前回の続き。
1995年の第8期竜王戦。
羽生善治竜王と佐藤康光七段の七番勝負、第6局は両者ゆずらぬ大熱戦になった。
羽生優勢から、一瞬のスキを突いて佐藤が一気の追い上げを見せる。
図の△95桂が強烈な一撃。
▲同歩とは取り切れないし、後手からは銀が入れば、自動的に先手玉の詰めろになる仕掛け。
そして、その銀は盤上に2枚落ちている。
佐藤のパンチが急所に入り、さすがの羽生も朦朧としたそうだが、ここでまた、すごい勝負手を振り絞ってくる。
秒読みの嵐の中、▲33歩、△同桂に▲41銀と打ったのが目を疑う手。
先手玉は銀を渡すとお陀仏なのに、その銀を攻めに使うと。
とんでもない度胸であるが、羽生によるとここでは、
「慌てて指した手で、その後は負けだと覚悟しました」
苦肉の策だった。しかも、この銀は△87桂成からバラした後、△81飛が王手で抜かれてしまうのだ。
ここでは行方尚史五段が指摘の、▲25桂が有力で、△同桂に▲33歩なら難解ながら後手玉は寄っていた。
うーむ、さすがはナメちゃん、するどい!
これを逃し、なら先手負けかといえば、そうではないのが勝負の不思議で、1分将棋でこの銀打は不思議な魔力を発揮するのである。
佐藤は△87桂成として、▲同飛成、△同竜、▲同玉に△81飛と王手銀取りをかける。
自然な応手で自陣の憂いを消し、佐藤はここで優勢を確信した。
それ自体は間違っていなかったが、△81飛と打つところでは、△31金打や△42金打と守るほうが勝っていたという。
飛車を手持ちにしたままの方が、先手玉を寄せるのに役立つし、これで強引に銀を入手してしまえば詰めろになって、先手も受けがむずかしい。
とはいえ1分将棋では、△81飛と打ちたくなるのも人情で、しかも、それで後手優勢なのだから、佐藤康光も責められるいわれは、ないわけだ。
ただ、あくまで結果的にではあるが、この銀打ちは小さいながらも、逆転のタネになった可能性はある。
自陣に使わせた飛車は、その後あまり働かなかったからであるが、これはさすがの羽生も、そこまでねらっていたわけではないのだが。
△81飛、▲83歩、△41飛で、手番が来た羽生は▲33銀成として、△同金に▲52飛と王手。
△32金打とガッチリ受けるが、この次の手が、またも羽生の渾身の勝負手だった。
▲56歩と、このタイミングで受けに回るのが、「羽生マジック」と呼ばれるゆさぶり。
ふつうなら、先手は手番をもらった一瞬に、なんとかラッシュをかけて、後手玉を仕留めてしまいたいところのはずだ。
当然、佐藤もそこに絞って、自陣のしのぎ形からのカウンターを、懸命に読んでいたことだろう。
そこに、この驚愕の手渡し。
しかも、ここで△63角とされると、負けが決定しそうな場面でもあるのだ。
それを「やってこい」と。
どういう神経をしてるのか。これにはさすがの行方も、
「見た瞬間に、僕の頭も切れちゃいました」
それくらいに、信じられない一手なのだ。
竜王位のかかった、この修羅場中の修羅場で、しかも相手の好手が見えながら手を渡せるとは……。
佐藤の前に、フワッとチャンスボールが上がった。
あとはそれを、スマッシュすれば決まりである。
だが、ここで佐藤が最後の最後に間違えた。
△63歩と取ったのが、自然なようで敗着になる。
ここではやはり、△63角とすれば、後手が勝っていたのだ。
羽生は△63角には▲同馬と取って、△同歩に▲25桂とせまるつもりだったそうだが、△42金打と受け手、▲33桂成、△同金直で後手が勝ちそう。
本譜は△63歩以下、▲44馬、△51歩、▲62飛成、△52金と、自陣に駒を埋め後手が手堅そうだが、こうなると攻め駒も減っている形になり、先手にプレッシャーがなくなる。
以下、▲71竜、△27角成に、▲25桂で、とうとう先手が勝ち筋に。
△41の飛車も、隠遁して働いてなく、こうなると▲41銀が「毒まんじゅう」の働きになって、それなりに意義があったことになる。
勝つときというのは、こういうものだ。
この将棋は▲41銀や△81飛、△63歩など最終盤は精度を欠いたように見え、実際、観戦していた田村康介四段も、
「この棋譜だけを単に評価するなら、「駄局」の部類に入ると思います」
しかし、それに続けて、
「ただ、1分将棋で65手も指したことを考えると、もはやこれは最高級レベルと言うしかない」
『将棋世界』で、この将棋を「羽生と佐藤康光の名局」のひとつとして取り上げた、勝又清和七段も、
「延々と続く1分将棋で、この応酬を披露できるのがすごい」
やはり△95桂に対する、▲33歩から▲41銀の流れに感嘆している。
この一局を振り返って羽生は、
「いや、今回はエネルギーを使いました。こんなに使ったのは珍しいというか、はじめて、ですね」
佐藤は負けが確定した場面について、
「つらかった。つらかったけど、自分の指した将棋ですから。島さんの言う『自分の指す将棋に責任を持つ』そんな心境で指してました」
観戦者によると、対局場の女性スタッフが、モニター越しに食い入るよう、この対局を見据えていたという。
そのことが、どんな詳細な解説よりも、この一局の、すさまじさを表わしている。
激闘を制した羽生は、これで竜王を防衛。
ライバルに一発食らわせ、羽生時代を、ますます盤石のものにしていくのであった。
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