「差別主義」「レイシスト」を自称する人と、映画『CSA~南北戦争で南軍が勝ってたら?~』 その3

2017年08月30日 | ちょっとまじめな話

 前回(→こちら)の続きで、『CSA~南北戦争で南軍が勝ってたら?~』という映画について。

 タイトルの通り、かつてアメリカを二分し、今でもその歴史的影響いちじるしい南北戦争で、もし史実と反対に南軍勝利していたらどうなっていたか。

 そのパラレルワールドで制作された、CSA(南部が主導権を取ったアメリカ連合国)の歴史番組という体の、いわゆる

 

 「フェイク・ドキュメンタリー」

 

 というやつであって、架空の世界を描く歴史のifものであり、いわばSF映画なのだ。

 なんといっても、つかみから先生と教え子の男の子が出てきて、こんなやりとりをする。

 


 ナレーション「奴隷の価値は、今でいう高級車1台分。重要な資産なんです」

 少年「(感嘆したように)アメリカには奴隷制度が不可欠なんですね!」

 先生「(誇らしげに)だからこそ、南北戦争を戦ったのさ」




 
 NHK教育番組のノリで、とんでもないことを言う。もう作り手の悪意がひしひしと(笑)。

 そこからも、敗軍の将であるリンカーンが、「地下鉄道」(南部の黒人奴隷を北部に逃がす運動もしくはその経路)を使って逃亡するも、その際

 

 「黒人に変装するのを嫌がって

 

 たいうトホホな理由で説教されたり。

 またその醜態をグリフィス(『國民の創生』という映画でKKKを英雄的に描いて問題となった)が、『うそつきエイブの捜索』という映画にしたり(いやコレ、ふつうに全編見たいんだけど)。

 そっからも、CSAは中南米占領するわ、奴隷制度を有色人種全体に適用するわ、世界恐慌は奴隷貿易で乗り切るわ。

 人種差別政策に同調してヒトラーと手を組むわ、太平洋から日本に奇襲攻撃(!)をしかけるわ、もうやりたい放題。

 いやもう、作り手の意地悪、かつブラックユーモア効きまくりの(第二次大戦の黒人兵が「所有者からのリース品」とか)歴史パロディーがこれでもかとくり出されて、笑っていいのか頭をかかえていいのか。

 ご丁寧にも、中に挿入されるCМもいちいちエグい内容で、掃除用品歯みがき粉など「汚れを落として白くする」製品に黒人のキャラクターを使ったり、



 「奴隷逃亡阻止のセンサー入り腕輪」



 の通信販売とか、「この大きな口が目印です」とか、明るく宣伝されて、もう見てるほうはどうせえと。

 他にも、「赤狩り」の標的が「共産主義者」ではなく「奴隷解放論者」とか、それを題材にした侵略SF映画『夫は奴隷解放論者』とか(『ボディ・スナッチャー/恐怖の街』とか一連の「アカ怖い」作品ですね)、「綿花のカーテン」とか、とにかくもうメチャクチャによくできた、偽とは思えないドキュメンタリーなのだ。

 これがねえ、すんごくおもしろくて、ためにもなる。私が南部人だったら、よう見ませんけど(笑)。

 だってこれ、日本でいえば

 

 『大日本帝国 もし大東亜戦争で日本が勝ったら?』

 

 とかいうタイトルで、日本人がアジアとかでいばりちらしてる映像作るようなもん。

 で、世界中の人から

 

 「あるあるー」

 「あいつら、いかにもやりそー」

 

 とか言われてるの。

 で、自分でも「そうやなあ」とか思てんの。そんなん、いくら思想的にゆるゆるの私でも笑えへんですわ。

 この映画から、われわれがもっとも学べることは、



 「自分たちもまた、CSAかもしれない」



 という視点だろう。

 歴史というのは勝者のものといわれるが、勝ち負けにかかわらず人は、それをスキあらば自分に心地よく書き換えたいという願望がある。

 勝者はそれを(それこそこの映画のCSAのように)露骨にできるだけで、これは全人類どの民族、国家でも不変だろう。

 日本も、あの国もこの民族も一緒。だから、他者のそれを笑うのは、どこまでいっても「同族嫌悪」の域を出ない。

 かの「自虐史観」すら、



 「オレ様はこんなに反省している。だから、昔の《愚かな人々》のやったことは、関係ないから一緒にしないで」



 という欺瞞が、ないとは言えないと思うし。

 そう、人はみな、この映画のCSAになる要素を持っている。

 自分たちの自尊心を満たすためだけに、自覚なしに、だれかを傷つけているのかもしれない。

 だから私は、この映画を観て「南部連合ヒドイ」と単純には思えなかった。むしろ、ゾッとした。

 だって、あの中の架空のドキュメンタリー製作者は皆

 

 「なんの悪気も悪意もなく」

 

 あの作品を撮っているのだ。

 ただただ素直に、「自分たちを誇っている」だけなのだ。

 だったら、「自分はそうではない」と、いったい誰が言えるというのか。

 物事の善悪や正誤なんて、時代や見方次第でいくらでも恣意的に変化する。

 そもそも、CSAのやってることはUSAの「合わせ鏡」だ。

 だったら、そのことを自覚し「オレも、もしかして?」と常に気を配ることこそが、この作品を通して「歴史に学ぶ」態度ではないだろうか。


 


 ☆映画『CSA~南北戦争で南軍が勝ってたら?~』は→こちらから



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「差別主義」「レイシスト」を自称する人と、映画『CSA~南北戦争で南軍が勝ってたら?~』 その2

2017年08月29日 | ちょっとまじめな話

 前回(→こちら)の続き。

 リー将軍銅像の撤去をめぐる事件は痛ましいものだったが、この件で

 

 「自分はレイシスト

 

 と主張したり、KKKナチス白人至上主義者擁護する人、それも日本人がいる(だって彼らに対して「差別される側」なのに)というのが不思議だ。

 理由としてまず、差別意識はだれの心の中にもあるけど、それを垂れ流しにすることに私は興味がないし、みっともないという倫理的な観点があるわけだが、もうひとつは「危機回避」の問題。

 よく、イジメ問題のとき、なぜか



 「いじめられる方にも問題がある」



 みたいな意見が出てくるけど、こういう人は、



 「自分がいじめられる側」



 に立たされた時、どうするんだろうと、いつも気になる。

 だって、

 

 「いじめられてもしょうがない」

 「被害者にも責任がある」

 

 って人を攻撃したら、自分が同じ理論で攻められたとき、反撃したり正当性を主張する「道義的権利」を失ってしまうのだから。

 強盗が強盗にあっても、

 

 「おまえが言うな」

 「自業自得では?」

 

 って終わらされる可能性が高くなる。

 それを、「助けてくれ」とか「オレにも裁判を受けさせろ」というのは、間違ってはないけど「虫がいい」とは思われる。心証はよくない。

 これは断言してもいいけど、だれかを

 

 「いじめられてもしょうがないヤツ」

 「相手の方にも責任がある」

 

 と理不尽に攻撃した人が、立場逆転したときに、



 「自分もそうやって攻撃したのだから、当然むこうのいうことを受け入れるべきだな。たしかに、こっちにも責任があるとしなければならない。だからいじめられても、文句は言いません」



 っていうこと、まずないはず。

 他にも、女性差別をする人の中に(ちなみに私はです)「女は男より頭が悪い」って言う人もいるんだけど、もし科学的精査によって、



 「調べてみたら、男の脳は女よりも機能がおとっている」



 って結果が出たら(なぜみんな、この事態についてもっと想像力危機感を働かせないのだろう? ありえるでしょ全然)どうするのだろう。



 「男は女より頭が悪かったか。じゃあ、これからは女尊男卑でいくことにしよう」



 とか、絶対言わないだろう(というか、そんな人はもともと差別なんかしないだろうけど)。

 でも、そういうのって「フェアじゃない」気がするのだ。

 私は決して、できた人間ではない。だから、



 「理由はないけどムカつくヤツ」

 「いじめられても、しょうがないという気持ちを誘発させる人」



 がいることは否定しきれない。

 でも、だからってやらないほうがいいと思うのだ。

 モラルとして当然として、それにもしかしたら自分も、だれかにそう思われてるかもしれないわけで、そこを考慮に入れたら今度はリスクが高いからする気も起らない。

 もう一度言うけど、私は差別主義にはくみしない。

 ひとつはそういうのは、「みっともない」(時として犯罪のこともある)し興味もないから。もうひとつは「リスクヘッジ」として。

 理不尽な暴力から身を守るために、他人に理不尽な暴力をふるって言質を取られるようなことはしない。

 うーん、なんか当たり前のこと言ってるだけの気もするけど、まあそう。

 それとも、みんなそんなに「攻撃側チーム」にずっといられると確信しているんだろうか。

 いや、かも。そうカン違いしてる人も多いかもしれないけど、



 「いつ自分が被害者になるか」



 にビクビクしてるから、過剰な反応になってる人もいるのかもしれない。

 「受け身に立たされた自分」を、そもそも想像したくない

 だから、それを打ち消すために、論理や倫理よりも「のデカさ」「嘲笑」を持ち出して、必要以上に「攻撃側」をアピールする。

 白人である著者が黒く塗って、自らが「差別される側」に立った経験をレポートしたジョンハワード グリフィン著『私のように黒い夜』によると、白人による黒人リンチ事件の発端の多くが、



 「これまでしいたげてきた黒人が暴動を起こして、復讐しにやってくる」



 という白人側の「罪悪感からくる被害妄想」が転じて「先手必勝」と襲いかかることだという。

 どこかで……というか、どこででも聞く話だ。

 だったら「そもそも最初から攻撃しない」ことこそ、本当はベターな選択じゃないのかなあ、と。

 まあ、このあたりは「趣味」の問題だから(思想関係のことは「正しい」「間違い」などなく、「しょせんは好き嫌い」と解釈している)、他人の私が理屈こねても、しょうがないかもしれないけど。

 ……て、なんか前置きが無駄に長くなっちゃったけど、今日オススメしたい映画は、アメリカ南部つながりで、

 

 『CSA~南北戦争で南軍が勝ってたら?~』

 

 「松嶋×町山 未公開映画を観るTV」という番組で紹介していたものだが、内容については次回に。



 (続く→こちら



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「差別主義」「レイシスト」を自称する人と、映画『CSA~南北戦争で南軍が勝ってたら?~』

2017年08月28日 | ちょっとまじめな話

 リー将軍の銅像の撤去をめぐる事件は痛ましいものだった。

 すでに何度も報道されているが、アメリカ南部、バージニア州シャーロッツビルで、南北戦争における英雄であるロバートエドワードリー将軍像の撤去が決まった。

 そこで、それに反対する白人至上主義者とそのカウンターの集会が衝突し、ついには死者まで出る悲劇となった。たのだ

 昨今、この手の政治思想がからむニュースになると、いつも驚かされるのが、



 「自分がレイシストである」



 ということを、自ら表明する人がいるということ。

 私は基本的に、人種差別が好きではない。

 いやこれは人種にかぎらず、性別でも思想でも性癖でも趣味嗜好でもなんでも、

 

 「自分と違う」

 

 という者を、それだけで、のけものにしようとする発想が好みではない。

 それは別に私が聖人というわけではなく、単に人と比較して、自分の優越性を誇示したり劣等感をなぐさめたりすることに

 

 「なーんかそういうの、あんまり興味がないなあ」

 

 というだけだが、それにしたってレイシストを自称する人には、



 「そこを自分の売りにするって、すごいなあ」



 とは思うものだ。

 

 「勉強ができる」

 「運動神経がいい」

 「ケンカが強い」

 

 とかなら、まあわかるけど、

 

 「オレ、人種差別主義者

 

 って自己アピールするの、ムチャクチャにカッコ悪い気がするんスけど……。

 とはいえ私も、差別自体を完全に否定できるわけではない。

 人には多かれ少なかれ、他者に対する偏見警戒心はあるし(たとえば私の場合は「暴力をふるう人」「権力を誇示する人」「自分の主義主張を押しつけてくる人」の第一印象は悪くなる)、生きるためには、



 「自分や仲間、家族を守るための群れの選別」



 をしなければいけないこともあるから、誤解を怖れずいえば、ある意味必要な本能のようなものでもあるかもしれない。

 ただ、これは「本能」に近いのだから、人には「食欲」があるといっても、人の物を盗ってまでがっついたらいけないわけで。

 楽してお金はほしいけど万引き窃盗はしたらダメだし、「性欲」が繁殖に不可欠だからと言って痴漢セクハラがゆるされるわけではない。

 それみたいなもので、

 「人には差別意識がある」

 からといって、汚い蔑視の言葉を垂れ流しにするのは「みっともないな」くらいには感じるわけだ。

 別に、だれかが異性外国人同性愛者を嫌っていても、それは自由だし、好悪の感情は止めようもないからそれもいいけど、理性ある大人なら、

 

 「せめて黙ってればいいのに」

 

 と感じてしまうわけなのだ。

 『帰ってきたウルトラマン』に出てきたMATの伊吹隊長は、第31話「悪魔と天使の間に…」というエピソードの中でこんな言葉を残した。

 


 「しょせんは人の腹から生まれた子だ。天使にはなれんよ」




 そう、人の心は不完全で、決して負の感情からは逃れられない。

 でも、いやだからこそ、聖人ではない自分の弱さや至らなさを自覚し、易きに流れ加害行動に走らないことを、無くすのは難しいにしても、

 

 「できるだけ、最小に近づける」

 

 という努力をしないといけないのではとか、思うわけなのだ。

 われわれは自分と違うものを「愚か」「醜い」「秩序を乱す」と感じることはある。私もある。

 それは、ある意味自然なことかもしれない。

 けど、「自然だから」といって、指さして笑ったり、足蹴にしていいわけではない。

 もちろん、こっちが笑われたり足蹴にされても、受け入れる必要もない

 なぜならそれって、あえてこの言葉を使うが「バカのすることだから。

 賛否あるけど、ポリティカルコレクトネスって、要するにそういうことなのでは。

 PCのそもそもの精神って、



 「悪意を持って、もしくは時に悪気なくとも無意識的に、相手を傷つけてしまう言葉や行動」



 について、

 

 「ちょっと気をつけようよ、おたがいにね」

 

 ってことのはず。

 行き過ぎた規制は私もめんどいし、それを錦の御旗にして人を否定しまくる人は論外だけど、基本的にはおかしなこととも思えない。

 日本人も海外で「黄色い」とか「チノ」とか、バカにしたように目を吊り上げるパフォーマンスとか、

 

 「原爆投下は正しかった」

 

 みたいな発言とか、されたら怒ることもある。私だって腹が立つ。

 だったら、自分も同じことやって、どないしますねんと。

 あとこれはモラルとともに、「危機回避」の問題もからんでくるのではないだろうか。

 よく、イジメ問題のとき、なぜか



 「いじめられる方にも問題がある」


 「ムカつくし、キモイから、やられてもしょうがないだろ」



 みたいな加害者側を擁護する意見が出てくるけど、こういう人がいつも不思議なのは、



 「自分がいじめられる側」



 に立たされた時、どうするんだろうということだ。


 (続く→こちら



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テニスのダブルスにおける「じゃない方」選手について その2

2017年08月25日 | テニス

 前回(→こちら)の続き。

 お笑いの世界だけではなく、テニスにも「じゃないほう」は存在する。

 それはダブルスの話で、

 

 マルチナ・ヒンギス&アンナ・クルニコワ

 ロジャー・フェデラー&スタン・ワウリンカ

 

 のような双方ともスター選手ならいいけど、ときに「格差」のあるチームというのは存在するもの。

 一番有名なのは、ジョンマッケンローと、ピーターフレミングのコンビであろう。

 ウィンブルドンUSオープンをはじめ、幾多のビッグタイトルをものにし、デビスカップでも活躍したアメリカの誇るスーパーチーム。

 だが、いかんせんフレミングのほうが地味である。

 いや、実はピーターの方もなかなかのもので、シングルスではトップ10入りも果たしている。

 とはいえ、相手が天下マッケンローときては、これはもう分が悪すぎるではないか。

 ジョンの知名度は、テニスを知らない人でも相当高いだろうが、ピーターの方は少なくとも、今のヤングたちには知られていまい。

 格差の不条理というやつである。

 同じような「パートナーがすごすぎて……」なコンビに、ステファンエドバーグアンダースヤリードというのもいる。

 アンダースもシングルスではトップ10に入っているが、世界1位グランドスラム6勝の貴公子ステファンとくらべると、どうしても差が出てしまう。

 ダブルスでは1位だし、キャリアグランドスラムも達成している、いい選手なんだけどなあ。

 オールドファンの再評価を、求めたいところだ。

 やはり「相方世界一」というところでは、ロシアアンドレイオルホフスキーエフゲニーカフェルニコフという2人。

 デビスカップでも不動のペアとして君臨したコンビだが、グランドスラム2勝オリンピック金メダル世界1位というカフィとくらべて、アンドレイは相当に知られていまい。

 ダブルスは最高6位だが(カフィは4位)、シングルスの最高が49位という「そこそこ感」が味である。

 アンドレイには悪いけど、これこそリアルな「じゃない方」。

 でも、シングルス2勝していて、なかなかにあなどれない。

 ひそかに、大阪の大会でもダブルスで優勝しているそうな。

 1994年セーラムオープンで、このときのパートナーは、やはりダブルスのうまいマルティンダム

 マルティンはシングルス最高42位ということで、こっちは釣り合いの取れたナイス(?)カップルだ。

 「相方が世界一」なうえに、もうひとつ「兄弟」という要素がからんでくるのが、アンディージェイミーマレー兄弟

 世界ナンバーワンなうえに、ウィンブルドンのチャンピオンとあっては、お兄さんからすればさぞかし、ジャギ様のごとく、



 「兄より優れた弟など存在しねぇ!!」



 となるのかと思いきや、この2人はツアーデビスカップで、兄弟コンビとして活躍。

 特にデ杯では、2015年優勝に大きく貢献した。

 まあ、このふたりはシングルスとダブルスに完全に分業しているうえに、どっちもその道で世界一になってる。

 ウィンブルドンのタイトルも持ってるから(ジェイミーはエレナヤンコビッチと組んでミックスダブルスで優勝)、それなりに充足感もあって牽制しあわないのかもしれない。

 その意味では、ミーシャアレグザンダーズベレフ兄弟はどうか。

 ここは、ちょっとミーシャに「じゃないほう」感があったけど、今年は全豪マレーを破ったり、ランキングもトップ30に入っていい感じだ。

 このまま、いいライバルに育ってほしいもの。

 ミーシャとサーシャもけっこうダブルスを組んでいて、ツアーでも優勝している。


 あと、兄弟で「じゃないほう」といえば、昔マイケルチャンが、お兄さんのカールチャンと組んだこともあった。

 といってもカールは選手じゃなくて、弟のコーチだったから厳密には「じゃない方」でもないけど。

 たしか日本のセイコースーパーテニスにエントリーしてて、雑誌に写真が載ってた記憶が。

 ビッグコンビが出現かと思いきや。1回戦で負けてたから、まあファンサービスのつもりだったのかも。

 マイケルはダブルスうまいイメージないし、カールも見た目はお腹の出たおじさんだったし。

 ちなみに、シングルスでは、マイケルが決勝でマークフィリポーシスを破って優勝していた。

 他にも、最近のデ杯なら、アルゼンチンの、フアンマルティンデルポトロと、レオナルドマイエル

 クロアチアの、マリンチリッチと、イワンドディグ

 ベルギーの、ダヴィドゴファンと、スティーブダルシス

 昔をひもといても、1999年フレンチオープンのダブルスではゴーランイバニセビッチが、ジェフタランゴと組んで決勝進出。

 とかとか、おもしろいペアがたくさんいる。

 ぜひみなさまもダブルス観戦の際は、スターだけでなく「じゃない方」と言われがちな地味実力者にも注目してほしいもの。

 私も、まだまだ見落としているチームも多いだろう。

 知ってる方がいたら、ぜひ

 「こんな個性的なコンビいるよ」

 なんて、教えていただきたいものだ。



 ☆おまけ 最強ダブルスのブライアン兄弟の試合は→こちらから。



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テニスのダブルスにおける「じゃない方」選手について

2017年08月24日 | テニス

 「ボクたちは、ダブルスの《じゃない方》選手です」

 テニスのダブルスは楽しい。

 ダブルスはシングルスとくらべて、テレビ放映はほとんどないし、トップ選手もあんまり出てない。

 なもんで、ふだんはマイナーなあつかいだけど、もっと取り上げられてもいいのでは、といつも思っている。

 そんなダブルスの最大の特徴といえば、コートに4人も人がいること。

 ふだんより2倍の選手のプレーを見ることができて、その意味ではオトク。

 なのだが、このテニスのダブルスペアにも、よく見るとコンビ芸人のような「格差」が存在するのだ。

 ダブルスの組み合わせパターンは大きく分けて3つ


 1.双方ともにシングルスでもメジャー選手で、みんなおなじみ。

 2.両方ともシングルスでマイナー、もしくはダブルスのスペシャリストで、シングルスにはあまり出ないから、ファン以外は知る人ぞ知る

 3.片方は知られているけど、もう一方は「だれ?」。



 シングルスのトップ選手、特に男子はダブルスに出ないケースも多いので、女子に多い。

 たとえば私の世代だと、アランチャサンチェスビカリオヤナノボトナのチームは、シングルスでもダブルスでも、グランドスラム優勝している。

 日本のエースだった杉山愛さんは、

 

 ジュリー・アラール=デキュジス

 キム・クライシュテルス

 ダニエラ・ハンチュコバ

 

 といった、人気実力ともにトップクラスの選手と組んで、ダブルスの世界1位に。

 また、女王マルチナヒンギスも、

 

 アンナ・クルニコワ

 ミリヤナ・ルチッチ=バローニ

 サニア・ミルザ

 

 などなど、のある選手と組んで大きな実績を残している。

 オリンピックでの、ロジャーフェデラーとのミックスダブルスが実現しなかったのを、残念に思ったファンは多いだろう。これは私も相当に見たかったものだ。

 男子だと、かつてダブルスのタイトルを総なめにした最強コンビ「ウッディーズ」の、トッドウッドブリッジと、マークウッドフォード

 ここが、双方シングルスでもトップ20位入りを果たしているけど、ツアーよりデビスカップで大物ペアが生まれることが多いかもしれない。

 バルセロナ五輪金メダルを取った、ドイツボリスベッカーミヒャエルシュティヒ

 2002年ロシア初優勝時の、エフゲニーカフェルニコフマラトサフィン

 オーストラリアの、レイトンヒューイットパトリックラフター

 クロアチアの、マリオアンチッチイワンリュビチッチ

 スイスの、ロジャーフェデラースタンワウリンカ

 並べるだけでも、ため息が出そうな豪華な顔ぶれ。

 調べてみたら、ジョンマッケンローと、ピートサンプラスなんてのあった。

 双方世界一位、グランドスラム優勝数がふたりで21個

 単純な数字だけなら、このペアが最強かもしれない。

 ここまでゴージャスじゃなくても、フランスジュリアンベネトーリシャールガスケ組。

 スペインの、フェリシアーノロペスフェルナンドベルダスコ組。

 ここくらいでも、十二分すぎるほど魅力的なチームといえる。

 のケースは、まあどちらかといえば、これが普通か。

 そもそもダブルス自体がマイナーなのだから、どうしてもそうなってしまうわけだが、これはもう、歴代のグランドスラム優勝選手を見てもらえば一目瞭然。

 グランドスラム歴代最多の16勝を誇る「史上最強のコンビ」マイクボブブライアン兄弟は、シングルスの戦績は皆無に等しい。

 他にも、マへシュブパシリアンダーパエス組。

 テニスファンならおなじみの、インドが誇るスーパーコンビだが(ちなみにもスーパー悪い)、一般の認知度は低いだろう。

 他にも、ヘンリコンティネンジョンピアースとか。

 ピエールユーグエルベールニコラマユ

 マルセルグラノリェルスマルクロペス

 ロハンボパンナダニエルネスター

 イワンドディグマルセロメロ

 あとエドゥアールロジェバセランとか、ミシェルロドラとか……。

 などなど、わりとコアなテニスファンでも「まあ、名前くらいは……」な選手がズラリ。

 すげえな、ネスターってまだ現役なんだ。

 昔はマークノールズと組んでたなあ。

 で、2015年ウィンブルドン優勝の、ジャンジュリアンロジェホリアテカウって、だれですか?

 もちろんその世界では最高レベルの猛者たちばかりだが、フェデラーやナダルのような知名度は望むべくもなく、これがなんとも惜しい。

 それでも今は動画サイトなどで試合を見られるようになったから、いい時代になったなとは思う。

 実際に見てみたら、スピーディーでおもしろいんだよ、ダブルスって。

 生観戦が、もっとオススメ。

 と、ここまでは前置き。

 上記の2パターンは、知名度に差はあれど、双方がほぼ同レベルの位置にいるのだから、そんなに観ていて不自然さというのは感じない。

 問題は、そのバランスが合ってないコンビである。

 片方がスターなのに、もう片方は全然知られてない

 もしくは、ダブルスはどっちもトップなのに、シングルスランキングにものすごいがある。もっといえば、稼ぎが全然違う。

 こういうコンビというのもいて、様々なビッグタイトルをものにしているにもかかわらず、ファンからも、



 「あの、こないだ優勝したコンビの知らん方」



 なんて言われて、なんとも悲しい目に合っているのではないか、とか想像するわけだ。

 次回は、そういう選手について語ってみたい。
  
 

 (続く→こちら




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中島らも絶賛! 東海林さだお流「天ぷらそばの正しい食べ方」 その2

2017年08月21日 | B級グルメ
 立ち食いそば屋は「B級グルメの奥義」の宝庫だ。
 
 そこで前回は(→こちら)、
 
 「立ち食いそば屋における、天ぷらそばの正しい食べ方」
 
 について講義したが、その道における「秘伝」は、まだまだ数々あるようなのであった。
 
 将棋のプロ棋士である先崎学九段のエッセイ集『先崎学の実況! 番外戦』に、立ち食いそばの話が出ている。
 
 
 「数ある外食のメニューのなかで、生まれてからもっとも多く食べたのが、きっと立喰いのそばだとおもう」。
 
 
 前回の東海林さだおさんとも同じく、立ち食いそばを愛する先崎九段(愛称「先チャン」)も、食する際にはあれこれと工夫されているようだ。
 
 まず紹介されていたのが、「天ぷらのまわし食い」。
 
 修業時代、お金のなかった先崎九段は、しょっちゅう立ち食いそばのお世話になっていた。
 
 天ぷらそばを頼む。若くてエネルギーにあふれる時期のころ、あっという間に平らげる。
 
 ナウなヤングの胃袋は暴れ馬だ。こんなもんでは全然足りない。すかさず、お代わりを頼む。
 
 だがそこは修行中の身の常、いかんせん金欠である。
 
 もう一回天ぷらそばを頼みたいが、フトコロ具合を考えれば贅沢きわまりない所業だ。
 
 そこで先チャンが思いついたのが「天ぷらのまわし食い」。
 
 まず一杯目は、天ぷらそばを頼む。
 
 ただし、このときに、できるだけ天ぷらには手をつけずに食べる。
 
 で、おかわりには「かけそば」を頼み、受け取った途端に、まだ残っている天ぷらをそこに投入
 
 するとアラ不思議、2杯目も見事に天ぷらそばの完成となるわけだ。
 
 こうして若き日の先チャンは、安価に2杯の天ぷらそばに、ありつけたわけなのだ。
 
 これには感心させられた。なるほど、そんな手があったか。
 
 ただしここで
 
 「でもそれって、食べられる天ぷらは1個なんだから、意味ないじゃん」
 
 異議を唱える人は、いるかもしれない。
 
 これにはきちんとした反論があり、先崎九段のいうとおり、我々立ち食いそば愛好家は天ぷらそばを頼むとき、上にのっているカキアゲはそれほど重視していない
 
 あれは「天ぷら」「かきあげ」を名乗っているものの、内実はただ粉を揚げただけのもの。
 
 味は正直、別に期待できるものではないのだ。
 
 それよりも、カキアゲからしみ出す、アブラを求めている。
 
 それこそがの目的。
 
 メキシコ湾のアブラ流出事故は大問題だったが、カキアゲからのアブラ流出は大歓迎である。
 
 まわし食いをすることによって、ひとつには普通の天ぷらそば。
 
 もうひとつは、ただのかけそばではない、天ぷらの油のしみたそばのツータイプが食べられてオトクということだ。
 
 すばらしいアイデアではあるまいか。
 
 さすが、頭脳を商売道具にしている人は違うものではないか。どうりで、藤井聡太四段も29連勝するはずである(なんのこっちゃ)。
 
 先チャンの工夫は、これにとどまらない。
 
 もうひとつ、おにぎりを使ったワザも紹介されていた。
 
 立ち食いそば屋では、うどんやそばと一緒に、おにぎりやお稲荷さんを頼む人もいるだろうが、それをどう食すのかが問題だ。
 
 もちろんそれには、
 
 
 「あんなものは、そばをすする合間に、ハグハグっと食えばいいのだ」
 
 
 という意見はあるかもしれないが、そういう人はまだまだ、この世界の素人である。
 
 玄人の先崎九段は、あえて一緒に注文したおにぎりを食べないという。
 
 では、その残されたおにぎりを、どうするのかと問うならば、食べ終えたあとのツユにすかさず投入
 
 そのまま流れるように「月見そば」用の生玉子を注文。即座に割って入れ、仕上げに七味をかける。
 
 これで「卵かけゴハン」のできあがり。
 
 これは私もやったが、たしかにウマイ。オススメである。
 
 他にも、私は不明にも知らなかったのだが、先崎九段が東海林さだおさんの本の中で発見したものに、こんなのもあったという。
 
 
 天ぷらそばとゴハンを頼み、天ぷらをそばのツユにたっぷりとひたしてからゴハンの上にのせ、天丼とかけそばにして食べる。
 
 
 考えてみれば、たかだかそばなのに、そんなにあれこれ、食べ方を工夫して考えるというのも不思議な話である。
 
 どうも立ち食いそばというのは、そういった一種の「遊び心」的なものを喚起させる場所かもしれない。
 
 立ち食いではないが、私が一時期ハマったのがコロッケそば
 
 作り方は簡単で、おそばをゆでて、温かいツユに入れて、出来合いのコロッケをのせるだけ。
 
 ツユにモロモロとしみこむあのコロモと、中のジャガイモが、意外なほどにそばのツユマッチする。
 
 これは意外なヒットであり、一時、家でお昼ごはんを食べるときには、いつもこれをチョイスしていた。
 
 こういうのは不思議なもので、ちょっといい材料を使ったりすると、案外おいしくない。
 
 スーパーで売っている、一番安いそばやコロッケを使うと、なぜか妙においしい。
 
 私はグルメに興味はないが、こういったB級グルメの話は、なんだか楽しいなあ。
 
 
 
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中島らも絶賛! 東海林さだお流「天ぷらそばの正しい食べ方」

2017年08月20日 | B級グルメ
 立ち食い屋における、「天ぷらそば」の正しい食べ方をご存じだろうか。
 
 などとはじめてみると、
 
 
 高級フレンチとかならわかるけど、立ち食いそばで正しい食べ方も何もないだろ!
 
 あんなものは、作り置きのふにゃっとなったかきあげをかじりながら、適当にずるずる、すすればいいんだよ。
 
 
 なんて、お怒りになる人はあるかもしれないが、そういう人とはオトモダチになりたくない。
 
 立ち食いの天ぷらそばには、れっきとした正しい食べ方があるのだ。
 
 それは、東海林さだお著『ワニの丸かじり』収録の「天ぷらそばのツライとこ」というエッセイに書かれている。
 
 そのプロセスを説明しよう。
 
 まず、立ち食いそば屋に入って、天ぷらそばを注文する。
 
 それに入れ放題のネギを入れ、七味をかける。
 
 そして、すぐに食べるのではなく、そばの上のカキアゲを、ハシで押しつけて底に沈めるのである。
 
 ここがポイント。
 
 こうすることによって、カキアゲが温まり、やわらかくなり、ツユを吸いこみ、カキアゲからは揚げ油が、ツユに流れ出していくという効果があらわれる。
 
 そうして、しばらくはカキアゲに別れを告げ、上のそばを「かけそば」として楽しむ。
 
 その際「あとでね」と声をかけるのが、ショージ君流。
 
 ツユも、まだカキアゲから油が出てきていないので、「かけそば」のしっとりとしたダシが味わえる。
 
 ある程度ずずっと、すすったとろこで、おもむろにハシをドンブリのにつっこんで、今度はカキアゲを引き上げる
 
 するとカキアゲは、ドンブリの底でツユをたっぷりと吸って、やわらかくモロモロになっている。
 
 このモロモロがうまい。
 
 おまけに、さきほどまで、あっさりしていたそばのツユが、カキアゲの油浮上によって、今度は少しコッテリした、ラーメンでいえばトンコツ風のような濃い味になる。
 
 これが、うまい。
 
 ツユをふくんだ、モロモロのカキアゲを、そばとともにすする。ツユとともに飲む。
 
 こういうとき、というものの偉大さがよくわかる。ツユに一段も二段も、深い味わいをあたえてくれる。
 
 ただツユに沈んだ、モロモロのカキアゲのうまさだけでなく、「かけそば」と、「天ぷらそば」を2種類、味わえることになる。
 
 いや、それどころか、モロモロのフワフワの溶けたカキアゲからは
 
 「ハイカラそば」(関西では、たぬきそばのことをこう呼びます)
 
 「なべ焼きうどん
 
 のおいしささえ感じられ、一石二鳥どころか、三鳥にも四鳥にもおいしいのである。
 
 銭湯好きで知られる、ドイツ文学者の池内紀先生は、
 
 
 「銭湯に行くたびに、たった400円程度でこんなに楽しい気分にさせられていいのだろうかと思う」
 
 
 とおっしゃっていたが、私も立ち食いそば屋で、かきあげそばを食べるたびに、
 
 「たった280円で、こんなに充実した時を過ごしていいのだろうか」
 
 陶然とした気持ちになる。
 
 これが、立ち食いそば屋による、中島らもさんも感銘して何度もエッセイのネタにした、かきあげそば(天ぷらそば)の正しい食べ方である。
 
 癖になるので、ぜひ一度試していただきたい。
 
 
 (続く→こちら
 
 
 
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チャールズ・ブロンソン『正午から3時まで』はフレドリック・ブラウン的不条理映画 その2

2017年08月17日 | 映画

 前回(→こちら)の続き。

 土曜日の昼下がり、何気なくテレビで流れていた『正午から3時まで』が意外とおもしろかった。

 ムショ帰りで、元カノの家に勇んで戻ったにもかかわらず、アレコレとややこしいことがあった末に

 「アンタだれ?」

 ゴミでも見るような目であしらわれる、われらがチャールズ・ブロンソン。

 せっかくシャバに出て、これから二人で愛をはぐくもうかというのに、女の方は自分のウソから出た妄想にどっぷりとひたっているとは、どういうことか。

 ちがうんや、これこれしかじかでとねばり強く説得を続けると、やがて現実に引き戻されたアマンダは、「あー、そういえばアンタや」と、納得。そしてガックリ。

 なぜ本人だとわかったかといえば、決め手となったのは兄さんが

 「これ見たらわかるやろ」

 やおらズボンを引き下ろし、股間の「グレート・ジンバブエ」を披露したから。

 さすがは恋人というか、一度は愛し合ったもの同士、それを見たら間違えようもないわけで、

 「ああ、あんときの……」

 夢も覚めました。初恋の人には、再会してもええことないといいますが、どうも本当らしいです。

 が、とにもかくにも誤解が解けて、さあダーリン、ふたりで人生をやり直そうとよろこぶアニキだが、アマンダは

 「いや、それムリやから」

 とにべもない。

 なんでやねんというブロンソンのアニキだが、彼女に言わせると、自分はもう

 「超絶イケメンなワルと、悲しい恋をした悲劇のヒロイン」

 としてキャラも立っている、それでメシも食っている。

 そこにのこのこ元カレが戻ってきてはどっちらけどころか、さらにはそれが男前どころかチャールズ・ブロンソンであると世間にばれた日には、

 「全然聞いてたんとちゃうやんけ! 金と感動を返せ!」

 てなもんである。それは困りますなあ。ということで、

 「アンタはもう死んだんや、ウチの生活のため、おとなしゅう消えて」

 あわれ家を追い出されるブロンソンのアニキ。

 哀しい、哀しすぎる! それでもあきらめきれないアニキは、

 「オレは伝説の悪党、チャールズ・ブロンソンやぞ! ホンマは生きとったんや!」

 そう主張し街を練り歩くが、

 「オマエのどこがやねん!」

 「どう見てもニセモノやないか!」

 「そっくりさん芸人やったら、もうちょい似せる努力せえよ!」

 みなから嘲笑されるのだ。

 いやいや、ホンモノやのに! でもそれは仕方がないのだ。世間はチャールズ・ブロンソンといえば、アマンダの妄想本のせいで小栗旬のような、さわやか男子だと信じられてるのだ。

 いわばクラスのブサ……もとい美しさに不自由している女子生徒が突然、

 「あたしは吉岡里帆よ! あのどん兵衛のCMに出てるあれは、CGで作り出したニセモノなの! みんな、だまされないで!」

 とか言い出すようなもんで、そらそんなやつおったら怖いですわな。

 でもって、ラストではブロンソンのアニキはなんと

 「ベストセラーを読んで、その主人公が自分だと信じてしまった気ちがい」

 として、精神病院に送りこまれてしまうのだ。ホンモノやのに!

 しかも、そのときには、すでにアニキは本当に狂ってしまっていて、実際に「自分をベストセラーの主人公と信じている気ちがい」になっているというアクロバティックなオチ。

 もはやだれが本物で、だれが気ちがいかわからない。それで映画はお終い。うーん、これは……。

 かなり、おもろかったやん!

 B級西部劇と見せかけて、最後はフレドリック・ブラウンの『さあ、気ちがいになりなさい』のような狂ったラスト。

 テレビ大阪でブロンソンとあなどっていたら、意外と佳作で楽しめました。テレビで映画を観る楽しみは、まさにこういうところにありますねえ。

 後日、映画秘宝で東京12チャンネル(今のテレビ東京)でやっているB級映画を特集した『日常映画劇場』というムックを読んだとき、SF作家の山本弘さんが、この『正午から3時まで』を紹介する記事があった。

 山本さんもやはり、家で家事しながら何気なく見てたら、意外とおもしろくてラッキーとおっしゃっていたけど、たぶん同じ日の放送ちゃうかったんかなあ。

 シチュエーションもまんま同じで、ちょっとしたシンクロニティー。まさにブロンソン・マジックと言えよう。


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チャールズ・ブロンソン『正午から3時まで』はフレドリック・ブラウン的不条理映画

2017年08月16日 | 映画

 『正午から3時まで』は期待せず見たら、すこぶるおもしろい映画だった。

 ストーリを紹介すると、西部の強盗であるブロンソンが、銀行を襲撃する途中でアマンダという未亡人と出会うところから物語ははじまる。

 そこで「おお、ええ女みっけ!」と興奮したブロンソンは仲間を先に行かせ、自分はアマンダの家に残る。

 最初は牽制し合っていた二人だが、やがてブロンソン兄さんの魅力に押され、アマンダとブロンソンは抱き合って愛し合うことに。

 これにより愛に目覚めたブロンソンのアニキ、「いつまでもフラフラしちゃいられねえな」と、彼女に妊娠を告げられたヤンキーのように、カタギになろうと決意。

 ところが、そこに強盗仲間が襲撃に失敗し、縛り首になるという知らせが。

 もう足は洗うと決めアニキからすると、もうどうでもいいっちゃあいいわけだが、アマンダが

 「あんたも元ワルやったら、最後にカッコエエとこ見せたってよ!」

 というので、しぶしぶ助けに行くことに。

 女の前でイキった手前はあるが、気は進まないというブロンソンのアニキ。

 そこで、途中で出会ったおっさんを脅しつけて、服を奪って変装し、トンズラすることになる。おいおいちょっと待て、ヒドイぜ、アニキ!

 服を奪われた男は、よほど運のない星の元に生まれたのであろう、追っ手の保安官たちに「コラ! ワレ、その服はブロンソンやないんけ!」と詰め寄られ、あわれ射殺されてしまう。アーメン。

 これにシメシメとほくそえんだブロンソンだが、因果はめぐるというか、悪は栄えずというか、その射殺された不運な男は、なんとおたずね者の悪党だったのである。

 そやつの服を着ていたせいで、今度はそっちに間違われて逮捕されるアニキ、ちがうんや、これには深いわけがあって……。

 なんて説明できるはずもない。自分も銀行強盗の一味。誤解が解けたら、その場で再び逮捕されしばり首。

 こうして、「ちがうんやー」という訴えもむなしく、兄さんは哀れ刑務所送りに。悪いことはできませんなあ。

 これにショックを受けたのはアマンダ。彼女はチャールズ・ブロンソンという悪党と愛を交わしたということで、非常につらい立場に追いこまれたわけだ。

 が、そこは開き直って「でも、あたしたちは愛し合っていたのよ!」と、純愛を呼びかける。

 なんといっても、彼女はブロンソンは撃たれて死んだと思っている(ニセモノだけど)。つらい恋だ。これで、同情を引こうという作戦である。女は図太い。

 ところが、これにのせられる純というか、単純な男というのはいるもので、噂を聞きつけた作家が感動のあまり、このエピソードを本にしようとする。
 
 これに乗ったアマンダは、さっそく口述筆記を開始。ブロンソンとの甘い追憶をせっせと記していくのだが、なんとこの本がベストセラーになり、アマンダは一躍悲劇のヒロインとして大ブレイク。

 大金と名声が転がりこみ、なんと彼女の家も「チャールズ・ブロンソンとアマンダの家」と、アンネ・フランクの屋根裏部屋みたいに、観光名所になってしまうのだ。

 ムショの中でこれを読んだブロンソンのアニキは、出所後さっそくアマンダに会いに行く。

 あれだけ愛し合った男が、実は生きていたと知ったら、さぞ感激するやろうなあ、と胸をときめかせながら。

 ところがである、ブロンソンをむかえたアマンダは、彼に対してメチャクチャにそっけない。

 どころか、「あんただれや? こんなヘチャムクレのオッサン、見たことも聞いたこともないわ!」と、鼻であしらわれる始末。

 いや、違うんや、かくかくしかじかで、実は生きてたんやと、懸命に説明するアニキだが、アマンダはなかなか信じてくれようとしない。

 それはなぜなのかとカラクリを解くならば、実はアマンダはブロンソンとのことを本にするときに、自己陶酔と、ロマンスを信じ切った作家の情熱にのせられて、自分の記憶を豪快に美化していた。

 「悪漢チャールズ・ブロンソンは長身で超イケメンのスーパーモテ男。芸能人で言えば小栗旬くんタイプ。そんな彼と、ウチは世紀の大恋愛をしたんやで!」

 みたいなことを、もうフカしまくっていたのである。

 嗚呼、人が思い出を豪快にデコレーションしてしまうというのは、よくあることである。

 でもって、アマンダは自らがついたウソではあるが、何度も各地でエピソードトークを披露しているうちに、自分の中で、もうすべてが「本当のこと」になってしまったのである。

 偽記憶症候群というやつだが、まあそこは「信じたい」という願望も手伝ったのであろう。やっぱり女は図太いですなあ。

 なので、ちんちくりんでひげ面のオッサンが、「オレがあの時のハニーだよ」といってきても、

 「あたしのカレは旬くんよ! あんたみたいな、うーんマンダムなんて、どこの馬の骨のへーこいてプーやねん!」

 てなもんである。

 これには困り果てたアニキだが、ここで起死回生の一発をかまし事態を逆転させる。

 偽記憶にすがる女の目を覚まさせる、チャールズ・ブロンソンの「男らしすぎる方法」とはなにか。



 (続く→こちら)。


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セリエAのインテル……というか、サン・シーロ・スタジアム観戦記 その5

2017年08月13日 | スポーツ
 前回(→こちら)に続いて、カルチョ・スタジアム見学記第5弾。

 「サン・シーロは一度見ておいた方がいい」

 そう建築のプロからアドバイスを受けて、セリエAはインテルの試合を見に、スタディオ・ジュゼッペ・メアッツァをおとずれた私。

 イタリアはスリは多いし、お釣りはごまかすし、街はきたないし、メシはまずいし、意外と物価は高いし、ぼったくりバーには連れていかされそうになるしと、ロクな印象がなかったが、サン・シーロはそのすばらしさに感動した。

 これとくらべたら、マジでトレビの泉とかスペイン階段とか、どうでもいいです。イタリアって、ハッキリ言って過大評価されすぎだと思わされたけど、ここにきて一気の挽回を見せてくれた。

 なんて書いていると、おいおいスタジアムのことはわかったけど、肝心の試合の方はどうだったのだと言われそうだが、こちらの方は全然おぼえてないのだった。

 たしか、インテルと、あとフィレンツェでバティストゥータのいるフィオレンティーナの試合も見た記憶はあるんだけど、まったく頭に残ってない。当時は

 「守備的なイタリアサッカーは退屈」

 って言われてたから、そのせいかも。

 唯一思い出せるのは、スタジアムじゅうを飛びかっていたオレンジ。

 フランスでもイタリアでも、フーリガン対策で厳重なボディーチェックを受けたもので、発煙筒とかペットボトルとかは、没収されたもの。

 中には、ペットボトル持ちこみはOKだけど、フタだけはずさせるところもあった。危険な薬物や爆発する液体などを入れることを警戒してのようだ。

 それでも、なんのかのと手管を使って持ちこんだり、あとは事前にスタジアムに忍びこんで置いておくという豪の者もいるらしいけど、そういった濃い連中以外のインテリスタたちが持ちこんでいたのが果物のオレンジ。

 最初は、さすがイタリア人、オレンジが好きなんやなあと呑気に考えていたが、試合が始まって、そんなまったりした様子でないことにすぐ気づかされることになる。

 なんといっても、試合中そこいらじゅうに黄色い点がビュンビュン飛びかうのだ。そう、彼らは興奮すると、日本の野球場のような紙コップやメガホンの代わりに、オレンジをフィールド上にバンバン投げ入れるのだ。

 いや、それ危ないよ! と、こっちは思うわけだけど、ボディーチェックでそれを取り上げるわけにはいかない。みなニッコリ笑って、

 「食後のデザートさ」

 そう言われたら、どないしょうもないわけですな。

 でもって、首尾よく持ちこんだその食べられる凶器を、まるで、ドッヂボールみたいにブンブン投げまくる。蛮族か。だから、危ないっちゅうねん!

 こんな話をすると、そんなことして、当たってケガでもしたらどうするのかと、心配になる読者諸兄もおられるかもしれないが、まさにビンゴ。

 本当に当たってケガした人が出たのです。それも観客じゃない。試合をしている選手に!

 試合中、なぜか反則でもないのにプレーが中断され、会場が騒然となったことがあった。

 だれかケガでもしたのかとながめまわすと、ボールの近くで競り合っていた選手はみな元気そうだ。タックルやチャージのせいではないらしい。

 どうやら、選手たち自体もよく状況がわかっていないようだったが、目線を手前に落としてみて、ようやっとわかった。

 中断の原因となったのは、ゴールキーパーだったのである。

 敵側のキーパーが、ゴール前でうつぶせになって微動だにしない。どうやら、インテルファンが「死ね、このクソキーパー!」みたいに投げつけたオレンジが、その後頭部に見事命中。

 運の悪いことに、これが的確に急所をとらえたクリティカルヒットとなり、あわれアウェーで戦う孤独なキーパーはその場で昏倒。そのまま担架で運ばれる事態になってしまったのである。

 試合内容はおぼえてないが、このときの光景だけは鮮明に思い出せる。

 なんたって、手前側にいたゴールキーパーが実に美しいうつぶせの「大の字」になって気絶していたのだ。彼には申し訳ないが、それが「人文字」のパフォーマンスみたいで笑ってしまったのだ。

 ヒジ打ちや危険なタックルで痛めて退場というシーンは、サッカーではよく見かけるけど、

 「オレンジをぶつけられて退場」

 というのはなかなか見ない光景である。みのもんたに、ぜひ実況してもらいたかった。

 なんともマヌケな理由で試合から去る敵のキーパーを見ながら、さすがの荒々しいイタリア人も笑っていいのか反省していいのかわからず、なんとも妙な空気になっていたものであった。本場のサッカーはすごいなあ。



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セリエAのインテル……というか、サン・シーロ・スタジアム観戦記 その4

2017年08月12日 | スポーツ
 前回(→こちら)に続いて、カルチョ・スタジアム見学記第4弾。

 「サン・シーロは、一度見ておいた方がいい」

 そう建築のプロからアドバイスを受けて、セリエAはインテルの試合を見に、スタディオ・ジュゼッペ・メアッツァをおとずれた私。

 そこではイタリア技術のすごさを、これでもかと見せつけられたのだが、話はここで終わらないところがさらに驚愕。

 もうひとつ、サン・シーロが魅せてくれた「ワザ」は試合終了後のことだった。

 サッカーにかぎらず、こういった大きな施設で心配なのは、帰りの混雑である。

 関西なら大阪城ホールでのコンサートとか、PLの花火大会など、山ほど人が集まるイベントでは、やってる途中は楽しいけど、その帰路がとにかく大変なのだ。

 人混みで列は進まず、そのせいでみなイライラし、ついにはケンカになったり、最悪の場合ケガ人が出たりすることも。これでは楽しい時間が台無しだ。

 私も子供のころ、友だちと甲子園に高校野球を観に行ったら、その日は当時大人気だった池田高校の試合が組まれていた。

 そのせいで、帰りが大渋滞になってしまい、オジサン同士が派手に口ケンカをはじめたりしたこともあったのだ。暑かったしね。

 そんな記憶があったので、大丈夫なんやろかと多少ビビるところはあった。なんといっても、このサン・シーロ最大収容人数約8万人の大スタジアム。

 おまけに、客層もセリエAとなれば、それなりにガラも悪かろうというもの。もしかしたら、観客同士がなぐり合ったり、スタジアムに火をつけたりといった狼藉を働くのでは。

 そうなったら、われわれ日本人も、「次はイタリア抜きでやるなどゆるさん!」なんてことになって、ボコられたりするのではと心配していたが、あにはからんや、なんと試合終了後の撤収作業は、わずか10分ほどで終わってしまったのである。

 いや、これは本当におどろいた。終了の笛が鳴って、選手がロッカールームに戻って、さて帰りのバスはどうなってるかいなと歩き出したら、そこからスルスルと、無茶苦茶スムーズに客出しが完了したのだ。

 その間、本当に15分もなかった。あまりによどみなく人が動くので、ちょっと自分の席で待ってみたら、気がついたら客席に人が一人も残っていなかった。

 まさに太平洋ならぬ、サン・シーロひとりぼっち。すごい撤収能力だ。どうやったら、こんな簡単に8万人を動かせるのか。

 おまけに、こっちはのろのろと無人のスタジアムを出ていったのに、帰りのバスはちゃんと残っていて、すぐに乗ることもできた。

 そこから、これまたスムーズに次々とバスは発進し、どこまでも混雑やもめごととは無縁なのであった。「もし混みあって終バス逃したら」とかいうのは、完全に杞憂に終わったのだ。

 すげえな、イタリア! サッカーだと、ここまでちゃんとした作業できるんや。なんでそれを、別のところで生かせられへんねん!

 なんてつっこみを入れたくなるところだが、実を言うとこれもまた、私にサン・シーロのすごさを教えてくれた建築青年が語っていたことなのだ。

 「あそこは、観戦するにもいいんですけど、もっとすごいのが、試合終了後なんです」

 そういって、楽しそうに笑うのだ。中身については「行ってのお楽しみ」と保留されたけど、なるほどこれはもったいぶるだけの価値はあるなあ。

 なんでもこれは、多くの観客をサバくため、

 「計画段階から、そのように設計されていた」

 らしく、これまたイタリアの技術の粋のおかげなのだ。ただただ脱帽です。

 ただ不思議なのは、前回も言ったけど、なんでこのグレイトな面を、サッカー以外で使えないのか。

 もうちょっと他の面でもしっかりしたら、外国の旅行者の間で、

 「この宿はイタリア人が泊まってないから、荷物とか安心だよ」

 なんてヒドイこと言われんですむのに。人というのは、ホントわからんもんですね。


 (続く→こちら



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セリエAのインテル……というか、サン・シーロ・スタジアム観戦記 その3

2017年08月11日 | スポーツ
 八面六臂のカルチョ・スタジアム見学記第3弾。

 「サン・シーロは一度見ておいた方がいい」

 前回(→こちら)そう建築のプロからアドバイスを受けて、セリエAはインテルの試合を見に、スタディオ・ジュゼッペ・メアッツァをおとずれた私。

 サッカーよりもスタジアムメインで試合を見るってなんやねんと、われながら思わなくもないが、これが実際に来てみると、サン・シーロは本当にすばらしい施設でおどろかされた。

 とにかく感嘆なのは、圧倒的な試合の見やすさである。

 ゴール裏の真ん中あたりの席で見ていたのだが、そこから見下ろすと、長方形のフィールドが手に取るように目の前に展開される。

 ふつう、サッカーのゴール裏といえば自陣のところしか視野に入らず、反対の陣地にボールが行くと、遠くてなにをやっているかわからないものだが、このサン・シーロではまったくそんなことがない。

 いやホントに、あたかもグラウンド全体を将棋の盤でも見下ろすかのように、きれいに隅から隅まで俯瞰できるのだ。

 ちょうど、戦争映画などで司令官が地図を眺めながら作戦を立てるかのように。これには感動してしまった。フィールド全体が見えるから、他の競技場やテレビで見るような、

 「ボールのところにしか目がいかない」

 ということがない。

 真上に近いアングルから見えるから、たとえばドリブルしている選手の反対側からあがっていくディフェンスとか、キーパーのさりげない位置取りとかにも目が行く。

 11人全員が見えるから、パス回しのパターンだとか、ボールを持ってない選手の動きとか、選手の視線が今どこを向いているとか、そういったテレビではわからない細かいところが、手に取るようにわかるのだ。

 これには目から鱗が落ちた。

 すごい! サッカーって、こんなに場を広く使ってるスポーツなんや。

 素人はどうしても華々しいゴールシーンやキラーパスに目を奪われがちだけど、こうして見えないところで、どれだけの選手たちがシステマチックに動いているのか。

 ここに来て、私はかの建築青年が、

 「絶対に行くべきです」

 といった言葉の意味を理解したのである。

 たしかに、これは来た方がいい。ここで観戦したら、サッカーというスポーツの見方が根本的に変わる。なんというのか、競技がメチャクチャ「立体的」に見えるのだ。

 見るファンだけでなく、実際にプレーしている人も、絶対に経験してみた方がいい。

 今のように、テレビでも様々な視点から見られる時代でなかったため、フィールド上のスクエアな目線と違った、それこそ天の高見から見下ろす「神の視点」のようなものは、それはそれは新鮮だった。

 いや、これはホンマに感動しました。私はコロッセオやサン・マルコ寺院といった、イタリアの技術の粋を集めたはずの施設にはたいして心は動かされなかったが、このサン・シーロには心の底から、

 「イタリア人すげー」

 そう感服したのである。

 やるなあ、さすがはレオナルドを生んだ土地や。ただの色魔の国やなかったんやなあ。

 などと感心しまくりだったわけだが、なんと話はここで終わらず、もうひとつこのスタジアムは大きな「ワザ」を見せてくれたのだから、もう感心するしかないのである



 (続く→こちら
 



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セリエAのインテル……というか、サン・シーロ・スタジアム観戦記 その2

2017年08月10日 | スポーツ
 前回(→こちら)に続いて、イタリアサッカー観戦記。

 「サン・シーロはプロの建築関係者が見てもすばらしい」。

 との話を聞いて、一路ミラノにむかった私。

 ミラノは日本ではミラノ・コレクションなどで有名なわりには、滞在するにはさほど魅力はない街である。

 観光地は駅前にあるドゥオーモくらいだし、有名な『最後の晩餐』も修復具合がイマイチで、はっきりいってヘボい。メシも、これはミラノにかぎらず北イタリアの大都市はたいていそうだが、マズイ。

 あとは買い物くらいで、グッチやプラダの店では日本人観光客が黒山の人だかりになっているが、ブランドものに興味のないプロレタリアートには無縁の場だ。

 することがなくて、なぜか町の床屋で散髪などしながら時間をつぶして、さて陽も落ちたところでいよいよサッカーを見に出かける。

 インテルの本拠地であるスタディオ・ジュゼッペ・メアッツァはバスで行くこととなる。

 予想通りというか、サッカー目当ての日本人旅行者もけっこういて、同じバスに乗り合わせてあれこれ話したりもした。

 その中には某有名サッカー誌の元編集者で、今はフリーのライターとして活動しているという方もおられて、他の面々が、

 「え? ○○誌で働いてたんですか? ボク読んでますよ!」

 などと感激して、あれこれと裏話的なことを聞きたがっているのをよそに、そのライター氏は延々と同乗していた日本人女性をナンパしていた。おいおい、男も相手したれよ。

 そんなつっこみを入れているうちに、バスはサン・シーロに到着。土曜のナイトゲームというせいか、客席は満員であった。

 多いだけではない。熱気もすごかった。まだ試合がはじまってもいないのに、各所で「オーオー」という声援。

 隠し持ってきたのだろう、発煙筒を炊く者、酔っぱらっているのか、すでに小競り合いをはじめている若者もいる。

 うーん、これこそがサッカーの会場やよなあ。私はその盛り上がりに、はじめて

 「本場のサッカーや!」

 という高揚感を覚えた。

 これまでもベルギー、フランスでサッカーを見たが、それらの国のスタジアムはもっとおとなしかった。

 客層にブルーカラーのおじさんが多くて、気取ってないのはミラノと同じだけど、観客も声は出すけど粗暴ではないし、ましてや身の危険のようなものなど感じることもなかった。

 ところが、このサン・シーロではずいぶんと雰囲気が違う。なんというのか、誤解をおそれずに言えば、こっちのほうが数段いかがわしい。

 渦巻く熱気に、うっかりしていると事故に巻きこまれたりするんじゃないかとか、明らかに

 「サッカーだけが人生のダメおじさん」

 みたいな人がイッた目で声を張り上げていたりといった、全体的な「イケてない感」や、VIP席にはマフィアが座っていても違和感がないような、そういったアヤシサが爆発しているのだ。

そう、これこそがイタリアのサッカーである。彼の国と、そしてサッカーという競技自体が持つ光と、ドロドロとした生活臭あふれる陰の部分。

 それらが渾然一体となって、闇鍋のようになっている。なるほど、この空気感は確かに体験する価値はあるかも知れない。

 やはりサッカーは庶民の、それも人生イケてない人のスポーツ。日本ではときおり「野球vsサッカー」みたいな対立構造を作ろうとする人もいるけど、私からすれば、ヨーロッパサッカーの雰囲気で一番近いのは、

 「コテコテの昭和のプロ野球ファン」

 だと思うけどなあ。平和台とか藤井寺とか、あのへんだよ。同じ人種だ。

 そんな、大歓声と発煙筒の煙と、なぜかオレンジなど果物が飛び交う、とにかくカオスで魅力的なサン・シーロ・スタジアム。

 では、肝心の建造物としてのスタジアムはどうなのかと問うならば、これが見てビックリ。

 なんとまあ、予想以上に、これがすばらしいシロモノだったのである。

 私もこれまで野球やサッカーなどをいくつか生観戦したが、その感想はといえばたいていが、

 「こら、テレビで見た方がええやろうなあ」

 プレーが比較的近くで見られるテニスなどと違って、野球やサッカーは競技場の規模がでかい。

 必然、どうしても選手は遠く、それが誰で、どういうプレーをしているのかわかりにくい。

 それとくらべたら、テレビはアップで見せてくれるし大事なところはリピートしてくれるし、解説はうるさいことが多いけど、ボールを持っている選手の名前も教えてくれる。

 もちろん、生観戦は「雰囲気代」コミだから同列にはくくれないけど、単純に試合を見るだけなら、テレビの方が見やすいのはたしかである。録画もできるし。

 ところがどっこい、私はその概念をこのサン・シーロでくつがえされることとなったのだから、やはりなんでも経験してみないとわからないものなのだ。


 (続く→こちら





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セリエAのインテル……というか、サン・シーロ・スタジアム観戦記

2017年08月09日 | スポーツ
 サン・シーロ・スタジアムは、一見の価値ある建造物である。

 かつて欧州で、いくつかサッカーを観戦したことがあり、前回まではベルギーリーグ(→こちら)とフランスリーグ(→こちら)を制覇したことまでを語ってきたが、それが意外と楽しかったので、イタリアでも参戦してみることにした。

 なんといっても、私が欧州をまわった時期というのが、ちょうど中田英寿選手がイタリア進出を果たしたころ。

 そんな彼の活躍を見に、多くの日本人旅行者がペルージャやローマに飛んだのだ。そんなご時世の中、私も旅行中によったイタリアの地で、ヒデの活躍を、どーんと、特に見てはこなかったのである。

 などと告白すると、おいおい見てないんかいとつっこまれそうだが、まあ私は特に中田ファンというわけではないし、ヒデの試合は金持ち日本人からだましたりボッたくったりする悪のイタリア人が群がっていて、少々うっとうしいのである。

 そこで思い出したのが、以前ドイツを旅行中に会った、ある旅行者だった。

 彼は建築関係の仕事をしていたのだが、その内容に幅を広げるため、思い切って退職し、世界のいろんな建物を見て回る旅に出たのだという。

 その途上、イタリアではドゥオーモのような歴史的建造物から、ローマ時代の遺跡や下水道まで様々なものを見たが、

 「一番すごいと思ったのが、サン・シーロ・スタジアムなんですよ」

 素人の私にはわからないが、あれはプロから見ても、すばらしい出来なのだという。

 なので青年は、サッカーにはなんの興味もないのに、スタジアムだけを見に、わざわざチケットを取って試合に行ってきたとか。

 ふーむ、おもしろい視点だ。私もサッカーを見るにあたっては、選手のことを調べたり、現地の新聞で順位表をチェックしたりはしたが、

 「スタジアムが立派かどうか」

 には無頓着であった。

 たしかに、生観戦の魅力は、その競技場の存在も大きい。

 スポーツ観戦の話をすると、テレビ派と生派で議論することはあり、私個人は解説もついて家でダラダラできるテレビ派だけど、もちろん直に見るのも好きで、その場合は「どこでやるか」によって充実度も左右される。

 野球なら甲子園球場は、なんのかのいって歴史があって、施設が古いのも味になっている。

 単純にでかいし、屋根がない解放感と天然芝の美しさもあって、

 「やっぱ、野球はアウトドアやなあ」 

 しみじみそう思わされる。その逆に、申し訳ないけど大阪ドームは、福本豊さんが、

 「野球盤やな」

 とおっしゃった通り、いかにも安っぽくて物足りなかった。

 サッカーだと、施設はよくても陸上のトラックがあったりすると、ちょっと邪魔だなとか、海外でテニスを見たときは、フレンチ・オープンの開催されるローラン・ギャロスが、微妙に会場内など狭苦しいとかでイマイチだったり、やはり競技場の充実ぶりは試合の内容と同じくらいか、下手するとそれ以上に大事なものだ。

 そんな経験もあって興味を示すと、青年も熱心に「ぜひ、一度見てみてください」とすすめるのであった。

 これで心が決まった。よし、行先はミラノだ。

 お目当てはロナウドでもダービッツでもない。スタディオ・ジュゼッペ・メアッツァ(これが正式名称で、サン・シーロはその愛称)。

 ローマやペルージャでは中田英寿目当てにミーハー旅行者が集う中、そこをあえてはずして日本人選手のいない(当時)ミラノというのがシブい。

 しかも、これまた、あえてサッカーが二の次で、

 「試合のことはおぼえてないなあ。ボクの目当てはスタジアムの建築様式で、すっかりそっちに目をうばわれていたからね」

 などと語ってみた日には、いかにも玄人の旅行者のようで、周囲から一目置かれるに違いない。

 日程を見ると、ちょうど週末にインテルが試合を行うことになっていた。これを見ることにしようと、私はミラノ行きの列車に飛び乗ったのである。



 (続く→こちら



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1999年サッカー フランスリーグ優勝決定戦 パリ・サンジェルマンvsボルドー その4

2017年08月06日 | スポーツ
 愛と勇気のフランスリーグ観戦記第4弾。

 前回(→こちら)、勝つしかない状況で、試合終了間際の決勝ゴールという、これ以上ない劇的な勝利で優勝を決めたボルドー。
 
 この試合、特に後半あたりは、パリのファンたちもみなボルドーを応援するという変なことになっていて、試合終了後もイタリアやイングランドのように、負けた方が腹いせに暴れるどころか、むしろ祝福ムード。

 「本場」のサッカーファンでも、全員が全員バイオレントではないのだなあと勉強になったが、ここでハタと、ただひとりだけそうでない人がいたことを思い出した。

 そう、パリ・サンジェルマン一筋の、その名もジェルマンおじさん(勝手に命名)だ。

 年季の入ったパリSGのユニフォームを颯爽と着こなし、タオルも首に巻いて完全装備。サッカーに感心のなさそうな孫を連れての観戦は、実に子供にとっては迷惑……もとい家族以上のサッカー愛を感じる。

 おそらく、雨の日も風の日も、失恋のときも仕事がうまくいかなかったときも、借りたエロDVDがイマイチでガッカリな日も、常にチームが心の支えだったに違いない。

 彼だけは雰囲気に流されることなく、かたくなに地元を後押ししていた。パリの好プレーに拍手し、敵にはブーイングを送りつけた。

 そんなパリ・サンジェルマン魂の権化のようなオジサンが、こんなゆるいスタンドの雰囲気に耐えられるわけがない。

 ふざけるなボルドー野郎! オレはこんな試合は認めない! 聖なるパリで、てめえらの胴上げなど願い下げだ。表へ出ろ! 拳で決着をつけてやる!

 もしかしたら血を見るかもと、やや身を堅くしながら様子をうかがってみたところ、おじさんは両手を高々とあげながら、

 「ブラボー! ボルドー、ブラボー!」。

 めっちゃよろこんどるがな、おっちゃん。

 おいおい、おじさんはこの「ボルドー優勝が見たい」オーラ一色の中、唯一地元民としての自覚をおこたらなかった男ではないのか。

 「空気読めよ」の視線も省みず、ただ実直に愛するパリ・サンジェルマンを応援したのではないか。

 それが、堂々の「やったぜボルドー!」宣言。おっちゃん、ゆるゆるやな。

 それどころかおじさんは、近くにいるボルドーファンを探しては、かたっぱしからハグするのである。

 抱きしめて「おめでとう!」、肩を抱き、手をたたき、最後は何度も握手する。

 ついにはユニフォームの交換もして、それでも足りないのかマフラーまで(パリSGのだってば)プレゼントしていた。むちゃくちゃ祝福してます。うれしそうやなあ。

 すっかり地元の敗北など忘れたかのようなジェルマンおじさんは、その後もメトロの駅まで歩く途中もボルドー人を見つけてはハグしまくり、お祝いの言葉を投げかける。

 果ては地下鉄の中で、サッカーに関係のない仕事帰りのサラリーマンやOLを捕まえて、

 「今日はね、ボルドーが優勝したんだよ」

 などと逐一報告。知らんがな。

 あまつさえ、ボルドーのタオルを巻いた若いファンを無理矢理連れてきて、OLさんに、

 「キミは恋人はいるかね。ほら、いい若者だろう。よかったら婿にどうだ」

 などと、無茶ぶりをしだす始末。どんだけ浮かれてるのか。

 これには、クールなお孫さんも、「困ったもんだね」と肩をすくめている。ボルドー応援団、仕事で疲れてぐったりしているお姉さん、そしてそれをながめていた私、その全員が、それぞれ目を見合わせて苦笑い。

 そんな視線にも気づかず、おじさんはますます、「もう二人、つきあっちゃいなよ」と、余計なお世話をやきまくる。いやいや、だからそのふたり、ただの他人ですから。

 あはは、でもまあ、今日はお祭りやからしゃあないですわな。そのことは皆わかっているらしく、だれもおじさんに対して「ええかげんにしなさい」と、つっこみを入れることもなかった。

 そんなゆるゆるな空気もふくめて、楽しく、いい試合でした。また行きたいなあ。



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