クラスのイケてる男子と「なんでも笑う女の子」は恐怖の観客 その3

2017年09月30日 | うだ話

 前回(→こちら)の続き。

 演劇、お笑い、ライブ問わず、



 「客には女の子(もしくはお年寄りでもファミリーでも)を入れろ。男は一歩たりとも中に入れるな」



 という、南アフリカ共和国のアパルトヘイト並みの人種隔離政策を奨励する私。

 これは私が狭量な差別主義者だからではなく、仲間内老若男女問わずみなが提言していたことなのだ。

 理由は簡単で、



 「とにかく、男どもは反応が悪い



 楽しむことに素直女子とくらべて、男子は固い、打っても響かない。ちっとも笑ってくれない

 なぜか。これまた理由は簡単で、特に私の住む大阪では

 

 「男は全員、自分は笑いのセンスがあると思いこんでいる」



 だからピクリとも反応してくれないのだ。

 そらそうであろう。彼らはみな大なり小なり「オレっておもしろい」「笑いの才能がある」と、なんの根拠もなく思いこんでいる。

 こういう人が客席に来ると、どういった態度をとるか。

 まず大部分は「上から目線」で来ることがある。

 当然であろう、彼らは「おもしろい」に関しては「優越者」なのだから、我々のような



 「センスのない下々」



 に対して、対等な目線でなど接するわけがない

 舞台に出た瞬間、こういう男子はすぐにわかる。

 たいていが偉そうにをそらし、を組んだりの後ろに両手をやったりして、うすら笑いを浮かべている。

 そのには、でっかい文字でこう書いてあるのだ。

 

 「さあ、キミたち凡人諸君は今からセンスの塊であるオレ様で、どのような愉快な出し物を見せてくれるのかな」



 まったくもって、おまえはどこの局のプロデューサー様や!

 とつっこみたくなるが、それくらい超キングでエンペラーなオーラをバリバリでのぞんでくるわけだ。根拠もないのに。
 
 その様はあたかも、剣闘士がライオンに食われるのを楽しむ、ローマの皇帝のごときである。メチャメチャえらそうなのだ。根拠もないのに。

 こうなると、もはや問題はウケるとかすべるではない。あきらかに彼らは「ジャッジ」しにくるわけ。「オレ様が認めてやれるものか、そうでないか」を。で、宣言するのだ



 「少々のことでは、オレ様は笑わんで」



 しつこいようだが、根拠もないのに。

 こんな態度で来られたら、もうどないしたって良い反応なんていただけない。笛吹けど踊らず。

 そういう人が「オレってお前らとは違うんだぜ」オーラを出してすわってると、客席の雰囲気も悪くなる。「なんだこの人?」「イタタタタ……」って。ある意味、マイルドなフーリガンだ。

 「もう、お金払うから帰って」と言いたくなる。嗚呼、ここは地獄だ。

 舞台でスベるのはつらいが、この「オレ様」君の存在はもっとキツイ。

 失敗した公演は自業自得だけど、最初から最後までマジノ線のごときかたくなな、「拒否モード」をつらぬき通されると、とにかく絶望的な気分になる。

 なぜにてこんな不幸が起こるのかといえば、こと笑いに関しては関西の男子は「勝ち負け」「マウンティング」「スクールカースト」といった要素が、かかわってくることだ。



 「コイツはオレより、おもろいかどうか



 というのは、関西男子のカーストに大きな影響をおよぼすのだ。

 もちろん、大半は若気の至り的錯覚だが(私だって思い当たるところありまくりですよ、ええ)、自意識の面ではそうなのである。

 そんな面々にとって、笑いは勝ち負け。笑かせば勝ちだが、笑わされるというのは大いなる屈辱なのだ。

 そのことを実感したのは高校時代、クラスの人気者であったマツダ君のおかげだった。



 (続く→こちら



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クラスのイケてる男子と「なんでも笑う女の子」は恐怖の観客 その2

2017年09月29日 | うだ話

 前回(→こちら)の続き。


 「男は入れるな。客は女の子に限る」



 落語会に出たり演劇の公演に混ぜてもらったりする機会があると、客の呼びこみも重要な仕事になるわけだが、そこでの鉄則がこれであった。

 なぜにて、こんな男女逆差別のごとき思想がまかり通っていたのかと問うならば、これはもう、



 「断然、女の子の客の方が笑ってくれるから」



 これにつきるのである。

 といっても、別に我々は人気若手芸人の追っかけギャルのごとく、



 「箸が転げてもおかしい、なにをやっても笑う女子」



 を求めているわけではない。そういう人はむしろ迷惑であるといえる。

 我々が理想の客として欲しているのは、「あ、これちょっとおもしろそう」くらいな感じで、ナチュラルに来てくれる女の子だ。

 そういう子がいると、なにがありがたいといって、彼女らの笑い声が場を温めることに大きく貢献してくれるから。

 お芝居でもお笑いでもなんでも、客席の雰囲気というのはものすごく大事である。

 お客さんが温かいと、やる方も力を発揮しやすいし、少々演者がまずくても多少は受け入れてくれるから修正もしやすい。

 逆にお客さんがに構えていると、これはもうこっちが体操の内村航平選手のごときウルトラ演技を見せようとも、ビクともしない地獄が待っている。

 それくらいに「客席の温度」というのは、公演の出来を左右するのだ。下手すると、素人レベルなら、演者の出来以上に、そっちでほぼ決まってしまうといってもいいくらい。

 こういうとき本当にありがたいのは、「あたたかい」お客さんや「楽しむ気満々」のお客さん。

 特に後者は女の子が多い。

 私の勝手な印象では、ライブでもお笑いでもお芝居でも、女性の客の方が楽しむのがうまい気がする。

 なんとうのか、変な邪念が入っていないというか、反応がストレート。



 「来たからには、目一杯楽しんじゃわないと損だし!」



 という女子的合理主義もあるのかもしれない。こういうお客さんは神さまです。

 もちろん演者の出来がまずければ、そもそも論外だが、そうでなければ彼女らの存在によって場の空気が開ける

 すると、客席の人が「あ、笑っていいんだ」という承認をもらった気分になるのだ。

 日本人はの民族であり、周囲の空気に反することをしたくない傾向がかなり強い。

 だから基本的に、自分のいる空間の多数派に乗っかろうとする。

 客席がシーンとしていれば自分も黙りこむし、反対にノリノリならじっとして「逆目立ち」するのを避けようとする。

 こうなると「率先してリアクションしてくれる素直な女の子」というのが、いかにであるか、わかろうというものだろう。

 彼女らが「アハハ」と声をあげてくれれば、周りの人たちも



 「あ、この子に合わせたらええんや」



 という気分になって、徐々に反応が良くなり、いったんノッてくればあとは自分の力量次第。

 とにかく、場を「ホーム」にしてくれるのが「気軽に来てくれた普通の女の子」なのだ。
 
 もちろん、ともかくも問答無用でこちらの味方であればいいわけで、若い女の子というのがとこちらのモチベーションという点ではベストだが、他にも、

 「温厚なおじいちゃん、おばあちゃん」

 なんかは「若い子ががんばっているみたいだから、応援してあげよう」という目で見てくれるし、

 「小さい子供連れの親御さん」

 なんかも、お子さんがよろこんでくれるとママさんパパさんもうれしいから、ハマると心強い存在になってくれる。

 もっとも、興味を持ってくれないと、クソガ……もとい元気なお子さんたちはさわいだりして大変ですが。

 なので、学生時代の文化祭から端を発し、とにかくあらゆる公演発表会においては、



 「若い女の子を連れてこい。あとはお年寄りかファミリー。男はNG



 という絶対死守の指令が出されたものであった。

 なんてことを語ってみると、よく男子諸君から、



 「なんでオレたちを呼ばないんだ。笑いのセンスクリエイティブなものを見る目は自信があるぜ」



 なんて主張されることもあるのだが、まさに彼らには痛い目にあわされてきた歴史があるのだから、苦笑するしかない。

 その「笑いのセンスがある男子」からの具体的被害状況は次回に(→こちら)。
 


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クラスのイケてる男子と「なんでも笑う女の子」は恐怖の観客

2017年09月28日 | うだ話

 「あれ? シャロン君て昔、『とりあえず笑ってくれる女子』はありがたいって言うてなかったっけ?」


 先日、友人ハマデラ君と一杯やっていると、彼がそんなことを言い出したのである。

 ことの起こりは、少し前にここで書いたある記事。そこで私は、



 「イケメン美人を『退屈』と感じてしまうのは、彼ら彼女らに周囲が好意的に接するせいで、なにをやっても肯定される。ゆえに、ひねった考え方や発言をしなくなる」



 と分析し、どちらかといえば屈折屈託から生まれるアクロバティックな論理をおもしろがるタイプの私には、もうひとつ物足りないと結論づけた。

 男の場合、特に関西のモテ男子は取り巻きの女の子たちが、



 「イケてることを称えたくて、どんなつまらないギャグやトークでも爆笑する」



 ということをやってしまうため、全員が



 「オレには笑いのセンスがある」



 とカン違いし、他府県の人にウザがられるうえに、「男前特権」の効かないどころか逆効果になりがちな我々男子には、退屈どころか大迷惑なのだ。

 くわしくは→こちらを参照してほしいが、これを読んだ友は「まあ、こういうこともあるかもな」と苦笑いするとともに、ひとつの疑問も生まれたというのだ。



 「おいおい、キミ学生のころはいつも、『楽しく笑ってくれる女の子が一番や』言うてたやんけ」と。



 それはたしかに事実である。

 あっさり認めると、待て待て、今までの流れだとモテ男子が「ウケてる」と思い違いをするのは「なんでも笑う女子」のせいだと言っていたではないか。

 いわばこのテーマにおけるA級戦犯ともいえる存在で、どちらかといえばディスり気味だったくせに、おまえも結局、そんな連中に頼って人生送っとるんかい!

 などと、「イケてないチームの分際で生意気な!」といったお怒りを買いそうだが、そこはいったん落ち着いてほしい。これには深いわけがあるのである。

 学生時代、私は演劇をやったり自主映画制作を手伝ったり、落語の舞台に立ってみたりと、そういった活動をして遊んでいた。

 で、お客さんの前で首尾よくウケたり、はたまた「よど号」をハイジャックして、そのまま北朝鮮に亡命したくなるくらいに客席を凍りつかせたりしながら学んだひとつの真理がありまして、それというのが、



 「会場に男を入れるな。客は女の子に限る」



 これはもう、先輩後輩同期の桜問わず、みながみな身にしみて味あわされること。

 もしかしたら我が街大阪(関西)限定のかたよった法則かもしれないが、ともかくも全員一致で過激なフェミニストのごとく、



 「女万歳! 男ども退場せよ!」



 そうシュプレヒコールを上げるのである。

 その理由は簡単で、とにかく女の子は「笑ってくれる」から。

 というとやはり、



 「なんだよ、やっぱりなんでも笑ってくれる女がいいんじゃん。それって結局、顔がいいから笑ってもらってカン違いしてるイケメン君と同じでしょ」



 眉をしかめられそうだが、これがですねえ、そういうことでもないんですね。

 我々は別に「わかってもないけど、なんでもかんでも笑ってくれる」ことを欲しているわけではない。

 いやむしろ、そういう人は問題だったりするのは、お芝居をやっていたころの中島らもさんがキャーキャー言うだけの女の子に、



 「ちゃんと、お話も見て……」



 辟易していたように、ちょっといかんともしがたいものがある。

 周囲はどっちらけになるし、演者もどうしようもない気分にさせられる。正直なところ、ありがた迷惑なのだ。

 島田紳助さんも「紳竜の研究」(ものすごく勉強になるのでおススメです)という講義で、


 「キャーキャーいうファンはありがたいけど邪魔」

 「こいつらがオレらをダメにする」

 「笑わすのが簡単やから、ついついここを笑かしにかかる。そしたら終わり」


 そうハッキリおっしゃっているのだ。

 ではなぜにて我々は、その諸刃の剣ともいえる「女の子の笑い」を必要とするのか。

 その理由については次回(→こちら)に語ってみたい。



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嗚呼、華麗なるマヌケな聞きまちがい 『地獄の黙示録』キルゴア中佐 登場 

2017年09月25日 | コラム

 人はときおり、とんでもない読み間違いや聞きまちがいをすることがある。

 前回(→こちら)は、兵庫県にたたずむ謎の幼稚園や、奇妙なサッカー協会の話をしたが、こういったミステイクはただの他人事ではないのである。

 先日、部屋の掃除をしながらBGM代わりにラジオを聴いていると、こんな声が聞こえてきた。

 「南国特産、さわやかナパームのオイルをぜひどうぞ」

「さわやかナパーム」

 なんなんだそれは。

 なにげない、ラジオのCMだったかプレゼントのコーナーだったかで、するどく飛びこんできたこのワード。

 「さわやかナパーム」。ナパームといえば、映画好きな自分が、まず思いつくのは『地獄の黙示録』。

 ベトナム戦争を舞台にしたこの作品。オープニングで主人公(だよね)キルゴア中佐は

 「サーフィンがしたいから」

 というナイスな理由で、浜辺の村をヴァーグナーの『ヴァルキューレの騎行』をBGMに猛攻撃。

 女子供も容赦なく撃ち殺し、焼け野原になった村のビーチで、部下にサーフィンを無理強いしながら、

 「朝起きてかぐナパームの香りは最高だ」

 そううそぶく姿は、ベトナム戦争の内包していた狂気をわずが10数分で表現する最高の絵面だったが、まさかそれをイメージしたCMなのでは。

 さわやかナパームのオイル。

 これはもう『地獄の黙示録』のファンにはぜひともほしいマストアイテムであるが、それにしてもすごいもん売ってるなあと、確認のために、もう一度聞いてみると、

 「南国特産、さわやかな、パームのオイル」

 おーい、全然意味がちがうやないか! 

 なにがキルゴア中佐だ、なにがベトナムの狂気だ。なんのことはない、ただの肌に塗る健康オイルの通販だったのだ。

 「さわやかナパーム」ではなく、「さわやか」な「パーム」だ。そらそうだわな。

 なにがかなしゅうて、ラジオの通販でナパーム弾を売らないかんのか。私も買ってどうする。

 ただ、ここに一応言い訳しておくと、そのフレーズを読んだナレーターにも責任があるのではなかろうか。

 あまりにも流麗な発音で、するっと読むものだから、「さわやかな」と「パーム」が流れるようにつながってしまい、どうしても、

「さわやかナパーム」

 に聞こえてしまうのだ。まあ、

 「さわやかな、パーム」

 て切るとリズムが悪いというのは、実際口にしてみるとわからなくもないけどさ。

 ここまで読んで「アホやなあ」と嘲笑した方は、ぜひ一度このフレーズを誰か人に聞かせてみてほしい。

 百聞は一見に如かず。リピートアフターミー。

「南国特産さわやかなパームのオイル」

 ね? 絶対そう聞こえるってば!



 ★おまけ 『地獄の黙示録』の名シーンは→こちらと→こちらから

 ☆とってもステキな「さわやかナパーム」は→こちらから


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嗚呼、華麗なるマヌケな聞きまちがい 大槻ケンヂ&中島らも&坂田靖子 登場 

2017年09月24日 | コラム

 人はときおり、とんでもない読み間違いや聞きまちがいをすることがあるもの。

 たとえば、筋肉少女帯に『戦え! 何を! 人生を!』という曲がある。

 ボーカルの大槻ケンヂさんが心の病に悩まされている自分と、若さゆえの無力感や蹉跌に悶々とする彼の支持者たる若者たちの想いをシンクロさせ、

 「人生を戦え!」

 そうリフレインする悲壮な曲であるが、ファンの女性から、

 「今度のアルバムの『戦え! ラジオ DJ王』という曲ですが……」

 そう間違えられて、コケそうになったそうだ。

 たしかにオーケンはオールナイトニッポンのパーソナリティをつとめていたが、「DJ王」という響きがいいではないか。

 どんなキングなのか。ヒロ寺平とか?

 読み間違えの方では、中島らもさんが、

 「ひょうごけんはなぞのようちえん」

 これを、

 「兵庫県は謎の幼稚園」

 と読んでしまい、「あれ?」となったとエッセイに書いておられた。

 もちろん正しくは「兵庫県 花園幼稚園」だけど、「謎の幼稚園」とは怪しすぎる。ショッカーの前進基地かもしれない。

 漫画家である坂田靖子さんには『叔父様は死の迷惑』というタイトルの作品がある。

 意味不明だが、なにやらずいぶんと剣呑な感じ。

 こりゃいったい、どういうことなのかと問うならば、これは坂田さんが新聞だったか電車の中吊り広告だったかに書いてあった、

 「秩父路は死の迷宮」

 というドラマを

 「《叔父様は死の迷惑》? すごいタイトルだなあ」

 と読み間違えたもの。

 これが自分でもおかしくて、ぜんぜん関係ない自作品にそのまま使用したそうな。

 「論理的思考」からは絶対に出てこないけど、私はこのインパクトからジャケ買いしたから、結果的には大成功と言えよう。一度聞いたら忘れられない名タイトルだ。

 ちなみに、今思いつきで「秩父路は死の迷宮」を検索してみたけど、なにもひっかからなかった。

 よっぽどマイナーなドラマなのか。もしかしたら、もともとこんな作品は存在せず、坂田先生一流のお遊びなフェイクなのかもしれない。

 かように、聞き間違いの面白いところは、ふつうに読んだらごくごく散文的な言葉にすぎにモノが、一気にミステリアスになる、だまし絵的妙がある。

 価値が一転するという意味では、「日本SF作家協会」が、慰安旅行で田舎の温泉旅館に泊まることになったときのこと。

 「ご予約済み」の看板に書かれてあった、あるものが白眉であろうか。

 そこには丁寧な字でどーんと、

 「歓迎・日本SFサッカー協会様」。

 このトラウマで、年配のSF作家にはサッカーが嫌いな人が多いという。

 ホンマかいなという話だが、それにしても「SFサッカー」という言葉にはシビれるものがある。

 きっとそこには「シュレディンガー」とか「タキオン」「ブルーバックス」「ヴァリス」「メトセラ」とかいう選手が活躍しているのだ。

 マスコットキャラが電気羊だったり、ラプラスの魔で次の試合展開を読んだり、ゴールマウスが時の門だったり。

 すぐれたボールさばきは、ほとんど魔法と区別がつかなかったり、でも試合内容の80%はクズなのかもしれない。

 そんな想像力も広がるSFサッカー。

 ウィリアム・ハリソンあたりが、ひそかに小説にしてたりして。


 (続く→こちら



 ★おまけ 筋肉少女帯の『戦え! 何を! 人生を!』は→こちらから



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山本茂『白球オデッセイ』で読む、佐藤俵太郎選手と日本テニス黄金期 その2

2017年09月22日 | テニス
 前回(→こちら)に続いて、山本茂『白球オデッセイ』を読む。

 戦前の日本テニス黄金期に、プレーヤーとして大きな実績を残した佐藤俵太郎の評伝だ。

 この本を読むと、当時のテニス界というのが、いかに優雅な世界であったかというのがよくわかるが、俵太郎の華やかなテニス人生はコート上だけではなかった。

 デ杯選手として、破格の待遇で欧州を転戦した彼は、ビル・チルデンや、イタリア貴族でテニスプレーヤーでもあるジョルジォ・デ・ステファーニらと友情をはぐくみ、ウィーンでは香水『Mitsuko』として名を残すクーデンホーフ=カレルギー伯爵夫人である青山光子にむかえられる。

 国境を越えた友情、ヨーロッパの貴族、そしてウィーンの日本人伯爵夫人。まるで藤田宣永の傑作冒険小説『鋼鉄の騎士』(こっちは自動車レース)のようではないか。

 プロ転向後は、「金に魂を売った」という陰口などなんのその、ビジネスチャンスを求めてアメリカ大陸を駆け回る。このアグレッシブなところが、また俵太郎の魅力だ。

 中でも美しいのは、ヴェネチアにあるリド島で出会った、ユージニ・ピルツィオとのロマンスだろう。
 
 長旅の疲れで、大会は初戦負けを喫した俵太郎だが、むしろそれが幸いした。

 敗れてボールをたたきつけるなどマナーに難のあった選手がいる中、落胆を押し殺し毅然と去っていく姿に感銘した21歳のユージニと、夢のような一週間を過ごす。

 そして、ついに島を去る日、別れのあいさつに来たユージニに俵太郎はキスをする。

 もちろん気持ちはそれ以上と高ぶるが、転戦中エジプトのピラミッドもパリの凱旋門も見物せず、ひたすたテニスに打ちこんできた俵太郎は、道を極めるためにと、紳士的にそっと体をはなした。

 もったいない。というのは、野暮というものであろう。そういう時代であったし、それにこの二人は物語のラストで、まるでドラマのように再びめぐり逢うことになるのである。

 そのやりとりは、そのまま映画にできそうな、いやそうするにはあまりにも出来すぎな気もする。75歳になるユージニの、すてきな一言で本書は幕を閉じる。

 かくして、日本テニス界の黄金時代は同時にスポーツ界における、テニスという競技の黄金時代であった。まだ木のラケットで、ポロシャツに長ズボンでプレーしていた。

 華があり、プレーも優雅で美しかった。戦争のせいで、とかく暗く語られがちな昭和初期だが、このような世界もまた当時の日本にあったのだ。

 そこがもうひとつの本書の読みどころだろう。

 序章から引用しよう。


 「スポーツの世界では国を越え、膚の色を越えて友情が芽生えた。異国の乙女と淡い恋もした。豪華汽船の一等船客として国々をめぐった。高級ホテルのスィートルームの客となったし、ウィーンの貴族の館にも招かれた。雅びた女性とダンスに興じた。コンチネンタル・タンゴを愛し、カンツォーネを歌った。テニスが上流階級のスポーツであり、テニスプレーヤーが最も尊敬された時代だった」。


 読むと、一度木のラケットを持ってコートに立ってみたくなる。そんな一冊でした。





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山本茂『白球オデッセイ』で読む、佐藤俵太郎選手と日本テニス黄金期 

2017年09月21日 | テニス
 山本茂『白球オデッセイ』を読む。

 日本テニスの黄金時代とはいつなのか。その問いには、いくつかの答えがある。

 古くは1975年、沢松和子が日系アメリカ人アン清村と組んで、ウィンブルドンのダブルスで優勝した。

 伊達公子がウィンブルドン準決勝で女王シュテフィ・グラフと戦い、杉山愛がダブルスでグランドスラム三冠を制した。このふたりでは、歴史に残る激戦となったフェドカップのドイツ戦もあった。

 男子では、松岡修造がウィンブルドンでベスト8に進出し、芝の絨毯の上でほえたこともあった。錦織圭のいる「今」こそ、まさに黄金期との声もあろう。

 そういった戦績の、そのどれも素晴らしいのは間違いないが、実を言うと日本テニスの本当の黄金期はもっと前にあるというと驚かれる人もいるのではないか。

 それは時代をさかのぼってさかのぼって、そこからさらにさかのぼって、なんと一世紀前の大正九年にまでたどり着くこととなるのだから、またずいぶんと過去の話だが、ここでの日本人選手の活躍がすごいのだ。

 この年、清水善造がウィンブルドンで、チャレンジラウンドの決勝(前年度優勝者への挑戦権を決める試合で、今の準決勝)まで勝ち上がった。

 清水は国別対抗戦であるデビスカップでもチームを牽引し、こちらもチャレンジラウンド決勝まで進出する。これに刺激を受けて、日本テニス界には数々の名プレーヤーが誕生する。

 熊谷一弥(アントワープ五輪、単複銀メダル)

 原田武一(パリ五輪ベスト8、世界ランキング7位)

 佐藤次郎(全豪、全仏、ウィンブルドン、ベスト4)

 目もくらむような、すごい戦績を残している選手が目白押しで、他にも太田芳郎のように海外に本拠地を置き、デ杯で活躍した選手もいる。「ミッキー」こと三木龍喜など、イギリスのドロシー・ラウンドと組んで、ウィンブルドンの混合ダブルス優勝も果たしているのだ。

 この『白球オデッセイ』は、そんな昭和初期にあった輝くような日本テニス黄金期に、プレーヤーとして大きな実績を残した佐藤俵太郎の評伝だ。

 俵太郎は全日本選手権こそ取れなかったものの、海外のトーナメントでは、昭和5年のデュッセルドルフのドイツ国際選手権で、「ホップマン・カップ」という大会に名を残すオーストラリアの名選手ハリー・ホップマンをやぶって優勝。ダブルスも安倍民雄と組んで、やはりホップマンのペアをやぶって単複二冠。

 続くジュネーヴの大会でも単複優勝。昭和6年では南仏のカンヌ、サン・ラファエル、ジュアン・レ・パン、ジェノヴァで優勝。ジュアン・レ・パン決勝は、同胞である佐藤次郎との日本人対決だった。

 そして、6月にローラン・ギャロスで行われた全仏選手権では見事ベスト8進出と、すばらしい成績を残している。

 そんな俵太郎の経歴を語る上で、もっとも重要なのがデビスカップであろう。

 今でこそ、デ杯はグランドスラム大会などとくらべると、マイナーな存在に堕している印象だが、当時は今では想像もできないほどのステータスのある大会だった。

 俵太郎は昭和5年、デ杯選手に選ばれると、欧州ゾーンに参加。参加31ヶ国という大会で日本チームは、ハンガリー、インド、スペイン、チェコを破って決勝に進出するのだ。

 今でこそ錦織圭がいるが、それ以前では考えられない快進撃である。

 当時のテニス界は、ジャン・ボロトラ、ジャック・ブルニョン、アンリ・コシェ、ルネ・ラコステら「四銃士」を擁したフランスは別格として、強豪国といえばアメリカ、オーストラリア、そして日本。

 俵太郎自身がいうように、あきらかに第一次大戦の爪痕が欧州に色濃く残っていたことがわかるが、それをさっ引いたとしても見事なものではないか。



 (続く→こちら



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チーム・ファシストの栄光 ロマノ・ヴルピッタ『ムッソリーニ』が、ちくま学芸文庫から復刊

2017年09月18日 | 
 ロマノヴルピッタ『ムッソリーニ』を読む。

 ベニートムッソリーニといえば、みなさまはどのようなイメージをお持ちだろうか。

 イタリアの独裁者ファシズムの祖というのが教科書的な答えだが、それ以上となると私と同様、おおむね、そんなにくわしいことは出てこないのではないか。

 本書冒頭でも語られるが、ムッソリーニの歴史的評価値は低い

 それは日本のみならず諸外国も同じらしく、たいていが


 「滑稽であわれな独裁者」


 として語られがちである。

 曲がりなりにもイタリアという、一応は大国のカリスマ的指導者だというのに、なぜそうなるのか。

 理由としては、チャップリンが映画『独裁者』で描いたベンツィーノナパロニのような、


 「ヒトラーのバッタもの」


 なあつかいや、第二次大戦における数々の伝説的敗北に彩られた弱いイタリア軍、いわゆる「ヘタリア」的イメージ。

 少し歴史にくわしい人なら、独裁の地位をうばわれてから最後はパルチザンの手によって無惨に殺され、その遺体をさらしものにされた惨めな印象が残っているのかもしれない。

 だが本書の前書きでは、そのような凡庸なムッソリーニ感を見事に一蹴する言葉が次々と並べられ、読者の脳天に一撃を食らわせる。

 たとえば、フランスの作家フランソワモーリヤックはこう語っている。



 「ムッソリーニによってローマの歴史は今も継続している」



 ロシアの作家ゴーリキーは、



 「ムッソリーニは優れた知性と意志を備えた人物である」



 音楽家ストラヴィンスキーは、


 

「世界でムッソリーニをもっとも尊敬しているのは自分だ」



 発明王エジソンはムッソリーニを「ヨーロッパ最大の人物」と、心理学の祖ジグムントフロイト「文明の英雄」と呼んでいる。

 本来はであるはずのアメリカのルーズヴェルト大統領すら、



 「現在の最大の問題を理解し、かつ解決する方法」



 を示したことで評価し、やはり第二次大戦でライバルとして戦ったウィンストンチャーチルも、



 「ローマの精神を具現化した現在の最大の法律制定者」



 とどめとしては、インドの英雄マハトマガンディーすらもが、こういうコメントを残しているのだ。



 「ムッソリーニは祖国の発展を望む、私欲のない政治家である」



 どうであろうか。

 ここまで次々とヘビー級のパンチをカマされれば、


 「こりゃベニート先生、ただのマヌケやないぞ」


 少しばかり姿勢を正そうという気にもなろうというもの。

 そもそも、独裁者の典型とされるアドルフヒトラーとあがめ、その政治理念や政策に多大な影響を受けたという人物こそがベニート・ムッソリーニだった。

 ふつうに考えれば、そんな人物が無能なわけがない。

 このムッソリーニ再評価の例をいくつかあげれば、たとえばチェコズデーテンラントをめぐる場となったミュンヘン会談

 教科書ではヒトラーの駆け引きのうまさと、それに乗せられたネヴィルチェンバレンの妥協的な姿勢が批判されているが、実際のところ、この会談の主導権を握っていたのはムッソリーニだったそうだ。

 最初から理想的な着地地点を見極め、そのシナリオを描き、語学に堪能ゆえに終始イニシアチブを発揮していたのはドゥーチェ(統領)だった。

 ヒトラーは、そのオマケのようなもの。

 歴史的には「ナチの暴走を止める最後のチャンス」と描かれることの多い、この会談の糸を引いていたのは、実はイタリアだったという事実がシビれる。

 他にも、独裁者といえば付き物である「虐殺」「人種差別」「強制収容所」ともムッソリーニは無縁で、それどころか敵対勢力に対して宥和的なのも、こちらのイメージを裏切る。

 自らを売った身内や、なりふり構わず抵抗してくるパルチザンすらむやみに処刑をしない(できない)彼の態度は、むしろ指導者としては


 「優柔不断」

 「甘すぎる」


 批判の対象となっていたそうだ。

 実際、著者も



 「ムッソリーニの弱点は平時では冷静とされるかもしれない、緊急時での決断力のなさ」



 とはっきり書いている。それもまた「独裁者」のイメージと重ならない。

 「即断即決」「鶴の一声」は独裁という体制の、メインディッシュともいえるメリット(反面デメリットでもある)のひとつなのだから。

 また、最期の瞬間も、世界史の教科書には


 「逃亡したところを発見され、惨殺された」


 などとあり、これだと、あたかもムッソリーニが命惜しさにコソコソ逃げ隠れしていたようだが、それはまったく

 自らの人生と伝説の幕を閉じるには「死しかない」と、とっくに覚悟を決めていたそうだ。

 その証拠に、彼は周囲から再三スイス亡命をすすめられながらも、これをキッパリと断っているという。

 自殺でも逃亡でもなく、自らの意志で「殺される」ことを選んだ。決して「みじめに処刑された」わけではない。

 ムッソリーニの毅然とした態度は、彼のあとにトップの座に着いたバドリオの、


 「うむ、やはりイタリア人はこうでなくてはな」


 そう深くうなずきたくなるような、情けなさもここに極まれりといった醜態の数々とくらべると、その覚悟のほどがうかがえる。

 彼は明らかに、自らの地位責任に自覚的な政治家であった。

 こういう本を読むと、当たり前のことだが、

 「なんでも、話を聞いてみんとわからんもんや」

 ということを思い知らされる。

 我々は人物を、歴史を、なんと自分の中にあるせまい知識偏見だけで語ってしまいがちであることか。

 なぜムッソリーニは、その実績とくらべると笑ってしまうくらい評価が低いのか。

 それはまあ、歴史の常として、我が大日本帝国も笑い事ではない「負ければ賊軍」ということ。

 うがった見方をすれば彼が有能だったゆえ、虐殺のような、「類型的な悪のレッテル」というのが少なかったからかもしれない。

 つまるところ、良きにつけ悪しきにつけ、意外と「キャラが弱かった」ということかも。

 そんな、新たな知的刺激をあたえてくれる本書は、ながらく手に入りにくく、古書価格もボッタくり料金だった。

 そこをこのたびちくま学芸文庫から復刊されたので、ぜひ手に取っていただきたい。損はさせませんぜ。
 






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藤子・F・不二雄『パーマン』 バードマンが星野スミレをパーマン3号に選んだ理由 その3

2017年09月15日 | うだ話
 前回(→こちら)の続き。
 
 友人フカエ君の指摘により、
 
 「なぜバードマンは、死ぬほどいそがしいアイドルをパーマンに選んだのか」
 
 という命題について考えていたが、ラジオ番組「ライムスター宇多丸のウィークエンド・シャッフル」に、そのヒントが隠されていた。
 
 そこで宇多丸さんとコンバットRECさんが、アイドルの魅力について、こんなことを語ったのだ。
 
 
 「アイドルはMであり、プロデューサーがS。アイドルの輝きは、いかにスタッフ側が彼女たちに《負荷》をかけるかにかかっている」
 
 
 なるほど、そこか。
 
 たしかに、つんくさんにしろ秋元康さんにしろ、とにかくやることといえば、
 
 「アイドルに不条理な試練をあたえること」
 
 というのが定番である。
 
 「セールスが低かったら解散
 
 「チームをシャッフル
 
 「総選挙
 
 などなど、そんな無茶ぶりをかまし、それを少女たちがいかにボロボロになりながら乗り越えていくか。
 
 その健気な美しさに、ファンは涙するのだと。
 
 私自身がアイドルという文化にイマイチ乗れないのは、まさにこの「負荷」の部分が見ていてしんどいからだが(「そんなことしてやるなよ」とか思っちゃうのだ)、構造としては理解できる。
 
 岡田斗司夫さんは、「感動」という状態について、
 
 
 「自分には無理だと思う、努力や愛や達成感を、《自分の代わりに、だれかが色々なものを乗り越えてやってくれた》のを見ると人は心揺さぶられる」
 
 
 そう定義づけておられ、それはまさに、人の
 
 
 「応援したい欲」

 「他人を介した自己実現」

 「そんなことしかできない自分という罪悪感の陶酔」
 
 
 などを刺激し、涙を流さしめるのだ。
 
 たとえばキリスト教なんかも、《人間の罪を、すべて背負って死ぬ》というだれもできない無茶ぶりを、十字架にかけられることによって達成する。
 
 という行為によって人の心をとらえるとか、流れ的には同じようなものであるわけだから、宇多丸さんたちのいっていることは、わりと普遍的なことだとは思う。
 
 平たく言えば、クーラーの効いた部屋で見る、夏の甲子園の楽しさ。
 
 人というのは、
 
 「自分以外のだれかが、しんどい思いをしている」
 
 これを見ると、感動するわけなのだ。
 
 それが、まだか弱い少年や少女なら、なおのこと。
 
 この視点から見ると、バードマンが星野スミレに、パーマンセットをたくした理由がよくわかる。
 
 そう、まさに彼がやりたかったことは、
 
 「アイドルに負荷をかける」
 
 という行為であり、ただでさえ殺人的に働かされている彼女に、
 
 「無報酬多重労働
 
 を課すことによって、
 
 
 「睡眠時間のさらなる削減」

 「少女がかかえるには大きすぎる義務感による、精神的ストレス」

 「須羽少年登場による《恋愛禁止》事項との葛藤」
 
 
 などなどの、さらなる重荷を背負わせ、そこに責めさいなまれるアイドルを楽しく鑑賞しようというわけだ。
 
 これには私も、蒙が啓かれる思いだった。
 
 アイドル音痴の自分にはピンとこなかったが、さすがはプロの宇多丸さんとRECさん、本気で、心底感心させられた。
 
 以上の分析をフカエ君に伝えてみたところ、
 
 「なるほど!」。
 
 そう声をあげ、感に堪えたように、
 
 「だとしたら、天才の仕事や……」
 
 友は深くうなずきながら、
 
 「ええよなあ。オレも小倉優子に銃突きつけて、《クルクルパーにしちゃうぞ!》とかいえる店あったら、通うもんなあ」。
 
 などと気の狂ったような未来への希望を語っており、まさにこういうファンこそが「負荷」の最たるかもしれない。
 
 友の異常性は、その意味では「正しいありかた」なのだ。
 
 こうして、宇多丸さんとRECさんの鋭い指摘により、またしても謎がひとつ解き明かされた。
 
 ここにもう一度確認しよう。バード星の使者が、地球に残したかったメッセージとは、正義と地球の平和と、
 
 「見てくれ、オレのアイドルプロデュース能力」
 
 という、やはり中2病的自己顕示欲なのであった。
 
 
 
 ☆おまけ コンバットRECさんの選曲が冴えまくる「タマフル」アイドルソング特集は→こちらから
 
 
 
 
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藤子・F・不二雄『パーマン』 バードマンが星野スミレをパーマン3号に選んだ理由 その2

2017年09月14日 | うだ話
 前回(→こちら)の続き。
 
藤子・F・不二雄先生の名作マンガ『パーマン』。
 
 この作品ににおいて、パーマンの選出に「ガキサル」を選んだバードマンの意図は、完全に
 
 「ウケ狙い
 
 であったろろうと、友人フカエ君と結論づけた私。
 
 あきらかに、チョイスの基準がおかしいのだ。笑いを取りにいってるとしか思えない。
 
 きっと、吉本か人力舎あたりに所属して、
 
 
 「こんなパーマンはイヤだ」
 
 
 のような大喜利をやっているのだろう。いわば、パーマンセットを使った「モノボケ」である。
 
 これに関して、フカエ君はさらなる証拠を提示してくる。
 
 「3号なんかアイドルやぞ」
 
 パーマン3号。通称パー子。その正体は、星野スミレ
 
 売れっ子スーパーアイドルである。今でいうなら、さしずめ先日卒業された、元AKB48渡辺麻友さんのようなものか。
 
 たしかに、なんでそんな人を選ぶのか。
 
吉田豪さんの『元アイドル!』によると、アイドルなんて時給でいえば100円くらいで、分単位秒単位で仕事をしているという。
 
 文字通り、寝る間もないくらいに、働いているのだ。それに、さらに仕事をしろと。
 
 それも、「地球平和はまかした」って、それ責任重すぎである。 
 
 今の日本は、働きたくても仕事がない人とかいるんだから、そういうところを選んでみてはどうか。
 
 日本で一番いそがしい人を選ぶとか、選考基準が狂っているとしか思えない。
 
 タクシーの中とかで、
 
 「移動中に20分だけ寝られます。その後はラジオの生放送と取材3本とリハーサルで、終わったらすぐ収録にむかってください」
 
 とかマネージャーに言われているところに、バッジがピロリロリと鳴って、
 
 「パー子、聞こえるか。ソマリア沖で、日本のタンカーが海賊に襲われている。救出に行くぞ」
 
 とか、呼び出されるのである。
 
 そこいらのブラック企業も真っ青の酷使ぶりだ。鬼か、バードマンは。
 
 しかも、さらにおかしいことに、パーマンは正体をばらしてはいけないという決まりがあり、やぶると「脳細胞破壊銃」で、「クルクルパー」にさせられてしまう(なぜ?)。
 
 「見せるのが商売」なアイドルであるというメリットゼロなのだ。だから、選んでやるなってば。
 
 こんな理不尽きわまりない「パーマン3号」選考だが、ある日その謎が少し解けることとなった。
 
 きっかけはラジオ番組「ライムスター宇多丸のウィークエンドシャッフル」(略称「タマフル」)だ。
 
 その日のテーマがアイドルであり、宇多丸さんとゲストのコンバットRECさんが、その魅力について語っていた。曰く、
 
 
「アイドルはその魅力の中にある微妙な《ほつれ》がいい」

  「彼女らに大事なのは《やらされてる感》」
 
 
 などなど、アイドル素人の私には勉強になる内容だったが、そこにこんな言葉が出たのだ。
 
 
「アイドルはMであり、プロデューサーがS。アイドルの輝きは、いかにスタッフ側が彼女たちに《負荷》をかけるかにかかっている」。
 
 
 
 (続く→こちら
 
 
 
 
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藤子・F・不二雄『パーマン』 バードマンが星野スミレをパーマン3号に選んだ理由

2017年09月13日 | うだ話
 「バードマンって、ちょっとねらいすぎやろ」
 
 先日、友人フカエ君と一杯やっているときのこと、彼が唐突にそんなことをいい出した。
 
 バードマンってだれのことやねん、と問うならば、はたしてそれは藤子・F・不二雄先生の漫画である『パーマン』の話なのであった。
 
 その中に出てくる、バード星からの使者。またの名を「スーパーマン」。
 
 パワーを増強するヘルメットや、時速119キロで空を飛ぶマントなど、「パーマンセット」を人類にあたえて、「パーマン」として地球の平和のために働くよう指示するのが仕事である。
 
 そんな、バードマンであるが、なにをしてフカエ君に「ねらいすぎ」と言わしめるのかと問うならば、
 
 「あいつのパーマン選出の基準がイカれてる」。
 
 はて、なにかおかしなところがあるのか検討してみると、
 
 「1号から順に考えてみい」。
 
 パーマン1号といえば、言わずと知れた、ミツ夫君という男の子だった。須羽ミツ夫。
 
 まあ、どこにでもいそうな、ごく普通の少年である。
 
 これに、フカエ君は疑問を抱く。
 
 「変やろ」
 
 なるほど、少年といえば聞こえは良いが、和文和訳すれば「ただのガキ」。
 
 あらためて検討するまでもなく、パーマンセットというスーパーアイテムをあたえるには、若干信用がおけない相手である。
 
 地球をたくすのだ、もっと責任感があり、能力的にもすぐれた大人にするべきではないのか。
 
 それこそ、優秀な警官とか、自衛隊のレンジャー部隊とか。
 
 もし子供が、そんな大きな力を手に入れたら、とんでもないことをするのではないか。
 
 ムカつく先生をなぐりつけたり、イジメ万引きに使用したり、放課後に好きな女子のを、こっそり吹いたりするのではないか。
 
 もちろん私は、子供のころから正義とモラルを重んじる紳士であったため、そんなことはしないが、フカエ君ならやるだろう。
 
 そういわれると、たしかに判断基準が不明だ。そこで納得すると、フカエ君は「さもあろう」と大きくうなずき、
 
 「2号が、またおかしい」。
 
 2号といえば、サルである。
 
 なぜエテ公にパーマンセット。我々は『2001年宇宙の旅』のオープニングのごとく、がんばって進化して、地球を何度も木っ端みじんにできる人類になったというのに、あえて逆走してブービーとは。
 
 進化の価値はいずこ。
 
 サルで有名な大阪府箕面市では、ただでさえ野ザルが大暴れして問題になっているというのに、そこにパーマンセットをあたえてどうするのか。
 
 そんな超モンキーがいたら、街一個くらいなら壊滅させられてしまうのではないか。
 
 リアル『猿の惑星』である。このチョイスには、ダーウィン先生も砂を噛む思いであろう。
 
 うーむ、いわれてみれば。なんであえてガキとサルなんだ。わざとやってるとしか思えない。
 
 彼はこの選択から、我々になにを伝えたいというのか。
 
 そのことを解明すべく、フカエ君との深夜に及ぶ、侃々諤々の討論の末に出た結論。
 
 すなわちバード星の使者が、地球に残したかったメッセージとは、正義と地球の平和と、
 
 「見てくれオレのギャグセンス
 
 という、中2病的自己顕示欲なのであった。
 
 
 
 (パーマン3号編に続く→こちら
 
 
 
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池澤夏樹&秋吉輝雄『ぼくたちが聖書について知りたかったこと』で、レッツ! ゆるゆるユダヤ教

2017年09月10日 | 
 『ぼくたちが聖書について知りたかったこと』を読む。
 
 作家の池澤夏樹氏と、ヘブライ語の研究者である秋吉輝雄氏が、聖書というものを軸に宗教について語るというもの。
 
 旧約聖書ユダヤ教といった、世界史的にメジャーなのにもかかわらず、なんとなくなじみのない宗教について、言及されているところが興味深い。
 
 ヘレニズムの影響を受けて、外へ拡大したキリスト教とちがって、バビロン捕囚から、ユダヤ教はどこまでも身内だけでループした。
 
 それゆえユダヤ教は世界宗教になれなかったが、その分原理主義的に結束が強くなったといった指摘など、歴史理解に非常にためになる話が満載。
 
 日本人が宗教にピンとこなかったり、偏見があったりというのはよく言われることだが、これが歴史的に密なつながりのないユダヤ教となると、さらにわからないことだらけだ。
 
 その際たるは宗教的戒律。
 
 曰く「を食うな」とか、「安息日は休め」とか、断食とか、乳製品は一緒に食べるなとか、魚はのついているものはダメとか。
 
 なんで、ウロコのついていない魚はダメなのか。ウナギの蒲焼き、おいしいよ。
 
 乳製品と肉がダメとなれば、池澤氏が指摘するように親子丼は食べられないということで、宗教素人には「じゃあピザもダメなのか」と、たいそう残念な気分になってしまう。
 
 あれこれと厳しい戒律があり、ユダヤ教徒は息苦しくないのかといえば、秋吉さんによると、ひそかな抜け穴というのはあるらしい。
 
 たとえば、ユダヤ教は金曜から土曜日安息日
 
 その日は、一切の労働を禁じられている。
 
 というと、
 
 「わーい、仕事しなくてよくてラッキー」
 
 などと安易に考えてしまいがちだが、ユダヤの安息日をなめてはいけない。
 
 ユダヤ教では土曜日には、エレベータボタンを押すのも禁止なのである。それは「労働」にあたるという。
 
 ちゃんと休めよ。
 
 そのからの命令によって、エレベータのボタンも押せない。
 
 こういったことを聞くにつれ、
 
 「宗教って、めんどくせーなー」
 
 と思うわけだが、それは当のユダヤ教徒でも思うようなのだ。
 
 神、めんどくさ、と。
 
 なので、きびしい戒律にもスキマを見つけて、あれこれとしのぐそうな。
 
 「安息日には、エレベータのボタンも押してはいけない」
 
 という規則には、こんなルールが適応される。
 
 「たまたま身体が、ボタンにぶつかったのならOK」。
 
 たまたまならOK
 
 そんな、アバウトでいいのか。
 
 というか、そういう抜け道でもないと、たしかに高層マンションに住んでいる人とか、えらいことになる。
 
 お年寄りとか、エレベータなしで、どう生活すればいいのか。そこに「たまたまならOK」。
 
 きっと週末には、世界中の高層ビルやマンションが、「たまたま」ボタンにぶつかってしまったユダヤ人で、あふれるのであろう。
 
 他にも、旅行をするのに、前もって歩行のゆるされる場所まで荷物を持っていって、安息日にそれを拾っていくとか、ヒゲを剃ってはいけないけど、
 
 「電気カミソリはいけないとは聖書に書いてない
 
 だから、電気カミソリでヒゲを剃るのはあり
 
 すごい理屈だ。というか、それいっちゃったら、けっこう多くの「労働」がゆるされてしまうのでは?
 
 スマホでエロ動画検索も、聖書の記述にないからアリとか、ありがたい話だ。
 
 安息日は、煙草を吸うのも禁止だが、どうしても吸いたければ、前日からロウソクをつけておいて、その火で煙草に火をつけ、
 
 「マッチをするのは安息日にはしてはならないけど(「労働」だから)、このロウソクは前日につけていたからセーフ」。
 
 池澤氏いうところの「スーパー屁理屈」というとか、ほとんど一休さんの世界であるが、それもありなのである。
 
 ハシを渡ってはいけないから、真ん中を渡ってきたんですよ。
 
 なんだか妙に人間くさいというか、こういう話を聞くと、ふだんはなじみのないユダヤ教というのが、ぐっと身近に感じられる。
 
 ユダヤにしろイスラムにしろ、ともするとガチガチのお堅い人をイメージしてしまうが、案外とゆるく対応している人もいるようだ。
 
 人生ゆるゆるがモットーの私としては、多いに参考にしたいところである。
 
 
 
 
 
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安藤健二『封印されたミッキーマウス―美少女ゲームから核兵器まで抹殺された12のエピソード』 その3

2017年09月07日 | 

 前回(→こちら)に続いて、安藤健二封印されたミッキーマウス―美少女ゲームから核兵器まで抹殺された12のエピソード

 本書のメインディッシュといえば、前回も紹介した、



 「滋賀県の小学校が、卒業制作としてプールの底にミッキーマウスを描いたら、ディズニーからクレームが来て、むりやり消去された」



 という都市伝説めいた事件だが、クリーンなイメージと裏腹に、宮崎駿監督いうところの「米帝ディズニー」には、この手のアヤシゲな噂がよく似合う。

 そこで前回は、



 「セレブを集めて、ディズニーランドの地下で開かれている秘密のパーティー」



 という謎を、信頼できる筋からの情報で、見事白日の下にさらすことができたわけだが、この種の話で、もうひとつ有名なのがコレ。



 「ディズニーランド LSD説」



 ディズニーランドが、なぜあんなにも楽しいのか。

 それは、LSDの魔力にかかっているからなのである!

 ディズニーアニメが、あんなにもハッピーでアゲアゲなのは、アニメーターがLSDをガンガンにキメているせい。

 その麻薬のトリップ感をスクリーンで表現すべく、みなが筆を振るっているわけだから、観客がトリコになるのは当たり前なのだ。


 シンデレラ城も、イッツスモールワールドも、カリブ海賊も、これ全部ラブでピースでイリュージョンな、アヤシイお薬の作用。

 これは歌手で作家の大槻ケンヂさんが提唱していた説で、



 その証拠に、ミュージシャンが東京ディズニーランドに行くと、みんな

 《あれ、これって「アレ」じゃん!》

 ってものすごくうれしそうな顔するんだよ。だって、LSDキメた感覚と同じだから。合法ドラッグなんだよ!





 なるほど、オランダの首都アムステルダムマリファナ売春合法なところから、


 大人のディズニーランド」


 と呼ばれてるが、大人もなにも、ディズニーランド自体が、元々ルーシインスカイだったわけである。ホンマかいな。

 余談であるが、オーケンもまた自らのエッセイで、私が前回紹介した



 竹内義和氏から聞いた、岸部シローの談話」



 についてふれていた(どうやら、一部ではけっこうメジャーなエピソードらしい)。

 そこでは「ボク、行ったもん」に続く、新たなシロー情報が公開されており、その内容はどのようなものかといえば、



 「ディズニーの地下では、料理でが選べた」



 なんだそれはという話だが、まあ料理が多彩なのはいいことではある。

 肉と魚。機内食か。この情報のすっとんきょうさもまた、怪しげな都市伝説の味といえるであろう。

 それにしてもシローは、数あるディズニーのミステリーの中から、なぜあえてこの話を選んで披露したのか。

 パーティーの規模とか参加したメンバーとか、もっとほかに語るべきことはなかったのか、謎は深まるばかりである。





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安藤健二『封印されたミッキーマウス―美少女ゲームから核兵器まで抹殺された12のエピソード』 その2

2017年09月06日 | 

 前回(→こちら)に続いて、安藤健二封印されたミッキーマウス―美少女ゲームから核兵器まで抹殺された12のエピソード』を読む。

 本書のメインディッシュといえば、前回も紹介した、


 滋賀県小学校が、卒業制作としてプールの底にミッキーマウスの絵を描いたら、ディズニーからクレームが来てむりやり消去された」


 という、都市伝説めいた事件だが、クリーンなイメージと裏腹に、宮崎駿監督いうところの「米帝ディズニー」には、この手のアヤシゲな噂がよく似合う。


 ホーンテッドマンション幽霊が出る」

 「園内はカラスよけに、特殊な電磁波を出している」



 なんてのが代表的だが、私が好きなのは



 「ディズニーランドには秘密の地下室が存在する」



 テレビのバラエティー番組でも紹介されたりして「今さら」感あるネタだが、私が聞いたのはそれだけでなく、もうひとつの地下。

 そこは、一部の限られたセレブしか集まることができず、24時間ノンストップでパーティーが開かれている。

 ハリウッドスターなどがおとずれ、ミッキーやミニーがシャンパンなどをついでまわり、なにやらアヤシゲなことをしているのだとか。

 この話の出所は、ラジオ番組『サイキック青年団』でおなじみの竹内義和さん。

 竹内さんはそこで、「これはね、かなり信憑性のある話ですよ」と前置きしたうえで、



 「その証拠に、行ったことある人に聞きましたから」





 おお、それはすごい!


 「ディズニーランドにイリーガルな地下室がある」


 これだけでは、もう100万回聞いたヨタ話であるが、実際に行ったことがあるという証言が!

 これは、相当に信憑性ありとみていいだろうということで、その秘密のパーティーに参加したのは誰なのかと問うならば、竹内アニキ曰く


 


「それがね、岸部シローさんなんですわ」





 岸部シロー

 すごい情報源である。なんでも竹内アニキが



 「ディズニーランドの地下っていう都市伝説、あれってホンマなんですかね」



 そうなにげなくいったところ、シローはこう答えたという。




 「ああ、あれね。本当だよ。ボク行ったもん




 行ったもん

 なんというのか、リアリティーがどうとかいう前に、ここで岸部シローを出してくる竹内アニキのセンスがすばらしい。

 ディズニーで、地下室で、セレブで、秘密パーティーで、その証拠が岸辺シロー

 で、その証言の内容というのが、




 「ボク行ったもん」




 なにがどうということもないが、絶妙の人選といえよう。

 そうかあ、岸部シローかあ。

 まあ、一時期は相当羽振りよくて、骨董関係でブイブイいわしてたらしいから、そのツテでセレブ入りしたのかもしらんなあ。

 それにしても夢の国もディズニーで、その地下セレブがなにやらパーティーをしていると聞けば、ずいぶんと危険な香りが漂うが、



 「岸部シローが顔パス



 と言われると、なにやら積み上げてきたものが一瞬で瓦解しそうである。

 ありがたみがないことこの上ないが、そのあたりがいかにも都市伝説であり、よくできている。

 さすが竹内アニキ、感心させていただきましたわ。

 今なら吉田豪さんあたりが、真相を知っているかもしれないなあ。



 (続く→こちら



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安藤健二『封印されたミッキーマウス―美少女ゲームから核兵器まで抹殺された12のエピソード』

2017年09月05日 | 

 安藤健二封印されたミッキーマウス―美少女ゲームから核兵器まで抹殺された12のエピソード』を読む。

 安藤健二さんといえば、その著書で、


 『ウルトラセブン』第12話「遊星より愛をこめて」

 『オバケのQ太郎』

 『キャンディキャンディ』


 などといった「封印作品」にこだわり、その原因や作品のその後などを、丹念な取材により伝えてくれる。

 この『抹殺された』は、雑誌に掲載されていた記事をまとめたもの。

 取材拒否にあって尻切れトンボに終わってるものもあるせいか、代表作である『封印作品の謎』ほどのまとまりはないものの、


 「タイタニックの日本人生存者」


 という記事は一読の価値がある。

 沈没したタイタニック号には日本人の細野正文という乗客がいて、彼はなんとミュージシャンである細野晴臣さんのおじいさん。

 実はこの細野正文氏、幸運なことにあの惨事から辛くも生還できたのであるが、帰国後



 「他人を押しのけて救命ボートに乗った」



 という報道がされたことによって、非難の目にさらされることになる。

 安藤氏は、その真偽を確かめるべく奔走するのであるが、かなり踏みこんで取材してあり、その検証もなかなかのもの。読み応えは充分であった。

 もうひとつ気になる記事といえば、やはりタイトルにもあるミッキーマウスであろう。

 ディズニーといえば夢の国であり、世界中の人々から支持を集めているが、同時に人気者の常として、なにかとダークディープなエピソードにも事欠かない。

 戦中反日反ナチのプロパガンダアニメや赤狩りなど、「闇の王子」の一面は有名だが、日本でディズニーエピソードといえば、本作でも取り上げられている、

 「滋賀県の小学校が、卒業制作としてプールの底にミッキーマウスのを描いたら、ディズニーからクレームが来てむりやり消去された」



 まったく、おそろしい話ではないか。

 子供たちが楽しそうに、みんなで絵を描いているところ、きらびやかなスターパレードの音楽とともに、作業服着てサングラスかけた土建屋ミッキーやドナルドが登場。

 電飾キラキラで飾りつけた巨大なブルドーザーを操縦して、。子供たちが泣いて懇願するのを足蹴にし、

 「権利とか、いろいろおまんねんで」



 かわいいダンスを踊りながら、天安門事件の戦車のように、プールの底にしつらえたキャンバスを容赦なく破壊

 そしてすべてが終わったあとには学校や保護者宛の、ものすごい数のゼロのついた請求書だけが残されていた……。

 なんていう、話のディテールは聞くところによってさまざまだが、大筋はこんな感じだ。

 封印マスター安藤氏は、この都市伝説にも果敢に踏みこんでいくが、さすが相手が相手だけに、なかなかうまく取材もできないことも多く、結果はよくわからないことになっている。

 やや消化不良な結末となってしまっているが、これは瑕疵ではなく、著者ほどの踏みこみを見せたにもかかわらず、切っ先が真実に届かなかったところが逆にリアルであるともいえる。

 本当にややこしいことというのは、そう簡単に掘り起こせないものなのかもしれない。

 結局のところ、ブルドーザーのようなわかりやすい「悪のディズニー」みたいなものは、それこそ「伝説」にしても、ただのトリビア的おもしろエピソードと笑ってすませられないような不穏な空気感は満載。
 
 実際に安藤さんも取材中に何度も、



 「もう、その話はいいでしょう」



 と言われたそうで、現場に気まずい禍根を残すだけのなにかがあったことだけは、たしからしい。

 それにしても、ディズニーというのは宮崎駿さんに「米帝ディズニー」と呼ばれるだけあって、この手の都市伝説のようなものがよく似合う。

 ディズニーランドのファンはよく「かくれミッキー」を見つけてはよろこんでいるが、


 リアルかくれミッキー」


 これは、今日もまたどこかで、ひそかにブルドーザーを転がしているのかもしれない。

 ねずみの絵を描くときは、ご用心、ご用心。



 (続く→こちら




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