「ホラー」は怖くないけど「未解決事件」がコワい人、集合!

2024年08月14日 | コラム

 「ホラーは怖くないが、未解決事件は怖い」

 

 と言えば怪談の季節である。

 この殺人的な暑さの中(なんで学校の部活とかやってんだろ)、怖い話でゾッとして、少しでもを取ろうという。

 生活の知恵というか苦肉の策だが、これが私にはあまり効果がない。

 というのも、どうも自分は「怖い話」に興味がなく、聞いてもピンとこないことが多いのだ。

 映画は好きだけど、一時期大流行した『リング』『女優霊』といった映画は、

 

 「メチャクチャ怖い!」

 「マジで夜、寝れなくなる」

 

 とか言われてたけど、そんなにピンと来なかった。

 最近でも、『エスター』とか『IT/イット “それ"が見えたら、終わり。』も友人にすすめられて、おもしろかったけど、どちらかといえば「コメディ」に近い楽しみ方であったのだ。

 
 「おいおい、エスター(ピエロ)、今日も大暴れやなー。なんか、笑けるでー」
 
 
 みたいな。

 うーん、『エスター』を日本でリメイクするなら、ぜひ大竹しのぶさんにやってほしいぞ。

 そんなホラー不感症なので、「心霊スポット」とか、事故があって家賃が安い「死に死に部屋」とかも平気である。

 都市伝説の類はおもしろいが、別にゾッとはしない。

 スプラッタ系はダメだけど、それはグロ痛いのがイヤなので、ホラーとして怖いのとは、ちと違う気もするのだ。

 これは別に、こちらが豪胆ということではない。

 ジェットコースターとか、高いビルの屋上とか、ここ1週間ずっと不機嫌彼女とかは、ふつうにというか、たぶん人よりビビってるわけで、どうも自分は

 

 「怪談」

 

 というものに、そもそも、あまり興味がわかない体質なのであった。

 落語の「皿屋敷」は好きなんだけどねえ。お菊さん萌え。

 そんな幽霊に塩対応な私であるが、どう違うのかわからないが、

 

 「未解決事件」

 

 これは怖い。

 怖い恐い、これはマジでメチャクチャにコワイ。寝れなくなる。

 たとえば、「長岡京ワラビ採り殺人事件」。

 


 京都在住の主婦二人が、近所の山にワラビ採りに行ったら、その後遺体となって発見されたという事件。

 死体は全身何十個所も殴打され、包丁が突き刺されており、体内から犯人のものと思われる体液も見つかっている。

 金品は残されていたが、被害者のポケットにレシートが入っていて、そこには、

 

 「オワレている たすけて下さい この男の人わるい人」

 

 そう書かれていた。犯人はいまだ捕まってない。


 

 レシートにこれが書いてあるの、怖すぎるやろ!


 他にも、

 

 井の頭公園のゴミ箱」

 「洋子の話は信じるな」

 「まずい女性に引っかかった

 

 とか、もうブルブルなので詳細は書きたくないけど(興味があれば検索してください)、こういうのを、夜中に見ていると、本当にビビりまくりだ。

 いい歳したオッサ……ダンディズムを身にまとった壮年の紳士が、トイレにも行けない。むっさコエー!

 ネットをしているとき、たいていお茶コーヒーをがぶ飲みしているが、震えながら必死に尿意をガマンすることになる。

 いつか膀胱炎で、救急車に運ばれそうだ。じゃあ、見るなよ。

 いやでも、見ちゃうんだよなー、コレが。

 ここで、ひとつ不思議なのは、シャワー歯みがきのとき。

 怖がりの人は、そこで、

 

 「背後に気配がする」

 

 なんて後ろを振り返ったりするが、私もそれは同じ

 未解決事件の記事や、ゆっくり動画を見た後に風呂や洗面台に行くと、やはり後ろが気になる。

 ただ、そこで浮かぶ「背後に立つ者」のイメージが、なぜか

 

 「血まみれの幽霊

 

 とか、ものすごくベタなものであり、われながら「なんでやねん」なのである。

 未解決事件にビビってるのに、思い浮かぶのは幽霊

 しかも、なぜか「うらめしや」なコントに出てきそうなヤツだ。いわゆる「貞子」みたいなのですね。

 おそらく、それこそ本能的なへの恐怖を感じながらも、未解決事件の場合は明確な「」というものが存在しない。

 なので、具体的なを思い浮かべるには「怖いという記号」的なものを選択するしかなく、そこでとりあえず

 

 「血まみれの幽霊」

 

 となるのではないか。

 なんと安易なと、あきれる思いであり、私にとってもっとも怖いのは幽霊でも、まだ見ぬ犯人でもなく、

 

 「我がの想像力の絶望的貧困さ」

 

 これではないのかと、反省する日々であった。
 

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夢の世紀末ゴッサムシティ対決 ヤフー知恵袋vs5ちゃんねる

2023年11月16日 | コラム

 この世界には、ニ派に分裂して起る争いというのがある。
 
 東ドイツ西ドイツスンニ派シーア派フラマンワロン大乗仏教上座部仏教
 
 レアルバルサコークペプシ、「はし攻めはじ攻め」、から「じてんしゃ」と「じでんしゃ」。
 
 といった面々が、今でも各地で血で血を洗う抗争をくり広げているのだ。

 かくして今回、私もこの党派争いに奇しくも巻きこまれることになるのだが、事の発端はネットの質問箱だ。
 
 これからの日本は外国から人たちと付き合う機会も増えようが、そうなると文化的な「はて?」も増えることとなる。
 
 
 「ブラック企業とかブラック部活とか、なぜみんなガマンして続けるのか」
 
 「あの地獄の満員電車に耐えられるのは、サラリーマンが忍者の修行をしてるからなのだ」
 
 
 とか、ちなみに後者は80年代か90年代にアメリカで大流行した「忍者道場」の広告に実際に載っていた文言。

 ショーコスギパーフェクトパワーズでMー1準々決勝進出したケインコスギのお父さん)の影響から、彼の地で空前の「ニンジャブーム」が起こった落とし子であるという。

 そんな中、外国人から見た「神秘の国ニッポン」の謎に、こんなものがあるという。
 
 
 「ネットの質問コーナーの回答が、質問者にキビシすぎるのではないか」
 
 
 ヤフーgooなどネット上には様々なところで「質問箱」というのが存在する。
 
 そこでは
 
 
 「ネットのつなぎ方がわかりません」
 
 「先生から若いときには読書をしろと言われました。どんな本を読めばいいのでしょうか」
 
 
 みたいな正統派なものから、恋愛相談とか人間関係の悩みとか、果ては
 
 
 「なぜあのタレントが売れているのかわからない」
 
 
 みたいな「知らんがな」なものまで百花繚乱である。

 余談だが私の好きなこの手の質問に、宝島社の『VOW』に載っていた新聞の投書で、

 

 「相撲取りのことを《お相撲さん》と言いますが、テニス選手のことを《おテニスさん》と呼ばないのはなぜでしょう」

 

 そういや、なんでだろ。オレはたまに呼んでるけどなあ。

 で、そういう質問に、もちろん多くは普通に答えているのだが、ときおり
 
 
 「そんな、くだらない質問してんじゃねーよ、このぼけなす!」
 
 
 みたいな罵倒が、返っていることがあったりすることがあるのだ。
 
 異人さんはそれが謎で、
 
 
 「質問者が困って助けを求めているのに、なんでそんなヒドイことを言うのだろう」
 
 
 特に日本人はマジメでおとなしいイメージがあるため、よけいにビックリするのだそう。
 
 といったようなことを友人ウンジャクガオカ君に酒席でしたところ、
 
 
 「わかるわー。オレもコワいなーって思うもん」
 
 
 友によると、以前YouTubeをはじめようとしたとき、大手知恵袋に音響照明のことを質問しようとしてみたところ、その回答がそろいもそろって、
 
 
 「自分で調べろ」
 
 「この程度のことを人の頼るレベルなら、YouTubeなんてやめたら?」
 
 「マジでコイツみたいなのがいるから、日本はダメになったんだよなー。足引っ張んなや。生きる価値とか、ねーよ、アンタ」
 
 
 みたいなのがズラズラッと並んでおり、もうその時点で逃げ出したと。
 
 私はネット上の罵詈雑言を目にしたり、ましてやレスバを展開することほど人生のムダ遣いはないと思っているので、こういうところは「なかったこと」にして「そっ閉じ」だが、実際ウンジャクガオカ君も、
 
 
 「地獄の窯でも開けたのかと思うたで」
 
 
 苦笑いしながら話していた。
 
 そら、こんなん返ってきたら、質問者さん泣きまっせ。
 
 私の偏見でも、知恵袋系はだいたいこんな感じだと思ってたけど、これに反論するのが同席していた友人ハナヤシキ君。
 
 彼はパソコンが好きで、わからないことがあったら、やはりネットで質問するそうだが、そこでの反応はそんなに悪くはないというのだ。
 
 ちょっと違うのは、彼は知恵袋ではなく「2ちゃんねる」時代の5ちゃんねるの話だが、そこではたしかに、
 
 
 「これくらい、自分で調べられそうだけどな」
 
 
 なんて軽くイヤミを言われたりするものの、おおむね親切で、かつ情報も正確だというのだ。
 
 うーん、これはこれでわからなくもない。
 
 2ちゃん(5ちゃん)と言えば、治安の悪いところも多いが、技術系の質問に関しては結構ちゃんと答えてくれるという話は聞く。
 
 まあ、わが身に照らし合わせても、自分の得意ジャンルに興味をもって、質問してくれるのはうれしいものだから、そういうことなのだろう。
 
 そこから2人は
 
 
 「ネット民はコワい」
 
 「いやいや、案外そうでもないって」
 
 
 議論に入ったが、でもなんであの知恵袋って、あんなにキビシイ人が多いのかは、よくわからないまま。
 
 昔読んだ、植田まさしさんの4コマ漫画で、
 
 
 「アルバイト募集、恋人にフラれたばかりの人優遇」
 
 
 という謎の張り紙があり、行ってみたら「廃屋を解体するバイト」だった。
 
 捨てられた怒りとストレスで、壁や柱をガンガン壊す学生を見て親方が、
 
 
 「なにかを壊す作業は、こういう連中に頼むに限る」
 
 
 うなずいているというオチだが、もしかしたら知恵袋もそういう人を集めているのかもしれない。

 あるいは、

 

 「こちらのメンタルを鍛えようとしてくれている、とても親切な人」

 「日本語には悪口の語彙が少ないことを心配し、それを改善しようとしている人」

 「元海兵隊の教官」

 「そういうプレイ」

 

 などが考えられるが、実際のところはどうであろう、謎は深まるばかりである。

 

 

 

 

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「ゆるす」という言葉でマウントを取りにいった、あわれな男の話

2023年07月12日 | コラム
 「こないだ言うてた《かわいそうマウント》いうやつ、あれ耳が痛かったなあ」
 
 
 先日、一緒に昼飯を食べているときに、そう苦笑いしたのは友人ニシワキ君であった。
 
 唐突に出てきた《かわいそうマウント》とはなにかとここに問うならば、具体的には先日紹介した、
 
 
 
 
 などがある。
 
 このケースの場合、女子生徒は、
 
 
 「本当は自分も逃げたい」
    ↓
 「けど、それができない」  
    ↓
  「だからって、エスケープ組をうらやんだり、ねたんだりするのはカッコ悪いし筋違いだから、ここは《自分の意志で残っている》という体にして、《残らない人をかわいそうと、上から目線であわれむ》」
 
 
 といった流れによって、自らの不満プライドをなぐさめようという心の動きだ。
 
 で、ニシワキ君にとって、この話のなにに耳が痛かったのかと問うならば、彼もまた「マウントを取りに」行ってしまった記憶が喚起されたから。
 
 言葉はちがえど、似たような目的で発せられたワードが、
 
 
 「ゆるす」
 
 
 あー、わかるなあと、思わず声をあげた方は、私やニシワキ君と同じ「器の小さい男」だろう。
 
 まだ学生時代のこと。友は初めて彼女ができたのだが、その子が煙草を吸うのが、たいそうイヤだったそうな。
 
 でも、度胸も根拠もないもんで、
 
 
 「おい、女が煙草とか、やめろよ」
 
 
 とは言えない。けど、素直に受け入れることもできないから(まあ若造だしね)、
 
 
 「いいよ。古いタイプじゃないから、おまえがオレの前で煙草を吸うことをゆるすよ」
 
 
 そう宣言したのだ。
 
 おお! なんという見事なマウンティング。彼はこういう言い方をすることによって、
 
 
 「彼女の喫煙がイヤだと言い出せない、狭量かつ根性のない男」
 
 
 というポジションから、
 
 
 「女だてら喫煙するという蛮行を寛大に許可する、新しい、かつ器のでかい男」
 
 
 への華麗なるクラスチェンジをはかろうとしたわけだ。
 
 なんという詭弁、すばらしき欺瞞
 
 まさに小人物とはこうあるべき、という見本のような存在ではないか。さすがは、わがすばらしき「類友」だ
 
 もちろんのこと、この技は、
 
 
 「はあ? なに偉そうに言ってんの? あたしや女一般がなにしようと、なんであなたに『ゆるして』もらわないといけないわけ? どの立場からの意見?」
 
 
 そう、あまりに正しすぎる反論を受けて、友のなけなしの誇りは、まさに雲散霧消したのであった。
 
 そらそうだ。なにから、ものを言おうとしてるのかと。
 
 てゆうか、女が煙草吸っても全然ええですやん。
 
 そもそも煙草自体に反対っていうならわかるけど、「女が」って限定したら、そらアンタ何様やいう話やで。
 
 そう笑うと、友は
 
 
 「せやねん。それに今考えたら、彼女が喫煙しようがしまいが、どっちでもよかったしなあ」
 
 
 どっちでもええなら、そんなこといわなんだらええのに、
 
 
 「でもなあ。そういうの、言いたなるねん。アホやったから」
 
 
 あるよねえ。
 
 
 「そういうことを、ちゃんと女に言わなければならない義務がある」
 
 
 って思ってる男って、おるよねえ。
 
 かくのごとく、言いたいことが言えないとき、つい使いがちなマウンティング。
 
 たいてい見破られるし、そのときの恥ずかしさったらないので、注意が必要だ。
 
 
 
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「変な人」が変に見えるのは「論理的」であるから ジョナサン・スウィフト編

2018年06月27日 | コラム
 「変な人は論理的である」

 
 というと、たいていの人は、

 
 「えー、そんなことないよ。変な人は考え方が論理的じゃないから、変なんでしょ」

 
 そう返してくるものだが、これがそうではない。
 
 そこで前回(→こちら)は、

 
 「論理的帰結により、マリファナ売春が合法になった国」

 
 について語ったが、まさに変な人とは論理的であるというか、「論理的すぎる」から、おかしなことになるのだ。
 
 この手の「すぎる」人の最上級といえば、これしかあるまい。
 
 アイルランドの大作家ジョナサン・スウィフト
 
 『ガリバー旅行記』など、不思議でゆかいな童話を書く作家というイメージを持つ人もいるかもしれないが、それは彼の一面にすぎない。

 当時の(今でも?)イングランドから搾取されまくっていたアイルランドの代表的知識人として、なんともシニカル、かつ気の狂った風刺劇を得意としたロックンローラーなのである。
 
 そのイカれっぷりが炸裂しているのが、有名な、

 
 『アイルランドにおける貧民の子女が、その両親ならびに国家にとっての重荷となることを防止し、かつ社会に対して有用ならしめんとする方法についての私案』

 
 匿名で発表されたこの文章、長いので中身を要約すると、
 
 

 アイルランドのみんな、今年は飢饉で生活が苦しいよね。

 でも大丈夫、ボクが飢えと寒さをしのぐ起死回生のアイデアを考えたから、聞いてくれよな!

 答えはカンタン。あまってる赤ん坊の肉食べればいいんだ。

 みんな、食べるものがなくてツライよね。結婚している家は、子供の分も食べさせなければならないから、もっとタイヘン。

 でも、ここからが逆転の発想。
 
 キミのおなかがすいて、その子供も飢えているなら、逆に子供を料理してキミが食べれば、キミのお腹はふくれて、子供も苦しまなくてすむ。

  働けないのにメシだけは食う、赤ん坊の口減らしもできて、一石二鳥さ! 論理的でしょ? ボクって天才!

 
 
 まあ、こういう内容なんである。
 
 イカれてると思うでしょ? まさにしかり。イギリスには縁の深い夏目漱石も、

 
 「コイツ、まじヤベーわ……」

 
 ドンびきに、ひきまくってました。
 
 しかも、この文章はこれだけで終わらず、その後も、
 
 

 「1歳になると、栄養も申し分なく、煮ても焼いてもいけるし、シチューもおススメ」

 「王国にいる12万人の子供のうち、2万人繁殖用に残しておくのがベター」

 「カトリックは子だくさんだから、そいつらを市場に回せばプロテスタント側もうれしいよね!」

  「私生児対策にもいいよ。だって、望まぬ妊娠をしたって、堕胎しなくても食べればいいからさ!」

 
 
 などといった、「おいしい子供の食べ方レシピ」や、

 
 「この案が通れば、こんなええことありまっせ!」

 
 という、大プレゼン大会が延々と続くのだ。
 
 これがねえ。もうメチャクチャに理路整然としているというか、ロジカル爆発というか。ともかくも、

 
 「子供を食べると、イギリス王国には、こんないいことだらけ!」

 
 といった話が、しっかりした文章で語られていくのだ。とんでもない劇薬
 
 もちろん、ジョナサンは本当にそうしろといっているのではなく、アイルランド人を人間あつかいしない非道なイングランドに、
 
 

 「オレたちは、自分の子供を食んで生きなければならないほど、貴様らに踏みつけられているのだ!」

 
 
 猛抗議する、怒りの鉄拳なのだ。
 
 鬼気迫るのも当然
 
 飢えた子供が死んでいくのを、なすすべもなく見ながらペンを走らせる、まさに血と涙と魂の叫び。
 
 それがこんなにも論理的に語られる。読んでて、頭がおかしくなりそうになるのも、むべなるかな。
 
 「狂気の天才」ジョナサン・スウィフトの、あまりにもすさまじい名文だ。「論理的な人は変」の究極系
 
 「スウィフト アイルランド 貧民救済」で検索して、ぜひ一読を。
 
 


 (空想的社会主義者シャルル・フーリエ編は→こちら
 
 
 
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「変な人」が変な理由は「論理的である」から オランダのマリファナと売春合法 編

2018年06月22日 | コラム

 「変な人は論理的である」。

 というと、たいていの人は

 「えー、そんなことないよ。変な人は考え方が論理的じゃないから変なんでしょ」

 そう返してくるものだが、これがそうではない。

 そこで前回(→こちら)は「家出して住むところがない事態を、空手で打開しようとした友人」を例にあげたが、今回は国の話でオランダ。

 オランダといえば、チューリップに風車、あとは運河の国というファンシーなイメージがあるが、ディープな旅行者にとってはそれより少しばかりイケナイ楽しみを求めていたりする。

 それが、マリファナと売春だ。

 というと、マジメな人から、

 「そんな犯罪行為がはびこるとは、オランダはなんという乱れた国なのか!」

 なんてお怒りの声が聞こえるかもしれないが、残念ながらそれは不許可である。

 なぜなら、オランダは基本的に、マリファナをはじめとするソフトドラッグが合法であるし、売春もまた、有名な「飾り窓地帯」など国の管理のもと行われているのだ。

 つまり、法的にはなんの問題もないわけで、だれはばかることなく吸い放題で、買い放題なのだ。そりゃ、一部のフリーダムな人はうれしいかぎりである。

 ではなぜにて、オランダ(主に首都のアムステルダム)では、そのような「非倫理的」なことがまかり通っているのかと問うならば、これが「論理的帰結」によるのだ。

 最近では、アメリカもカリフォルニア州をはじめ、一部の地域で大麻が解禁されているが、もともとマリファナ自体はドラッグとしても、そんな目くじら立てるほどの副作用などはないとは、昔からよく聞くところ。

 せいぜい「ええ塩梅」になって、勤労意欲が落ちたりするくらいだが、日本でブラック企業に酷使されるのとくらべたら、それくらいのペースの方がよほど「働き方改革」ではないかとすら感じる。

 そもそも、酒や煙草をたしなむ人には、ソフトドラッグを非難する道義的正当性もないわけで(このどっちもバリバリの麻薬です)、私自身ドラッグにさほど興味はないし日本では違法だからやりはしないけど、昨今の傾向に関しては、「別にいんじゃね?」くらいのスタンスだ。

 それだったら、とっとと解禁してしまえばいいじゃん。というのが、オランダの考え。

 オランダ人によると、マリファナの合法化は禁止するよりいいことが多く、まずそれでハッピーになれる人がいる。

 また「店内など、決められた場所で楽しむ」という原則があるので、「隠れてコソコソやるうちに悪い仲間とつるみ出す」みたいな心配も減る。

 さらには、堂々と手に入れられることにより、売人などへの仕事を割のあわないものにし、その金がそのまま「国の税収」となって返ってくるのだから、こらもう坊主丸儲けやないか!

 つまり「大麻=ドラッグだからよくない」という偏見さえ一回はずしてみれば、大麻解禁は「いいことだらけ」ということになってしまうのだ。

 ちなみに、コカインやヘロインなど、「マジで壊れる」系のドラッグは絶対ダメです。そこのとこ、誤解なきよう。

 同じく売春に関しても、裏で悪いやつがあやつるから、人身売買や非人道的な性行為の強要などもあるわけで、国が管理しておけば、ある程度はコントロールできる。

 反社会的勢力の介入も減らせるし、健康診断(!)を受けさせれば性病も防げると、やはりプラマイでいえばプラスが大きい。

 だったら、なんで解禁しないの? やればいんじゃね?

 となるのは「論理的に正しい」というのが、オランダ人の判断なのだ。

 ただ、それを本当にやっちゃうのがすごい。ふつう、思いついても躊躇はするよねえ。でもそこは、ロジックが優先するオランダの国民性なのか。

 実際、この大麻と売春合法は他の国から、またオランダ国内でも賛否両論で、オランダ在住の日本人に聞いてみたところ、アメリカとフランスから、かなりきびしくとがめられたそうだ。

 まあ、いくら「論理的帰結」とはいえ、そら言われることもあるわなあと思うわけだが、そこはオランダも負けてなくて、自国のドラッグがらみの犯罪が圧倒的に少ないことを根拠とし、

 「ちなみに、先進国で一番麻薬犯罪が多いのは、アメリカとフランスだよーん!」

 そう反撃したとか。あらら、そらぐうの音も出ません。

 もちろん、なんでも合法化すればすべてが解決するわけでもなく、倉部誠さんの『物語オランダ人』という本を読むと、「論理的思考」が過ぎるゆえの色々な齟齬などもあるようだし(日本人的な「忖度」に鼻もひっかけないとか)、私自身も「だからオランダみたいにやれ」とも言う気もないけど、

 「感情的、感覚的に受け入れにくいことを、しっかりと思考を整理して、しかも本当に実行しちゃう」。

 というオランダの発想力は、もう文句なく面白い。尊厳死とかも、そういうことなんだろう。

 もうオランダ人ったら、論理的で変な人!


 (ジョナサン・スウィフト編に続く→こちら

 

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「変な人」が変に見えるのは「論理的」であるから 空手番長編

2018年06月17日 | コラム
 「変な人は論理的である」。

 というと、たいていの人は

 「えー、そんなことないよ。変な人は考え方が論理的じゃないから変なんでしょ」

 そう返してくるものだが、これがそうではない。

 そこで前回(→こちら)は、「論理的帰結により、浴室で全裸になってトマトを食べる将棋のプロ棋士」を紹介したが、今回は強豪ひしめく我が友の話。

 「悪いけど、金貸してくれへんか」。

 そういって友人タカヤス君が我が家をたずねてきたのは、まだ学生時代のことであった。

 突然の借金の申しこみであったが、事情はすぐに理解できた。

 タカヤス君は当時、ある夢があったのだが、そんな若気の至り的時代の御多分にもれず両親が

 「そんなもんでメシが食えるか」

 と猛反対。そこで大げんかになり、家を飛び出していたころだったのだ。

 だが、いざ家出はしてはみたものの、当座住むところがない。

 しばらくは友人の家など転々としていたが、いつまでもというわけにもいかない。

 なので24時間営業のファミレスなどで夜を明かしていたが、

 「ボロ屋でもええから、なんとか屋根のあることろ探さんとなあ」

 会うたびにぼやいていたのだ。

 おそらくそのことであろう。アパートを借りたりするとなると、そのころだと、敷金などで10万から20万くらいかかってしまう。

 徒手空拳のタカヤス君に、そんなお金があるはずもない。そのための資金繰りではなかろうか。

 友は芸術家タイプの人間に多い、プライドの高い男である。

 そんな男が、頭を下げて、しかも数ある友たちの中から、あえて私を選び、助けを求めてきたのだ。

 ここで立ち上がらなくては私の中の大和魂は死ぬ。まかせろ。こっちも大した持ち合わせがあるわけではないが、他の友人たちにカンパを募れば、安アパートくらいなら借りられるのではないか。

 そこで「で、とりあえずいくらくらいいるの?」とたずねると、タカヤス君はこう言い放ったのである

 「8000円くらいかな」。

 8000円? 8万円の聞き違いかと思ったが、もう一度訊くとたしかに8000円だという。

 8000円なんかでは、どんなボロアパートでも1月の家賃にもならない。

 その金でなにをするのかと問うならば彼は笑顔で、

 「あのな、空手習おうか思ってるねん」。

 ふたたび、はあ? である。なんで空手なのかといえばその理由というのは

 「アパート借りたらお金かかるやろ。その金貯めるのに時間もかかるし。だからアパートはあきらめて、かわりに空手を習って心身を鍛えて、

 『屋根なんぞなくても、野宿で充分』

 って思えるような強靱な精神力を身につけた方が早いやん」。

 これには思わずうならされた。

 屋根がなければ、屋根なんぞいらんという境地に達すればいい。

 まさに逆転の発想だ。たしかに、それでいいなら問題は解決どころか、未来永劫われわれの生活費を侵食する「家賃」なるものに悩まされずにすむ。むしろ「勝ち組」の生活と言えそうだ。

 人に必要なのは「衣食住」だが、「それは本当に要るのか?」と固定概念をはずしてみれば、人の思考はこんなにも自由になれる。

 なにがどうということはないが、たしかに「論理的には間違っていない」気はする。

 なるほどなあ。ようそんなこと思いつくなあと、彼に道場の入会費3000円と、1ヶ月の授業料5000円、計8000円なりを手渡しながら感心したものだ。

 友はその常人離れしたセンスから「天才タカヤス」の名を欲しいままにしていたが、まさにその面目躍如ともいえるエピソードであった。

 ちなみに、その後彼は

 「空手でそこまで行くには10年はかかる。マジメに働いた方が早い」

 との結論に達し、アパートを借りるため、せっせとバイトにはげむというオチもつくのだが、結果はともかく『寄生獣』とともに、

 「変な人は案外と論理的かもしれない」

 という発想を持つに至った、最初のエピソードであった。



 (オランダのマリファナと売春編に続く→こちら



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「変な人」が変に見えるのは「論理的」であるから 森下卓九段 編

2018年06月15日 | コラム
 「変な人は論理的である」
 
 
 というと、たいていの人は
 
 
 「えー、そんなことないよ。変な人は考え方が論理的じゃないから変なんでしょ」
 
 
 そう返してくるものだが、これがそうではない。
 
 そこで前回(→こちら)は、中島らもさん書くところの
 
 
 「論理的帰結により髪型を《ザビエル》にしたサラリーマン」
 
 
 を紹介したが、今回は論理的思考といえばこの職業であろう、将棋のプロ棋士から。
 
 森下卓九段は、典型的な「マジメすぎて変」な人である。
 
 A級10期タイトル戦登場6回棋戦優勝8回という、押しも押されぬ一流棋士である森下先生だが、一緒にお酒を飲んだ女の子に、後日丁寧なお礼状とともに
 
 「一歩千金
 
 と揮毫した色紙を送ったなど、この手のシビれるエピソードに事欠かない。
 
 中でも最も奇抜なエピソードといえばやはり「森下全裸トマト事件」。
 
 森下九段の好物はトマトである。
 
 それもサラダにしたり、塩や砂糖をつけたりなどという軟弱な食し方ではない。九州男児の森下九段は、腰に手を当ててそのまま丸かぶりが好みだ。
 
 が、そんな豪快な先生だが、ここにひとつ悩みがあった。
 
 それは、トマトのである。
 
 がぶりとトマトに食らいつく。とすると、かじり口から、トマトの赤い汁が種とともに飛び散ってを汚すのである。
 
 キレイ好きの森下先生には、これが悲しい。
 
 ここで長考に沈んだ。トマトは食べたい。しかし、服が汚れるのはイヤだ。どうすればいいのか。
 
 そこで好手が思い浮かんだ。
 
 トマトを食べると、汁で服がよごれる。とすれば最初からなど着なければいいのではないか!
 
 これぞ逆転の発想、コロンブスの卵。
 
 たしかにそうすれば、服はよごれない。さっそく先生、トマトを冷蔵庫から取り出すと、着ている服を脱ぎ払って全裸になった。
 
 準備完了。さあ、いざこの赤い果肉を丸かぶらん! 
 
 と、大きく頭を振りかぶったところで、再びあることに気がついた。
 
 このまま食いついても、たしかに服は汚れることはないだろう。
 
 だがしかし、汁は服の代わり今度はに飛び散り、部屋に敷き詰めたじゅうたんをよごしてしまうではないか!
 
 キレイ好きの森下先生、これが悲しい。
 
 ここで長考に沈んだ。トマトは食べたい。でも床をよごすのはイヤだ。どうすればいいのか。
 
 そこで好手が思い浮かんだ。
 
 トマトを食べると床がよごれる。とすれば、最初から床がよごれてもいい場所で食べればいいではないか!
 
 なるほど、これぞユリイカ、コペルニクス的転回。では下がよごれてもいい場所とはどこか。トマト片手に先生は走った。
 
 そこは風呂場だ。
 
 浴室なら、汁が飛び散って体や床を汚したところで、シャワーでしゃーっとすすいでしまえばいいことだ。
 
 さすが天才は発想が違う、いろんな意味で。
 
 かくして、森下卓九段は服も床もよごすことなく、トマトの丸かじりを大いに堪能した。
 
 このエピソードのすごいところは、森下九段の思考が、徹頭徹尾論理的であるということ。
 
 
 「キレイ好きが、トマトを丸かじりするにはどうすればいいか」
 
 
 という命題に、ほぼ最適解に近いものをみちびき出している。
 
 で、その結果あらわれたのが、
 
 
 「浴室で全裸になって、腰に手を当てトマトを丸かじりする男」
 
 
 
 もう、森下先生ったら変な人!
 
 
 (空手番長編に続く→こちら
 
 
 
 
 
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「変な人」が変に見えるのは「論理的」であるから 河童のサラリーマン編

2018年06月10日 | コラム
 「変な人は論理的である」。

 というと、たいていの人は

 「えー、そんなことないよ。変な人は考え方が論理的じゃないから変なんでしょ」

 そう返してくるものだが、これがそうではない。

 そこで前回は「共産主義国家のサンタクロース問題」を例にあげたが(→こちら)、今回は中島らもさんの本から。

 らもさんの知り合いの編集者に、頭をカッパのように丸く剃り上げている人がいたという。

 学校の先生なら100%「ザビエル」とあだ名をつけられるタイプの髪型だが、ハゲているわけでもなく自らの意思でそのような髪型にするのは、なんとも面妖である。

 「オシャレ」とも思えないし、たとえどのような思惑があるにしろ、これはどう見ても「変な人」であろう。

 らもさんがその理由を問うならば「ザビエル」氏は、

 「私はね、変人なんですよ」

 はあ、それは見たらわかりますけど。

 といってもそれは「この髪型だから変」というわけではなく、

 「変だとされるがゆえに、この髪型にせざるをえない」

 順序が逆なのだという。続けて曰く、 

 「だから普通の頭にしてると、みんな普通の人だと思って話しかけてくる。この頭にしておくと、一目で変人とわかるでしょう。あとで変人だとか、やいやい言われなくてすむ」

 なるほど、そう説明されると理解できるところはある。

 つまり、この「ザビエル」氏は変人だが、自分でそのことを納得しているわけではない。

 なので「普通の人」として、ごくまっとうな普通の髪型をしていたのだが、いざつきあってみると、

 「え? この人って、こんなに変だったの」

 そうおどろかれてしまうことが、多々あるのだろう。

 こうなると、仕事や人間関係に問題が出る。

 なまじパッと見が「まとも」なだけに、そのギャップが悪い方に出て、「ドン引きされる」ということになるのだ。

 「こんな人だと思わなかった」と。

 よく昭和のマンガやテレビドラマなどで

 「動物を助けて好感度が上がるヤンキー」

 というキャラが出たりしたものだが、その逆パターンといえよう。

 そこで氏は考えたのだ。どうすれば、「変」であることに、おどろかれないのか。

 そこで思いついたのだろう。《普通に見えるのに変》だからビックリされるんだと。だったら、最初から

 《見た瞬間に変だとわかる》

 このようにしておけばいいんだと。

 そのためには、一番目立つところに異物を置くのがいい。で、選んだのが

 「カッパのようなハゲ」であると。

 これなら、第一印象で「変」だとわかるから、あとで「そんなはずでは」となることがない!

 中学生くらいのころ、これを読んだ私は、

 「なんと明快で、論理的な思考経路なのか!」

 と感嘆し、「ザビエル」氏の頭のよさに感心したが、同時にこうも思ったわけなのだ。

 「変な人……」。


 (森下卓九段編に続く→こちら



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「変な人」が変に見えるのは「論理的」であるから サンタクロース編

2018年06月05日 | コラム

 「変な人は論理的である」。

 というと、たいていの人は

 「えー、そんなことないよ。変な人は考え方が論理的じゃないから変なんでしょ」

 そう返してくるものだが、これがそうではない。

 そこで前回は『寄生獣』のミギーやドイツのV2ロケットを例にあげたが(→こちら)、今回のテーマは「メルヘンとロジックは両立するのか」について。

 ファンタジーと論理は、基本的には食い合わせが悪いものだが、荻原祐一さんの書いた『サンタクロース学』という本は、まさにその対立の火薬庫ともいえる緊張感をはらんだ内容となっている。

 サンタクロースの起源から、その歴史や商業主義的見方など様々な視点から解説したものだが、圧巻なのが後半にあるサンタクロース本の紹介。

 こういうところではふつう、

 「この絵本のサンタはステキ」

 「この歌に出てくるサンタはおもしろい解釈」

 なんてメルヘンなところをフィーチャーするものだが、どっこいこの本は、そんな生ぬるい思想ではできていない。

 どうも荻原先生は、真面目というか硬派なサンタクロースフリークであり、まがいものというか、サンタクロースのイメージを壊すような本はゆるせないらしい。

 『トンデモ本の世界』シリーズでこの本を取り上げた唐沢俊一さんによると、たとえば

 「なまけ者のサンタが、子供の願いを聞いてサンタの仕事の大切さに目覚める」

 といった本を取り上げた場合。

 「仕事」「責任」「大人になる」とはなにかを殊勝に問いかける、いい話だと思うのだが、先生は「こんな話はダメだ!」と断罪。


 「サンタクロースが怠け者だななんて、そんなことはおかしい。これは、子供たちに間違った情報を与えることになる。こんなものがはびこるようでは日本も終わりだ!」


 と大激怒。

 これだけで、充分に荻原先生の情熱が伝わろうというもの。他にも「動物がサンタに扮する」という話があれば、


 「サンタは動物ではない。安易に子供に媚びるな」。


 また、「サンタさんの奥さん」が出てくる話には、


 「サンタが結婚しているという話など聞いたことがない」。


 「サンタの玄人」として、設定の不備はゆるせないと。それだけならただ口やかましいだけと言えなくもないが、荻原先生は続けて、


 「それにこの話は、妻のサンタは家の仕事を押しつけられているという古いタイプの女性しか描いていない。現代風にアレンジするなら、サンタの仕事も家のこともお互いに平等にこなさなければならないのではないだろうか」


 実にスルドク、ジェンダー論にまで切れこんでくる奥の深さ。

 荻原先生はただの偏狭なガンコ者ではない、柔軟であり、女性の味方なのである。

 一番「論理的」だと感心したのが、中国を舞台にしたサンタ話。

 サンタクロースは世界中の子供、ヨーロッパだけでなく、アジアやアフリカにも出かけていってプレゼントを渡すもの。

 その中には当然、中国も含まれているわけだが、荻原先生はそれはおかしいと一喝。

 といっても別に、昨今流行りの嫌中というわけではなく、


 「中国というのは共産主義国家である。共産主義とは唯物論的思想であり、宗教は否定される。なので、中国にサンタという存在はありえないのである!」。


 つっこむとこそこかよ! と、思わず声に出したくなる、まこと見事な亜細亜サンタ論。

 クリスマス前にほのぼのした本を読みたくて、サンタと共産主義という視点が飛んでくるとは思ってもみなかった。

 まあ、たしかに共産主義バリバリ時代の中国では、キリスト教も肩身のせまい思いをしていたというのは、小田空さんの『中国いかがですか?』でも語られていたけど。

 また北欧文学者で翻訳家の稲垣美晴さんの『サンタクロースの秘密』によると、フィンランドは世界から届く「サンタクロースへの手紙」に返事を出すというサービスを行っていた。

 そこではスウェーデン語や英語にドイツ語、さらには日本語や韓国語のお便りにも、その国の言語で返事を返していたが、そこに中国語がなかったのも、おそらくは政治体制の影響なのであろうから、先生の言うことはもっともなのだ。

 以上の例などをとっても、どうであろうか、変な人というのは、実はそのおかしさの原理は「論理的」であることなのだ。

 空想の産物すらも容赦しない。まこと「論理道」の道はかくもけわしいのである。

 
 (河童のサラリーマン編に続く→こちら
 

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「変な人」が変に見えるのは「論理的」であるから ドイツ軍 V2ロケット編

2018年05月31日 | コラム
 「変な人は論理的である」。
 
 というと、たいていの人は
 
 「えー、そんなことないよ。変な人は考え方が論理的じゃないから変なんでしょ」
 
 そう返してくるものだが、これがそうではない。
 
 前回は岩明均『寄生獣』に出てくるミギーの
 
 「論理的すぎていろいろ間違いだらけ」
 
 そんな思考経路を紹介したが(→こちら)「論理的で変」といえば、第二次大戦中のドイツ軍兵器もなかなかだ。
 
 使用するのに、警備もふくめ5000人以上(!)を必要とし、組み立てからレール敷設に移動までに数週間もかかった、でも破壊力は史上最強クラスの超巨大列車砲「ドーラ」。
 
 「マッド独裁者」と「マッドサイエンティスト」の夢のタッグで登場したものの、総重量188トンと重すぎて全然実用的でなかった「マウス」戦車。
 
 などなど、まさに「ドリームチーム」と呼びたくなる逸材ぞろいだが、中でもインパクトがあるのが、「V2ロケット」であろう。
 
 バトル・オブ・ブリテンでの敗北このかた、ドイツ軍は常に空戦でイギリス軍のレーダーに苦しめられていた。
 
 だが、ドイツにはとっておきの隠し玉があった。
 
 そう、大陸からドーバー海峡を越えてイギリス本土を攻撃できる、スーパーロケット兵器が開発されていたからだ。
 
 かつてフランス女王マリー・アントワネットは、「パンがなければケーキを食べればいいのよ」と言い放ったが、ドイツ人は、
 
 「制空権がないなら、超長距離ミサイルで直接攻撃すればいいのよ」
 
 いわば『キャプテン翼』の翼くんが、得意にしていたドライブシュートで何度も使った、
 
 「相手選手を越えた上空から、ボールが急激に落下することで、敵のディフェンスやキーパーの動きを無効化する」
 
 という戦術と同じ思想ということで、理にはかなっているのだけど、それにしたって思いついても、ようやるもんであるなあ。
 
 実際、超音速で飛ぶミサイルは迎撃手段が存在せず、当時のロンドン市民を恐怖のどん底にたたき落としたそう。
 
 まあ北朝鮮がとなりにいる日本人としては、少しばかりリアルに感じられるところではある。命中率は、いまひとつだったそうだけど。
 
 ちなみに、このV2の正式名称は「Vergeltungswaffe 2」。日本語に訳すと
 
 「報復兵器2号」
 
 むやみにイカついところもステキだ。
 
 どうであろうか。よく学校の先生などが、「論理的思考力を身につけることが大事」なんて語ったりすると、「めんどくせー」なんて反応をする子もいるかもしれないが、
 
 「論理も行き過ぎると、いっそ愉快」
 
 ということもあることも知っていれば、それはそれでけっこう楽しく向き合えるのではないかと思うので、次回からそういったケースをいくつか紹介してみたい。
 
 
  (共産主義のサンタクロース編に続く→こちら
 
 
 
 おまけ
 
 ★気ちがい兵器「ドーラ」の雄姿は→こちら
 
 ☆マウス戦車のデタラメさは→こちら
 
  
 
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「変な人」が変に見えるのは「論理的」であるから 『寄生獣』のミギー 編

2018年05月30日 | コラム
 な人は論理的である」

 
 というと、たいていの人は

 
 「えー、そんなことないよ。変な人は考え方が論理的じゃないから変なんでしょ」

 
 そう返してくるものだが、これがそうではない。
 
 私はわりと周囲に「変わっている」と言われる人が多い。

 マジメすぎて堅物と評される人や、芸術家体質の人までさまざまだが、彼ら彼女らにはひとつ大きな共通点がある。
 
 それは、周囲から見て「変だ」と思われている行動原理には、どれも「理由」が存在する。

 そこで、一回偏見を取りのぞいて、そこを語ってもらうと、世間が受け入れるかどうかは別にして、理屈としては、


 「なるほど、そういうことか」 


 腑に落ちることも多いからだ。
 
 そんなことを考えるようになったのは、岩明均先生の傑作マンガ『寄生獣』を読んだのがきっかけだった。
 
 主人公ミギーをはじめとするパラサイトはヒトではなく、それゆえか人間的感情常識感覚が欠如している。

 そして、その分徹底してドライ論理的である。
 
 典型なのが、パラサイトがヒトを食べることについて、ミギーと宿主である新一君の議論するシーン。

 
 「バケモンやん。普通やないで!」

 
 パニックになる新一君に、ミギーは
 

 「別におかしくはないやろ。人間かって他の動物を食べるわけやし」

 
 クールに反論。そこから、

 
 自然界では動物が、他の動物を補食することは普通であり、ならば人間エサにする生物がいるなら、そいつがそうしても、おかしくはない」

 「自分は他の動物を食べるのに、自分が食べられるのはおかしい、というのは筋が通ってない」 

 
 この論理展開に新一君は反論できず、


 「屁理屈や!」

 「やっぱり、おかしいってば!」


 逆アップをかますしかなくなってしまう。
 
 感情論や「ダメなものはダメ」という循環論法でしか語れない新一君に対し、ミギーは徹頭徹尾論理的である。

 でも、実際にこんなことを言う人がいたら(中二病的なカマシなら別だが)、はっきりいって「変なヤツ」あつかいであろう。
 
 また、ミギーは彼と新一君を敵視し、なんと授業中の学校に攻めこんできた「」というパラサイトと戦う際にも、

 
 「ここにいる生徒たちを《肉の壁》にして戦おか。まあ20人くらいは死ぬかもしれんけど、「A」が、そこでもたついている間に一撃でしとめるで」

 
 そんな作戦を提案し、新一君に、

 
 「なるほど、そりゃいいアイデアや。ミギーってホンマ天才やな……ってオイ!」

 
 見事なノリツッコミをかまされていた。
 
 ミギーからすれば、

 
 「生物は自己の生命が一番大事であり、そのためなら他者犠牲になることもあるのは、しょうがない」

 「それを嫌がって命を危険にさらすなど、優先順位のつけ方がおかしい」

 
 ということであり、まあ間違ってはいないけど、少なくともそれで「非論理的」な新一君を説得はできないのであった。
 
 かくのごとく、ロジックというのは、つきつめていくと時におかしなことになりがちというか、ハッキリ言って反社会的ですらありえる。

 反面、いかにわれわれの持つ「常識」というものが、好き嫌いをはじめとする「感情」といったアバウトなもので出来ているか、よくわかるではないか。
 
 
 (ドイツ軍編に続く→こちら
 
 
 
 
 
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ボンクラ学生のための、楽できる(かもしれない)第二外国語選択講座 ドイツ語編

2018年03月08日 | コラム

 第二外国語の選択はむずかしい。

 というテーマでここ数回語っており、ここまで

 「フランス語負け犬(→こちら)、ロシア語酔狂(→こちら)、中国語(→こちら)とスペイン語(→こちら)は人生の勝利者

 ということになっているが、では肝心の私の専攻であるドイツ語はどうなのかと問うならば、これは論理的構造にすぐれ、医学の世界などでも大いに活躍している言語だ。

 さらには名詞に3つもあってなんでやねんとか、冠詞や形容詞がいちいち格変化するのが大変で、分離動詞とか再帰代名詞とか意味不明であり、接続法はずっと「雰囲気」で読んでいて。

 地方意識強いから方言文化が充実しすぎて、先生によって発音がまちまちだったり(「ライプツィヒ」が「ライプツィク」になるとか)、巻き舌苦手だといきなり挫折しかけるとか、もう正直やっとられっか!

 ……などなどとても魅力的なものであり、もちろんのこと、超のつくほどおススメです(大本営発表)。

 まあ、私の場合は「好きだから」という理由でドイツ文学を選んだわけだから、ドイツ語に関しては大変とか言ってもしょうがないわけで、皆様にすすめられるか客観的な判断は難しい。

 ちなみに、私の今のドイツ語は、そこはスペシャリストということで、すでに現役を退いた現在でも、

 「見たらドイツ語かどうかはわかる」

 というレベルをキープしているのは、さすがと言わざるを得ない。

 アルファベートの上にがついてたら、だいたいドイツ語です(ホントかよ)。

 一応、海外旅行の表示やレストランのメニューとかくらいは理解できるし、辞書さえあれば簡単な文章くらいは読めそうだけど、まあその程度。

 いわゆる「中2英語」と大同小異であろうか。



 「語学学習というのは、穴の開いたバケツに水をくむようなもの」



 という言葉通り、外国語はダイエットと同じで、継続しないとすぐに力が落ちます。

 まあ、それはどのジャンルでもそうなんでしょうねえ。生きるって大変だ。

 そこで今回は、すっかり「語学隠居」な私が、学生時代に勉強の足しにと読んだ本などを紹介したい。

 そこから興味を持っていただければ幸いである。
 

 ★藤田五郎『ドイツ語のすすめ

 講談社現代新書の一冊。字通りの「ドイツ語って、こんなんだよ、楽しいよ」とすすめてくれる内容。

 参考書としては物足りないけど、読みやすくて入門書には最適だった。

 「トーナスだと!」など、時代を感じさせる言い回しも、今の視点で読むと楽しい。

 中級編に『ドイツ語の新しい学び方』というのもある。


 ☆池内紀『ぼくのドイツ文学講義

 ドイツ文学者である池内先生の本は、ほぼほぼすべて読んでいるが、文学入門書といえばこれがいいかも。

 「ぼくの」とあるように、普遍的な解釈や講義ではないが、池内流の静かでいながら独特の筆さばきが冴える。


 「カフカの『変身』は一級のコメディー作品」

 「ハインリヒ・ハイネは情熱の詩人であるとともに、したたかな実際家」

 「たった一着の制服で国じゅうを笑わせた、ドイツ流風刺劇について」



 などなど、一見「お堅い」独文学のイメージを一変させてくれる。

 本流というよりは、あくまで「池内流」の料理法だが、既存のかたくるしい「文学論」が苦手な人は、ぜひこちらから入ってみるのも手。

 池内本はどれもおもしろいけど、ドイツ文学関係では他に、『ゲーテさんこんばんは』『カフカの生涯』などもおススメ。


 ★NHKラジオ『ドイツ語講座』

 定番だが、やはり自宅で生ドイツ語を聴きたければ、ネットのない時代はこれ。

 テキスト代数百円で、毎日ちゃんとした講義が聴けるのだから、こんなオトクな話はない。

 ラジオ講座にかぎらず、語学はすべてそうだけど、「五感を総動員」するのが学習のコツ。

 ただ漫然と聴くだけでなく、単語や文法をおぼえるのはもちろん、暗唱できるようになるまでくりかえし音読し、例文を何度も何度も書き写す

 余白には、調べたことを書きこみしまくって、テキストを自分流のノートにするとか「骨までしゃぶりつくす」ことが肝心。

 もちろん、コラム雑談の類も、しっかり読みこみましょう。


 ☆『MD 月刊基礎ドイツ語

 ドイツ語の老舗である三修社から出ていた、ドイツ語学習者専門雑誌

 「MD」とは「Mein Deutsch」(私のドイツ語)の略。

 「ドイツ語編」と「ドイツ文化編」に分かれており、語学編は月ごとに「仮定法」とか「関係代名詞」とかテーマがあって、1年通読すると一通り基礎文法がマスターできるというもの。

 私は「文化編」が好きで、ドイツの現代音楽少数民族事情など、日本ではなかなか知りえない情報が満載。

 「ソルブ人とソルブ語の保護問題」

 なんて、これを読まなきゃ接することもなかったろうなあ。

 銀行や歯医者の待ち時間、いつも開いてました。今でも青春の思い出。

 休刊してしまったのが、残念でならない。



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ボンクラ学生のための、楽できる(かもしれない)第二外国語選択講座 スペイン語編

2018年03月06日 | コラム

 前回(→こちら)の続き。

 ここまで第二外国語はなにを選ぶべきかで、人生の先輩としてアドバイスを送っている。

 前回は

 

 「中国語を取れば単位取得がで、大学生活は勝ち組

 

 という意見を述べたのであるが、単位を取るのがな言語は、もうひとつあると言われていた。

 それはスペイン語である。

 というと、スペイン語なんてドイツ語やフランス語よりも、もっとなじみがないのではないか。

 なんて言われそうであるが、いやいや、なかなかこれがどうして、語学学習者の間では、

 

 「ヨーロッパ系言語で、日本人が1番学びやすいのはスペイン語」



 という説が、まことしやかに流れていたのである。

 これにはわりとキチンとした根拠があり、まずスペイン語は発音

 英語のあのネチャっとした発音や、ドイツ語巻き舌フランスから抜ける母音。

 などなど、外国語学習者の前に立ちはだかるのは、日本語になじみのない発声法だが、スペイン語にはそういった癖があまりないらしい。

 「わたし」を意味する「YO」、そのまま「」で通じる。

 「comer」(食べる)もそのまま「コメール」、「Ajo」(にんにく)もそのまま「あほ」と平坦に読めばよい。

 単語がスペルそのままで、読めるというのもいい。

 英語の「knife」はどう見ても「ナイフ」とは読めないし、「dangerous」を「デンジャラス」と発音するのは、かなりアクロバティックである。

 実際、英語が母語のイギリス人ですら、

 

 「ウチらの言葉の発音、マジおかしくね?」

 

 問題にしているくらいだ。

 その点スペイン語は、ドイツ語の「eu」で「オイ」などといった、めんどい規則が少ない。

 書いてあるとおりに読めば、だいたいが通じるというのだから、もう涙が出るほどありがたい。

 スペイン語がいいというもうひとつの理由は、

 

 「中南米ひとりじめ」

 

 日本ではサッカー以外で、あまりなじみのない中南米諸国であるが、これが言語的にはスペイン語がメッチャクチャに強い

 なんといっても、ブラジル(ポルトガル語)以外ではほぼ全域、スペイン語が公用語なのだ。

 しかも、スペイン語とポルトガル語は、標準語と関西弁くらいの差しかないから、ブラジルでもスペイン語はけっこう通じる

 つまりは、スペイン語さえマスターすれば、中南米諸国で旅行や仕事をするのに無敵ということだ。

 彼の地では英語の通用度が低いので、



 「え? 英語しかしゃべれへんの? フッフッフ、そんなん中南米では、ただの迷子やで」



 英語帝国主義者どもに、一泡吹かせてやれるのである。

 バックパッカーの中には

 

 「英語ともうひとつといわれれば、スペイン語を選ぶ」

 

 という人も多い。

 世界一周をするという人は、まず南米から入って、スタートでスペイン語を学んでから、他の国に出るという人もいる。

 なんといってもアメリカでは、これから非白人人口が、白人人口を超えると言われている。

 トランプ大統領の「メキシコ人追い出す」発言は、そのことにビビってのもの。

 そうなると、プエルトリカンなどスペイン語を使う人が、USAのマジョリティーになる可能性もあるのだ。

 もちろん、大学の授業レベルでは、「旅行先でもペラペラ」なんてのは無理でも、発音が楽ということはスピーキングで有利ということ。

 基礎単語になじんでおく程度でも、たぶんフランス語やドイツ語よりは通じる度合いが高いはず。

 英語みたいに

 

 「コーヒー? OH! 《カフィー》のことですねAHAHAHA!」

 

 なんて笑われて赤っ恥ということにもなりにくいのだ。

 学びやすく、ひそかに使用人口も多いスペイン語、おススメです。

 

 (ドイツ語編に続く→こちら




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ボンクラ学生のための、楽できる(かもしれない)第二外国語選択講座 中国語編

2018年03月04日 | コラム

 前回(→こちら)の続き。

 ここまで第二外国語はなにを選ぶべきか、人生の先輩として後輩たちにアドバイスを送ってきた。

 前回は

 

 「ロシア語取るヤツはドM」

 

 という話をしたが、ここまで仏露両国が難解と言うことで、枕を並べて討ち死にした。

 まあ難しい方はわかったとして、では肝心の

 「どれがオススメなのか」

 という問いに今回は答えると、それはふたつある。

 そのひとつが中国語

 大学1回生の最初の仕事といえば、まず履修科目を決めることだが、もちろん我々のようなボンクラ学生は、



 「○○教授の講義が受けたくてこの大学にきました」

 「少しでも将来のキャリアアップに役立てたいです」



 などといった殊勝な考えは、これっぽちも持っていないわけで、そこにあるのはただ

 

 ラクチンに単位が取りたい」

 

 という熱い思いのみである。

 そんな中、浮上するのが中国語。

 私は中国語のことは全然わからないが、いろいろ聞いたところによると、



 「中国語は楽勝。寝てても単位取れるし、テストは足で書いてもまちがいなしでへーこいてプー」



 中国語の先生が聞いたら、青竜刀でなますにされるのではといった、学問をなめまくった噂が、あちこちから流れこんできたものだ。

 その根拠は一体なんなのかと問うならば、まず中国語は、他のヨーロッパ系言語よりも学びやすい

 なんといっても、むこうは漢字の国の人である。

 そして、我らが大日本帝国も、また半分くらい漢字の国の人である。

 この共通点は、大きなアドバンテージだ。

 これは心理的作用も大きいらしく、日本人はよく外国人に



 「なんであんなに英語しゃべれないの?」



 なんていわれてションボリさせられることがあるが(いや、リーディングは超得意なんですけどね……)、これが中国語をやると、立場は一変する。

 漢字になじみのない欧米人は、中国語には本当に苦労するらしいのだ。
 
 そらそうだ。言語でなにがつらいといって、

 

 「文字が理解できない」

 

 ことほど絶望的なこともない。

 彼らにとっての漢字は、われわれにとってのタイ語アラビア語のような、



 「そもそも何が書いてあるのかわからない」



 ところからスタートなのだ。

 これは苦しいではないか。

 この差は大きい。「英語が得意」なオランダ人ドイツ人

 

 「文章が読めないイッヒ!」

 「作文が書けないロッホ!」

 

 汗だくでヒーヒー言うてるのを尻目に、



 「PO! 日本人が外国語が苦手とか、どこの国の天津甘栗や!」



 余裕をぶっこきまくれるのである。

 とにかく、字のとっつきやすさと、文法もドイツ語やロシア語のごときパズルのような難解さもないため、比較的すんなり学習できるのだとか。

 私のも学生時代は中国語を取っていたが、聞いてみると

 

 「そういえば、あんまり苦労した記憶がないなあ」

 

 やはり、楽なのだ。

 別の大学の学生に聞くと、その学校では

 

 「フランス語を取るバカ、中国語を落とすバカ」



 という言葉もあったくらいで、それくらいに中国語というのは、おいしい授業であったのだ。

 それにしても、フランス語選択者というのは、やっぱどこの学校でもトホホあつかいなんだなあ。

 厳密には、ガッツリ学ぶとなると中国語というのはかなり難しく、前回の

 

 「世界三大難しい言語」

 

 このひとつに入れてもいいかも、という人もいるらしいのだが、大学の授業レベルでは、そこまで深入りしないから大丈夫とか。

 こうして中国語の人気は、ホンモノであることが確認された。

 我が妹もふくめ、当時の中国語履修者は、フリーパスでめんどくさい語学の単位を次々と修得していった。

 やはり語学は、先のオランダ人やドイツ人にとっての英語や、イタリア人にとってのフランス語のように、

 

 「近いは正義」

 

 という面はあるようだ。

 この話をすると、大阪府立大学に通っていた友人が、



 「それやったら、オレが第二外国語で取ってた《朝鮮語》も、日本人には勉強しやすいからおススメやなあ」



 そう語っていた。

 これまた、近いは正義。ご参考までに。

 

 (スペイン語編に続く→こちら



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ボンクラ学生のための、楽できる(かもしれない)第二外国語選択講座 ロシア語編

2018年03月02日 | コラム

 前回(→こちら)の続き。

 第二外国語はなにを選ぶべきかで、私は人生の先輩として、こういう真理を示した。

 

 「フランス語はやめとくのが無難」

 
 オシャレなイメージで軽く選んでしまうと、後悔は必至。

 こんなもん、どうせ身に付かないんだから、わざわざ自分でハードルをあげることはない。

 一応ことわっておくが、私は別に

 

 「フランス語は役に立たない」

 「つまらない言語」

 

 と言っているわけではない

 当講座の主眼はあくまで

 

 「単位が取りやすい(私の時代には取りやすかった)かどうか」

 

 にあるだけで、フランス語(もちろん他の諸言語も)自体を、くさしているわけではありません。

 ラクできるかどうか、というだけのちょぼこい話なのです。念のため。

 では、フランス語以外ではどんな言語があるのかと問うならば、次に聞いたのがこんな意見。

 

 ロシア語取るヤツ超絶勇者



 これは、私にもなんとなく、わかるところはあった。

 というのは、私もドイツ語学習者の端くれとして、千野栄一先生の『外国語上達法』。

 また講談社現代新書の『外国語をどう学んだか』、など様々な「外国語学習法」読んだのであるが、そこに共通して書かれていることが、


 「ロシア語って、マジ激ムズ



 ロシア語といえば、まず文字がわからない。

 我々がなじみがある外国の文字といえば、漢字ローマ字であるが、そのローマ字アルファベットでも、ドイツ語のウムラウト(aとかuの上に点々がついているアレです)を見ただけで「げ、なにこれ」と拒否反応を示す人もいる。

 そこに、あの宇宙の言語みたいなキリル文字

 反対にしたみたいなのとか、どうやって読むんやーと、まず第一印象からして取っつきにくい。

 おまけに文法は難解だし、名前が男女で変化するし、とにかく学びにくいことこの上ない。

 なんといってもおそろしいことに、ロシア語は栄えある

 

 「世界三大難しい言語」

 

  に入閣しているのだ(他の2つは諸説あるが、ハンガリーマジャール語日本語、次点にギリシャ語などが入る)。

 おまけに使うところもない。

 今どきトルストイドストエフスキーもないもんだし、共産主義もお亡くなりになった。

 そんなもん、だれが勉強しますねんと。

 しまいには、外国語学習者には

 

 「ロシア語ノイローゼ」

 

 というのがあるとの噂まで聞かされたもの。

 あまりの学習のしんどさに、学生がついには精神的にやられてしまうらしい。

 ちなみに留学生の話によると、彼らには

 

 「日本語ノイローゼ」

 

 というのもあるそうな。

 漢字敬語男女の話し言葉の乖離など、とにかくややこしい日本語学習タメをはれるというのだから、ロシア語ってもう大変。

 このような経緯があるので、ロシア語は一番人気がなかった。

 嘘か本当か、私の代はこの話が広まりすぎて、履修者少なすぎでクラスが開けなかったとか。

 それくらいに、敬遠されていたのだ。かわいそうだなあ。

 そんな中、わざわざロシア語を取るヤツは酔狂というか豪気というか、とにかく勇者である。



 「敵が強ければ強いほど燃える」


 という、少年マンガ的性格でないと、やめておいた方が無難であろう。

 ところが、世の中にはそんな勇気ある者というのがいるもので、友人トサボリ君は、数少ない絶滅危惧種のロシア語履修者であった。

 彼曰く、


 「勉強はたしかに大変やけど、数が少ないから先生らは、すごくやさしい



 とのことで、

 

 「けっこう点数には下駄はかせてくれた」



 なるほど、困難の中、あえて少数派に飛びこむとそういう展開もあったか。

 そら、先生もうれしいよなあ。



 「ロシア語を取ってくれてありがとう



 涙ながらに、間違いだらけの課題でも「」をくれたそうだ。

 まさに、人情の勝利であるといえよう。



 (中国語編に続く→こちら



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