心境だったと推測されるが、彼は試合後のインタビューや取材にもきちんと応対していた。

 そこでノバクはこう言ったというのだ。



 (続く→こちら



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エマミ・シュン・サラミ『イラン人は面白すぎる!』を読んでエンジョイ・イスラム! その2

2016年03月15日 | 
 前回(→こちら)に続いて、エマミ・シュン・サラミ『イラン人は面白すぎる!』を読む。

 「ならずもの国家」と見せかけて、実は、

 「電話しながらお祈りをする人もいる」

 「北枕ならぬメッカ枕は縁起がいい」

 などなど、ゆかいでフレンドリーなイランとイスラム文化を紹介してくれる本書。

 とにかく堅苦しい学術書とちがって本職の芸人さんが書いているのだから、その話術にゲラゲラ笑わされながら、異国文化のことを知ることもできるオトクな一冊。

 中でももっとも「なるほど」と感心したのは、メッカにあるカアバ神殿での巡礼について。

 メッカに巡礼した人は、ムスリムの中でも尊敬を勝ち得るというのは聞いたことはあるけど、具体的にどういうことをしているのか、リスペクトの度合いも、どれくらいなのかは、よくわからない。

 エマミさんいわく、それは300万人近くの老若男女が3日間にわたって、かなり過酷な「修行」を行うビッグイベントだそう。

 毎年けっこうな数の死者も出る体力的にも環境的にもハードなものだが、ではそれを終えた巡礼者がどれほどあがめられるのかと言えば、

 「仲間内で一番に童貞を捨てた人」

 くらいに尊敬されるのだそうな。

 このたとえには、心の底からうならされた。

 なーるほどー、これには私のみならず、世の全男子が「そういうことか!」と納得したのではなかろうか。

 一番に女を知ったヤツくらいに尊敬。これほどにすんなり入ってくるたとえが、ほかにあるだろうか。

 ムスリムでなくとも、一発でメッカ巡礼のすごさがわかるというものだ。「それか!」と。

 この話にはオチがあり、2003年に著者の友人がビザのトラブルで日本からイランに強制送還されたのだが、その彼というのがメッカ巡礼者だった。

 で、別れの言葉が、

 「巡礼者という勲章は、日本では何の役にも立たなかった」

 そのセリフのシブさもさることながら、そこは巡礼者もエマミさんにならって、「一番最初に」のたとえを入国管理官にぶつけてみるべきだったろう。

 管理官が男だったら、間違いなく

 「それは……すごいことだ……

 となって、ビザくらいちょちょいと処理してくれたかもしれないのに。機転が利かなかった。

 かくのごとく、とにかくこの本に紹介されているエピソードの数々は爆笑また爆笑である。

 イランの聖地巡りでは、日本と同じようにスタンプラリー(!)があって、子供たちは景品目当てで参加。

 そこでもらった金のボールペンを使えば

 「アラーのご加護で100点が取れるんや」

 と息巻いていたクラスメイトが、なんと見事に0点をたたきだし、思わず

 「オー、ジーザス!」

 と、天をあおいでしまったとか、断食の季節は食欲を刺激しないようにグルメ番組は放送中止で、料理を禁じられたシェフが1時間ひたすらカメラの前で踊るとか(でもおなかが減っているのですぐヘバる)、『アンパンマン』ではアンパンマンの顔にモザイクがかかるとか。

 おもしろすぎて、本書の欠点は間違いなく
 
 「エピソードが仕上がりすぎてて、《作り》にしか思えないこと」

 なんだけど、でもこういう視点でイスラムを語るというのは、けっこう「アリ」だとも思わされる。

 昨今、ISのテロなどで、ますますイメージが悪くなっているイスラムだが、そこには誤解を恐れずいえば「笑い」の要素が少ないことにも問題があるのでは、とは昔から気になっていた。

 やはりニュースなんかの影響で「なんとなく怖い」と思わされているのだろう。

 私は旅行好きで、イランはまだだけどイスラムの国もけっこう行ったことがあるから、エマミさんの語る「楽しいイスラム」は実感できるところはある。
 
 彼らは、特に旅人や外国人にはフレンドリーで(『コーラン』に「そうしなさい」と書いてある)、私も仲良くなって、

 「イスラム教徒になれ」

 「ならないなら、せめて名前だけでももらってくれ」

 などと誘われたこともあるくらいだ(その顛末は→こちらから)。

 膠着した、「支配階層がそう思ってほしいイスラム」ではなくて、もっとこう市井のゆるい、「楽しいイスラム」が、もっと紹介されたりすると、いま世界で起こっている不幸な誤解も、多少はほぐれるのではないだろうかという気もするのだが、どうだろうか。




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エマミ・シュン・サラミ『イラン人は面白すぎる!』を読んでエンジョイ・イスラム!

2016年03月14日 | 
 エマミ・シュン・サラミ『イラン人は面白すぎる!』を読む。

 著者はイラン生まれでテヘラン育ち。

 10歳で来日し北海道で日本になじみ、長じてからはなんと「デスペラート」という、吉本興業所属のお笑い芸人となった異色の経歴を持つ。

 核開発や「ならずもの国家」といった偏ったマイナスイメージのついた母国について悲しみ、本当は「日本が大好き」で「面白すぎる」イランとイスラムを知ってほしいという著者の願いから書かれた本だ。

 というと、文化論や宗教の話など、なんだか堅苦しい内容かと思いきや、そこは本職が芸人さんのこと、読んでみるとこれがメチャクチャに笑えるのである。

 著者の言うように、我々日本人はイランとかイスラムと聞くと、どうしても

 「宗教でがんじがらめ」

 「悪い出稼ぎ労働者」

 果ては欧米列強のプロパガンダにのせられて「アルカイダの一味」なんて的外れな誤解を抱きがちだが(スンニ派の多いアルカイダとシーア派のイランは仲が悪い)、それがあまりにかたよったものであることを、この本は教えてくれるのだ。

 たとえばイスラムと言えばよく出てくるのが、あの日に5回(シーア派のイランでは3回)のお祈りタイム。

 宗教になじみのない我々には、あの同じ時間に一斉に祈る姿というのは、どこか「狂信的」なイメージを与えるが(また伝える側も、そう取れるように絵を流しがち)、これが実際には、かなり人によって温度差があるそうな。

 仮病を使ってサボる者、「心の中でお祈りした」と、とんちで逃げるもの、さらには電話をかけながら祈る者など、しまいには

 「地面アレルギーだからお祈りできない」
 
 とか、無茶ないいわけをかましたりする。

 また、イスラムと言えばアラーである。

 我々のイメージでは唯一絶対の存在であり、みだりに名前を出したりしてはいけないのではないかと考えてしまうが(親戚のユダヤ教ではそう)、イランにかぎらずイスラム国では逆で、なんでも

 「アラーのおぼしめし」

 で、すましてしまうそうな。

 遅刻した→「遅れたのは、アラーのおぼしめしッス」

 どんなおぼしめしだよ! 待たされた方はブン殴りたくなるが、本当にそれですましてしまうのだから、時間にうるさい日本人はお口あんぐりである。

 それどころか、約束を破ってもアラーのおぼしめし、召使いが主人の宝石を盗んでもアラーのおぼしめし、しまいにはケンカした者同士が、

 「これはアラーのご意志だ」

 「じゃあ、オレはアラーのご意志でおまえをなぐる」

 「じゃあ、オレはアラーのご意志でおまえをなぐりかえす
 
 こうなると、アラーってなんなのか、よくわからなくなってくる。えらい神様と言うより、どんな場面でも使える便利なアイテムあつかいである。

 またイスラムの聖地と言えば、サウジアラビアのメッカやメディナ、エルサレムにイラクのナジャフなどが有名だが、これをエマミさんは

 「日本の北枕ならぬ《メッカ枕》は縁起がよい」

 メッカ枕! これまたすごい発想であるが、そういわれるとやはり日本人としては、

 「なるほど、メッカの方角って、大事なんや」

 と伝わってくる。メッカに足を向けて寝るとよくないというのも、こっちと同じだ。ホンマかいな。

 エマミさんの友だちは、子供のころふざけてお尻を出して遊んでいたら、

 「メッカのある方角にケツを出すな!」

 と怒られたそうである。

 「メッカにケツ出すな」。いいフレーズだなあ。トイレの便座も、尻の位置が聖地に向かないよう設計するとか。風水みたい。

 このように、最初から最後まで「イラン・イスラムすべらない話」が詰まった爆笑必至の一冊。でも、読み終えるとイランの文化や愛すべきイラン人気質が、ぐっと伝わってくる。

 「イスラムって怖いんでしょ?」と漠然と不安に思っている方は、一読してみてはいかがでしょうか。


 (続く→こちら




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男同士の誕生日プレゼント その3

2016年03月11日 | 若気の至り

 前回(→こちら)の続き。

 「誕生日には、おたがいが嫌がるプレゼントを贈りあおう」

 桜玉吉さんのマンガに影響されて、そんな気ちがいのような協定を結んだ私と友人サカマチ君。

 そこで前回の3月9日、ここに発動された「メイガス作戦」により、私の誕生日にはおたがいに

 「通天閣の置物」

 「高校時代に体育の授業で使っていた柔道着」

 を贈り合い、これでもかと嫌な気分になった我々であった。

 時は7月11日。今度はサカマチ君の誕生日である。

 友の記念日は、最高の日にしてあげたい。その努力を怠ったとき、私の中の大和魂は死ぬ。彼のために極上のプレゼントを用意して、家におじゃますることとなった。

 しばらくはワインなどいただきながら優雅に「おめでとう」「ああ、どうもありがとう」などとやりあっていたが、いよいよやってきたのがプレゼントタイムである。そこで私が「よかったら」ときれいにラッピングされた箱を彼に手渡した。

 「開けてもいいかい」「もちろんさ」といったやりとりのあと、箱の中にあったのはズバリ、

 「ローマ法王のブロマイド」

 これはイタリアを旅行したときバチカン市国で見つけて、科特隊のイデ隊員のごとく、こんなこともあろうかと買っておいたのである。

 私はサカマチ君のテレビの上に置いてあった写真立てを手に取ると、

 「いかんなあ、こんな軟弱な物を飾っていては」

 彼がガールフレンドと一緒に写っている写真を床に放り投げ、代わりにヨハネ・パウロ2世の写真をそこに差し入れた。

 「どうだい、なんだか敬虔な気分になるじゃないか」。

 さらには部屋中に、両面テープで法王をの写真を貼り付けていった。これで360度、どこを向いてもヨハネである。

 サカマチ君は引きつった笑顔で、

 「いいね、なんだかこういう部屋だと神の存在を実感できるね」

 などといっていたが、その目は全力で

 「こんなん、ただのジジイやんけ

 と訴えていた。ちなみにサカマチ君の家は浄土真宗である。

 そんなサカマチ君の姿を見て私は勝利を確信した。

 さあ、そっちはどんなカードを切ってくるんだい、と「余裕のゆうちゃん」といったいにしえのフレーズな風情ですわっていたら、彼は「僕からのプレゼントはこれさ」と、やおらアコースティックギターを取り出したのである。

 そしていうことには、

 「キミに捧げる曲を作ってきたんだよ」。曲名は「愛する友よ」。

 そしてサカマチ君はギターを弾きながら歌いはじめた。なんやら妙ちきりんなバラードで、その歌詞も、


 「ああ~キミに出会えてよかったあああああ」

 「永遠の友情ををををを~」

 「あああ、来世でも出会えたら素敵さああああああ」


 
 みたいな中身ゼロの内容で、それを谷村新司の『昴』を歌うおっさんのように情感たっぷりに歌い上げてくれるのだ。

 これはかなりの破壊力であった。しまった、完全に油断していた。奇襲攻撃を食らった私は思わず

 「勘弁してくれ!」

 悲鳴を上げそうになったが、そこは丹田にぐっと力を入れて耐えた。土俵際のねばり腰である。

 ようやく曲が終わって、ゆがんだ笑顔で拍手をし、

 「ありがとう、うれしいな、キミと出会えてホントに良かったよ」

 と、かろうじて答えることはできたが、友に

 「これ、実は2番もあるんや」

 といわれて腰が抜けそうになった。

 その後、やはりくだらなさ大爆発の2番も静聴させていただいたあと、この曲をサンプリングしたというテープまでいただいた。

 いらん、こんなもん金もらってもいらんわ!

 まったく、私の友というのは油断ならない連中が多い。テープを受け取るなり、

 「ありがとう。家に帰ったらすぐさま上から子門真人「ゴジラとジャガーでパンチパンチパンチ」をダビングしてすべて消させてもらうよ」

 そう宣言すると、彼は

 「こちらこそ、全然いらんけど微妙に捨てにくい物をくれて、感謝の言葉もないさ」と答えた。

 友の良き日に、こんなひきつった笑顔を見られて私も満足だ。

 おたがいがおたがいを、こんなにも微妙な気分にさせる、両者すばらしいファイトであった。

 今日もまた、どちらもゆずらず決着はつかなかったが、それもまたよしか。

 しめくくりに笑顔で

 「あんたやるな」と手を差し出すと、友もまた笑顔で「フ、お前もな」とその手のひらを強く握りしめてきて、我々はあらためてその固い友情を確認しあったのであった。





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男同士の誕生日プレゼント その2

2016年03月10日 | 若気の至り

 前回(→こちら)の続き。

 「誕生日には、おたがいが嫌がるプレゼントを贈りあおう」

 桜玉吉さんのマンガに影響されて、そんな気ちがいのような協定を結んだ私と友人サカマチ君。

 時はきた。3月9日、堂々たる私の誕生日である。ここに発動された「メイガス作戦」により、わが家にお祝いのためやってきてくれたサカマチ君と「誕生日おめでとう」「いやありがとう」などと、たわいないあいさつをかわしていた。

 やがて彼は、「そうだ、キミのためにプレゼントを買ってきたんだ」と、きれいにラッピングした箱を渡してくれた。

 フ、友よ、少しは私を感心させるものを見つけてきたのかいセニョール。と内心余裕をかましながら、

 「開けてもいいかい」

 「もちろんだとも」

 開けてみると、中身はワインの小壜くらいの大きさの通天閣の置物であった。

 いらん! こんなもんいらん!

 私は部屋のインテリアはシンプルさを旨としている。ゴチャゴチャと飾り立てたりしない。フラット感を大事にしているのである。ゆえにアイドルのポスターを貼ったり、食玩のフィギュアを置いたりもしない。

 そこに通天閣。澄んだ水に墨汁を一滴落とすと、それだけで水が真っ黒になってしまうが、それと同じである。

 この通天閣ひとつで、簡素にして簡潔を基調にした私の部屋は台無しになるのだ。だいいち東京タワーの置物を部屋に置いてる東京人がいないように、通天閣飾ってる大阪人なんかおるか!

 と叫びたくなったが、もちろんそんなことはプライドにかけて口が裂けても言えない。なぜなら、そういう「ルール」だからだ。

 おたがいに嫌がるものを贈り合う、つまりはそれを「いらんわ!」とマジでつっこんだ方が負けなのだ。これは男の戦いなのである。

 私はひきつった笑顔で、

 「ありがとう、やっぱり通天閣は大阪のシンボルだからね。来年の甲子園は通天閣高校と南波高校、どっちが出てくるのかな」

 置物を受け取った。

 こんな素敵なプレゼントをもらった日には、お返しをしなければならないだろうと私が用意したのは

 「高校時代に体育の授業で着ていた柔道着」。

  私の学校では体育の時間に柔道の授業があったのである。その時のもの。文字通り、私の血と汗がしみこんだ、お好きな人にはたまらない一品である。

 「ほら、サカマチ君は今度スポーツでも始めようかななんていってたじゃないか。よかったら使ってくれよ」。

 異臭がする柔道着を前に、一瞬しかめっ面をしたサカマチ君だが、すぐさま笑顔に戻り、

 「いいね、ちょうど花見で賀間さんのコスプレをしたいと思ってたんだ」

 そう返してきた。

 それにしても、通天閣の置物という絶妙にいらないプレゼントに、使い古しの柔道着というゴミにも動じないサカマチ君のセンスと精神力はさすがである。今回のところは痛み分けといってもいいかもしれない。

 そこでこちらから、

 「あんたやるな、燃えないゴミの日が楽しみだよ」

 と手を差し出すと、

 「今年の大掃除は、ぞうきんに困りそうもないね」

 と力強く握りかえしてきて、我々は改めてその固い友情を確認しあったのであった。


 (さらに続く→こちら




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男同士の誕生日プレゼント 

2016年03月09日 | 若気の至り

 「誕生日には、おたがいが極上に嫌がるプレゼントを贈りあおうじゃないか」。

 そんな気の狂ったような提案をかましてきたのは、友人サカマチ君であった。

 3月9日は私の誕生日である。誕生日といえばO・ヘンリーのおっちょこちょいの夫婦者がおたがいに間の抜けたプレゼントを贈り合うスットコ……もとい、愛情あふれたすれちがいのすばらしさを描いた『賢者の贈り物』が有名だが、我々にもその手の心温まるエピソードにはこと欠かないものなのである。

 学生時代友人サカマチと私は、おたがいの誕生日にはプレゼントを交換しあうという決まりがあった。

 と書くと、なんだかゲイの恋人同士のようだがそうではなくて、我々のプレゼント交換にはひとつの不文律があった。

 それは「相手のめっちゃ嫌がる物をプレゼントする」というものである。

 これは桜玉吉さんのマンガ『しあわせのかたち』に影響を受けたもので、悪友サイバー佐藤さんが「誕生日になんかくれ」というのに対し、玉吉さんは「阿呆か!」と答えながらも、そこで名案とばかりに、

 「ようし、じゃあおたがいに相手が嫌がるものを贈り合おうじゃないか」

 そう提案するというエピソードがあるのだ。

 「おたがい。絶対にいらない物をプレゼントしあおう」

 「ふ、負けないぜ」


 などと、いい大人が中学生みたいなノリで張り合って、それぞれ

 玉吉→佐藤「趣味の悪いキラキラ光りながら回転する蝶の置物」

 佐藤→玉吉「バンドもやっていないのに、ドラムのシンバル」


 を贈りあっていた。

 その後ふたりはひとしきり、ひきつった笑顔で


 「マジ? これほしかったんだ」
 「うおー、この贈り物サイコー」



 はしゃぎあってから、そこでいわゆる「ゲッペルドンガー先生」(絶望先生より)に襲われて、

 「こういうことは、二度としないでおこうな」「うん……」

 と、うなだれるというオチがつくのだ。

 もう、何度読んでも腹をかかえて爆笑で、私も大好きなネタだが、これに感動したサカマチ君は「ぜひ、オレたちもあれにならおう」と、玉吉リスペクトで、言い出したわけだ。

 なにを阿呆なことを言っておるのか。なんでわざわざ、めでたき日にそんなくだらないことをしなければならないのか、かような幼稚なイベントにはぜひ参加したいということで、嫌がるプレゼント選びに血道を上げることになった。

 ここに「メイガス作戦」と命名されたそれによって、我々は運命の3月9日をむかえるのだが、それが冥府魔道への第一歩であることを我々は知らなかったのであった。


 (続く→こちら


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少年たちのアブノーマルな性の目覚めあれこれ その2

2016年03月06日 | 若気の至り

 「子供のころの『性への目覚め』って、どんな感じやった?」



 あるとき飲み屋でそんなことを言い出したのは友人ヒメマツ君であった。

 そこで前回(→こちら)は、



 「『ジョイスティック』という言葉にエロスを感じた」

 「ウルトラセブンが、ボーグ星人に押し倒されるところで興奮した」



 などといった、

 「ツイストの効いた性の目覚め」

 を紹介したが、もちろんのこと私にも、そういう経験はあって、それは江戸川乱歩なのである。

 

 「乱歩先生→ホームズクリスティー→乱読バリバリ」

 

 という、正統派ミステリファンである私だが、乱歩先生のスタートもご多分に漏れず「少年探偵団シリーズ」であった。

 小学生のころ、その中の一冊である『魔人ゴング』という本を手に取ると、こんなシーンがあった。

 怪人二十面相扮する魔人ゴングのアジトに、名探偵明智小五郎は、助手の小林少年を潜入捜査に送りこむことにした。

 だが、そのままの姿だと、すぐ正体がバレてしまう。

 そこで明智探偵は小林少年に女装をさせる作戦を提案(小林少年は大変な美少年)。

 このあたり、乱歩先生の趣味が丸出しで大変ナイスな展開だが、策もむなしく、小林少年は囚われの身になってしまう。 

 そこで二十面相は



 「フフフフフ、このまま殺してしまってはおもしろくない。ここでひとつゲームをしよう。助かるか、助からないか、それはお前の運次第だ」



 不敵に笑うと、小林少年をブイに閉じこめて、海に放つのであった。

 ブイの中から、必死で助けを呼ぶ小林少年。

 もし、それに気づいてくれる人が、いれば助かるが、流されたのはどことも知れぬ大海

 近くに船などが、偶然通ってくれればいいが、その可能性は限りなく低い。

 絶望的な状況の中、せまいブイの中で鼻血を流しながら、懸命に助けを求める小林君。

 さすがは世紀の悪党二十面相、なんと残酷な事を考えるのか。

 ひどいではないのか、と憤る以前に、このシーンも明らかに乱歩先生の趣味が炸裂している感がある。

 いたいけな少年を監禁拷問

 先生、ステキです。

 子供心に私は、このシーンを読みながら、なにやらゾクゾクしたのを憶えている。

 今思えば、あれが私の「初めてのヰタ・セクスアリス」であった。

 当時は、そういうボキャブラリーもないほど幼かったが、とにかく、ものすごくエロチックだったのである。

 まとめると、私が生まれてはじめて、セクシャルに興奮した体験というのは、


 「女装した紅顔の美少年がせまいブイの中に閉じこめられて、鼻血を流しながら必死に救助を求め、最後は気絶してしまう」


 というシチュエーションであった。

 なんだか妙にマニアックなところで反応している気もするが、まだ子供だったので、その理由はよくはわからなかったものだ。。

 ただ不思議なのは、そんな、ややアブノーマルな場面でグッと来たにもかかわらず、その後大人になっても、

 

 「女装」「美少年」「監禁」「鼻血」

 

 というキーワードに、まったくひっかからないことだ。

 よく、子供のころ、きれいなスチュワーデスさんを見て、

 「それ以来、客室乗務員いうたら燃えるわ」



 などという人がいるが、どうもそれが、ピンと来ない。

 私には、子供のころのそういった刷りこみは、あまりないようであった。

 「女装」は修学旅行の女装大会でやったが、なんにも感じなかったし、少年も興味ない。

 たとえそれが、スカートをはいていても。

 ブイに閉じこめるなんて、かわいそうなだけだし、世に

 「鼻血女子

 が好きというフェチがいるというのでそういう写真も見てみたが、

 「はよ鼻ふけよ」

 としか思わなかった。

 スタート地点の感動(?)が、長じてからは、ちっとも興味の対象になっていない。

 まあ、たしかにウルトラセブンで興奮したオーケンも、別に大人になっても

 

 「セブン以外はダメ!」

 

 てわけでもないし、最初の目覚めが、そのまま本線の趣味嗜好となるわけでも、なさそうである。

 こういうことをなつかしく思い出していると、もう一度『魔人ゴング』を読みたくなってきた。

 とはいえ、こういうのって今の視点で見ると、案外「ふーん」くらい、なのかもしれないなあ。
 


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少年たちのアブノーマルな性の目覚めあれこれ

2016年03月05日 | 若気の至り

 「子供のころの『性への目覚め』って、どんな感じやった?」



 あるとき飲み屋で、そんなことを言い出したのは友人ヒメマツ君であった。

 ひょんなことから、セクシャルな興奮を感じ、子供から大人に変化するというのは誰にでも起こることだが、そのきっかけとは様々である。

 これには、中島らもさんのような、

 


 「同じクラスの女子のふとももを、物差しでペチペチ叩きたくなった」




 といった、ほほえましものとか、あとは昭和生まれなもんで、

 

 「河原に落ちていたエロ本を拾って」

 

 みたいな直球も多いと思われるが、たまになところを突いてくる、男の子というのもいるもの。

 たとえば、席を同じくしていた友人テヅカ君は、深夜にやっていた、名もなきB級ホラー映画を観ていたとき。

 若い女が、怪物食べられるシーンに興奮したそうで、なるほどと。

 また友人カミノキ君は、子供のころ小学校の靴箱にあった女子のクツを見て、エロい気持ちになったという。

 この手の話は、意外とツイストが効いているものが多く、人の発想は多様であると感心させられる。

 その他にも、SF作家の山本弘さんが、アニメの『鉄腕アトム』を取り上げて、

 


 アトムが敵の攻撃で気絶して、ぐったりなっているところ、胸のフタを開けられて燃料タンクを取り出されるシーンが、性の目覚め。


 

 という人がいた話をしていて、また、ミュージシャンの大槻ケンヂさんは、



 「『ウルトラセブン』第27話「サイボーグ作戦」の中で、セブンがボーグ星人に押し倒されるところ」



 ここで、グッと来たらしい。

 まったく、人生は人の数だけあるというが、性の目覚めも人それぞれである。

 ちなみに、言い出しっぺのヒメマツ君は、



 「ファミコンで遊んでて、『ジョイスティック』って言葉が妙にイヤらしく感じて、それが最初やな」

 

 エロの想像力というのは、かくも豊かであり、まさに発想の宝庫と言えるのだ。


 (続く→こちら





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