2015年ラストラン

2015年12月31日 | 日記

 2015年もそろそろお終いである。

 今年も色々な事件が世界でも起こったものだ。

 安保法案やマイナンバー制度の議論をはじめ、シリア内戦や頻発するテロ、平和なところではピース又吉さんの芥川賞受賞、スポーツ界でも日本でおなじみのヤルコ・ニーミネンが引退したりしたものだ(←最後のは地味すぎる気がするがどうか)。

 

 そこで本日は今年度の思い出をざっと振り返ってみたい。

 まったく私的かつ思いつきのたれ流しなので、ぜんぜん読まなくていいです。

 では一斉にドン。

 

 タイ、ラオス、カンボジアを旅行してきた、アンコール・ワットではクメールのユーモアに感動的なほど大爆笑してしまった、『タクシードライバー』を20年ぶりくらいに見て「あ、これはアカンやつや」と苦笑いした、メンフィス決勝で土橋さんが「感謝しながら見てますよ」とおっしゃったのに泣きそうになった、今もっとも「男らしい」男は杉作J太郎だと確信する、浦沢直樹の『漫勉』がおもしろい、やはりローラン・ギャロスで勝つのは大変だ、スカーレット・ヨハンソンの尻はとてもすばらしい、行方尚史がまだミッシェルに熱いのがうれしかった、理系本をけっこう読んだ、ゲリー・ウェバー・オープン準決勝、錦織vsヤノビッチが今年のベストマッチ、決勝もナイスゲームだった、新しいパソコンを買った、まさかマレーまでデ杯を取るとは、里見香奈三段と西山朋佳三段は本当にがんばってほしい、NHK『映像の世紀』などドキュメンタリー番組にハマッた、でもずっと見てると殺しあいばっかりで気が滅入ってくるね(苦笑)、Jスポーツに入ろうか検討中、自転車ロードレースがじっくり見たいんだけど電波が入らないときがあるんだよなあ、『サンダーバード』再放送&新シリーズが燃える、東レ決勝のラドワンスカにシビれまくった、……。


 


 ☆おもしろかった本。


ジャンニ・ロダーリ『猫とともに去りぬ』

C・チャブリス、D・シモンズ『錯覚の科学』

ジュディ・ダットン『理系の子』

片瀬二郎『サムライ・ポテト』

デヴィッド・フィッシャー『スエズ運河を消せ』

ピート・ハミル『ニューヨーク・スケッチブック』

ダフネ・デュ・モーリア『今見てはいけない』

テッド・チャン『あなたの人生の物語』

清水克行・高野秀行『世界の辺境とハードボイルド室町時代』 

デイヴィッド・グラン『ロストシティZ』

ガルシア=マルケス『予告された殺人の記録』

アンディ・ウィアー『火星の人』

大森望・編集『ここがウィネトカなら、きみはジュディ』


 

 ★おもしろかった映画


『大人は判ってくれない』

『アベンジャーズ』

『戦争のはらわた』

『人生に乾杯』

『小さな巨人』

『アーティスト』

『遠すぎた橋』

『アイアンマン』

『小さいおうち』

『コッホ先生と僕らの革命』

『駅馬車』

 

 ☆おもしろかったマンガ。


柘植文『野田ともうします』

施川ユウキ『バーナード嬢曰く』



 ★よく聴いた曲


フランツ・フェルディナンドのファースト。

ソフィー・セルマーニ『タイム・トゥ・キル』など。

『伊福部昭 協奏三題』。

上條恒彦『だれかが風の中で』

ブランキー・ジェット・シティ『Harlem Jets』。

ストレイテナー『CREATURES』




 それでは本年度はここまで。

 サンキューバイバイ!

 また来年。

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年末はコタツで読書

2015年12月29日 | 日記

 年末はおこもりで読書三昧の日々。

 2015年ももうすぐおしまいである。

 年末といえば、忘年会やカウントダウンパーティー、初もうでや中にはリッチに年明けを海外で過ごす人など様々であろうが、私はオコタでムフムフと本を読む。

 冬休みはこれが楽しみである。お茶とコーヒー、おせんべにみかん、チョコレートなどを買いこんで、あとはどこにも出かけずひたすら「積読」を消費する。非生産的で、優雅な独身貴族の誕生だ。はおってるのは半纏ですが。

 なんせ、読む本がたまっている。もともと部屋にはやたらと紙が多くて困っている怒涛の読書野郎だ。ちょっと油断すると、すぐに未読の本がたまっていく。ドラえもんに出てきた「バイバイン」の恐怖を、こっちは栗まんじゅうではなく本で味わっている。

 ためしに今数えてみたら、まだ開いていない本が100冊以上あった(正確には100を超えたところで怖くなってやめた)。おもしろいかったからもう一回読もうと思っている本とを合わせれば、その数は5倍くらいになる。その圧力に、思わずすべてを捨てて旅に出たくなるほど。

 とはいえ、年末年始の旅行は高くつくので、ここは腹をくくって消費していこうと思う。紅茶を入れて、エクレアを食べながら、ガンガン読んでいく。

 以下、ラインアップは、


 
 
 コニー・ウィリス『最後のウィネベーゴ』

 河口俊彦『升田幸三の孤独』

 米澤穂信『リカーシブル』

 サイモン・ベケット『出口のない農場』

 鹿島茂『文学的パリガイド』

 タキトゥス『ゲルマーニア』

 山本弘『BISビブリオバトル部』

 ボルヘス『幻獣辞典』

 小島英俊『文豪たちの大陸横断鉄道』

 ベン・H・ウィンタース『地上最後の刑事』

 上田早夕里『セント・イージス号の武勲』

 カール・セーガン『百億の昼と千億の宇宙』

 佐々木譲『ベルリン飛行指令』

 ベルトルト・ブレヒト『ガリレオの生涯』

 田中真知『たまたまザイール、またコンゴ』

 ローラン・ビネ『HHhH (プラハ、1942年) 』

 初野晴『惑星カロン』

 蔵前仁一『あの日、僕は旅に出た』

 R・F・ヤング他『時の娘 ロマンティック時間SF傑作選』

 石村博子『たった独りの引き揚げ隊 10歳の少年、満州1000キロを征く』

 東郷隆『定吉七番の復活』
 
 『映画秘宝 激動の20年史』

 ジャック・エル=ハイ『ナチスと精神分析官』

 森見登美彦『宵山万華鏡』

 リチャード・ブランソン『宙へ挑む』

 高橋秀実『からくり民主主義』

 ジョエル・ディケール『ハリー・クバート事件』

 佐藤賢一『ヴァロア朝』

 ポール・オースター『トゥルー・ストーリーズ』

 友野詳『バカバカRPGをかたる』

 ディーノ・ブッツァーティ『タタール人の砂漠』

 サマセット・モーム『マウントドレイゴ卿/パーティの前に』

 猿谷要『ニューヨーク』

 鈴木光太郎『オオカミ少女はいなかった』

 ネレ・ノイハウス『悪女は自殺しない』

 クライヴ・バーカー『ミッドナイト・ミート・トレイン』

 津村記久子『とにかくうちに帰ります』

 東海林さだお『メンチカツの丸かじり』

 ダフネ・デュ・モーリア『破局』

 常盤新平・編『ニューヨーカー・ノンフィクション』

 リチャード・マシスン『運命のボタン』
 


 これはほんの一部で、まだまだいくらでもあります。年明けまでに、全部読めるかなあ。あー、本に囲まれて、今年も幸せ、幸せ。


 

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錦織圭、全仏オープン制覇による日本クレーコート化計画 その3

2015年12月18日 | テニス
  前回(→こちら)の続き。

 「もし錦織圭がグランドスラムで優勝するんやったら、どの大会がええと思う?」。

 という忘年会におけるテニスファンの友人エサカ君の問いに、

 「あえて全仏で決まりやね!」

 とぶちあげた私。

 それは、「錦織フィーバーにかこつけて、日本のクレーコート文化を充実させてほしい」

 そんな野望があるからで、育成面においても大きなメリットがあると思われるからだが、それともうひとつは、ある大会で勝利をおさめるためでもある。

 デビスカップ。

 このためにも、日本のクレーテニスを強化してほしい。

 デ杯は対戦国がコートサーフェスを選ぶ権利がある。ゆえに、日本がアウェーで戦うとなると、レッドクレーに苦しむケースが当然出てくる。

 まあ、今は錦織圭がいるからいい。実際、先日のワールドグループ入れ替え戦の対コロンビア戦でもシングルスで2勝をあげて勝利に貢献した。

 あの1勝は単にワールドグループ残留を決めただけでなく、それ以上に大きな意味があったことは、多少なりとも日本男子テニスを見てきたファンには感じるところであろう。

 アウェーでの戦い、クレーコート、最終戦、第2シングルスの勝利。

 これは実は、日本が今まで超えることの難しかった壁を、見事に飛び越えた瞬間だったのだ。

 そう、これまでの日本チームだと、アウェー、クレー、2-2からの第2シングルスというのは、典型的な「負けパターン」だったのだ。

 ワールドグループ入れ替え戦の大一番で何度「あと1勝」から鈴木貴男が、本村剛一が、添田豪が、無念の涙を呑んできたことか。

 そこを乗り越えたのは、まさに「これまでの日本とはちがう」ことを証明できた瞬間だった。

 松岡修造さんも語っておられたが、これは日本ではほとんど話題にもされなかった。だが、日本テニスにおいては、大きい、これまでの歴史をくつがえした本当に、たとえようもない大きな1勝だったのだ。

 これからも、日本はデ杯で毎年のように、ときには年間に数度、こういう戦いをくぐりぬけていかなければならない。

 果たして、錦織圭が抜けたあとも、こういった勝利を得られるのか。

 それには、もっと赤土で戦える選手を育成することが必要になるのではあるまいか。コロンビア戦の勝利は、スペインを拠点にしてクレーを苦にしないダニエル太郎が奮闘したことが大きかった。

 錦織圭がフレンチ・オープンで優勝することがもしできたら、その大きなきっかけになるのではないか。

 子供たちがいっせいに「クレーコートでテニスがしたい!」となれば、世間もその重い腰をあげてくれるのではないか。にわかにこの国に、思いもかけない「レッドクレーブーム」が巻き起こるのでは。

 各地で赤土が盛り込まれ、楽天ジャパン・オープンのほかに「ジャパン・レッドクレー・オープン」とか、有明以外でも「全日本クレーコート選手権」が開催されるかもしれない。10年後には、日本はアジアを代表する「クレー王国」になるやもしれない。

 というのは、まあ楽しい妄想としても、クレーコートの充実は日本テニス界の底上げのためにも、ぜひ実現してほしい。

 2015年度はローラン・ギャロスに添田豪と伊藤竜馬がストレートインし、22歳のダニエル太郎と19歳の西岡良仁のふたりが予選を抜けて本戦に出場した。

 錦織圭もふくめて、なんと5人が本戦に。添田と伊藤もすばらしいが、それよりも注目してほしいのがダニエルと西岡の予選突破だ。

 かつてはエントリーすらしなかった日本男子が、フレンチの予選に出て、しかもタフな3試合を勝ち抜いた。

 これまた松岡さんもおっしゃっていたが、世間ではほとんど話題にならなかった。けど、日本テニス界においては大きな、とっても大きな前進である。大げさにいえば、錦織圭のベスト8と同じくらい価値があるといってすらいいと思う。

 そもそも錦織君だって、プロになって「玄人」のクレーコーターと戦うようになってから苦しんでいただけで、デビュー当時は「一番得意なのはクレー」と公言していた。

 なんといっても、錦織圭の最初の大きな実績はまさにジュニア時代のフレンチ・オープン、ダブルスの優勝だったのだ。そら、「得意」なはずである。

 そう、錦織圭はフレンチ・オープンと相性がいい。

 ここ数年、日本には選手もファンも「錦織効果」の恩恵を受けてきた。

 ランキングに、グランドスラムに、オリンピックにデ杯。直接的な勝利だけでなく、刺激やモチベーションの面で、特に後輩選手が得たものは計り知れまい。

 今の錦織は、日本テニスの象徴である。

 となれば、彼が歩んだ道は、ただそれだけでそのまま続く者たちの大きな財産になる。あたかも、ふれたものをすべて金に代える能力を授かったミダス王のように。

 次はフレンチ・オープン優勝によって、「日本テニス、クレー克服」へつながる黄色い、いや赤いレンガの道を敷いてほしい、ひそかにそう願っているのだ。





 ☆おまけ

  ローラン・ギャロスのサービス&ボレーといえばこの試合! 

  1984年決勝 ジョン・マッケンロー対イワン・レンドル(→こちら

 


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錦織圭、全仏オープン制覇による日本クレーコート化計画 その2

2015年12月17日 | テニス
 前回(→こちら)の続き。

 「もし錦織圭がグランドスラムで優勝するんやったら、どの大会がええと思う?」。

 という忘年会におけるテニスファンの友人エサカ君の問いに、

 「全仏で決まりやね!」

 とぶちあげた私。

 クレーは日本人選手にとって鬼門だし、ジョコビッチやナダルだけでなく、「クレーのスペシャリスト」という曲者をも相手にしないといけないこの大会は相当タフであり、さらにはぶっちゃけ日本でマイナー、世界でもやや不人気なところ。

 そこをわざわざ選ぶには根拠があって、ひとつめにはまず私が変にマイナー嗜好だからというのもあるが、それよりもなによりも、

 「錦織圭がローラン・ギャロスを制すれば、日本テニス界の歴史が変わる」

 そう願っているから。

 では具体的になにがどう変わるのかといえば、ずばり

 「日本でクレーコートのテニスがもっとメジャーになってくれるはず!」

 この思いである。

 今の錦織圭の影響力はすごい。

 昨年のUSオープン準優勝からはじまって、世界ランキング最高4位、2015年の安定した活躍と、今ではすっかり日本スポーツ界のスーパーヒーローである。

 彼の影響で子供がテニスを習いたがり、親もそれを応援する。スポーツニュースやCMにもたびたび出演し、彼の使用しているラケットやウェアはあっというまに売り切れ、果ては「もっともあこがれるアスリート」みたいなアンケートでもナンバーワンに輝いた。

 これには「しょせんはバブル」「テニスブームではなく錦織ブームなだけ」という意見もあるが、それに乗っかってラケットを取る子供たちが増えるのは間違いなくうれしいことであり、また彼ら彼女らにはバブルとかブームなんて言葉も、あまり関係あるまい。

 きっかけや大人の邪念はどうあれ、子供たちはテニスがしたいから、したいのだ。

 そんな子供たちはきっと今、目をキラキラさせながらグランドスラムやマスターズ1000、ジャパン・オープンといった大会を観戦しているにちがいない。

 となると、そこで「錦織圭、フレンチ・オープン優勝」の瞬間とめぐりあえばどうなるのか。

 ほぼ確実に、日本にクレーコートブームがおとずれるにちがいない。

 錦織圭の影響力と子供の伝染力はすさまじいものがある。きっと子供たちはその瞬間から、

 「ボクも土のコートでプレーしたい!」
 
 そう言い出すことであろう。そこから、日本に本格的なレッドクレーのスペシャリスト的選手が登場する。

 それこそが、私の大いなる野望なのである。

 そもそも、日本にはクレーコートの数が少ない。

 私の住む大阪でも靭公園テニスセンター(デビスカップや世界スーパージュニアなどが行われるところ)くらいにしかないし、そもそも日本はハードコートかオムニコート(砂入り人工芝)が全盛なのだ。

 その理由としては、「維持の手間がラク」だからなどがあるが、そのせいで日本人は赤土のコートが苦手という選手が実に多い。

 そらまあ、プレーする機会が圧倒的に少ないのだからしょうがないわけだが、これが近年の日本人選手(特に男子)の大きな課題ともいえた。

 たしかに、現在のテニス界はハードコートが主流である。このコートで賞金やポイントを稼ぐことこそが、トップに立つための必須条件ともいえる。

 だが、それだけでいいのだろうか。ヨーロッパや南米などではクレーコートが主流のところが多く、ツアーの中でも春から全仏までの期間に「クレーコートシーズン」があり、ここをどう乗り切るかがシーズン序中盤の山場である。

 また、ツアーや大会のことだけでなく、育成の面からもクレーコートの重要性を語る専門家も多い。

 スピードとパワーがものをいうハードコートではジュニア時代からそれに頼ってしまう選手もいて、プロになって力押しが通じないとなると伸び悩むこともあるという。

 その点、球足の遅いクレーでは一発で決めることが難しいため、精密なコントロールや長いラリーを耐え抜く体力、さらには重いトップスピンやドロップショットといった多彩なショットも身につけられる(身につけないと勝てない)。

 これがプロになって太い「幹」となる。

 ジュニア時代にそういった基礎をしっかりと身につけた選手と、日本の特殊な「高校テニス」とでは18歳になったときの完成度がちがうという声も聞いたことがある。

 フランスのテニスが層も厚く、またオールラウンドでありながら多様な個性を身につけているのは、ジュニアのころからローラン・ギャロスの質の高いクレーコートでみっちり鍛えられるからだという記事を読んだこともある。

 また、クレーコートになれていると、サーキットでポイントを稼ぎやすいという面もある。

 日本男子テニスがなかなか世界レベルになれない理由の一つに、「島国なので、海外の大会に参加しにくい」というのがあげられる。

 若手の選手が世界をねらうには、チャレンジャーやフューチャーズ(野球でいう2軍戦、サッカーでいうセリエCとかDくらいの大会)で勝ち上がりポイントを重ねていかなければならないが、日本人は距離的な意味で、特に学生プレーヤーはどうしてもエントリーできる数がかぎられてくる。

 なので、海外でやっていきたい選手は遠征に出かけることを余儀なくされるのだが、ヨーロッパや南米はクレーコートの大会がそこかしこで開催されており、クレーで戦えるなら、エントリーする大会に困ることもないのだ。

 特にヨーロッパは地続きで交通網も発達してるから、移動も楽。この経験の差は大きい。

 そういった事情は昔から語られているが、日本ではなかなか「じゃあ、クレーコートを強化しようか」といった話にはならない。

 クレーコートが増えることもないし、そもそも日本ではフューチャーズレベルですら、クレーの大会がほとんどないのではないだろうか。

 いろいろ事情はあるのだろうが、なんとかしてほしい問題である。

 さらには、これは古参テニスファンには大いにうなずいてもらえると思うが、あの大会のためにもクレーコートを強化してほしいという思惑もある。

 (続く→こちら


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錦織圭の全仏オープン制覇による日本クレーコート化計画

2015年12月16日 | テニス
 「もし錦織圭がグランドスラムで優勝するんやったら、どの大会がええと思う?」。

 忘年会の席で、そんなことを言い出したのは友人エサカ君であった。

 錦織圭は果たして、グランドスラム大会で優勝できるのか。

 というのは日本の、いやさ今では世界中のテニスファンが気になっているところであろうが、そこを一足飛びに、

 「できるとして、どれ?」

 友は問うのだ。

 まだ上にはジョコビッチやフェデラー、マレーといった猛者がいるのに、それもなかなかにあつかましい気もするが、難しいとはいえ今の錦織圭なら「射程距離」なのも事実だ。

 そのことは、錦織選手を大プッシュし、


 「優勝するなら、2016年USオープンだね」


 そう大胆予言をした元世界ナンバーワンのジム・クーリエをはじめ、世界の識者も熱く語るところである。

 とりあえず、できるかできないかは置いておくとして、してほしい大会がどこかといえば、そこにいたテニス仲間も、

 「そりゃUSオープンでしょ。準優勝してるし、アメリカで修業したからホームみたいなもんやし」

 「いやいや、最初にベスト8に入ったのは全豪。日本人選手とも相性はええし、リアルなんはこっちちゃう?」

 「知名度やったらウィンブルドンやけどね。世間ではテニス=ウィンブルドンやろ。芝はちと難しいかもしらんけど、新規のテニスファンを増やすには、ここで勝ってほしいわなあ」

 そこからも、

 「グランドスラムやなくても、案外、ツアーファイナルがねらい目か。日本でもメジャーになったし」

 「デ杯優勝でもええ! 取れたら、日本のメディアはどうあつかうんやろうな」

 「一応取り上げるやろうけど、ピンとはけえへんかもね」

 「現実問題は、その前にマスターズか。夏のUSシリーズで1個いかれへんかなあ」

 なんて、妄想トークをワチャワチャ楽しくやっていたのだが、これまでのところ、どうもひとつの大会がハブられている気がする。

 そう、グランドスラム大会は別名「4大大会」とも呼ばれている。にもかかわらず議論開始から、オーストラリアン・オープン、ウィンブルドン、USオープンのみっつ(と他の大会)しか熱く語られてないのだ。

 そう、フレンチ・オープンの存在が抜けているのだ。

 だが、それはしょうがないのである。実のところ、4大大会の中でフレンチはややマイナーな感のある大会である。

 現にエサカ君をはじめとする友たちも、「フレンチはどう?」との問いかけに、

 「いやあ、だれも知らんし」

 「クレーやしなあ」

 「ノバクの生涯グランドスラムも見たいし」

 「フランスの観客、態度がでかいから嫌い」 

 どうにも消極的である。

 さもあろう。ローラン・ギャロスはクレーコートという、今の日本人にとってはやや特殊なコートゆえ、いまひとつ取り上げられにくい大会であったのだ。

 ただでさえマニアックな大会なのに、そこに「苦手だった」という要素がくわわれば、そら「今年はグリーンウェル加入で阪神優勝や!」という気分にもなるまい。

 と、ここまでいえばもうここをお読みの読者諸兄は予想がつくであろう。

 はい、その通りです。不肖この私が錦織君に優勝してほしい大会。

 それこそが、このフレンチ・オープンなのですね。

 私は昔からクレーの大会が好きで、そこでは毎年「クレーのスペシャリスト」なるマニアックな季節労働者たちが、「ここが稼ぎ時や!」とばかりにがんばっている。

 特に私は、自分も回転命のトップスピンをぐりぐり打ちまくるタイプなので、赤土の上でそれを駆使する選手を見ると燃えるのだ。

 トーマス・ムスター対セルジ・ブルゲラ戦とか、いつまででも見ていられる。古いのだとビヨン・ボルグ対ハロルド・ソロモンの1980年フレンチ準決勝とか、YouTubeで見つけてハマりまくりっスよ!

 そんな赤土のスピン野郎なので、「錦織圭には、あえてマニアックにフレンチを制してほしい」と思うわけだ。

 今年のクレーシーズンの活躍やフレンチもベスト8で相当払しょくされたが、かつては「錦織はクレーが苦手」とよくいわれていたし、そもそも日本男子選手はクレーで全然活躍できなくて、予選もスキップする選手がほとんどだったのだ。

 そこを優勝できたら、テニスの幅が大きく広がって将来の糧にもなりそうだし、さらには日本テニス界にも大きな財産となる気もするのだ。

 いや、実のところ1ファンのせまい嗜好などはどうでもよくて、私の本当の展望こそはまさにそこにあるのだ。

 「錦織圭がローラン・ギャロスを制すれば、日本テニス界が大きく変わるかもしれない」

 そんな大激震を起こせると信じているからこその、「あえて全仏」発言なのだ。

 

 (続く→こちら



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『カンフーハッスル』で、燃えよ、心だけドラゴン!

2015年12月09日 | 映画
 『カンフーハッスル』を久しぶりに見直した。

 ご存じ『少林サッカー』のチャウ・シンチーの撮ったアクションコメディ。

 私はこの映画がけっこう好きで、テレビでやるとたいてい見てしまう。そうして恥ずかしながら、見終わった後、ちょっと元気が出たりする。

 内容はというとこれが直球ど真ん中のカンフーバトル。ついでにいえば、バカ映画である。

 バカ映画には2種類あり、わざとバカをやる「確信犯」と、マジメに作ったのにあららお馬鹿になっちゃったという「天然」。

 『マーズ・アタック!』や『地獄甲子園』などは「確信犯」。『インデペンデンス・デイ』や『シベリア超特急』は典型的な「天然」だ。

 で、『カンフーハッスル』は前者。

 この映画、とにかく「熱い」。より正確にいえば「無駄に熱い」。

 この「無駄に」というのがポイントで、単に熱いだけだと一歩間違うと「名作」になってしまったりするが、「無駄に」がつくことによってB級たり得るのである。

 「無駄に熱い」。これがいい。ちなみに、無駄ではなく熱すぎて大気圏で燃え尽きてしまったのが、これまた先日関西で深夜放映していた『キャシャーン』である。

 そしてこの映画、「熱い」だけでなく「カッコイイ」。より正確にいえば「バカカッコイイ」。

 単にカッコイイだけだと一歩間違うと「名作」になってしまったりするが「バカ」がつくことによってB級たり得るのである。

 バカカッコイイとはどういうことなのかと問うならば、具体的にいえば「○○ならお前は2番だ」と決める宮内洋演ずるところの『怪傑ズバット』や、テンガロンハットかぶって海を見つめながら「嵐が来るぜ」とギターを鳴らす「渡り鳥」こと小林旭。

 中村俊介がやった『ツーハンマン』とか『アストロ球団』のジャコビニ流星打法とか、要するに『空手バカ一代』みたいな作品。

 『少林サッカー』がヒットしたとき、「あえてバカ映画を観て楽しむのが、ちょっと通でオシャレ」といった生ぬるいプチサブカル的風潮を作ろうというような空気があったが、そんな「オサレ」な視点でバカカッコイイ映画を観ても、おもしろくなどない。

 もっと作り手の熱き魂を感じんかい、なのである。そこはジャンプ黄金時代世代の血が騒ぐのである。

 敵を倒しながらも住処を追われる羽目になった3人の達人が別れる前に「最後にお手合わせを」というところとか、彼らを襲う刺客の衣装が裾の広いカンフー着、ロン毛にサングラスといったチョイスなど思わず

 「チャウ、オマエわかってる!」

 といいたくなる(世界の悪者はすべからくオールバックでなければならない)。

 中盤でチャウがアイスクリームの屋台を襲って小銭を盗むというショッカー並みにセコイことをやろうとすると、その屋台の女の子が、子供のころ悪ガキにからまれているところを助けようとした(そしてボコられた)女の子であったという『赤い』シリーズか韓国ドラマというような超ベタベタご都合主義シーンがまたよい。

 ここでよくシェイクしたあとフタを開けたコーラみたいに、涙がブワッとあふれ出た。

 なんでこんな偏差値35くらいのドラマツルギーで泣かなあかんのやと自分であきれるが、

 「そうなんや、たしかにワシもただのボンクラやけど、心の中では愛するものを守るため戦いたいとかこっ恥ずかしいこと考えてるんや。たとえかなわないとしても、前のめりに倒れなアカンのやあ!」

 などと胸が熱くなる。まあ日本はこの勢いでアメリカに戦争ふっかけてボコボコにされたわけですが。

 いんや、しかしよいのである。

 内容がない? ストーリーが破綻してる? そんなもんどうでもいいんです。

 もちろん不満なところはたくさんある。ロマンスは中途半端だし、斧頭会のボスアッサリ死にすぎだし、もうちょっと伏線等は練ってほしいし、相棒のデブちゃんに見せ場ないし。

 しかし、それを補ってあまりある「愛と情熱」がこの作品にはある。「子供の戯言」を真剣にやる。あらゆる創作物の原点である。

 「無駄に熱い」「バカカッコイイ」この二つが琴線に触れる、オーケンいうところの


 「燃えよ! 心だけドラゴン


 なボンクラ男子諸君、『カンフーハッスル』を観よ!



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「和の精神」なるものを外国人に説明してみた その3

2015年12月05日 | 海外旅行
 前回の続き。
 
 
 「和の精神って、なんなのよ?」
 
 
 ドイツ人旅行者であるルッツに、そんなややこしい質問をされて、説明がむずかしいなら具体例で雰囲気を感じ取ってもらおうということで、その舞台は学生時代のバイト先
 
 社員もバイトも仲が悪く、いまいち雰囲気の悪い職場だが、そこでポジティブな新人ホンマチ君の、
 
 
 「これを改善するために飲み会をしましょう!」
 
 
 の声に、私は立ち上がった。
 
 もちろん、親睦のために彼をバックアップするわけではない。
 
 職場のパワーゲームを前に早々と「中立宣言」をした私にとって、こういった交流会はめんどくさいの一言であり、ぜひとも中止にでもなってほしいものなのだ。
 
 そこで私は一時中立の立場を捨て、各所に情報収集のため、おうかがいを立てていくこととなった。
 
 バイト仲間たちが、この親睦会をどう思っているかを知るためであり、そこで、なんとかお互いの敵愾心をあおり、
 
 
 「なんであんな奴らと、楽しくメシなんか食わなアカンねん!」
 
 
 という気にさせて、
 
 「参加者少数につき飲み会中止」
 
 に持っていこうという策略である。
 
 いかなボーッとした私とはいえ、自分に害がおよびそうなときは立ち上がる。
 
 スイスもそうだが、これが中立国を保つため最も大事なところ。
 
 きれいごとだけでは、平和は保てないのだ。我がことながら、なかなかのワルである。
 
 ところが、あにはからんや。この場合、そこまで大げさな話をせずとも、策はすんなりと展開していった。
 
 そもそもが、私があおるまでもなく、せまい世界で派閥に分かれてドンパチしてるのだ。
 
 こちらがなにしなくても、ハナから飲み会などお呼びでない
 
 当然出欠に関しては
 
 
 「行かへんよ」
 
 「だれが乗るか、そんな話」
 
 「中止でええんちゃう」
 
 
 けんもほろろ。中には、
 
 
 「あのホンマチの、おしつけがましい正義ヅラが嫌」
 
 
 そう明言する子もいたりして、なーんや、こんな調子やったら、だれも出席なんかせーへんやん。心配して損した。
 
 なんて鼻歌でも歌いながら「欠席」に丸をした。
 
 そうだよなあ、あんなふだんから派閥同士で牽制し合ってて、昼飯食べに行く店も絶対にかぶらんようにしてる連中が、そんな親睦会なんか出るわけあらへんよなあ。
 
 すっかり温泉気分で飲み会当日の朝に出欠表を見てみたら、なんということか、会に欠席なのは私だけなのであった。
 
 自分以外、全員出席
 
 もちろんのこと、「だれが行くか!」とか、「偽善者」と、あれだけホンマチ君のことをボロッカスにこきおろしていた面々も、ものの見事に手のひらを返していた。
 
 これには、お口あんぐりであった。あまりにビックリしたので、バイト仲間にかたっぱしから「なんで?」とたずねてみると、
 
 
 「まあ、なんのかのいうて、行かなしゃあないでしょ」
 
 「つきあいって、そういうもんやん」
 
 「逆に、堂々と欠席できるキミがすごいわ」
 
 
 などといわれた日には、もう、おどろくやらあきれるやら。
 
 おまけに、たまたまその日に視察にきてた会社の偉い人がその出欠表見て、
 
 
 「○○君(私の本名)は、もっと協調性を学ばなくてはいかんな。ほら、キミ以外は飲み会なんて企画して、こんなに仲がいいじゃないか」
 
 
 とおっしゃったのには、リアクションの取りようもなかったです。
 
 「はあ、そうでっか……」
 
 としか言いようがない。これには腰が抜けそうになると同時に、
 
 
 「和の精神って、すげー」
 
 
 口ではなんのかのいっても、決してカドは立てない。みんな嫌がってるのわかってても、笑顔で出席にマル。
 
 日本人の波風立たせない人間関係の処世術に、もう心底、感嘆したものであった。
 
 いや、おそれいりました。信じた私が甘かったんですなあ。
 
 これには本当に、おどろかされた。今思い出しても、笑うしかない。勉強になったとしかいいようがない。
 
 この一例を持ってしても、「の精神」が一筋縄ではいかない概念であることがご理解いただけると思うが、その旨をルッツに説明すると、
 
 
 「うーん、長々と説明してくれたのはありがたいんですが、どうにもわからないところが」
 
 
 彼は不思議そうな顔で、
 
 
 「で、結局どうして皆さんは、飲み会に出かけたんですか?」
 
 
 まあ、当然の疑問であろう。
 
 それはまあ、みんななんのかの言って、集団の流れを大事にすると言うか。
 
 基本的には反対はしていても、いったん決定したことには素直に従うというか、「空気を読む」なんても言いまして……。
 
 
 「でも、本当は行きたくないんですよね? 仲悪いんですよね? ホンマチさんのやりかたにも反対なんですよね? なのにどうして、飲み会参加にマルしてるんですか?」
 
 
 いや、だーかーらー、それこそが「の精神」ってもんなんだって!
 
 嗚呼、なんてこった、おそらく私の体験談はほとんどの日本人なら、
 
 
 「あー、その【たとえどんなにストレスフルでも、流れには決して逆らわない】感じが、和の精神やねえ」
 
 
 一言で納得してくれるだろうに、外国人に論理的に説明するのはなんと困難を極めることか。
 
 
 「和の精神ってなんですか?」
 
 
 そんなん、日本人であるオレだって訊きたいよ
 
 
 
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「和の精神」なるものを外国人に説明してみた その2

2015年12月04日 | 海外旅行
 前回の続き。
 
 
 「和の精神って、なんなのよ?」
 
 
 ドイツ人ルッツにそんな質問をされて、
 
 
 「はて、ってなんじゃらほい」
 
 
 なんて、今さらながら民族的アイデンティティーを振り返ることとなった私。
 
 説明が難しいなら、具体例でせめて雰囲気を感じ取ってもらおうと、
 
 
 「私の感じた和の精神」
 
 
 というテーマで前回から語っているが、その舞台は若き日のバイト先
 
 学生時代、私は某有名アミューズメントセンターでアルバイトをしていた。
 
 仕事をするにおいて、職場の空気人間関係というのは大事だが、そのバイト先はあまりよい環境ではなかった。
 
 現場を統括する社員同士の仲がたいそう悪く、その影響もあってかアルバイト同士も、非常に微妙な雰囲気で働くことを余儀なくされていたからだ。
 
 私はそういったところで起こりがちな派閥争いとか、その手のめんどくさいことは苦手だし興味もないので、早々に「永世中立国」としてパワーゲームの蚊帳の外にいた。
 
 けどまあ、人間関係はそう単純なものでもなく、他のアルバイト仲間は否応なくそこに巻きこまれ、ある者はのある上司についてブイブイいわしたり、ある者はそれができずパワハラ的なあつかいを受けたりと、いろいろと大変なようであった。
 
 皆さまもこれには、
 
 
 「せっかく一緒に働くんだから、仲良くすればいいのに」
 
 
 そう思うかもしれないが、なぜにて皆がもうひとつ、しっくりいっていなかったのかといえば、これが明らかに上層部の意向のよう。
 
 大手企業で働くにおいては「あるある」かもしれないが、どうも人を使う側からすると、の者同士は仲が悪い方が操作がしやすいらしい。
 
 だから、バイトバイトリーダーや、正社員派遣社員といった微妙なヒエラルキー同士の敵愾心を刺激して、それぞれに対立させる。
 
 すると、そこで疲弊してしまい、不満の矛先が上まで届かない
 
 いわゆる、大英帝国なんかが得意としていた「分裂支配」というやつで、なるほど大人は頭が良いというか汚いぜというか、色々考えるものである。
 
 となると、ケンカするのは「思うつぼ」のような気もするが、私のような「中立国」ではなく争いの渦中にいると、なかなかそういうふうに考えられないものらしい。
 
 もっとも、私のような現実逃避的中庸の立場を取っていると、気楽ではあるけど「出世できない」という弊害もありますが。
 
 そんなギスギスした職場に変化があったのは、ホンマチ君という新入りのバイト仲間の一言だった。
 
 彼が唐突に、こんなことを言い出したのだ。
 
 
 「みなさんとの仲をより深めるために、飲み会をしたいんですけど」
 
 
 ホンマチ君は基本、天然であった。
 
 根は悪い子ではないが、空気を読まない男といってもいいかもしれない。
 
 そんな彼は、バイトに入るとすぐに職場の違和感に気づいたようだった。これは、ちょっとおかしいぞと。
 
 そこで取る道は3つあり、ひとつはそこでスネ夫的にうまく立ち回ろうとする。
 
 ふたつめは私のように距離を置く
 
 で、三つ目は、
 
 
 「このゆがんだ状況をなんとかせねば!」
 
 
 こういった正義の使命感に燃える。
 
 ホンマチ君は3番目の人であった。そこで、この無益な争いを丸くおさめるために飲み会を企画。
 
 自ら持ち前の明るさと、こんな前向きなことを実行できるオレってポジティブ! なスタンスによって、世界を平和にしようというわけである。
 
 これには、
 
 
 「なんという建設的な考えなのか!」
 
 
 そう感嘆すると同時に、
 
 
 「なんという偉大なる、よけいなお世話なのか!」
 
 
 たいそうゲンナリしたものであった。
 
 そらそうである。ただでさえギスギスしているメンバーなのに、それを集めて飲み会などしても、楽しいわけがない
 
 それでなくとも、私はこういう「職場の交流会」みたいなのが大の苦手なんである。
 
 そこで彼には悪いが、職場の平和ではなく自分の心の平安のためだけという、きわめてエゴい(かつ、きわめて中立国的)発想として、この飲み会を頓挫させるために裏工作を開始することになるのである。
 
 
 (続く
 
 
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「和の精神」なるものを外国人に説明してみた

2015年12月03日 | 海外旅行
 「《》ってなんですか?」。
 
 パリのユースホステルで唐突にそんな質問をしてきたのは、ドイツ人旅行者のルッツだった。
 
 海外を旅行していると、ときおり日本に興味を持ってくれている異人さんに出会うことがある。
 
 ルッツもまたそんな「日本びいき」な一人であり、そんな彼が日本人に会えば日本について、あれこれたずねたくなるのは人情だが、はて彼のいう《》ってなんじゃいなと問うならば、熟慮すること数分。
 
 それって、もしかして「」のこと?
 
 外国の文化というのは、から見ているとわかりにくいものだ。
 
 英国の階級社会やインドのカースト制度割礼一夫多妻制、ピラミッドのような意味不明の建造物
 
 その他宗教言語気候など様々な差違によって異国の文化というのは他者の理解をこばむものだが、我が大日本帝国における代表的なそれといえば、ずばり「和の精神」であろう。
 
 島国日本は、ただでさえ独特の文化風習を持っているといわれ、世界からは「神秘」とかいわれがちだが、あらためてそう訊かれると、たしかにつかみづらい言葉である。
 
 我々日本人は、「和の精神」を当然のものというか、あたかも空気のようにそれをとらえている。
 
 当たり前というか、落ち着いて考えてみれば、たいそうめんどくさい作業であろうの使い方を、特に意識もせずマスターしているように、日々の生活になんの違和感もなく「」を浸透させている。
 
 けど、じゃあいざ、それを言葉で説明できるのかといえば、これがなんとも、つかみどころがなくて困るところはあるかもしれない。
 
 そういえば「和」って、一体なんじゃらほい。
 
 「仲がいい」というのはちょっと違うし、「以心伝心」「雰囲気」「目で語る」というのは、あくまで枝葉のうちのひとつのような気もする。
 
 たぶん英語やドイツ語といった外国語にもそれを訳せるような語彙もないだろうし、日本ビギナーの外国人にはどうやって語ればいいのやら。
 
 みなさんも一度シミュレートしてみてください。「和の精神」を外国人に論理立てて説明することを。
 
 これは難問です。
 
 うーむ、そんなことをつらつら考えていると、日本人として、なんだかここはしっかりと「和の精神」の正体を伝えねばならんと、使命感のようなものがわいてくる。
 
 まあ、定義が難しい事象は、具体例をいっぱい並べて、雰囲気をつかんでもらうのが次善の策であろうということで、とりあえずルッツにはとりあえず私個人が、
 
 
 「これぞ和の精神やなあ」
 
 
 しみじみ感じたという、「ある事件」について語って、その空気感だけでも感じてもらうことにしたのである。
 
 
 (続く
 
 
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