ドイツ優勝まであと336時間だ

2014年06月29日 | スポーツ
 というわけで、我らがドイツ代表は今回も順当に予選リーグを突破したわけである。

 世のサッカーファンが「ニッポン、ガンバレ!」とか、「やっぱ地元ブラジルの優勝が見たいよな」と熱狂する中、ひとり静かにドイツ推し。

 なんといっても私は、日本代表の試合は録画して見たにもかかわらず、ドイツの試合はがんばって起きて、全試合生観戦をしたという非国民である。

 今大会も、ネット上の

 「ドイツは良いチームになったけど、なぜか全然好きになれないのはどうしてだろう」

 などといった言葉も軽やかにやりすごして(ふふん、もうそういうのには慣れたのさ!)、堂々のG組1位通過。ナハハハハ! ドイツのサッカーは世界一ィィィィィ!

 というのは、まあ結果が出たから言えるわけで、やってる間はと言えば、そりゃ3戦目でアメリカに勝つまでは、なんのかのいって緊張しました。

 なんといっても、同組にいるのがポルトガルにガーナにアメリカときたもんだ。イングランドの前評判を考えたら、どう見てもD組よりも、こっちのほうが「死のグループ」のような。

 そりゃ、総合力ではドイツだろうけど、バロンドールに前回大会ベスト8に、監督がドイツを知りつくしたレジェンドのチーム。油断したら、えらい目にあいそうだ。

 その意味では初戦の大勝は大きかったが、4-0という思わぬボーナス付勝利で「こりゃ楽勝や」と温泉気分にひたっていたせいか、ガーナ戦では冷や汗をかくことになる。

 正直、勝負弱いポルトガルよりもこっちのほうが怖かったのだが、その懸念は見事に当たった。先制点を取って調子にのっていたら、あっという間に逆転されてビビリまくることになるのである。

 クローゼ投入でなんとかドローに持ちこめたものの、内容的には負けても全然おかしくなかった。よう逃げ切れたもんや。

 それにしても、これでガーナは1分2敗の勝ち点1。あんな良いサッカーしてたのに、日本と同じ成績かあ。なんか切ない。

 最終戦はアメリカ。師弟親友対決が話題を呼んだが、この時点では私も「レーヴ、クリンスマンのワンツーフィニッシュでええんちゃうんか」という気になっていた。

 元々は普通にポルトガルかガーナに上がって欲しかったが、アメリカが意外とハイレベルなプレーをすることと、あのポルトガル戦でのクリスチアーノ・ロナウドの「死に馬キック」を見たら、なんか応援したくなってしまったのだ。

 いやいや、あそこまでいってまくられたら、そりゃあんまりだ。いわゆる「判官びいき」というやつです。

 でもまあ、そこはドイツのこと。空気を読んでくれるだろう。なんといっても、相手は祖国の大英雄ユルゲン・クリンスマンだ。

 お互いそこそこやって、ゆるくドローで終われば皆が幸せに……。

 ……って、呑気にかまえていたら、そこにミュラーの大砲みたいな一撃が決まって、ドイツが完勝。

 おいおい、トーマス、おまえ鬼か(笑)。

 そりゃ真剣勝負だから、当たり前っちゃあ当たり前なんだけど、それにしても容赦ない。

 「もし同点になったら、きっと《八百長》とか《アンシュルス》とか言われるんだろうなあ。そうなったら、やはりここは私がファンとしてなにかフォローしないと」

 なんて考えてたけど、まったくの杞憂。地元の先輩相手に、ようあんなエグいゴール決めますわ。

 そんな勝負に辛いドイツは今大会どこまでいけるか。ブラジルが苦戦して、スアレスもいない。風は吹いている気はするがどうか。

 

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ルイス・スアレスはよく噛みつく客だ

2014年06月26日 | スポーツ
 「またスアレスがやってくれたか」。

 と多くのサッカーファンの苦笑いを生んだのは、ワールドカップ1次リーグD組最終戦ウルグアイ対イタリア戦のことであった。

 この試合の後半で、ウルグアイのスター選手である(いろんな意味で)スアレスが、イタリアのDFキエリーニの左肩に噛みついたのだ。

 噛みつき! こういっちゃあなんだが、サッカーは多少なりとも野蛮……もといスポーツマンシップに不自由しているスポーツではあるが、噛みつきというのは、そんなルール無用の戦場の中でもなかなか見られない行為である。プロレスじゃないんだから。

 もっともスアレスの噛みつきは今さらという話ではなく、これまでも数々の「前科」がある。私は直接見たわけではないが、プレミアリーグやオランダリーグでも相手選手にレッドキングと戦うチャンドラーのごとく歯を立てまくっている。ムチャクチャだなあ。

 そんなスアレスと言えば、今でも忘れられないのが、2010年南アフリカ大会の準々決勝。ウルグアイ対ガーナ戦。

 古豪復活と、アフリカ勢初のベスト4進出をかけて戦う大一番は、同点のまま延長戦にもつれこむ。

 ドラマ(?)が起こったのは、延長後半終了直前。ゴール前で決定機をつかんだガーナのシュートを、ウルグアイの選手は手を懸命に伸ばしてセービング!

 生観戦していた私は思わず立ち上がった! すばらしい反応! まさにGSGK、グレート・スーパー・ゴールキーパーの仕事ではないか!

 そのミラクル・セーブを見せた選手は青いユニフォームを着たルイス・スアレス。

 大ピンチを救った! すごいぞスアレス、さすがはウルグアイの宝や! ……って、そりゃハンドだよハンド、おまえそれ大ハンドだってば!


 そりゃまあ、試合終了直前にゴールに飛びこむボールを見たら、選手は手も出したくなるだろう。その気持ちはわかる。実際、対戦相手のガーナの選手も、

 「あれはいけないが、立場が逆ならボクも同じことをするだろうね」

 そう認めている。

 ただまあ、あれはあまりにも露骨でした。「うっかり当たって」とかじゃないもんな。もう全力で「反則上等」という態度。もっとも、うまくごまかすよう、つくろう余裕もないスレスレのところだったから無理もないけど。

 もちろん、スアレスはレッドカードで一発退場。ガーナにはPKが与えられる。

 ここで順当に終われば良かったのだが、なんとこの決定的な場面でガーナのアサモア・ギャンがPKをはずしてしまう。試合はPK戦にもつれこみ、なんとウルグアイが勝ってしまうのだ。

 これには、「悪は栄えず」とか「神様は必ず見ている」なんていう言葉が、嘘とまでは言わないが、人の信じたい願望にしか過ぎないのだなあと、つくづく思い知らされたものだ。

 サッカーってのは「手を使わないこと」がもっとも特徴的なスポーツなのに、そこに「わざとハンドして勝つ」なんていう、そのアイデンティティーの根幹を揺るがすようなことがまかり通ってしまったんだもの。そらガーナの選手やなくても、あんまりでっせ、と。

 また、このスアレスがなんとも良い味を出しているのが、アサモア・ギャンがPKをはずした瞬間、もう全身ではじけるようによろこびを表現して飛び回ったこと。

 いやいや、普通は心では思ってても、そこは空気を感じて天をあおぐとか、手で顔をおおうとか、目をうるませて十字を切るとか、それっぽい映えるリアクションもあろうものではないか。

 そこを、まあなんともストレートに「やったで! 作戦大成功や!」って大はしゃぎした日にはアンタ、そらフォローの余地もないというか。もっとかしこまれよ! 「やった!」やあらへんでホンマに。

 このときのスアレスの大よろこびっぷりにはねえ、ガーナの選手には悪いけど、もうテレビの前で大爆笑してしまいましてねえ。

 こないだのマラドーナの

 「ブラジルの選手に睡眠薬飲ませてやたっぜ!」

 で大はしゃぎのときも言ったけど、南米サッカーのメンタリティーってのは、良くも悪くもこういうことなんだろうなあ。ある意味、見事なラテンアメリカン・ジョークともいえるかもしれない。

 一連のスアレスの行為には、ネット上でも「おもしろい」「期待通りだ」というものから「ガッカリした」「こいつは最悪だ」という意見まであるけど、なんかこう、南米という風土とスアレスという不可思議な感性の人には、そういうモラルでははかれない何かがあるのだろう。

 いやほんとに、そのあまりにナチュラルな気ちがいっぷりには、笑うしかないというか、なんだか南米文学に出てくる登場人物みたいな強烈さがある。『百年の孤独』のワンエピソードとかに使えそう。

 もちろん、スアレスのやったことはゆるされるわけではないし、FIFAは厳正に処分を下してほしいが、ルールではなく我々小市民の感覚で彼を語るのは、たぶん無理があるんだろう。

 そう、その論理や倫理ではかれないデタラメな「ありえなさ」こそが、ルイス・スアレスの持つ「マジックリアリズム」なのだ。そこがまた彼の魅力でもある。

 でも、才能がもったいないから、もうやらないでね。



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W杯誤審問題とトーマス・ブルスィヒ『サッカー審判員 フェルティヒ氏の嘆き』 その3

2014年06月23日 | スポーツ
 トーマス・ブルスィヒ『サッカー審判員 フェルティヒ氏の嘆き』を読む。

 W杯開幕戦での誤審問題がかまびすしいが、サッカーの審判と言えばこの本であろう。ということで、久しぶりに再読してみた。

 東ドイツの作家ブルスィヒによるこの作品は、タイトル通りブンデスリーガの審判を務める男が主人公。

 で、この人が審判という仕事の大変さについて、ひたすらボヤいてボヤいてボヤきまくる。

 ズルをする選手、ささいな失敗をあげつらうマスコミ、無責任に罵声を浴びせるファン、サッカーのことなど知りもしない頭カラッポの女子アナ、安い給料、などなどについてを、これでもかとグチりまくる。天に向かって叫ぶ。

 「世の中、アホばっかりやあ!」。

 物語はそうしたサッカー界の裏側をひたすらボヤきながらも、そのうちに失った家族や法の正義とは、人間の守るべきルールとはなにかという話へと転がって……。

 同じ作者のサッカーを題材にし、しかも社会派な展開を見せる作品には『ピッチサイドの男』がある(→こちら)。

 それとくらべると『フェルティヒ氏』のほうは、同じ暗めの展開ながらも、『ピッチサイド』には感じられた、どこか(自虐めいているとはいえ)ユーモラスな空気がほとんどんどなく、その点であまりオススメできなかったのだが、この「W杯誤審事件」のあとで手に取ると、なんだかものすごくリアルに感じられるなあ。

 あのプレーと判定には色んな意見はあろうけど、この本を一読すると「まあ、そらあっちはあっちで色々言いたいこともありますわな」と苦笑してしまう。

 特にサッカーみたいな世界的に注目度の高い競技は、さらに大変。まあ、次の試合で良い笛を吹いて取り戻していただきたいものだ。

 


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W杯誤審問題とトーマス・ブルスィヒ『サッカー審判員 フェルティヒ氏の嘆き』 その2

2014年06月20日 | スポーツ
 前回(→こちら)の続き

 「対戦相手のブラジルに薬を盛ったのでは」との疑惑を持たれた1990年W杯イタリア大会でのアルゼンチン代表。

 これに関しては、証拠がない以上なにを言ってもしょうがないわけで、アルゼンチン代表のマラドーナや向こうのメディアは、やったやらないにかかわらず「知らんがな」で押し通せば終わる話である。

 だが、あにはからんや、ディエゴとアルゼンチン人記者は口をそろえて、こう言うのである。

 「おお、あれはな、オレたちがやってやったぜ!」


 やっとるんかい!(笑)


 これには私も、テレビの前で豪快にコケそうになったものである。対戦相手に毒を盛る。こんな卑怯未練な話はマンガかドラマの世界くらいしかないと思いきや、堂々の真相暴露。

 いや、これは「白状」なんていう殊勝なものではない。ディエゴも記者も、これ以上ないというくらいのうれしそうな顔で、

 「おうよ! あれはオレたちのファインプレーさ。お人好しのブラジル野郎どもは、なにも知らずにゴクゴク飲んで青くなってたぜ! オレたちはアイツらが大嫌いだったからな。試合も勝ったし、まったくスーッとしたぜ!」

 これには、開き直っているのか、それとも文字通り話を「盛る」過剰なサービス精神なのか、はたまた自虐的ユーモアなのか、逆に色々とひねって考えてしまうところであるが、アルゼンチン記者の、

 「これは我々アルゼンチンの民族性なのです。こういう手を使って相手を出し抜く。このようなやり方を成功させることに、非常なるよろこびを覚えるのです」

 という言葉を聞けば、そんな人の好い邪推も吹っ飛ぶというもの。

 なにを自慢しているのかという話だが、記者のこれ以上ない「どや」な顔と、ディエゴのガキ大将みたいな無邪気な態度を観ると、いまひとつつっこむ気になれないというか、そのときに思ったのである。

 「嗚呼、いい悪いは別にして、サッカーってのはこういうスポーツなんだなあ」。

 それを許していいかどうかは別にして、サッカーとは「そういうもの」なのだ。だって、相手に睡眠薬飲ませて勝って「よろこぶ」って言われたら、こらもう、どうも言いようありませんわなあ。

 日本とは文化が違うとしかいいようがない。いやもちろん、日本人だって対戦相手に薬入りのオレンジ食べさせたりするとかもあるけど、それはあくまで、コッソリとやること。ディエゴみたいに「わーい、大成功!」とは公言しないよ。

 よくも悪くも判断基準が違う。もしあれが「だまされた」なら西村主審が批判されるのも仕方がないが、クロアチア側があれこれ怒るのは、その言い分は120%正しいし、わかるんだけど、たぶんそれは、きっと、どこまでいっても「引かれ者の小唄」なのだ。やられた方が負け。

 きびしい言い方だが、クロアチアが自らの正当性を貫こうと思ったら、方法は一つで「あの試合に勝つ」しかなかった。

 いや、勝っても負けても誤審なら正当性もくそもないだろうと言う人もいるだろうが、勝負の世界というのはそういうものだと思う。

 どんな状況であれ、結局一番強いのは「勝つ」ことなんだよなあ。勝って、せめて引き分けてあの判定を「なかったこと」にできなかった時点で「負け」なんだ。

 私自身は基本的に勝ち負けに淡泊なボーッとした性格だから、サッカーのこういったゴタゴタには、「そこまでやるかあ」とあきれるし、フレッジみたいなプレーは自分でもしようとも思わないけど、それゆえにか逆に実感してしまう。

 「勝負の世界は、勝った奴が勝ち」。

 実際、メキシコなんかは似たような局面から、それをやってのけた。

 ただまあ、サッカーの場合は1点の比重がすごく高いスポーツだから、誤審が騒がれるのは仕方がない面もある。だって、得点にからむミスは、大げさではなく選手のその後の運命を激変させる可能性もあるわけだからなあ。

 特に西村主審を擁護する気もないけど、サッカーに限らず審判は大変な仕事だとは思います。



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W杯誤審問題とトーマス・ブルスィヒ『サッカー審判員 フェルティヒ氏の嘆き』

2014年06月18日 | スポーツ
 おお、これこそまさにトーマス・ブルスィヒ『サッカー審判員 フェルティヒ氏の嘆き』ではないか!

 そんな声が出たのは、ワールドカップのオープニングマッチ、ブラジル対クロアチア戦を観ていたときのことであった。

 この試合は、いきなりのオウンゴールでの幕開けや、その後のブラジルチームのあざやかなゴールもさることながら、日本の西村雄一主審のPKの判定が話題になった。

 「誤審だ!」と怒る人、「いや、あれはPKだ!」と擁護する人、「まあまあ、サッカーというか、スポーツの判定って、そういうものでしょ」とクールに振る舞う人など様々だが、ともかくも「熱い」幕開けとなり、やはりこういったカオスこそがワールドカップの魅力でもあろう。

 まあ、いろんな意見があるが、他のスポーツはいざ知らず、サッカーに関してはこれすべて、「判定はもらったもん勝ち」というのが原則であろう。

 私自身、アルゼンチンを取り上げたサッカー番組だったか、はたまた『アンダーグランド』で有名な旧ユーゴスラビアはサライェヴォ出身の映画監督エミール・クストリッツァが撮った『マラドーナ』というドキュメンタリー映画を観てからだったか、この手の騒動は特にそう割り切れるようになってしまった。

 つまりは、「誤審でなければ問題なし。仮に誤審だとしてもフレッジがうまくPKを取ったわけだから、《やられた》クロアチアは何を言ってもしょうがない。なので、PKでOK」

 「だましたほうがうまい」わけで、もしそれが「主審の拙さ」が原因としても、「それもコミ」でブラジル側が勝ち。

 この意見には反論はあって当然だとは思うし、私も是とは言わないけど、番組の中でのディエゴとアルゼンチン人スポーツ記者の語りを聞いていたら、なんかもうねえ、そう納得するしかないというか(笑)。

 ここで語られるは、1990年イタリア大会のアルゼンチン対ブラジル戦。

 この試合は開始前の下馬評ではブラジルが圧倒的に有利だったにもかかわらず、結果としてはアルゼンチンがマラドーナの見事なパス一発で宿命のライバルを1-0で沈めた。

 だが、この試合にはある疑惑があって、それは

 「アルゼンチン側が、ブラジルの選手に薬を盛った」。

 圧倒的に試合を支配しながら敗れたブラジルの選手は、試合の後半あたりで体が重くなったりといった、体調不良を感じる者がいたという。

 それは、疲れではなく、試合中にアルゼンチンの選手がさりげなく渡したドリンクの中に、睡眠薬が入っていたのではないかというだ。

 そういわれても、ブラジル側の証言だけでは「負け惜しみ」とも取れるし、下手するととんでもない中傷だ。仮にその可能性はあるとしても、証拠が挙げられなければ「推定無罪」であり、なにを言っても負け犬の遠吠え。

 だから、マラドーナをはじめとするアルゼンチンもこれに関しては、しかつめらしくか、もしくはしてやったりのニヤニヤ顔かはわからないが、「まさか、そんなヒドイことを、ボクたちがするわけないじゃないか」と、肩をすくめてでもいればいい。

 私などは、ごくナチュラルにそう思うわけだが、あにはからんや、ディエゴとアルゼンチン人記者は口をそろえて、こう言い放ったのである。



 (続く→こちら)



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ノバク・ジョコビッチ 生涯グランドスラムへの道 その2

2014年06月15日 | テニス
 ノバク・ジョコビッチの生涯グランドスラムはならなかった。

 前回(→こちら)は、「グランドスラム達成の最後の障害になるのはフレンチ・オープン」というテニス界の「あるある」について語ったが、本当にパリだけどうしても制覇できずに去っていったチャンピオンの、なんと多いことか。

 ジミー・コナーズは1974年絶好調で、ウィンブルドンをふくめ3つのグランドスラムタイトルを獲得したが、フレンチだけは出場停止処分を受けていたため取れなかった。他の年は、4度のベスト4が最高だった。

 グランドスラム6勝のステファン・エドバーグは1989年に決勝に進出したが、17歳の新星マイケル・チャンにフルセットの末ねばり倒された。

 後年インタビューで「あのときは、次またいくらでもチャンスがあると思っていた」と語ったが、彼のフレンチ制覇のチャンスはこの年の決勝、ただ一回のみだった。

 ボリス・ベッカーはウィンブルドンで7回も決勝の舞台を踏んだが、フレンチではベスト4が最高だった。

 それどころか、彼は結局キャリアの中で、一度もクレーコートの大会で優勝できなかった。

 ピート・サンプラスほどパリの赤土から敬遠されたチャンピオンはいまい。決勝どころか、ベスト4すらただ一度。

 そのときも2回戦でセルジ・ブルゲラ、3回戦でトッド・マーチン、準々決勝でジム・クーリエという死の行進のようなドローで全試合フルセットの戦いを強いられ、準決勝では疲れ切り、カフェルニコフ相手に何もできずに会場を去る羽目になった。 

 グランドスラムを達成できたアガシにしても、フレンチを取れたのは他の3つ勝ったあと、かなり経ってからのことだった。

 グランドスラム17勝という記録を持つフェデラーも、2009年4回戦でナダルがセーデリングに敗れなければ(現在までも、これがナダルのローラン・ギャロスでの唯一の黒星)、正直なところフレンチのタイトルだけは取れずにそのキャリアを終えていた可能性は高い(フェデラーは決勝でナダルと4度戦い、すべて敗れている)。

 あと、「最後の一つ」ではなかったが、ジョン・マッケンロー(オーストラリアン・オープンは優勝していない)も1984年に一度だけ決勝まで勝ち上がったが、イワン・レンドル相手に2セットアップから、まさかの大逆転負けを食らった。

 かように、ローラン・ギャロスのタイトルを一回でも取るのは、相当にしんどいことなのだ。

 その意味では、ジョコビッチがフレンチを残して生涯グランドスラムを達成できていないことも、残念ではあるが、テニスファンからすると、「やっぱりなあ」と苦笑いを禁じ得ないところではある。

 なんというのか、本当にお約束と言いますか。まさに「ローラン・ギャロスの呪い」というのか。

 ナダルがいる限り、この呪縛は相当に解けないようにも見えるが、果たしてノバクはこの壁を乗り越えられるのか。来年以降も注目だ。

 
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ノバク・ジョコビッチ 生涯グランドスラムへの道

2014年06月12日 | テニス
 ノバク・ジョコビッチの生涯グランドスラムはならなかった。

 先日、パリのローラン・ギャロスで行われたテニスのフレンチ・オープン決勝は、スペインのラファエル・ナダルがセルビアのジョコビッチを3-6・7-5・6-2・6-4のスコアで破って5年連続9回目の優勝を果たした。

 ナダルの化け物めいたクレーでの強さは、もはや語られ尽くした感がある。少し前に、COWCOWが「あたりまえ体操」でブレイクしたときには、

 らふぁえるなだるが、ろーらんぎゃろすで~

 ゆうしょう

 あたりまえたいそう♪

 と、テニス仲間の友人と忘年会で歌ったものだ。もはや「足を前に出すと歩ける」以上に、当たり前すぎる結果であろう。

 一方、今年こそはグランドスラム達成を狙ったジョコビッチ側からすると、応援するファンたちはきっと、このようなため息をついたことか。

 「嗚呼、やっぱりグランドスラマーへの壁は、お約束通りフレンチになるのか」。

 テニスに詳しくない人にここに説明すると、テニスには「グランドスラム」と呼ばれる大会が存在する。

 開催順にオーストラリアン・オープン、フレンチ・オープン、ウィンブルドン、USオープンの4つ。日本では「四大大会」とも呼称される。

 テニス界ではこの4つのすべてに優勝することをコントラクト・ブリッジにならい「グランドスラム」と呼び、それはそれは名誉な記録なのである。

 男子では現役選手ならラファエル・ナダルとロジャー・フェデラー。少し前にアンドレ・アガシが達成している。

 その前となると、1969年のロッド・レーバーまでさかのぼらなければならない。そのことを見ても、この「四大大会総ナメ」がいかに偉大かつ、難事であるかわかるであろう。

 ちなみに、これに「オリンピックの金メダル」を加えると「ゴールデンスラム」と呼ばれ、こちらはナダルとアガシが成し遂げた。

 そんなテニス選手としての頂点である「グランドスラマー」の称号に、ジョコビッチはオーストラリア、ウィンブルドン、USの3つのトロフィーはすでに手にして王手をかけていたわけだが、最後に残ったフレンチ・オープンではナダルの前に、2度決勝で苦杯をなめている。

 もしナダルがあと数年、今の「クレー・キング」ぶりをキープできるとしたら、公平に見てジョコビッチのグランドスラム達成は相当難しいものとなるだろう。

 だが、これをジョコビッチだけの不運と考えてはいけない。テニス界では、多くのチャンピオンが「生涯グランドスラム」に王手をかけながら、あとひとつが取れずに涙を呑んできた歴史がある。

 そして、その「最後の一つ」が、このフレンチ・オープンであることが、なんと多いことか。


 (続く【→こちら】)



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