馬の守りは金銀三枚 羽生善治vs大島映二 1988年 第46期C級2組順位戦 糸谷哲郎vs森内俊之 2014年 第27期竜王戦 第5局

2023年07月29日 | 将棋・好手 妙手

 価値というのは、局面によって色々と変化することがある。

 将棋の駒で強いのは、基本的に飛車の「大駒」だが、終盤の詰む詰まないになると金銀などカナ駒の方が役立つことが多い。

 また、玉頭戦のねじりあいでも、大駒よりも金銀のスクラムの方が強いし、穴熊や矢倉への端攻めではに、あとの枚数も重要だったりする。

 そこで今回は、そういう駒の損得とは関係ない価値について見てもらいたい。

 舞台になるのは「危険地帯」のさばき。

 それを守るのに重要なのは……。 

 

 

 1988年、第46期C級2組順位戦

 羽生善治四段と、大島映二五段の一戦。

 デビュー2年目の羽生は、初参加のC2を、昇級こそ逃したものの、8勝2敗の好成績で終えた。

 順位も大幅に上昇し、この期は当然昇級を期待されたが、その通り白星街道を驀進し7連勝で本局をむかえる。

 対する大島も、ここまでまだ1敗

 羽生と、続いてやはり全勝泉正樹五段、順位上位で1敗森下卓五段に続く4番手で自力ではないが、この直接対決を制すればまだまだチャンスは十分。

 リーグも大詰めで、双方絶対に負けられない大一番である。

 戦型は羽生の先手で相矢倉

 大島の駒組が巧みだったのか、後手番にもかかわらず理想形からの仕掛けが成功し優位を築く。

 むかえたこの局面。

 

 

 

 大島が△36銀と打ち、羽生が▲39桂と受けたところ。

 先手が金桂交換の駒損の上に、その桂馬を受け一方に使わされているのが苦しげ。

 玉型にも差があり、実際、羽生もここでは不利を自覚していた。

 ただ大島の方も歩切れが痛く、攻めの継続が意外と難しいと考えていたそうだ。

 焦らされた後手は△37銀不成、▲同銀、△85桂と襲いかかるが、これがあまりよくなかったらしい。

 以下、▲95角△97桂成、▲同香、△同角成、▲同玉、△94香

 

 

 

 

 流れるような攻めから、見事な田楽刺しが決まっている。

 先手玉は危険地帯に引きずり出され、受けがむずかしく見えるが、次の手が好手だった。

 

 

 

 

 

 

 ▲73角打とつなぐのが意表の手。
 
 △95香と角を取られるが、▲同角成として、このが手厚く後手に意外なほど攻め手がない。

 

 

 以下、△79角▲88銀、△94歩、▲77馬に一回△24角成と逃げなければならなのが泣き所。

 先手玉はものすごく怖い形だが、これで受け切れると見切っていたのはさすがのワザ。

 そこからも、大島の攻めを丁寧に受け止めて先手勝ち。

 あざやかな返し技で逆転を決めた羽生は、残り2戦もしっかり勝って、10連勝C1昇級を決める。

 

 続けてもうひとつは、2014年の第27期竜王戦第5局

 森内俊之竜王と、糸谷哲郎七段の一戦。

 糸谷が3勝1敗と奪取に王手をかけているが、この将棋は森内が終始優勢で進めていた。

 そのまま簡単に押し切りそうに見えたが、糸谷も得意のねばりで決め手をあたえず泥仕合に。

 

 

 

 すでに逆転している局面だが、森内も田楽刺しを決めて、最後の抵抗を見せている。

 飛車横利きが強く、まだ後手玉に詰みはないため、もう少し先手はしのぐ必要がある。

 危険地帯に玉が釣り出されている糸谷だが、ここは冷静に読み切っていた。

 

 

 

 

 

 

 

 ▲94歩とつなぐのが、上部の制空権をキープする大事な手。

 △93香▲同歩成で、が取られても代わりにと金ができれば、先手玉への安全度は失われない。

 

 

 「終盤は駒の損得よりもスピード」ならぬ、入玉は駒の損得よりも成駒厚み

 これで勝ちを確定させた糸谷が、大豪森内から竜王を奪取して初タイトル

 

 (羽生が上部の厚み合戦で敗れた将棋はこちら

 (その他の将棋記事はこちらからどうぞ)

 

 

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「『ブレードランナー』はパクリ」問題と「もっと古典に触れるべきか」について その2

2023年07月26日 | 

 「若者は今の作品だけでなく、もっと古典にも親しんだ方がいい」

 

 というのは読書や映画など芸術鑑賞の際に、よくアドバイスされることである。

 そこで前回は「本当に古典を読んだり見たりするべきか」について語ったが、今回もそんなお話。

 

 これに関しては私も、ミステリならホームズからクリスティーコーネルウールリッチクレイグライス

 SFならハインラインフレドリックブラウンレイブラッドベリ

 映画ならビリーワイルダールイマルアルフレッドヒッチコック

 などなど、古典と呼ばれる古い作品も大好きだが、「タイパ」なんて言葉がはやるように昨今はコンテンツの数が多すぎて、とてもそんな時間など取れないのもわかるところだ。

 こうなると「優雅に古典」なんて夢のまた夢で、こうして書きながらもはなんで、あんなにたくさん本読んだり映画見たりできたんだろうと、ちょっと不思議な気分になったり。

 これに対しては、

 

 「それはわかるけど、オレはやっぱ《過去の名作》のすばらしさを若い子にもわかってほしい!」

 

 という意見もあろうし、まあ、それは私も本質的にはそうなんだけど、そこはねえ、そんなに気にしなくていいんじゃないかなあ。

 というのは、本当にその作品やジャンルが好きになったら、絶対に「古典をたどる」ようになるから。

 世のどんな「新しいもの」も、いきなりポッとから有へと生まれるわけではない。

 かならず、なにかからの「影響」を受けているものなのだ。

 となれば、これは中島らもさんも言ってたけど、人はその「好き」を探求したいため、どうしてもその「影響」を探っていかざるを得ない

 そうして時代をさかのぼっていくと、結局行きつく先は「古典」であるし、そこでようやく心から納得することができるのだ。

 

 「はー、すべてのはじまりは、ここやったんやなあ」

 

 よく言うではないか。クリエイターになりたかったら、好きな人の作品だけでなく、


 
 「その人が好きだった作品を、さかのぼって観賞してみなさい」

 

 かくいう私も、ミッシェルガンエレファントをバリバリ聴いていたときはドクターフィールグッドを聴いたり、筋肉少女帯の影響から町田町蔵に手を伸ばしたり。

 ビリーワイルダーから、エルンストルビッチプレストンスタージェスを観たり。

 さっきの中島らもから、東海林さだおボードレールを手に取った。

 今でも『名探偵コナン』の女性ファンが『機動戦士ガンダム』をせっせと勉強したりとか、そういうこともあるんである。

 また、私が受験生だったころは、

 

 「歴史を理解するためには「因果関係」が重要だから、学校の授業では『現代史』からはじめて、過去へとさかのぼって教えるべきではないか」

 

 なんて意見もあって、おもしろいなあと思ったものだけど、これだって発想は同じだ。

 「」を理解するためには、絶対に「過去」を知らなければならない。

 だから「古典もいいよ」派は、別にわざわざそこをアピールしなくても、

 

 「フッフッフ、キミらは今、若いからわからんかもしれんけど、その道を歩いている限り、この場所にくることは避けられへんのやで」

 

 余裕ぶっこいていればいいのだ。

 そうして私のように

 

 「今さらやけど、クイーンとかカーとかチェスタートン、いいっスね!」

 

 という「元若者」がやってきたとき、

 

 「やろー?」

 

 したり顔をしながらニコニコと受け入れてあげればいい。

 古典も新作も、両方好きなコウモリ派の私はそう思うのですね。

 

 

 

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「『ブレードランナー』はパクリ」問題と「もっと古典に触れるべきか」について

2023年07月24日 | 

 「古典ミステリはおもしろい」

 ということで、前回チェスタートンブラウン神父の知恵』を楽しんだ話をしたが、こういうことがあると、いつも思うのは、

 

 「《古典》って、別に無理して読まなくてもいいよなあ」

 

 といってもこれは、

 「古典なんて古くてつまんねーんだよベロベロバーカ」

 ということではなく、時期の問題。

 私はでも映画でも、若いころからわりと古い作品も楽しんでいたので、人生の先輩たちからの

 

 「どんなジャンルでも、今のだけじゃなく過去の名作にも接した方がいいよ」

 

 というアドバイスにそれほど抵抗はないが、接してるからこそ

 

 「古い」

 「読みにくい」

 「そこまで時間が回らない」

 

 というヤング諸君の声も理解できる。

 そのコウモリ的立場からすると、「古典」自体に興味があるならいいけど、無理してまで観たり読んだりしなくていいと思うのは、この理由があるから。

 

 「本当に普遍性のある古典は、の作品にも息づいている」

 

 映画ファンの「あるある」で、若い子と『ブレードランナー』を見たら、

 

 「あの映画って、今やってる○○とか▲▲とかのパクリですよね。ヤバいッスよ」

 

 なんて言われて、

 

 「ちがうねん! その○○とか▲▲がパクッてんねん! 『ブレードランナー』はそのすべての大元ネタなの! みーんなが影響を受けてる偉大な作品なんやで!」

 

 憤慨するというのがあるが、これが結構本質的な話。

 先輩映画ファンは、こういう目にあうと、

 

 「今の子は『ブレードランナー』も観てない。もっと名作も観て教養を深めてほしい」

 

 となるわけだが、考えてみればその「観てない後輩」は実はすでに『ブレードランナー』を鑑賞しているともいえるのだ。

 彼ら彼女らが、「これ、見たことあるぞ」となるのは、そこ。

 そう、たしかにその後輩は『ブレードランナー』自体は観てないかもしれない。

 けど、明らかにそこから影響を受けた、感動して人生を変えられた、大人になったら『ブレードランナー』を作るぞと決意した、そういう今の作品を山ほど観ている。

 つまりは直接の接点はないが、長い歴史的観点から見れば、その先輩と後輩は「同じ道」を歩いていることに、なるのであるまいか。

 すぐれた古典というのは、かならず大量のフォロワーを生み出す。

 そして、技術は高まり、改善点はされ修正され、さらには「の問題」も取り入れることによって、様々に進化していく。

 そら、そういうのに接していれば「古典」はどうしても「古い」と感じてしまうわけだ。

 でも、それでいいんである。

 われわれは今でも常に、

 

 「最新の状態にブラッシュアップした古典」

 

 これを鑑賞しているのだ。

 『ブレードランナー』だけでない。シェイクスピアも、エドガーアランポーも、オーソンウェルズも。

 升田大山の名局も、『機動戦士ガンダム』もビートルズもみんなそう。

 だから私は、「古典」の楽しさを知っている立場だけど、ヤング諸君にはこう言うのだ。

 

 「古典もいいけど、最近のおもしろいヤツ楽しんでよ」

 

 それで「古典」のエッセンスは充分学べるし、われわれ「古典派」も彼ら彼女らと接することで新しいものを知ることができる。

 これでウィンウィンじゃないかなあと、思うわけなのだ。

 

 (続く

 

 

 

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熱戦「藤井システム」対「緻密流」 佐藤康光vs藤井猛 2002年 第50期王座戦 挑戦者決定戦

2023年07月21日 | 将棋・名局

 前回の渡辺明との竜王戦に続いて、今回も佐藤康光の剛腕特集。

 

 「助からないと思っても助かっている」

 

 というのは、大山康晴十五世名人が、好んで扇子などに揮毫した言葉である。

 「受けの達人」と呼ばれた大山名人らしいが、これが攻め方からすれば、

 

 「寄ったと思っても、まだまだねばられている」

 

 ということになり、こういうときは勝てるという期待があるぶん、よけいに「届いてないか……」とガックリくるものだ。

 

 2002年の第50期王座戦

 羽生善治王座(竜王・棋王)への挑戦権は、佐藤康光棋聖藤井猛九段との間で争われた。

 先手になった藤井が「藤井システム」を登板させると、佐藤もそれを正面から迎え撃つ。

 端から戦いがはじまり、「ガジガジ流」の特攻を居飛車側もギリギリの眉間で受けるという、きわどい戦いに。

 むかえたこの局面。

 先手が、▲14香と打ったところ。

 

 

 

 後手の金銀4枚が手つかずなのに、早くも詰めろがかかっている。

 この手を見て

 「あれ? これって受けあるの?」

 と思った方も多いのではないか。

 そう、後手玉は逃げる場所がないというか、▲12と、や▲23と、というシンプルな詰み筋が受けにくい。

 こうなると、後手陣の金銀が逃走経路や、飛車横利きをさえぎる無用の長物。

 これが「システム」の破壊力でアマ級位者クラスの将棋なら、あと数手で投了となっても、おかしくないのではあるまいか。

 どっこい、強い人の将棋は、そんな簡単には終わらないのである。

 

 

 

 

 

 

 △22金と寄って、まだ先手の攻めは決まっていない。

 これが唯一無二のしのぎで、こうなると飛車やカナ駒の援軍がない先手側が、むしろ頼りなく見えてくるから不思議なものだ。

 以下、▲23と△12歩▲13歩△同歩▲同香成△同金▲同と△12歩

 

 

 

 ギリギリすぎるという受けで、とても生きた心地はしないが、攻め手からすると、あと一伸びがないようにも見える。

 足が止まったらおしまいの藤井は、▲23桂と「ハンマー猛」の打撃力を駆使するが、△21玉▲31桂成△同玉▲23と△15角

 

 

 

 この角出が、なかなかの手で、飛車横利きを開通させながら、△37角成をねらう好感触。

 一方の先手側は、切っ先をかわされているというか、

 

 「4枚の攻めは切れないが、3枚の攻めは切れる」

 

 との格言を地で行く形に見え、この後、後手玉を左辺に逃がすと、まったく手段がなくなってしまう。

 なら先手が負けかといえば手はあるもので、ここで振り飛車の手筋がある。

 

 

 

 

 

 

 ▲64歩と突き捨てるのが、きわどく攻めを継続する軽手。

 相居飛車なら▲24歩▲35歩▲15歩などを、いいタイミングで突くのが相手を迷わせるように、振り飛車もどこで、このを発動させるかが腕の見せ所。

 △同銀▲44歩が激痛だから△同歩と取るしかないが、▲62歩がまた手筋の軽妙手。

 

 

 

 

 これも△同飛しかないが、▲63銀とたたきこんで、左右挟撃の形ができた。

 取れば頭金で詰みだから、△82飛だが、▲62歩とガッチリ錠をおろして、左辺を封鎖する。

 

 

 さあ、ここである。

 先手はそのまま、教科書に載せたくなるような筋の良い攻めで、なんとか切れ筋をしのぐことができた。

 いやそれどころか、と金で、左右を押さえられた後手玉に逃げ場がなくなっている。

 次に、▲32金の頭金を防ぐのが困難なうえに、△37角成と飛びこんでも先手玉に詰みはない。

 では、後手玉に、しのぎはあるのか。

 私など自分で指すと「受け将棋」(というか策なく駒組しているうちに先行されるだけなんだけどね)なので、初めて並べたときは、

 

 「こんなん△41角でピッタリでしょ!」

 

 

 

 

 なんて「オレつえー」な気分に一瞬なったものだが、これには▲52銀不成と飛びこんでくる手があって、△同角頭金で詰み。

 銀不成に△23角と金を払うのは。▲43銀成と金を取られる。

 ならばと▲52銀不成に△42玉とムリクリ頭金を受けても▲41銀成を取られて、まだまだ攻めが続くのだ。

 いやホントに、受けは大変というか、

 

 「助からないと思っても助かっている……と思いきや、なんなりと手はあるもので、結局はゴチャゴチャ喰いつかれているうちに寄せられてしまう」

 

 いざ実戦となるとこれが現実で、こんなもん、もうやってられるかという話だ。

 では後手が負けなのかといえば、実はこれまたそうではないから、話はややこしい。

 絶体絶命にしか見えないが、信じられないことに、ここでは後手が受け切りなのだ。

 

 

 

 

 △41玉と寄るのが、ふたたび唯一無二の好手。

 以下、▲32金には△51玉。

 

 

 ▲52金には△31玉とかわして、それ以上の攻めがない。

 

 

 

 なんだか、サーカスの玉乗りみたいな身のこなしだが、これで文字通り紙一重で受かっているという佐藤棋聖の読みが、すばらしい。

 以下、▲61歩成△21香と打って、とうとう先手の攻めは切れ筋に。

 

 

 

 

 本当に、あと一押しに見えるだけに、藤井にとっては無念だったろう。

 ▲32金△同飛▲51と△31玉▲32金△同玉以下、後手勝ちで王座への挑戦権を獲得。

 タイトロープ上で、つま先立ちをするような、本当にギリのギリで特攻をいなし、これぞまさに大山流の

 

 「助からないと思っても助かっている」

 

 見事なものだが、いくら読み筋だとはいえ毎回こんな将棋ばかりだと、なんだか寿命が縮まりそうだなあ。

 


 (2002年、王座戦5番勝負の第1局の模様はこちら

 (羽生善治を粉砕した佐藤の踏みこみはこちら

 (その他の将棋記事はこちらからどうぞ)

 

 

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古典ミステリを読もう! G・K・チェスタートン『ブラウン神父の知恵』 

2023年07月18日 | 

 チェスタートンブラウン神父の知恵』を読む。

 私は子供のころからのミスヲタであるが、けっこう未読の名作というのがある。

 江戸川乱歩の『少年探偵団』から入って、

 

 大人向け乱歩→シャーロックホームズアガサクリスティー乱読バリバリ

 

 という正統派な読者だったが、そこから先の王道であるエラリークイーンジョンディクスンカーヴァンダイン、それにチェスタートンはあまり読んでないのだ。

 クイーンに関しては、あかね書房の「少年少女世界推理文学全集」で『エジプト十字架の秘密』と『十四のピストルのなぞ』(『靴に住む老婆』)。

 大人になって、その後両方とも全訳版もチェックしたけど、あとは『フランス白粉の秘密』と『十日間の不思議』だけ。

 カーは『火刑法廷』がメチャクチャにおもしろかったが、基本的にが読みにくかったのと、オカルト趣味に偏見があってそれ以上は手を伸ばさず。

 チェスタートンは短編をアンソロジーで読んで、文章が回りくどくて読みにくいし、トリックも今見ると古くて、そこで止まってしまった。

 というかそもそも、ヴァンダインとチェスタートンはあのころ手に入りにくかったのだ。

 そんな偏りがあった理由は、そのころの自分が「ロジック」「トリック」というものに重点を置いておらず、どちらかといえばエンタメ性や文学性を重視していたから。

 それはクリスティーのあとハマったのが、コーネルウールリッチクレイグライスロアルドダールヘンリイスレッサー

 といった面々であることからわかるように、論理より物語性

 つまりは「推理小説」の「推理」より「小説」部分を重んじていたわけで、雰囲気とかキャラクターとかオチの切れ味とか、そういったほうを楽しむタイプの読者だったのだ。

 まあ、ホームズも実はあんまり論理ないしね。

 なので、ミスヲタを自認しながら意外と定番を押さえてなかったりもするんですが、ちょっと潮目が変わったのが、少し前に新訳された『オランダ靴の秘密』を読んでから。

 創元推理文庫の新訳版を、たまたま古本屋で見つけたので買ってみたら、これがおもしろいんでやんの。

 新訳のおかげか、ストレスなく解決編まで行きつけて(ミステリは最後がキモなのに、訳が悪いとそこまで行きつけない)、そこでのエラリーによるあざやかな推理には大感激

 おお、なんて論理的な!

 あまりにきれいに様々な要素が結びつくため、その美しさはまるで体操競技のメダリストの演技のような、「アスリートの美」を感じさせた。

 これには心底「まいりました」と言わざるを得なかった。

 そっかー、これかー、北村薫先生や有栖川有栖さんが、しつこいくらいくりかえす「論理の美しさ」。

 若いころはピンとこなかったが、大人になって成長したのか味覚が変わったのか「本格推理」のおもしろさに目覚めてしまった。

 ということで、そこから『災厄の街』に飛んで、今ならいけるかとカーも『皇帝の嗅ぎ煙草入れ』『夜歩く』を読んでみた。

 どれもおもしろく、続いて『ブラウン神父の知恵』に進んだらこれも大アタリ。

 開口一番の「グラス氏の失踪」がねえ、最高。

 名探偵風な男が、流れるように推理を披露するところあたりから、「くるぞくるぞ」と期待が高まるが、オチのバカバカしいどんでん返しで「やっぱり」とニヤリ

 他の作品も切れ味スルドク、またオチにシニカルな風味もあって、こりゃおもしろいやとサクサク読む。

 古典特有の大仰さや回りくどさも、それはそれでである。

 

 

 

古典ミステリの王道中の王道『ブラウン神父』。

ドラマ版も超おもしろいので、活字が苦手な方はこちらもオススメ。

さすが本場BBCのミステリドラマはハズレがない。アマゾンプライムなどで見られます。

 

 

 最近はこういう古典も電子書籍で簡単に買えるけど、子供のころは近所の本屋にポケミスとか売ってなくてねえ。

 なもんで、わざわざ梅田まで出ないといけないから、そもそも手に入れるのが大変だったのだ。

 その意味でも、今こういう作品を気軽に読める環境はありがたいことこの上ない。

 次はアントニーバークリーとか読もうかなあ。

 

「古典は読むべきか」問題に続く)

 

 

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ミスター・レッスルボール 佐藤康光vs渡辺明 2007年 第20期竜王戦 第5局

2023年07月15日 | 将棋・名局

 「いや、やっぱり苦労が多かったような。ははは」
 
 
 そう言って笑ったのは、控室で検討していた佐藤康光九段であった。
 
 舞台は先日行われた、棋聖戦第3局でのこと。
 
 藤井聡太棋聖(竜王・名人・王位・叡王・王座・棋王・王将)が挑戦者である佐々木大地七段にお見舞いした、顔面受けが話題となった。
 
 
 
 
 
 
 ガツンと体当たりの後は、一転相手にゆだねる一手パスで、これで佐々木大地の暴発を誘い中押し勝ち。
 
 これを受けて、私は
 
 
 「佐藤康光九段っぽいなー」
 
 
 と感じたわけだが、思うのは皆同じらしく、深浦康市九段も「苦労が多そう」という佐藤の感想に、
 
 


 「でも、佐藤さんもこういう感じの将棋をよく指してませんでした?」 



 
 そこで前回は王将時代に見せた佐藤康光の顔面受けを紹介したが、今回も「そういう感じの将棋」を見てもらいたい。


 
 2007年の第20期竜王戦
 
 渡辺明竜王佐藤康光棋王棋聖の七番勝負は渡辺の3勝1敗第5局に突入。
 
 
 
 
 
 
 相矢倉から両者穴熊にもぐるという、平成の将棋らしい陣形に組み上がったが、次の手がすごかった。
 
 
 
 
 
 
 ▲96歩と、ここから仕掛けて行くのが意表の手。
 
 本譜のように△同歩なら▲95歩が取れるけど、後手が「スズメ刺し」をねらっているのに、そこからこじ開けていくという発想が思いつかない。

 その無茶が、佐藤康光にはよく似合う。
 
 以下、△同歩▲95歩△同香▲同角△85桂と跳ねて激しい戦いに。
 
 そこから、端を主戦場に渡辺が猛攻をかけ、佐藤がそれを受けるという展開が続いて、この局面。
 
 
 


 
 渡辺が△85銀とからんだところ。
 
 ▲同歩△95角成を取られるからダメとして、このままだと△94香やら△86銀(角成)とか△97歩とか。
 
 このあたりをガリガリやられると、好機に△37角成の補充もあって後手の攻めは止まりそうもない。
 
 こういう攻めをつなげることにかけては渡辺は一級品だが、こういったピンチを腕力でなんとかするのも、また佐藤康光の十八番でもある。
 

 


 
 
 
 
 ▲84竜△97歩▲87玉(!)
 
 を逃げるのはわかるけど、▲84に逃げると9筋の守りがうすくなるし、8筋が切れるのも後手からすれば、ありがたく感じるところ。
 
 そこで早速△97歩とビンタをカマすが、それには▲87玉がまた強情な受け。
 
 △86銀なら▲同竜から後手の攻め駒を全部取ってしまおうということなのだろうが、ホンマに大丈夫なんかいな。
 
 渡辺は銀を取られないよう△86角成とするが、そこで▲88玉と落ちて、しのいでいると。
 
 
 
 
 
 と言われても「いやいや、おたわむれを」と両手をあげたくなるが、これでダイレクトに△37角成飛車取り先手を取られる手が消えているから、なんとかなるということか。
 
 △98歩成▲79玉△59馬と突っこまれて息苦しいことこの上ないが、▲48銀と引いて、かろうじて守っていると主張。

 

 

 生きた心地はしないし、後手陣が鉄の要塞なので先手はこの攻めを切らして勝つしかないが、「やったろうやん」と気合で戦う。

 この人って言動は紳士でしかないんだけど、将棋の方は「ヤンキー魂」というか「喧嘩屋」稼業というか、ハッキリ言ってただの「ヤカラ」です。

 もうね、こんなん見せられたら、こっちはこんな感じになるわけですね。

 

 

 

 

 

 

 将棋界で一番このセリフが似合うのは、藤井聡太でも羽生善治でもなく、間違いなく佐藤康光でしょう。

 ▲48銀、△49馬▲85竜と取って、△26香▲同飛△48馬▲68玉△84歩▲同竜△65桂▲59香

 

 


 
 攻守ともにギリギリだが、佐藤はなんとかここを踏ん張って、▲57▲66と玉の大遊泳で逃げ出す。
 
 渡辺も懸命な追撃を続行するが、最後は佐藤が入玉を果たして大熱戦に終止符を打った。
 
 それにしても、他に冴えた受けがないとはいえ、▲87玉と仁王立ちする姿は、いかにも佐藤らしい。
 
 この2007年と前年の2006年竜王戦七番勝負は、渡辺と佐藤の持ち味が出たいいシリーズなので、機会があればぜひ観賞してみてください。

 

 

 (2006年竜王戦の激闘はこちら

 (2007年竜王戦の熱戦はこちらから)

 (その他の将棋記事はこちらからどうぞ) 

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「ゆるす」という言葉でマウントを取りにいった、あわれな男の話

2023年07月12日 | コラム
 「こないだ言うてた《かわいそうマウント》いうやつ、あれ耳が痛かったなあ」
 
 
 先日、一緒に昼飯を食べているときに、そう苦笑いしたのは友人ニシワキ君であった。
 
 唐突に出てきた《かわいそうマウント》とはなにかとここに問うならば、具体的には先日紹介した、
 
 
 
 
 などがある。
 
 このケースの場合、女子生徒は、
 
 
 「本当は自分も逃げたい」
    ↓
 「けど、それができない」  
    ↓
  「だからって、エスケープ組をうらやんだり、ねたんだりするのはカッコ悪いし筋違いだから、ここは《自分の意志で残っている》という体にして、《残らない人をかわいそうと、上から目線であわれむ》」
 
 
 といった流れによって、自らの不満プライドをなぐさめようという心の動きだ。
 
 で、ニシワキ君にとって、この話のなにに耳が痛かったのかと問うならば、彼もまた「マウントを取りに」行ってしまった記憶が喚起されたから。
 
 言葉はちがえど、似たような目的で発せられたワードが、
 
 
 「ゆるす」
 
 
 あー、わかるなあと、思わず声をあげた方は、私やニシワキ君と同じ「器の小さい男」だろう。
 
 まだ学生時代のこと。友は初めて彼女ができたのだが、その子が煙草を吸うのが、たいそうイヤだったそうな。
 
 でも、度胸も根拠もないもんで、
 
 
 「おい、女が煙草とか、やめろよ」
 
 
 とは言えない。けど、素直に受け入れることもできないから(まあ若造だしね)、
 
 
 「いいよ。古いタイプじゃないから、おまえがオレの前で煙草を吸うことをゆるすよ」
 
 
 そう宣言したのだ。
 
 おお! なんという見事なマウンティング。彼はこういう言い方をすることによって、
 
 
 「彼女の喫煙がイヤだと言い出せない、狭量かつ根性のない男」
 
 
 というポジションから、
 
 
 「女だてら喫煙するという蛮行を寛大に許可する、新しい、かつ器のでかい男」
 
 
 への華麗なるクラスチェンジをはかろうとしたわけだ。
 
 なんという詭弁、すばらしき欺瞞
 
 まさに小人物とはこうあるべき、という見本のような存在ではないか。さすがは、わがすばらしき「類友」だ
 
 もちろんのこと、この技は、
 
 
 「はあ? なに偉そうに言ってんの? あたしや女一般がなにしようと、なんであなたに『ゆるして』もらわないといけないわけ? どの立場からの意見?」
 
 
 そう、あまりに正しすぎる反論を受けて、友のなけなしの誇りは、まさに雲散霧消したのであった。
 
 そらそうだ。なにから、ものを言おうとしてるのかと。
 
 てゆうか、女が煙草吸っても全然ええですやん。
 
 そもそも煙草自体に反対っていうならわかるけど、「女が」って限定したら、そらアンタ何様やいう話やで。
 
 そう笑うと、友は
 
 
 「せやねん。それに今考えたら、彼女が喫煙しようがしまいが、どっちでもよかったしなあ」
 
 
 どっちでもええなら、そんなこといわなんだらええのに、
 
 
 「でもなあ。そういうの、言いたなるねん。アホやったから」
 
 
 あるよねえ。
 
 
 「そういうことを、ちゃんと女に言わなければならない義務がある」
 
 
 って思ってる男って、おるよねえ。
 
 かくのごとく、言いたいことが言えないとき、つい使いがちなマウンティング。
 
 たいてい見破られるし、そのときの恥ずかしさったらないので、注意が必要だ。
 
 
 
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80ヤード独走 佐藤康光vs渡辺明 2013年 第62期王将戦 第3局

2023年07月09日 | 将棋・名局

 「いや、やっぱり苦労が多かったような。ははは」
 
 
 そう言って笑ったのは、控室で検討していた佐藤康光九段であった。
 
 舞台は先日行われた、棋聖戦第3局でのこと。
 
 藤井聡太棋聖(竜王・名人・王位・叡王・王座・棋王・王将)が挑戦者である佐々木大地七段にお見舞いした、顔面受けが話題となった。
 
 
 
 
 
 ガツンと体当たりの後は、一転相手にゆだねる一手パスで、これで佐々木大地の暴発を誘い中押し勝ち。
 
 これを受けて、私は
 
 
 「佐藤康光九段っぽいなー」
 
 
 と感じたわけだが、思うのは皆同じらしく、これを受けて行方尚史九段も
 
 


 「やばいっすね。これは分かるわけないっすよ。将棋史上でない手じゃないですか? 康光さんなら浮かぶのかもしれないけど」



 

 そこで今回は佐藤康光による「康光さんなら浮かぶのかもしれない」特殊な将棋を見てもらいたい。
 
 
 
 2013年の第62期王将戦
 
 佐藤康光王将渡辺明竜王による七番勝負は、挑戦者の2連勝で第3局に突入。
 
 苦しい出だしの佐藤王将としては、もう負けるわけにはいかないわけだが、そこは強気で渡辺得意の横歩取りを堂々受けて立つ。
 
 むかえたこの局面。

 


  
 
 渡辺が玉頭から襲いかかって、を食い破ろうというところ。
 
 後手の攻めも細いが、こういう蜘蛛の糸をなんのかのと繋げて攻め切ってしまうのは、渡辺のお家芸ともいえるワザ。

 後手が2筋をガッチリとロックしているため、先手の飛車がまだ使えず、攻め合いは見こめないところ。

 ゆえに先手はしばらく守勢にまわらないといけないのだが、そこでひるむような佐藤康光ではないのだ。

 

 


 
 


 
 ▲87玉と大将自ら突っこんでいくのが、なにも恐れない受けっぷり。
 
 こうやって上部に勢力を足し、後手の桂香を取っ払ってしまえば、あとは▲56▲66飛車をいじめて自然に勝てるという寸法。
 
 それはたまらんと、渡辺は△98歩成から攻めを続行。
 
 ▲同香△同香成からバリバリ攻められそうだから、▲85歩とこちらを取り、渡辺は△94飛とかわす。
 
 


 
 
 
 目障りな桂馬こそ除去できたものの、これでが完全に破れている。
 
 ▲83角成が利けばいいが、その瞬間に△97香成とされて後手の攻めが早い。
 
 うまい受けがないと一気に突破されそうだが、やはり佐藤はここで引く男ではないのだ。

 

 

 
 


 
 
 ▲95歩△同飛▲86玉がパワフルすぎる特攻。
 
 この強情ともいえるショルダータックルで、後手にうまい攻めがない。
 
 いやまあ、強気というかなんというか、ほとんどムリヤリ肩をぶつけて因縁をつけるヤンキーみたいである。どんだけオラオラなんや。
 
 後手はたまらず△91飛と逃げるが、ここで押し戻されては切れ筋に陥った。
 
 すかさず▲84歩と突きだして、△99歩成▲92歩△81飛▲83歩成と、こんなところにと金ができては勝負あった。

 

 


 
 以下、佐藤は玉をどんどん前進させて、入玉模様で不敗の体制を築き快勝。
 
 もう見ただけで「佐藤の将棋やなー」とゴキゲンになれる、カッコイイ受けであった。

 

  (佐藤康光の魅力的すぎる将棋はまだ続く)

  (その他の将棋記事はこちらからどうぞ)
 

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はれた日は学校をやすんで 「かわいそう」の心理 その4

2023年07月06日 | ちょっとまじめな話
 先日の話題の続き
 
 
 「《かわいそうだね》というマウントの取り方には、いつも疑問をおぼえる」
 
 
 というテーマで、高校時代の思い出など何回か紹介しながら話していたが、私がこの言葉に反応してしまうのは、自分がいわれたことがあるからと同時に、そこにある「欺瞞」と「傲慢」を感じてしまうから。
 
 たしか大学生のころ、北村薫先生の本を読んでいて、この言葉ができてきたことがあった。
 
 文化祭が舞台だったから、たぶん『夜の蝉』だと思うけど、クラスの出し物の看板を作っている女子が、それに参加せず帰ってしまう生徒のことをこう評すのだ。
 
 

 「なんか、かわいそうだね」

 
 
 ここを読んだとき、ほとほとグッタリするような脱力感を味わったものだった。
 
 北村先生、あなたもか、と。
 
 北村先生はミステリファンならご存じの通り、元学校の先生である。
 
 なので、ここにおける「かわいそう」は、先日語った「マウントを取る」行為でなく、教師として心からの心配だと思われるが、それでもやっぱり素直に首肯はできない。
 
 大ファンである先生に、こんなことを言うのは本当に心苦しいけど、それでも言わせてください。
 
 
 「だからあ、そこで彼が(彼女が)『かわいそう』だと、なんで勝手に判断しちゃうんですか?」
 
 
 世間やみんなが思う「楽しさ」や「充実」が、他者にもまた同じくらい価値があるとは限らない
 
 自分にとっての宝物が、他人にとってはただの石ころにしか過ぎないかもしれず、だとすればもまた、そうであるかもしれない。
 
 という当たり前の上にも当たり前のことを、なぜ人は時にあまりに軽視した言動を取ってしまうのか。
 
 それを「かわいそう」と言われたら、やはりこう言わざるを得ないのだ。
 
 
 「そうかもしれないね。でも、そうとは限らないかもしれないとも思わない?」
 
 
 そしてそこに、親切心配の名をかぶせた
 
 
 「お前だけ、逃さねえぞ」
 
 
 という欺瞞はないのか?
 
 私は文化祭のクラス行事に参加しなかった。
 
 でも、本番では部活の出し物で舞台に立ち、充実した2日間を過ごした。
 
 これは断言できるけど、もし私が部活をやらず、ただなんとなくクラス行事に参加していたら、間違いなくあの2日間は、その後の人生で、まったく語られることはなかったろう。
 
 これは私だけではない。
 
 体育祭をサボってバンドの練習をしていた子や、嫌いな教師の授業をボイコットして図書館でずっとSFを読んでいたヤツもいた。
 
 お仕着せのイベントなどに目もくれず、恋人と会ったり、アルバイトにはげんだり、プログラムを組んだり、マンガを描いたり。
 
 彼ら彼女らが「かわいそう」なのかといえば、私は絶対にそうは思わない
 
 なぜなら皆、
 
 
 「今一番、自分がなにをしたいのか」
 
 
 これを、わかっている連中だったからだ。
 
 「」に参加しなかった人は、端から見ると「こんなステキなものに、なんで?」と感じるかもしれない。
 
 でも、そのステキはもしかしたら、あなたをふくめた一部だけのものかもしれない。
 
 私やバンドマンやSF野郎のように、
 
 
 「他にやりたいこと、やるべきこと」
 
 
 を知っていて、そっちの方が、はるかに楽しいかもしれない。
 
 もしかしたら、あなたのにいる人も、あなたに合わせてくれているだけで、本当は「そうでもないな」と内心思ってるかもしれない。
 
 「多数派の祭」にいない人は、入りたいのに入れないのではなく、「自らの意志」でいないのかもしれない。
 
 「祭」に出なかった生徒は、もしかしたらその時間を、ただラジオを聴くことに費やしていたかもしれない。
 
 でも、「祭で一体感を味わうこと」ことが、「ラジオを聴くこと」より良きことかどうかを判断するのは、「祭に参加した側」の人間ではない
 
 「かわいそう」な彼や彼女は、もしかしたら今、愛する恋人と永遠に忘れられない夜を過ごしているのかもしれない。
 
 いや、仮に何もなくただダラダラしていても、つまんなくてもいい。
 
 「自分で選んだ無為の一日」は、「やらされている退屈なこと」よりも、ずっといいかもしれない。
 
 それは本人しかわからないのだから。
 
 だから、自分がかわいそうかどうかは自分で決めるよ。だって、あなたには判断材料なんかないんだから。
 
 もちろん私も、自分の大切なものや、参加した祭に見向きもしない人がいても、あわれみもバカにもしない。
 
 そのことを決めつけるだけの根拠など、こちらにはないのだから。
 
 嗚呼、なんだろう。この件に関しては、ライムスター宇多丸さんが、「日本語はヒップホップに合わない」と言われたときに立ち上がるような「義憤」を感じてしまう。
 
 それはわかんないじゃん。わかんないことを、勝手に決めつけられても、どうなの?
 
 もしくは、キミもやればいいじゃん。今がつまらないなら。
 
 「多数派の輪に入らない不安」が重苦しいのはわかるけど、それにとらわれず、自分で選んだ道を歩く楽しさは、そんな暗雲など軽やかに飛び越えていく。
 
 これは本当にそう。
 
 だから、ぜひやってみて。
 
 一応つけくわえておくが、私は北村先生や先生の作品自体にケチをつけているわけではありません。
 
 その中の1フレーズに勝手に反応して、なかばヤカラを入れているだけです。念のため。
 
 なんだか大層な話になってしまったが、とにもかくにも、だれかの言う「かわいそう」がマウントを取りに来ているなら、
 
 
 「余計なお世話」
 
 
 北村先生のように親身になってくれているなら、こう言いたいのだ
 
 
 「そうでもないから、気にしないで」
 
 
 
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佐藤康光×大山康晴×羽生善治=「顔面受けの手渡し」 藤井聡太vs佐々木大地 2023年 第94期ヒューリック杯棋聖戦 第3局

2023年07月03日 | 将棋・名局

 「いや、やっぱり苦労が多かったような。ははは」
 
 
 そう言って笑ったのは、控室で検討していた佐藤康光九段であった。
 
 「夏の12番勝負」として、猛暑よりも熱い戦いが期待されている藤井聡太七冠佐々木大地七段のダブルタイトル戦。
 
 その緒戦である棋聖戦では、藤井が先勝するも、第2局では相手の読んでなかった▲55角のカウンター一発で、佐々木がお返ししてタイ

 勝った方が王手という第3局は、藤井が先手で角換わりになったが、この将棋の中盤戦が見ものであった。
 
 まず、いきなり端に▲97桂と跳ねるのが、見たこともない手。
  
  
 
  
 ただでさえ、▲77ではなくこっちにを使うのは違筋なうえに、△95歩からの攻めも警戒しなければならない。

 相居飛車の将棋ではまず見られない珍型だ。
 
 これには私のみならず多くの将棋ファンが、
 
 
 「これ佐藤康光のやり口やん!」
 
 
 思わず、つっこんでしまったことだろう。

 こんなもん、あの人しかやりまへんやん。
 
 考えることは皆同じで、一緒に検討していた行方尚史九段は 
 
 


 「やばいっすね。これは分かるわけないっすよ。将棋史上でない手じゃないですか? 康光さんなら浮かぶのかもしれないけど」



 
 
 これに対して会長……て思わずまだ言っちゃうな、佐藤九段は
 
 


 「いやいや、私、浮かばないです」



 
 
 こちらもあきれていたくらいだから、よほどスゴイ手なのだ。
 
 まさに古い格言で言う「名人に定跡なし」。
 
 しかも、驚愕の手順はここで終わらず、このあと8筋から逆襲していった先手は、玉を▲67▲76▲86と繰り出して行く。


 
 


 これまた規格外な玉さばきで、これ棋譜だけ見てだれが指してるかクイズにしたら、「佐藤康光か木村一基」って答える人めちゃ多いでしょ。

 ここからは深浦康市九段も加わって、
 
 


 佐藤「先手は玉が露出していて何かと流れ弾に当たりやすいので、苦労が多そうですけどね」
 
 深浦「でも、佐藤さんもこういう感じの将棋をよく指してませんでした?」

 佐藤「いや、やっぱり苦労が多かったような。ははは。次の一手は見ものですね」



 
 
 あのレジェンドですら「苦労が多い」という玉形で、涼しい顔をしているのだから、ホントこの七冠王を倒すのは大変である。
 
 というと、なんだかこの指しわましが見た目だけ派手な、ともすれば相手の意表を突くだけのような印象を受ける方もおられるかもしれないが、そうではない。

 これは実は、あの村田戦で見せた△64銀似た思想を持つ手なのだ。

 

 
 
王座戦決勝トーナメント2回戦。村田顕弘六段との一戦。
必敗の局面から、ひねり出した△64銀がすさまじい勝負手。
これで一気に盤上が異空間になり、秒読みでは対処しきれず、大金星を目前にしながら村田は敗れた。


 
   
 先日も書いたが、あのタダに見える銀出はいわゆる「逆転妙手」ではない。
 
 そうではなく指された瞬間に
 
 
 「どうやっても勝ち」
 
 
 という局面が、
 
 
 「勝ちだけど、正解1個以外の指し手を選んだ瞬間、すべてがアウト」
 
 
 というデスゲームに変貌を遂げるという怖ろしすぎる一着だったのだ。
 
 「動」と「静」のちがいこそあるが、この▲86玉手渡しも同じ。
 
 即物的な意味だけなら、△54角△95歩、▲同歩、△98歩、▲同香、△54角の筋を防いだ手だが、本当のねらいはそこではない。
 
 あの△64銀と同じく、
 
 
 「こんなのプロだって正解手は指せないよ!」
 
 
 という「悪手」に巧妙に誘いこんだうえで、あえてターンを渡すという超高等戦術
 
 まさにかつて、昭和に大山康晴十五世名人が発見し「熟成」させ、平成に羽生善治九段が「言語化」した相手を惑わせる「手渡しの技術」
 
 よく将棋の形勢を見るのに、
 
 
 「駒の損得」

 「玉の固さ」

 「駒の働き」

 「手番」
 
 
 を確認するという作業があるが、これに関して、たしかなにかの折に藤井猛九段が言っていたことが、
 
 
 


 「この4つの中では、手番が一番大事だと思う」


 

 

 序盤で積極的にリードを奪いに行き、また「ガジガジ流」のパワー攻めで「自分から」局面を作って行きたいタイプの藤井猛らしい意見だ。 
 
 だが大山と羽生、そしてこの将棋における藤井聡太だった。
 
 人によっては「一番大事」という手番をヒョイとあげてしまう。

 突然のノーガード戦法。ピンチの場面なのに、平気な顔でハーフスピードのストレートをど真ん中に投げこんでくる。
 
 だがそれは単なるパスではなく、特に大山に顕著だが明確な「」なのだ。
 
 
 「はい、手番あげるから、いい手指してみなさいよ」
 
 
 そしてその手には、こういうセリフが続いている。
 
 
 「でも、正解出さないと、アンタ死ぬけどね」
 
 
 「最強」の座に君臨する者から、こんな宣告をされて「いつも通り」のプレーができる者が果たして何人いるだろうか。

 

 

 

1960年の第10期九段戦(今の竜王戦)第7局。大山康晴九段と二上達也八段の一戦。
中盤のねじり合いのさなか、ここで△26歩とじっと突いたのが、『現代に生きる大山振り飛車』という本の中で藤井猛九段も「自分には絶対に指せない」と驚愕した手。
△27歩成の突破なんて遅すぎて、ゆるしてもらえるわけないが、大山曰く、
「ここでは△26歩か、△94歩で、敵の攻めを急がせるよりない」
事実、ここから二上が決め手を逃して混戦になり、最後は大山の逆転勝ち。

 

 

1993年の第34期王位戦の第4局。郷田真隆王位と羽生善治四冠の一戦。
後手の大駒3枚に対して先手は銀の厚みで対抗。
どう指すか難しい局面だが、なんと羽生は△94歩。▲67金直と形を整えたところに、さらに悠然と△95歩(!)
まさかの端歩2連発だが、この緩急でペースが狂ったか▲46銀と出たのが疑問で、好機に△28角と打つ筋ができ先手がいそがしくなった。
以下、羽生が勝って初の王位獲得。

 


 
 実際、佐々木大地ほどの落ち着きと、ねばり強さを持った棋士が、ここから暴発し、あっという間に将棋は終わってしまった。
 
 これこそが大山&羽生が必殺とした手渡し。まさに「の一手パス」なのだ。
 
 だから私は急転直下で終わったあの一局を見て、佐々木大地に「なにやってんの」という気にはなれない。
 
 イエス・キリストも言っていたではないか。
 
 
 「あの局面で正解手を指せるものだけが、この男に石を投げよ」
 
 
 ホントねえ、こういう将棋を見ると、いつも思い出すのが『カイジ』の「鉄骨渡り」だ。

 

 

 


 


 そうなんだ、ただ「まっすぐ歩く」だけでいい。
 
 でも、いったん「下を見ると」いや「見せられる」と、それができないのが人間というもの。
 
 落ちちゃうんだよ、あるいはすくんじゃうんだ。人は不完全で、なんと将棋はおもしろい。
 
 あー、やべえ。早くご飯食べたいのに、つい熱くなって書いてしまった。
  
 以上、今回私が言いたかったのは、この▲86玉という手は単なる「おもしろ局面」ではないということ。
 
 そこには大山康晴が生み出し、羽生善治が完成させ、さらにそこに佐藤康光狂気も内包した、まさにスーパーハイブリッド将棋。
 
 その「読み」「度胸」「勝負術」「見切り」「心理戦」「精神力」「創造力」。
 
 将棋に、いやあらゆる「勝負」に必要なすべてをそそぎこんだ、昭和、平成、令和と歴史の奔流こそが組みこまれた一着なのだ。

 とかいう妄想が間欠泉のようにブワッと湧き上がってきて、なんかもう、これちょっと究極だよなあ。

 そう、そうなんだよ。

 きっと、たぶん、知らんけどさ。

 

 (佐藤康光の顔面受けに続く)

 (その他の将棋記事はこちらからどうぞ)
   

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