トム・スタンデージ『謎のチェス指し人形「ターク」』から、驚異の将棋ソフトとシャーロックが生まれた その3

2016年10月29日 | 
 前回(→こちら)に続いてトム・スタンデージ『謎のチェス指し人形「ターク」』を取り上げる。

 いかにもインチキくさい「チェスを指す人形」だが、これが後世に残した足跡は、なにげに計り知れなく大きい。

 ひとつは「コンピュータ、将棋や碁で人間に勝つ」という歴史的出来事のスタート地点となったのが、この人形だったこと。

 そしてもうひとつは、「ミステリ小説とは、ここから生まれた」という事実だ。

 チェス指し人形「ターク」には、あまたの知識人が「トリックだ」「いや本物だ」と、その謎とカラクリを解こうと知恵をしぼったが、その中の一人に、こんな偉大な男がいた。

 その名はエドガー・アラン・ポー。

 ご存じアメリカの文豪であり、ミステリファンにとっては「探偵小説の祖」でおなじみの人。

 その幻想的な作風は、ミステリのみならず、ゴシックホラーからSF、果ては『ポーの一族』など少女漫画などにも多大な影響をあたえた、いわば文学界にとって、神さまのような存在である。

 そんなポーは、「メルツェルのチェスプレイヤー」というエッセイで、アメリカ巡業中の「ターク」ついて言及している。

 そして、このエッセイこそが近代ミステリの第一歩になるというのだから、やはり歴史とはわからないものだ。

 ポーはメルツェルの展示会に足げく通い、丁寧に観察し、そこに独自の推理をまじえて「ターク」の正体に肉薄していく。

 謎を提示し、あやしげな証拠の数々を列記し、観察と論理を駆使して、あたかも教師が語るような文語調の口振りで、この「チェス指し人形」について語るのだ。

 と、ここまで言えば、ポーの推理が何につながっていくかわかるだろう。

 そう、世界で初めて登場した名探偵オーギュスト・デュパンの原型がここに生まれるのだ。

 世界最初のミステリといわれる、『モルグ街の殺人』は、おそらくはこのときの思考過程を資料として生かし、書かれたもの。

 もちろん、『モルグ街』と「ターク」の件はまったく関係のない事件だが、

 「名探偵の推理パターン」

 の雛形を対「ターク」とのやり取りから抜き出したであろうことは想像に難くない。実際、ポーはデュパンのモデルが自分であることを認めているという。

 なんということか。かの機械人形は謎解きの魅力のみならず、それ自体が推理小説という新たなジャンルを生み出すことにもなった存在なのだから。

 すべてはここからはじまった。前回言った、「マホメットなくしてシャルルマーニュなし」のごとく、まさに「いかさまチェス指し人形なくしてシャーロック・ホームズなし」。

 もし、「ターク」の活躍がなければ、ベネディクト・カンバーバッチがスターダムにのぼり詰めるのは、今とまったく違った形になっていただろう。

 あともうひとつ、この本を読んで、ひとつ謎が解けたことがあった。

 デュパンのデビュー作である『モルグ街の殺人』で気になるシーンがあり、冒頭部でデュパンがチェスをめちゃくちゃにディスりまくる長セリフがあるのだ。

 「チェスプレーヤーは計算はするが、分析しようとはしない」

 「知的活動に影響あるとかいわれっけど、ぶっちゃけそれウソ」

 とか、果ては「たわいない」「意味ない」「チェッカーの方が全然頭脳の訓練にいいし」なんて、悪口いいまくりなのだ。

 しかもそれが、文脈全然関係なくてものすごく唐突に出てくるから、ポーのチェス嫌いもここにきわまれり。

 文庫本でまるまる1ページくらい、ずーっと言ってんの。どんだけ悪態つけば気がすむんや、ホンマ。

 これについて、作家の奥泉光さんは、

 「ポーはきっとチェスが弱かったにちがいない」

 と分析しているのだが、私が推測するにポーはタークの調査を進める段階で当然チェスも指しただろうから、たぶんそこでボッコボコに負かされて、そんで「チェスなんて意味ない!」ってスネてるんやないでしょうか(笑)。




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トム・スタンデージ『謎のチェス指し人形「ターク」』から、驚異の将棋ソフトとシャーロックが生まれた その2

2016年10月28日 | 
 前回(→こちら)に続いて、トム・スタンデージ『謎のチェス指し人形「ターク」』を読む。

 宮廷の上級官吏ヴォルフガング・フォン・ケンペレンが作った「ターク」という機械人形は、玄人はだしのチェスの達人だった。

 果たして「彼」は、本当に奇蹟の機械なのか、それとも大いなるイカサマにすぎないのか。

 その結末は本を読んでいただくとして、実のところ興味深いのは、この「チェス指し機械」の残した大きな足跡が、当時のスキャンダラスな話題性だけではないこと。

 一時期話題になった電王戦やアルファ碁の衝撃などなど、

 「機械が人間にチェス(などの盤上ゲーム)で勝つ」

 という、そもそものテーゼの出発点が、この「ターク」の存在だったのだから。

 これは象徴的な意味ではなく、実際問題として18世紀と現代をつなぐ話。

 ジョン・フォン・ノイマンやアラン・チューリングといった、プログラムや人工知能の先駆者らがチェスを指すコンピュータプログラムの制作を提唱したのは、

 「人の手によって、人工の知性は生み出せるのか」

 という命題の突破口として、「知性の象徴」とされているチェスを選んだからだ。

 そこをスタートとし、挑戦者たちは様々な試行錯誤の末に、1997年のディープ・ブルーによるカスパロフ撃破によって、ひとつの大きな成果を収めるわけだが、彼らにさかのぼることそのさらに前、これに挑んでいたのが「コンピューターの先駆者」と呼ばれたチャールズ・バベッジ。

 そのバベッジが、原始的な演算装置を備えたコンピューター(パンチカード式のもの)にチェスを指させるというとほうもない発想の元となったのが、なにを隠そう「ターク」に触発されたからだというのだ。

 彼ら天才たちは、「ターク」のホラ話めいた逸話を聴いて、

 「やっぱ、人工知能といえばチェスやで!」

 となったわけだ。

 そう、現在チェスが凌駕され、電王戦やアルファ碁戦でもコンピューターに負け越し「人間終了か」と大騒ぎになったのも、この詐欺にしか見えないからくり人形に行き着くのだから、古典というのはあなどれない。

 学生のころ、世界史の授業で「マホメットなくしてシャルルマーニュなし」という言葉を習った記憶があるが、まさに「うさんくさいカラクリ人形なくして、ponanzaや技巧、アルファ碁もなし」。

 囲碁将棋ファンとしては、なかなかに感慨深いものがあるが、歴史というのは紙一重で、もしあのとき「ターク」がチェスではなく他のゲームや競技をプレーしていたらどうなっていただろう。

 「彼」の特技が「しりとり」とか「謎かけ」とか「じゃんけんキスゲーム」とかだったら、今とまったく違う展開になっていたかもしれない。バタフライ効果おそるべしである。

 そう考えると、人の進化というのは偉大なようでいて案外にいい加減な気もして、そこがなんとも、おもしろいではないか。

 そしてまた、この「ターク」はもうひとつ、現在の我々にもなじみがある文芸ジャンルの出発点にもなったのだから、まさにブラジルの蝶の羽ばたきがテキサス、のたとえ通り。

 理系文系両ジャンルで大きな竜巻を引き起こすのだから、「うさんくさい」が人を魅了する力というのは、想像以上にすごいものなのかもしれない。


 (続く→こちら








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トム・スタンデージ『謎のチェス指し人形「ターク」』から、驚異の将棋ソフトとシャーロックが生まれた

2016年10月27日 | 
 トム・スタンデージ『謎のチェス指し人形「ターク」』を読む。

 1770年の春の日、オーストリア=ハンガリー帝国を統べる女帝マリア・テレジアの前に不思議な見せ物が登場した。

 宮廷の上級官吏ヴォルフガング・フォン・ケンペレンが作ったそれは木製の飾りキャビネットと、その後ろに腰をかけている等身大の人形でできたもの。

 「ターク」(「トルコ人」の意)と呼ばれたその人形は、エキゾチックなトルコ風衣装を身にまとい、中を開けるといかにも機械然とした歯車やレバーなどが見える。

 「彼」は機械人形である。ケンペレンがネジを巻くと手が動き目をギョロリとさせたりする機能があり、それだけでも充分に見せどころだが、この機械はそれ以上に驚くべき特技を持っていた。

 そう、「彼」はチェスを指すことのできる機械人形だったのだ。

 この「チェス指し人形ターク」は18世紀のヨーロッパで、ちょっとしたセンセーションを起こす。

 当初はケンペレンのちょっとした手遊びのつもりだったはずが、

 「あれは本物なのか」

 「いや、なにかトリックがあるにちがいない」

 その正体について、皆がかまびすしい。探偵小説的興味やゴシップ趣味も手伝って、巷の話題を一手にさらったのである。

 今も昔も欧米ではチェスは「知性の象徴」といわれているが、そうなれば「機械と一番、お手合わせ願いたい」という名人上手がでてくるのも当然の帰結。

 だがこの「ターク」は思っていた以上に手強く、マスタークラスのプレーヤーを次々と破っていく。やがてその噂を聞きつけた、皇帝ナポレオンやベンジャミン・フランクリンをも引きつけることに。

 果たして、「ターク」は本当に知性を持った機械なのか、それともケンペレンと、その後を引き取って興行を打ったヨハン・メルツェルは希代の大詐欺師なのか、謎が謎を呼び、ついに明かされる真相とは……。

 チェスの歴史をさかのぼっていくと、この「ターク」の存在というのは避けては通れないところである。

 機械人形がチェスを指す。

 というと、今の目で見れば、カスパロフ対ディープ・ブルー、将棋の電王戦、アルファ碁の衝撃などが思い出されるが、コンピュータのコの字もない当時では、

 「んなアホな」

 という話であり、

 「どうせ、人が入っていて操作してるんだろう」

 なんてイカサマを暴くべく「謎解き」に血道をあげる者もいたものだが、「チェスのできる機械があってもおかしくないぞ」という声の方も、なかなかに多かったそうだ。

 実際「ターク」は多くの知識人が挑みながらも、長きにわたってその謎を守り通した。正体については本文を読んでいただくとして、こういう本を読むといつも思い知らされるのは、

 「歴史というのは、つながっているんだなあ」

 という、当たり前だけど案外とふだんは見落とされがちな感慨だ。

 この「ターク」事件は、のちに大きな、現代にもつながっている二つの文化的うねりを作り出すこととなったのだから。

 ひとつは、「人間対機械」の知能対決であり、今、将棋界を大いにゆるがしている「事件」にも波及することとなる。

 そしてもうひとつは、私も愛するある文芸ジャンルが、この謎の人形から生まれたことにある。



 (続く→こちら

 


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日本女子はなぜ海外でモテるのか? 高野秀行『異国トーキョー放浪記』

2016年10月24日 | 

 日本の女の子は海外でモテる。

 というのは外国を旅行していると、よく聞く話である。

 理由に関してはさまざまに推測され、旅先の外国人に聞いてみると、

 「黒髪が神秘的」

 「おしとやかなのがいい」

 「オシャレだよね」

 といった好意的なものから、

 「貞操観念がゆるくてナンパしやすい」

 などといった問題ありな意見が出てくることもあるが、ともかくもモテること自体は間違いがないようだ。

 中でも、「この人がいうんやったら、こらホンマもんや」と、日本女子の海外でのモテ力を確信したのは、「辺境作家」高野秀行さんの『異国トーキョー放浪記』を読んでいたときのこと。

 高野さんはひょんなきっかけで、スーダンからの留学生と出会うこととなった。

 マフディさんというその人は視力に障害があって、いっさい目が見えない。

 そんな大きなハンディにもかかわらず「スーダンの東大」ことスーダン大学を卒業し、その勢いで日本にも留学し、なんと難関東京外語大学に「一般入試」で合格したという、サイヤ人ならぬ最強のスーパースーダン人なのである。

 そのマフディさん、頭脳明晰で苦境にめげない努力家であるとともに、そのキャラクターもなんともユニーク。

 まず趣味が「プロ野球観戦」というから、いきなりおもしろいではないか。

 スーダンで野球がメジャーな競技とも思えないし、根本的なところでいえば、失礼ながら目が見えないのにどうやって「観戦」を楽しむのかと問うならば、

 「ラジオであの熱気を味わうのです」。

 日本に来て野球に魅せられたマフディさんは、野球を「勉強」したのだという。おそらくは点字の本などでルールなどを覚えたのであろう。プレーだけでなくプロ選手の知識にもすごくくわしいそう。

 くわえてマフディさんは、鈴をつけて音で場所がわかるように工夫した柔らかいボールを使う「盲人野球」でも選手として活躍。

 プレーにまで足を踏み入れるとは、さすがはスーパースーダン人。ともかくも、能力だけでなく行動もメチャクチャにパワフルな人なのだ。

 そんなマフディさんのひいきのチームはカープ。

 スーダンでは日本に原爆が投下されたことを学校で教える影響で、日本の街といえば東京でも大阪でもなく、まず「ヒロシマ」だったからだそう。

 さらには日本だけでなくメジャーリーグまでチェックしていて、

 「ソリアーノは元々ドミニカのカープ野球アカデミー出身なんですよ」

 とか語るのだからおそれいる。プロ野球雑誌は、すぐさまマフディさんにライターか評論家として活躍してもらうべきだろう。

 実際、高野さんは球場でマフディさんと「解説者ごっこ」をやったときに、

 「プロ野球の解説をする目の見えないスーダン人」

 として売り出そうと一瞬考えたらしい。アイデアのインパクトはすばらしいが、その計画はすぐさま頓挫することとなった。

 マフディさんのあまりの知識、分析力、日本語能力の達者あまねきために、

 「完璧な解説すぎて、本物の外国から来た盲人と認めてもらえそうにないから」

 「ガイジン」のタレントは流暢な日本語ではダメなのである。「ワッタッシーワー」みたいななまりがないと売りにならないのだ。

 そんな「超盲人」ともいえるマフディさんが、高野さんの友人とおしゃべりしていると女の子の話になり、こう聞かれたことがあった。

 「どこの国の女性が好み?」

 スーダン人の回答は、

 「やっぱり日本人の女の子ですね」

 出た。やっぱり日本女子はモテるのだ。で、その理由というのを問うならば、

 「だって、めっちゃかわいいもん!」。

 みなさま、どうであろうか。

 目が見えない外国人にも「かわいい」といわれる日本人女性。

 ある意味「最強」のモテ力と言えのではなかろうか。これを読んだとき、私は理屈抜きで日本女子がモテることを認めざるを得なかったのである。

 やはり日本女子の「KAWAII」はケタはずれだ。我々「持っていかれる」立場としては困ったものではあるけど。





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必殺イスラムメニュー「ブタ抜き酢豚」をあなたは食べたことがあるか?

2016年10月21日 | B級グルメ
 イスラム教徒は酒を飲まない。

 ふつうに街でビールやワインが買えるトルコなど例外もあるが、ムスリムは原則アルコール禁止である。

 サウジアラビアやイランのような厳格なイスラム国家だと飲酒は犯罪であり、罰として逮捕されるとか、ムチ打ち100回とか、グラウンド10周とか今週いっぱいゴミ当番とか、オレが寝てる間にドラクエのレベル上げとけとか、そんな目に合うらしい。

 またイスラム教徒はブタを食べない。

 ユダヤ教もそうだが、ムスリムも豚肉を決して食べない。こちらは飲酒よりもずっと厳格である。

 つまりイスラムの人は、トンカツ定食もカツ丼も知ることなくその生涯を終えるのである。生姜焼き定食もダメ。どれも好きな私にはつらいことよ。

 またイスラム教では婚前交渉も禁止されており、こちらも大好きな私であるが、基本的にその機会に乏しいため、それほどきびしさを感じない……っておいおい何を言わすのか。

 ブタの話に戻ると、トルコ在住で結婚相手もトルコ人というマンガ家高橋由佳利さんの『トルコで私も考えた』によると、ムスリムがブタを食べないのは宗教的戒律ももちろんあるが、今ではそれよりも気分の問題だという。

 ブタ食文化がないために一種の「ゲテモノ扱い」に近いのだそうな。

 日本人が犬鍋や虫食い文化を「えー、あんなん食べるの?」と気持ち悪がる感覚であろうか。

 あともうひとつは、ブタの脂に胃腸をやられるというのもある。食べなれないものなので、お腹をこわしてしまうのだそうだ。

 高橋さんはトルコでまったくブタを食べない生活を続けていたら、ブタの脂を受けつけなくなってしまったとか。

 ブタのハムなどのみならず、フライパンにしく油やつなぎ、他にもスープの素になどにちょっと豚肉の成分が入っていただけで腹下しというのだから、なれというのはおそろしい。

 以前インドネシアで日本企業が売った調味料に、ほんのすこーしだけ豚肉の成分が入っていたのを現地の人が怒って、デモなど不買運動をしたというニュースがあって、これには

 「日本男児が細かいことでゴチャゴチャいってはいかんな!」

 と一括しそうになったが、食べられないのでは仕方がないし、考えてみれば彼らは日本男児ではなくインドネシア人であった。
 
 そこまでかたくなにブタを食べないムスリムだが、それだと外国へ行ったとき食事で困るのではないか。

 肉料理だけでなくラーメンのスープとか551の蓬莱とか日本などブタだらけである。

 実際、高橋先生のダンナさんは日本のブタ攻撃をかわすために、ひたすら「うどん」を食べ続け、ついには飽きてしまったそうな。

 げにおそるべきは食習慣の違いである。

 日本でこれなら、中華料理などそれこそブタだらけで食べられないのではないのかと思うのだが、なんと世界には豚肉を一切使わないイスラム教徒のための特製メニューを出す店があるのだという。

 高橋さんの本によるとそこのコックさんは誇らしげに、

 「ブタ抜き料理できますよ。ブタの入っていない酢豚とかありますから」。

 ブタの入っていない酢豚。なんだそれは。日本語として矛盾していないか。

 おそらくは鶏肉あたりで代用しているのだろうが、なかなかに不思議なメニューである。

 まあ、日本人も江戸っ子など、天ぷらそばからそばを抜いて食べる「天ぬき」なるものを好むらしい。

 そういえば我が街大阪でも肉うどんからうどんを抜く「肉すい」なるものもあることだし、そう考えると「ブタ抜き酢豚」も言葉ほど変ではないかもなどと思い直したりもした……って、そういう問題でもないかな。 


 

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映画ビギナーは、まず『シベリア超特急』を観よう! その5

2016年10月18日 | 映画
 前回(→こちら)の続き。

 深夜にたまたま鑑賞した『シベリア超特急』を通して、

 「映画って、基本的にはつまらないものなんや!」

 という、『スタージョンの法則』を彷彿させる銀幕の真理を学んだ、わが友ヒラカタ君。

 ちなみに、そこからバカ映画にハマった友は、私がすすめた『幻の湖』を鑑賞して、それをつき合っていた彼女に見せて嫌がられたのは第一回で書いた通り。

 だから、ハズレ映画をひいても、「オレの読解力がないせいか……」などと落ちこむ必要もないわけで、「そういうもんや」とすましていればいいわけだが、友はそれだけなく、もうひとつの映画的発見があったというのだ。

 それは、

 「バカ映画をつっこみながら観るのは楽しい」

 それまでのヒラカタ君は、映画というのはまじめなもので、感動したり泣いたりするために観るものだと思っていたそうだ。

 もちろん、それも映画の見方の一つだが、世の中にはバカな映画、ダメな映画、トホホな映画、たまには

 「おしいねんけどなー」

 と苦笑されるような、でもどこか愛嬌のあるB級映画など、多彩な作品が転がっているもの。

 そういう、人によっては「ふざけんな!」な映画を、

 「まあまあ、これはこれでおもしろいやないですか」
 
 と、愛を持って受け入れてあげる。「んなアホな」と、ダメなところをつっこみながらも慈しんであげる。

 バカな子ほどかわいいではないが、そういう楽しみ方もあるということに目覚めたのである。

 それ以来、ヒラカタ君はすっかり玄人の映画ファンになり、世間の評判よりも、自分の感性や好みでリラックスして鑑賞できるようになった。

 と同時に、ダメな映画を観ても、

 「それはそれで、いろんな意味で勉強になる」

 という、大人の態度で接することもできる。

 「そのことを教えてくれたんが『シベリア超特急』なんや。だからオレは、映画初心者には過去の名作と一緒に、『シベ超』も観るようにすすめてんねん」

 そう友は言うのである。

 そしてそれは、映画を語るにおいては、なかなかに本質的なところをついているような気がしないでもなかった。

 だから私もあやかって、彼と同じように、

 「良い映画と一緒に、ダメな映画もしっかり観といた方がいいよ」

 というのだ。

 これは、かの淀川長治先生もおっしゃっていた。


 「いい映画をたくさん見なさい。つまらない映画もたくさん見なさい」


 チリのノーベル賞作家パブロ・ネルーダの言葉にも、こういうのがある。


 「名作しか読まない人を私は信用しない。それは世界を知らない証拠だ」


 これから映画をたくさん見ようというヤング諸君。

 これら先人の言う通り、つまらない作品にもたくさん触れ、

 「ふざけんな、このぼけなす!」

 「金と時間返さんかいこのタコスケ!」

 とDVDを割りそうになりながら、映画の持つ奥深さをゆっくりと学んでいくのが正しい映画道だ。

 とりあえず人生の先輩は『去年マリエンバートで』がダメだったなあ。

 映画好きの先輩から、「完璧な作品や。一回観とけ」と言われて観たけど、開始5分で爆睡寸前さ!

 その後もがんばって観ようとしたけど、とにかく眠気が……。全然おもしろくない……。

 ネルーダ先生、ボクは人生を知ってますよね!



 ■おまけ 友人の映画観を一変させた名作『シベリア超特急』は→こちらから。



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映画ビギナーは、まず『シベリア超特急』を観よう! その4

2016年10月17日 | 映画
 前回(→こちら)の続き。

 映画を趣味にしようとしたのはいいが、「全米大ヒット」「『アルマゲドン』より泣きました」みたいな作品にちっとも感動しない友人ヒラカタ君。

 それを、「これを楽しめないのは、自分の理解力が足りないのでは」と解釈し、劣等感にさいなまれていた友だが、あるとき突然それが晴れることになる。

 そのきっかけが、かの名作『シベリア超特急』であったのだ。

 ある夜の出来事。ヒマだし深夜映画でも観るかと、何気なくテレビをつけると、そこで放送していたのが『シベ超』だった。

 ヒラカタ君は当時、まだこの作品のすごさを知らなかったので、

 「へー、水野先生が映画作らはったんや。あんな有名な人やから、きっとおもしろいもん撮りはったんやろうなあ」

 そんな期待をしながら観ていたら、

 「なんやそれ!」「んなアホな」「えー、そんなんありえへん!」「ショボ!」「ダッハッハ、水野センセ、それマジで言うてはるの?」

 意味不明の脚本、ショボイ特撮、マイク水野の棒読みセリフ。

 開始直後から最後の瞬間まで間断なく、全編がつっこみどころの嵐だったのである。

 あまりに笑いすぎて腹は痛いは涙は止まらないわで、気持ちにおさまりがつかなくなった友は、深夜にも関わらず電話をかけてきた。

 寝入りばなたたき起こされて、ぼけているこちらにかまわず、

 「『シベ超』ってすごいなシャロン君。オレ感動した!」

 こっちはまだ半分寝ているので、ムニャムニャ「なんのこっちゃ」と返事すると、友が言うには、

 「オレ、映画の本質がわかった。今までのオレの映画鑑賞法は間違ってた」

 そして、こう続けたのである。

 「映画って、ホンマは別に、おもしろいもんやないねんな」。

 これだけ聞いても、なにが友をそんなにも揺り動かしたのかわかりにくいだろうからここに説明すると、映画のみならず、小説でも演劇でもお笑いでも、あらゆるエンターテイメントにいえることだが、これらのものには「おもしろくないもの」も存在する。

 いや、世に出ている全作品を並べてみたら、むしろ「おもしろくないものの方が圧倒的に多い」のだ。

 本なんて1日平均200冊以上のペースで出版されているけど、読むに値するものが同じペースで生産出来るとはとても思えない。スポーツだって「名勝負」と言われる試合を毎週やっているわけでもない。

 「すごいヤツラ」というのは、本当に氷山の一角なのだ。

 実際のところ、これが初心者がおちいりやすい罠である。

 映画のみならず小説でも演劇でもマンガでも、店の「名作」「おすすめ」コーナーなど見るものは、その多くが、好みの差こそあれ長年の風雪に耐えて残ってきた、それだけのクオリティーと普遍性を持った作品なのである。

 なので、ついついそれが判断の基準になってしまう。

 『2001年宇宙の旅』とか『七人の侍』とくらべて、映画というのは、

 「全部、これみたいなレベルのものなんや」と。

 ちがう、ちがう、そんなことないねん! 

 当たり前のことですが、同じ映画でも、ロマンスでも、『ローマの休日』と『ハルフウェイ』を一緒にしたらあかんのです。

 そう、かの有名な「すべてのものの80%はクズ」という『スタージョンの法則』のごとく、映画の世界は100にひとつの名作と、20くらいのそこそこの映画、で残りの80が、まあ『死霊の盆踊り』とか『シベリア超特急』で、できてるもんなんですわ!

 そのことに、ようやっと気づいたヒラカタ君は、

 「そうなんやなあ。世の中には、おもしろくない映画ってのが、山ほどあるんや。そんな当然のことに、なかなか思い至れへんかった」

 その通り。友が映画を見て「つまらない」と感じたのは彼のせいではなく、

 「そもそも映画というのは、基本的につまらないものだ

 ということを知らなかったからなのである。

 もっと細かく言えば、そこからも「いい出来なのはわかるけど、感性が合わない映画」や、「たぶんおもしろいんやろうけど、自分の人生にはそんなに必要のない映画」なんかもあって、それらもふるい落とされることになる。

 だから、映画なんて「しょうもなくて当たり前。でも、たまにいいのに出会えたらラッキー」くらいの態度で見るのが正しいのだ。

 なんていうと、ずいぶんとネガティブというか、シニカルな発想だと思われる方もおられるかもしれないが、そうではない。

 映画とは、いやそれにかぎらず小説でもマンガでもなんでも、すべて膨大なハズレの中から見つけた自分だけの名作が、その人の人生を180度変えてしまうような可能性を秘めている。

 どれだけ連続三振を食らっても、そののちに生まれたホームランが、もうすべてを帳消しにしてしまうほどに胸を打ち、人生の美しさを再認識させ、たとえようもない勇気を与えてくれることがある。

 だからこそ「80%がクズ」だとしても、芸術とはすばらしいものなのだ。

 そういう結論になると、どうしてもこういう問いも発生しよう。

 「えー、じゃあ、おもしろい映画って、どうやって探したらいいの?」

 これはもう解答はひとつしかなくて、

 「目から血が出るくらいにハズレ映画を引くしかない」

 ある程度自分の好みや、映画の知識や、信頼できる(もしくは感性の合う)評論家と出会えるまで、ひたすら無駄金を払う。

 これしかない。

 下手な鉄砲方式だ。「えー、そんなの大変だからイヤー」という人には残念だが、グルメ情報にしても異性を見る目にしてもゲームや電化製品にしても、

 「これでもかというくらい、相手にだまされる」

 ことでしか、当たりを見抜く目や運は培えないのだ。そのことを、ヒラカタ君は『シベ超』から学んだのである。

 それと同時に、ヒラカタ君はもうひとつの映画的真理を学んだそうだ。


 (続く→こちら



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映画ビギナーは、まず『シベリア超特急』を観よう! その3

2016年10月16日 | 映画
 前回(→こちら)の続き。

 これからがんばって映画ファンになろうという青年たちに、『ダイ・ハード』『スティング』といった、はずれようのない古典的名作とともに、

 「それと、忘れずに『シベリア超特急』も観ておくように」

 そうアドバイスする、元映画青年の私。

 というと、映画ファンからは

 「おいおい、なんで『シベ超』やねん! もっとちゃんとした映画を教えたれよ」

 と、まっとうなつっこみを受けそうだが、私だって伊達や酔狂で薦めているわけではない。

 これは、ある友人の実体験からきている極めて真摯なアドバイスであり、今からそれを説明したい。

 友人ヒラカタ君は若いころから無趣味な男であった。そこで

 「なにか余暇を充実させられるアイテムはないか」

 そう思案した上で、「よし、映画を観よう」と考えた。

 そこで映画館やレンタルビデオ店をまわって、あれこれと観てみたのだが、そこで友は首をかしげることとなる。

 「うーん、なんか、どれもあんまし、おもんないやん」。

 名前を出すと、それで感動したという人がいらっしゃったりしたら気まずくなるのでここでは避けるけど、友が観たのは、当時テレビでCMをガンガン打っていた「全米大ヒット」みたいな話題作。

 もしくは、「声を上げて泣きました」みたいな、難病ものとか純愛ものの邦画だった。

 それが、どうもいまひとつピンとこない。

 「金返せ!」と言いたくなるような駄作も多いし、そこまでいかなくても、「そこまでの話かいな」「映画館やなくて、テレビで見て十分やな」といったレベルのものがほとんどだ。

 すれた映画ファンならそこは、

 「全米大ヒットなんて、あんなん言うたもん勝ちで中身はともなってるとも限らんし」

 「邦画バブルで作られた安い映画に金払うとかアホやな。あんなん、イケメン俳優と主演アイドルのビジュアル目当てのファンが行くもんや」

 なーんてすましているところかもしれなが、まだ銀幕ビギナーであったヒラカタ君はこう考えたのだ。

 「この映画を《つまらない》と思うなんて、オレの読解力が足りないんかなあ」。

 同じく「これを泣けないオレは感受性が乏しいんかなあ」とも。

 もちろん、そんなことはない。

 ある映画を観てつまらなかったり泣けなかったりしても、その理由は別に感性や理解力ではなく(まあ、時にはそういうこともありますが)、たいていは普通に「つまらないから」「泣けないから」なのである。

 もしくはせいぜいが「好みに合わなかった」。ところが、当時のヒラカタ君はまだ映画経験値が低かったので、ついつい

 「オレが悪いんか……」

 と、そっち方面に思考がシフトしてしまったのだ。

 この気持ちは分からなくもない。

 みなさまも、あるのではなかろうか。たとえば、今や国民的アニメスタジオともいえるスタジオジブリの『ハウルの動く城』や『崖の上のポニョ』を観て、

 「ヤバい……オレには全然ハマれへん……どう見ても脚本が破綻してるし、全体的に意味不明やし、これ、そんなにおもろいんやろか……」

 そう疑問に感じながらも、ものが大ヒット作品ということで、引け目を感じてそう素直に言えないこと。

 そんなん言うたら、バカにされるんちゃうかという、ある種の権威主義的な不安。

 このときの罪悪感のような心持ちに、ヒラカタ君もまた悩まされたのである。

 そのコンプレクッスを解消してくれたのが、なにを隠そう『シベリア超特急』なのだというから、まったく人生というのは摩訶不思議なものと言わざるを得ない。


 (続く→こちら



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映画ビギナーは、まず『シベリア超特急』を観よう! その2

2016年10月15日 | 映画
 前回(→こちら)の続き。

 「おすすめの映画を教えてください」

 との問いには、『トイ・ストーリー』『マイライフ・アズ・ア・ドッグ』といった鉄板作品と並べて、

 「ついでに、『シベリア超特急』も合わせて観ておきなさい」

 そうアドバイスする私。

 といっても、さほど映画に興味のない方からすると、なんじゃらほいと言われるかもしれないが、『シベリア超特急』(略して『シベ超』)は、今はなき映画評論家の水野晴郎先生が「マイク水野」名義で作られたミステリー映画。

 昭和初期、日米戦争突入前夜のきな臭い時代を舞台に、シベリア鉄道で起こった殺人事件を「マレーの虎」こと山下陸軍大将が解決するという推理サスペンスだ。

 最大の見所は、マイク自らがメガホンを取るだけでなく、主人公山下大将まで演じてしまうという力の入れっぷり。

 これまでの映画人生で培った知識と経験を「オマージュ」という形で存分にスクリーンで発揮し、豪華キャストに反戦メッセージと中身の濃さも折り紙付き。さらには、

 「このラストは、決して人に教えないでください」

 との注釈がつくほどの、クライマックスでのどんでん返しは観る者を呆然とさせる、すさまじさ。

 これまで星の数ほど映画を鑑賞してきたが、観終わって「えー」と声を上げてしまったのは、この作品がはじめてかもしれない。それほどの衝撃だった。

 なんといっても、作家の岩井志麻子さんが、


 「私の人生はシベ超前とシベ超後に分けられる」


 と、そのリスペクトを語り、ついには『シベリア超特急2』には出演まで果たすほどの入れこみようなのだ。すごい愛ではないか。

 なんてことを力いっぱい解説すると、

 「ほう、なかなかおもしろそうじゃないか。なるほど、じゃあその『シベ超』とかいうのも、『道』とか『ニュー・シネマ・パラダイス』なんかに匹敵する名画なんだな」

 そのように納得される方もいるかもしれないが、それに関しては全力で答えよう。

 「んなわけないやーん(笑)」

 ないない。シベ超が名作? 映画ファンとして、片腹痛いとはこのことであろう。

 『シベリア超特急』といえば、安い画面の作り、意味不明のシナリオ、失笑もののしょぼい演出、なにより主役であるマイク水野の棒読みセリフなどなど、もう映画において

 「ちゃんとした映画にするなら、これだけはやっちゃダメ!」

 そんなシーンがこれでもかと詰まった、典型的なスットコ映画なのだ。

 初めて観たときは、その感動(逆方向の)のあまり、皆が皆、

 「これは、『さよならジュピター』『幻の湖』『北京原人』と並んで、日本バカ映画四天王や!」

 日本映画史の新たなる歴史の誕生に胸を熱くしたものであった。
 
 いやあ、これはすごい映画ですわ。その後『デビルマン』という新たなる刺客が現れたり、最近では『進撃の巨人』とかもなかなかだったらしいけど、『シベ超』のインパクトは、それに勝るとも劣らないものがある。

 最後のどんでん返しなど、観ていて気が狂いそうになるというか、私もそれなりに人生経験を積んできたつもりだが、

 「お、おまえ正気か?」

 というアニメチックなセリフを、本当に声に出して言う日が来るとは予想もしなかった。

 なんてことを喜々として語っていると、

 「おいおいちょっと待て、なんで前途明るい映画好きの若者にそんなものを見せるのだ。もっとまともな映画を紹介したらどうなのか」

 と注意されるかもしれないが、私も伊達や酔狂で『シベ超』を薦めているのではない。

 これには、映画をより深く愛し、理解してほしいがゆえの、人生の先輩としての深慮遠謀があるのだ。

 なぜそうなるかといえば、前回紹介した、彼女に『片腕カンフー対空とぶギロチン』なんて映画を見せて嫌がられているヒラカタ君の経験からきているのであるが、その詳細は次回(→こちら)に。




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映画ビギナーは、まず『シベリア超特急』を観よう!

2016年10月14日 | 映画
 『シベリア超特急』を見なさい。

 これから映画を色々観ようという若者には、そうアドバイスすることにしている。

 私は映画好きで、今はそれほどでもないが、学生のころから20代後半くらいまでは、近所のレンタル屋をハシゴして、毎日のように観まくっていたものだった。
 
 そんな『グミ・チョコレート・パイン』みたいな文化系の青春を謳歌していもんだから、これからたくさん映画を観ようと意気ごむヤング諸君から、こんな質問をされることが多いわけだ。

 「で、映画って、まずなにから観たらええんですか?」

 シンプルだが難しい質問である。

 映画に限らず、エンターテイメントというのは個人によって好みがある。

 単におもしろいだけなら、『アマデウス』とか『アラビアのロレンス』『バック・トゥ・ザ・フューチャー』みたいな名画をすすめておけば無難だが、それだとわざわざ人に訊かなくてもネットで検索すればいいわけだし、答えるこちらもイマイチ張り合いがない。

 かといって、個人的好みを前面に出して、エルンスト・ルビッチの『生きるべきか死ぬべきか』とか、アキ・カウリスマキの『レニングラード・カウボーイズ』に『宇宙戦争』とかとなってくると、ハマればいいが、はずす可能性も高い。

 また、『世にも憂鬱なハムレットたち』『ベルリン・シャミッソー広場』みたいにソフトが手に入りにくい作品も避けたいところだ。

 となると、まずは相手の好みを聞いてみて「恋愛ものが好き」とか「ドキドキするサスペンスがいいな」なんてところから探してみるのが賢そうだが、これはこれで難しいところもある。

 その人の視点がこちらと微妙にズレている場合だと、うまく選べないものだ。

 たとえば、小津映画のほとんどは、私にとって雪山で見ると凍死必至の催眠フィルムだが、我が母によると、

 「お母さんが生きてきた昭和という時代の空気がすごく感じられて、惹きこまれた」

 と、たいそう楽しめたというし、その流れで妹に好きな映画をたずねてみると、

 「『ゴッドファーザー』かな」

 などとおっしゃるので、

 「へえ、あんなマフィアの映画なんか、男しか見いひんのちゃうの。女の子でって、めずらしいなあ」

 そう返すと、

 「うん。家族愛がテーマのファミリー映画が好きやから」。

 とのことで、思わず頬に手を当てて、「ファミリー映画というジャンルの定義」について再考させられたこともあった。

 などなど、映画にかぎらずマンガでも小説でも、人によって「語るべき言語体系」がちがうため、こちらの「好き」が相手のそれとピッタリ合うという幸せなケースは意外と少ないもの。

 また合えば合ったで、それが変な方向に転がることもある。たとえば友人ヒラカタ君が、

 「ちょっと変わった映画が見たい」

 というので『幻の湖』や『バトルフィールド・アース』といった「迷作」を教えてあげたら、これがえらいことウケてしまって、そこから彼は大の「バカ映画マニア」になってしまった。

 それだけならいいんだけど、映画好きというのは自分の趣味嗜好をだれかに押しつけ……もとい愛を共有したいという欲求が抑えられないらしく、当時つき合っていた彼女に大量のDVDを見せたのである。

 これがまた、『尻怪獣アスラ』『殺人魚フライングキラー』(ジェームズ・キャメロンが死ぬほど「なかったこと」にしたがっているスットコ映画)『戦慄!プルトニウム人間』といった、「ダメ映画総進撃」といったラインアップで、

 「なんでウチがこんな目にあわなあかんの! シャロン君、あんたのせいやで!」

 なんて、電話ごしにベスビオ山の大噴火かというくらいに怒られたこともあった。こういったこともあるため、「おすすめ映画」というのは、ときにおそるべき地雷原ともなりえるのである。

 そういった失敗を重ねながらも、まあそれでも訊かれた以上は、その人に合いそうな作品をいくつか「これ、ええんちゃう」と、教えたりもするわけだ。

 で、ここからが本題。

 冒頭に書いたように、『探偵<スルース>』や『キューブ』みたいな安パイを紹介しておくとともに、人生の先輩はその後の充実した映画ライフのため、こうつけ加えることも忘れないのだ。

 「そういった名画と一緒に、『シベ超』も忘れずに観ておきなさい」と。


 (続く→こちら



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「イケてない男子ほど、クラスで一番かわいい子を好きになるスパイラル」について その2

2016年10月11日 | モテ活

 前回(→こちら)の続き。



 「イケてない男子ほど、クラスで一番かわいい子を好きになる」



 それはモテない男子は女性と接する機会が少なく、どうしても「見た目」以外の要素を判断材料にできないから。

 そのため視野がせまくなってしまい、ただでさえ男性的魅力にハンディがあるのに、ますますモテから遠ざってしまう。

 そりゃ女性にかぎらず、人の魅力はビジュアル面が大きいのは事実だけど、それだけでもあるまい。

 実際、私は昔バイト先で出会った美人と食事をする機会があったとき、そのことを実感したもの。

 席について、こちらを見つめる彼女の、その朝の陽光のようなさわやかな笑顔にはハッキリと、



 「さあ、これからのランチの時間、あなたがわたしのことを全力で楽しませてくれるのよね?」



 そう書かれてあったからだ。

 え? ふつうにバイト仲間同士で、メシ食うだけちゃいますのん? なんでそこにマイルドな「主従関係」が?

 しかもそれが、イヤな女とかそういうことではなくて、ただただ自然というか、



 「そういうふうに育ってきた」



 ことがありありとオーラに出ていたからだ。カマシじゃないわけ。

 

 「みんなそうしてるのだから、当然あなたもそうするのでしょ。とっても楽しみ」と。



 こちらが「あはは……美人ってすげえな……」とあきれていると、彼女は自分からなにかを発することなく、やはりステキな笑みを浮かべながら、



 「さあ、はやくお始めになって」



 という表情で、こちらを見ている。

 これには、いかりや長さんのごとく「ダメだ、こりゃ!」となってしまった。

 それ以来どうも美人は苦手なのだが、そういったことも、リアルに女性とコンタクトしてみないと実感できまい。

 嗚呼、美人(なだけ)のお姉さん、なんて尻がわれるくらいにつまんねーんだ! と。

 このときはつくづく、

 

 「女って、見た目だけやないよな」

 

 学習しましたね。

 でも、こういった失敗(?)って大事。

 じゃないと、そのままではずーっと女性を「見た目」以外の基準で選べない

 中身を知らないし、知る機会もないから。ゆえに「高嶺の花」にしか目が行かなくなりがち。

 それは人間として自然なことではあるけど、反面自分には「不美人」のビジュアル以外の良さを理解する「知性」が足りないのかもしれない。

 そのことが、彼の選択肢を大きくせばめることになってしまう。

 一言で言ってしまえば、「余裕」があるかどうかということか。

 これは「モテるかどうか」にかぎらないが、こういうスパイラルが、こじれてどうしようもなくなると、サリン撒くとかコロンバイン高校乱射とかISテロとか、そういうことになっちゃう可能性もある。

 テロは怖ろしいけど、そのモチベーションはなにかと問われたら案外こんなもんなのは、町山智浩さんや大槻ケンヂさんも認めるところ。

 だから、この「負のスパイラル」問題は、われわれが思う以上に根深い面もある。

 泥沼にはまるとなかなか大変だが、ともかくも大事なのは

 

 「美人じゃなきゃダメ」

 

 という縛りは、それこそが結果的に「いい女」を遠ざけることにもなる。

 なので、男はもっとフトコロを広げて女性と接するべきなのだ。

 そう人生の先輩が、苦い教訓を説いてみると、なかなか彼女ができなくて悩んでいる後輩コハマ君は、



 「いや、それはわかってるんッス。そうなんスけど、でもやっぱりボクは橋本環奈みたいな子とつきあいたいんですよお!」



 嗚呼、こうして輪廻の輪は続くのであった。

 まあ、若いときに言われても、そうなっちゃうよねえ。

 そのあたりのことは、まあ私も同じとして、大いに共感できるのが困りものだ(←今まで語ってきたことの意味は?)。

 結局この問題、根本な解決策はどうもないらしい。

 ぶっちゃけていえば、このスパイラルを抜け出す一番の方法は、



 「一回、彼女を作ってみる」



 ことであって、ここをクリアできると「知性」と「余裕」が身につくから一瞬解決なんだけど、それって「なかなか勝てない運動部の悩み」に、



 「一回、試合に勝ってみたらいいんだよ」



 て言ってるようなもんだ。ツッコミどころだらけである。

 でも、これは本当の話だからしょうがない。

 「モテなくていろいろめんどくさいこと」になってる男子諸君。

 とにかくどんな形でも「一回戦突破」を果たしたら、急に景色が変わるのだ。これは、わりと本当のこと。


 
 「いや、だからそれ無理だって!」

 

 というのはもっともだけど、現になんとかその

 

 「とりあえずの1勝」

 

 ここから、ものすごく人生が変わった男子も、私はけっこう見てきたから。

 なにかこう、「突破口を開いた」って空気感があるんだ。肩の力が抜けるというか。

 え? じゃあその男は、なにが良くて「1勝」できたかって?

 えーと……それはやっぱり「」か。

 嗚呼、我ながらひどい結論だ(苦笑)。

 でも、実際そうだから、他に答えようがないのだ。

 というか、人の出会いとか成功とかって、運と言って悪ければ、その多くが「めぐりあわせ」だし。

 ある人にはあるけど、ない人にはなかなかない

 でも、いつかあるかもしれないから、そのときのために



 「こじらせた雰囲気はなるたけ出さない」

 「どんな相手でも、女性には全方向に(できれば男性にも)やさしくする」



 ということを意識しておくと、「運をつかまえやすく」はなるかもしれない。




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「イケてない男子ほど、クラスで一番かわいい子を好きになるスパイラル」について

2016年10月10日 | モテ活

 「イケてない男子ほど、クラスで一番かわいい子を好きになる」



 そんな法則が存在する。

 口下手だったり、ファッションセンスが欠けていたり、運動神経顔面のパーツの適切な配置に不自由していたり。

 などなど、いわゆる「非モテ」と呼ばれる男子ほど、なぜか「総選挙第1位」の女の子にねらいをさだめる。

 普通に考えれば、



 「身のほどを知らない」

 「そんなこと言うてるから、彼女ができへんのや」



 そう諭されて、おしまいの思想ではあるが、実はこれには理由がある。

 順を追って説明すると、まず当然の流れとして、



 「イケてない男子はイケていないがゆえに、彼女ができない」

 「それどころか、そもそも女の子と接するチャンスそのものが少ない」



 一方、モテる男子。

 イケメンとか、スポーツ万能でクラスの中心的人物のモテ男はもちろんのこと、そうではないけど、普通に彼女ができる子。

 見た目は並みだけど、女性にマメとか、しゃべりがうまいとか、性格がいいとか、聞き上手とか。

 そういうとかとか「わかりやすいモテ」でなくても、ざっくりいえば



 「人間性、その他」



 の部分がすぐれていて、特に恋愛の枯渇で困ったことのない男の子。

 こういう男の子は、ごくごく自然な流れで彼女ができるし、そうなると必然、経験値も増え「女を見る目」が養える。

 これがポイント。

 レコーディングダイエットでブレイクして、今では「モテ」についても積極的に語っておられる岡田斗司夫さんは、



 「面食いを自称する人は、《自分は異性を顔でしか判断できない知性のない人間》であると白状しているようなもの」

 とおっしゃってましたが、まさにモテ男もしくは「普通に彼女ができる」男子は女性を知ることによって、その「知性」を身につけることができる。

 平たく言えば、

 

 「女の価値は顔や乳だけじゃない

 

 という、しごく当たり前のこと。

 顔が良くても性格が合わなかったり、逆に見た目は並みでも、ものすごく話してて楽しかったりすることなんて、普通にありますよね。

 私自身、女性に対して、そりゃ顔がいいにこしたことはないけど、それ以上に経験則として、



 「美人は話していて退屈



 という偏見を持っている。

 これは自分がイケてないから、ねたんでいるとかではなく、実際にそう感じることが多いから。

 その理由はわりとはっきりしていて、美人でそこを「主戦場」にしている人は自分がなにをしなくても、周囲がほめたり、時には実力以上にちやほやすることため、そこに「努力義務」がない。

 だから必然、言うこともやることもサービス精神希薄だし、打たれて「泣き」が入っていないから、普通のことしか言えなくておもしろくもない。

 クラスのイケメンはなにを言っても女の子が笑ってくれるから、大人になってもずっとつまらないままのように、美人もなにもしなくても、



 「周囲が自分を楽しませてくれる」



 ということに慣れている。

 「美人は性格が悪い」という人は、このことに対して反感をおぼえるのだろうけど、私の感覚では「退屈」。

 学生のころ、バイト先でシフトに入る日は明らかに店の売り上げが上がる、というくらいの美人のお姉さんがいた。

 一度ふたりだけでお昼ご飯を食べる機会があったのだが、テーブルで向かい合ったとたんにニッコリとステキな笑顔を見せられたときには、思わず苦笑いが出たものだった。


 (続く→こちら




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森下卓九段が語る羽生将棋の強さの秘密 その2

2016年10月07日 | 将棋・雑談

 前回(→こちら)の続き。



 「どうして、羽生さんはあんなに強いんですか?」



 との根源的な問いに、ひとつの解答を出したのは森下卓九段である。

 先崎学九段の筆によると、森下九段は皆でバーベキューを楽しんでいるとき突然、河原にあるチョップでたたき割るという奇行……もとい、はなれわざを披露。

 おどろきで、お口あんぐりな先チャンを尻目に、絶好調の森下先生。今度は電話帳を手に取ると、



 「先崎さん、今度はこの電話帳をまっぷたつにします」



 はあ? まだやるんかいな、と内心つっこんだ先崎九段だったが、森下先生の少年のようなキラキラした目を見ては、なにも言えるはずなどない。

 キャンプファイヤーの焚きつけ用に持ってきた電話帳を、「エイ! エイ!」と手でねじる森下先生。

 電話帳はぶ厚くて、なかなか破れなかったが、顔を紅潮させてトライすること十数回。見事、まっぷたつに引きちぎれたのであった。

 ドーダと得意顔な森下先生に、それって何回も引っ張って、ちょっとずつやぶったんちゃうんかいなと、あきれ顔で指摘する先崎九段であったが、森下先生はにっこり笑って、



 「いえ、気合いです」



 ここまでくると止まらない森下超特急。続けて、



 「今度は石切りをやりましょう」



 水面に石を横手で投げて、パシャパシャとはねさせるあれである。

 「いきますよ、それ!」 

 あざやかなサイドスローで石を放る森下先生。石は水面を軽やかに3度はねた。

 「あれ、おかしいな」

 首をひねる森下先生。

 ワンモアトライ。ぱしゃ、ぱしゃ、ぱしゃ。また3回はねる。またしても首をひねる森下先生。



 「いつもはもっと飛ぶんですよ」



 次々に石を投げる。十数回目で、やっと4回だか5回だかはねた。



 「ほら、先崎さん見てください。あんなにはねましたよ!」



 これにはもう「すごいなあ」というしかない先崎九段。それを受けて森下九段も、



 「なんでも羽生さんは7回はねるそうですよ」



 そして感心したように、こう言い放ったのだ。



 「道理で羽生さんは強いわけだ」



 ここを読んだときの、私の感動衝撃を想像してみてほしい。

 これまで、世に様々な「羽生の強さ」を解明しようという試みがあった。
 
 「既成の概念にしばられない柔軟さ」をあげる人もいれば、「精神力の強さ」「若手の研究についていく好奇心と努力」が重視されることもあるが、まさかそこに、

 「石切りが、七回飛ぶから強い

 という意見が、参戦してくるとは思いもしなかった。しかも、同じプロ仲間から。

 まさに「その発想はなかった」である。

 私はこれを読みながら、感動で震えると同時に、必死で爆笑をこらえるという(読んでいたのが電車の中だったのだ)稀有な体験をすることとなった。

 羽生善治はなぜ強いのか。30年近く深い謎だったことが、これで氷解したもの。

 

 「道理で羽生さんは強いはずだ」。

 

 この森下九段による説得力にくらべれば、凡百の羽生論など、せんない絵空事にすぎない。

 

 「サッカクイケナイヨクミルヨロシ」

 「兄たちは頭が悪いから東大に行った」

 

 などなど、将棋界には「名言」と呼ばれるものは数あるが、そこにぜひ、この森下先生の一言を加えていただきたいものである。

 
 (森下と羽生の因縁の対決は→こちら
 

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森下卓九段が語る羽生将棋の強さの秘密

2016年10月06日 | 将棋・雑談

 「どうして、羽生さんはあんなに強いんですか?」。

 というのは、将棋ファンなら一度はされたことのある質問であろう。

1985年以降、将棋界は常に羽生善治という存在を中心に回ってきたといっても過言ではなく、世間的に見ればもはや「将棋」という存在そのものが、イコール羽生さんといってもよいほど。

 そんな間違いなく、史上最強の棋士ともいえる羽生善治だが、ではなぜにてそれだけ強いのかと問われると、これが存外に答えるのがむずかしい

 羽生将棋のすごさというのは、簡単に語れるものではなく、それは世にあまた出ている「羽生本」でも、はっきりとした模範解答が出てこないことでもよくわかる。

 ましてやそれを、将棋にくわしくない人に伝えるとなると相当な難事だが、ここにひとつ「うーむ」とうならされる説を発見したことがあるので、ここに書き記しておきたい。

 提唱したのは、同じプロ棋士である森下卓九段

 今なら電王戦での対ツツカナ戦で知られるが、私の世代だと羽生さんと、大舞台で何度もしのぎを削ったライバルのイメージが強い。

 相手が相手なので、そこでは痛い目に合うことも多かったが、それでも



 「純粋に、棋力だけならナンバーワン」

 「森下がタイトル無冠なのは、棋界の七不思議のひとつ」



 といわれるほどの人なのである。

 そんな、ある意味「羽生を最も知る男」がはじき出した強さの秘密というのが、森下九段の親しい友人である先崎学九段のエッセイで紹介されていた。

 まだ若手棋士のころ、二人は親しい友人たちと、いっしょにキャンプに出かけたそうな。

 河原でバーベキューを楽しみながら談笑していると、森下九段は突然、手のひらくらいの大きさのを拾い上げる。

 そこで言うことには、


 「先崎さん、今からこれを空手チョップでまっぷたつにします」



 はあ? なぜいきなり空手チョップ? 困惑する先崎九段にかまわず、森下九段はひとつ深呼吸をすると、



 「見ていてください、まっぷたつですよ。エイ!」



 裂帛の気合いもろとも、振り下ろされる手刀

 ……だが、石はびくともしなかった。痛い、痛いと手を押さえる森下先生。

 「ほらほら、こんなでかい石割れるわけないがな」

 すかさず先崎九段がつっこむが、森下九段は、

 「いや、できます。エイ! エイ!」

 顔を真っ赤にして、何度も何度も手刀を叩きこむ。

 最初は笑っていた先崎九段だが、おいおい、このままだとが折れるんじゃないかと、さすがに心配になってきた。

 大丈夫なんかいなと見守っていると、数十回目のアタックで、ようやっと石は見事、真ん中から二つに割れたのであった。

 「どうですか、先崎さん」

 ひたいの汗をぬぐい、会心の笑顔を見せる森下先生。

 「すごいなあ。ようこんな固い石、割れたもんだ」

 なかば感心、なかばあきれながら先崎九段が返すと、森下先生はさわやかな笑顔で、



 「気合いです」



 その右手は、風船のごとく腫れあがっていたそうである。

 まあこれで気がすんだかな、そう思った先崎九段だが、なんのなんの。森下先生のショーにはまだ続きがあったのである。


 (続く→こちら



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自衛隊映画はこれを観ろ! 『実録レンジャー訓練』がすさまじい その2

2016年10月03日 | 映画

 前回(→こちら)の続き。

 陸上自衛隊の中でも、もっとも過酷な訓練を行うという

 「レンジャー部隊

 にスポットを当てたドキュメンタリー映画『実録レンジャー訓練』がすごい。

 映画『フルメタルジャケット』を地で行くような笑え……じゃなかった過酷な訓練をこなす隊員たちを見ていると、ただただ敬服するのみというか、とにかく圧倒されます。

 ただ見ていて一つ気になるのは、ガチもガチも大ガチの、人間の限界を超えた状況をくぐり抜けて戦うレンジャー部隊の使う言葉だ。

 彼らはなにかに首肯するとき、かならずこう声を出すのだ。



 「レンジャー!」



 とにかくよく耳に入ってくる。

 隊員たちは、常から教官の指示通り行動するわけだが、その際の返事が「はい」でも「了解」でもなく「レンジャー」。 

 何をいわれても「レンジャー!!」。



 「匍匐前進500メートル!」
 
 「レンジャー!!」

 「敵襲、各自持ち場に着け!」

 「レンジャー!!」
 
 「キサマたるんどる! 腕立て伏せ50回!」

 「レンジャー!!」。



 なんでも「レンジャー!!」。他の言葉は一切不許可。

 おいおい、おもしろすぎるではないか。

 もちろん冗談ではない。冗談どころか、必死のパッチなのである。

 まっくらな密林の中、40キロの荷物かついで言うギャグなど、とても笑えない話だ。

 私がこの映画で感動したのは、隊員たちの根性もさることながら、この「レンジャー」という応答が気に入ったからである。

 彼らは回転寿司



 「あ、そこのマグロ取って」

 「レンジャー!!」



 コンビニで、



 「お弁当温めますか?」

 「レンジャー!!」



 女の子

 

 「わたしのこと、好き?」

 「レンジャー!!」



 すべて、そう答えるのであろう。

 もし教官が深夜の居酒屋で、



 「わたしもラテン語で小粋に会話しつつ、二階堂ふみちゃんの首を締めあげて、半死半生になっている彼女に『みんな死ね!』とののしられたいね」



 などと語っても、もちろんそのリアクションは「おいおい」「待たんかい」ではなく

 「レンジャー!!」

 なのである。

 なんという訓練された猛者たちなのか。

 嗚呼、そうであった。日本の兵隊さんはみそ汁を飲んでいるから、世界一強いのである。

 こんな猛者たちがいてくれれば、我が国の守りは完璧であろう。

 かくのごとく愉快、もとい勇猛果敢かつ統制の取れた男たちの姿が見られる『実録レンジャー訓練』。

 いや、ホンマにすごいです。ようやるわ。

 
 

 ☆おまけ 『実録レンジャー訓練』の本編は→こちらから。



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