ジョーカーの一手パス 羽生善治vs藤井猛 2000年 第48期王座戦 第4局

2019年12月25日 | 将棋・好手 妙手

 将棋の終盤戦はおもしろい。 

 前回は「カミソリ流」勝浦修九段の切れ味を見ていただいたが(→こちら)、今回はその真逆ともいえるような、ゆるく見える手を紹介したい。

 「手を渡す」ことが、将棋ではいい手になることがある。

 双方とも指す手が難しかったり、また不利な局面で相手を惑わせたりするため、あえて1手パスするような手で手番を渡す。

 私のような素人がやると単に1ターン放棄しただけになり、ボコボコにされるだけだが、強い人に絶妙のタイミングでこれをやられると、ムチャクチャにプレッシャーをかけられる

 そういう混乱と恐怖を生み出す手が、抜群にうまかったのが、昭和なら大山康晴十五世名人、平成では羽生善治九段だった。
 
 
 
今年のA級順位戦。羽生善治九段と渡辺明三冠の一戦。
 超難解な寄せ合いのさなか、▲95歩とじっと相手の歩を取るのがすごい手。
 読みか度胸か開き直りか、とにもかくにも「羽生らしい」一着だ。
 「読みになかった」という渡辺三冠は、それでもなんとか勝って(これもすごい)「幸運でした」と胸をなでおろしたが、個人的には今期のハイライト級の場面だった。 
 
 
 こういった話で思い出すのは、以前、映画『ダークナイト』を観たときに、なぜか羽生将棋を連想したこと。
 
 あの物語の悪役である、ジョーカーの攻撃法こそが、こういうものだった。
 
 
「正解というものが存在しない問いで、人の心を試す」
 
 
 最近話題の「トロッコ問題」や「カルネアデスの板」「囚人のジレンマ」のような模範解答がなく、またどう答えてもなんらかの「しこり」が残りそうな状況。
 
 これをつきつけ、「善良な市民」やバットマンが、エゴと倫理のはざまで煩悶するのを、冷たく見下ろす。
 
 そう、ジョーカーの目的は破壊や暴力ではなく、人に「悪手を指させる」こと。
 
 その後悔と罪悪感で、心をさいなんでいく。
 
 大山や羽生の手渡しには、そういう「試される」という、まさにメフィストフェレス的な恐ろしさがある。
 
 そして、多くのトップ棋士たちが「誤った選択」を余儀なくされ、自滅へと誘われるのだ。

2000年の第48期王座戦

 羽生善治王座(王位・棋王・王将・棋聖)に藤井猛竜王が、挑戦者として名乗りをあげた。

 このころの将棋界といえば「藤井システム」が猛威を振るっており、天下の羽生ですらその対策をなかなか見いだせず、このシリーズも1勝2敗とリードをゆるす苦しい展開に。

 カド番に追いこまれた第4局で、羽生はこれまでの持久戦模様を捨て、オールドタイプの急戦を選択。

 システム攻略はとりあえず無理と見て、勝負にこだわった「戦略的撤退」だったが、この将棋の羽生が強かった。

 

 

 

 ▲45歩早仕掛けから、▲95歩と突くのが、郷田真隆九段鈴木大介九段に放った手で「郷田新手」と呼ばれる形。

 △同歩に▲同香と捨てて、△同香に、手に入れた一歩を▲43歩とタタいて使う。

 

 

 

△52飛に、▲44角と銀を取って、駒得に成功。

 穴熊や左美濃と違って、舟囲いは玉がから離れているし、▲43歩の拠点も大きく、これでやれるといのうが郷田の構想だ。

 先手不利と言われたところから、この鮮烈な手で古い定跡がよみがえったのだが、ただ先手も歩切れだし、を自陣に侵入されるのも、現実に相当気持ち悪い。

 まさに「肉を切らせて骨を断つ」だが、以下、△55歩、▲同歩、△98香成▲56銀と立って、中盤のねじり合いに突入。

 

 

 

 ここから後手は、いったん先手の角を追ってから、5筋で歩を駆使して先手陣にせまっていく。

 むかえたこの局面。後手が△65桂と打ったところ。

 

 

 

 単騎の攻めだが、先手は9筋を明け渡し、自陣の桂香を取られているため、玉頭戦になると薄さが目立ってくる。

 9筋は先に封鎖され、またいつでも△21飛と、質駒を取られる筋がある。

 他にも△54金とか、場合によっては強引に、△54飛とタックルをかましてくるかもしれない。

 かなり怖い形だが、ここで飛び出したのが、まさに「羽生の手渡し」の真骨頂だった。

 

 

 

 

▲93歩と、こんなところにタラすのが、のけぞるような1手パス

 いや、正確にはパスではない。この手自体はよく見る形だ。

 美濃や矢倉を相手にして、ここにじっとを置いておくのは、端攻めの基本のキである。

 しかしだ、先手陣は▲77の地点がポッカリ空いていて、すでに桂馬の照準にとらえられている。

 一方、先手の9筋には香がなく、▲95香のような追撃態勢がない。

 持駒に桂もないから、▲94桂みたいな王手もできない。

 つまり、この一手が後手陣に響いているのかは相当に不明なのだ。

 それを承知でボンヤリと味をつける。

 

 「好きに攻めていらっしゃい」

 

 このくそいそがしい場面で、どんだけ度胸あるんや……。

 

 これがねえ、本当に迷うんですよ。

 棋譜だけ見たら「ただの緩手やん」てなもんだけど、こんなもん実戦で食らったら、もう頭をかかえます

 みなさまも、指導対局の駒落ち戦なんかで、経験ありませんか?

 上手にポンと手番だけもらって「ありがたい」と思う反面、

 

 「でも、本当にパスなの?」

 「次に読んでない、すごいねらいがあるのでは?」

 「だって、相手は強いし……」

 

 疑心暗鬼にもかられ、

 

 「いい手を指さなくては」

 

 というプレッシャーもあり、時間は削られ、攻めれば駒を渡すからそのカウンターも警戒しないと、とか、もう心は千々に乱れまくるのだ。

 これぞまさに、ジョーカーが仕掛ける問い。

 羅針盤もなしに、いきなり大海原に放り出され、目の前ではあの羽生善治が、

 

 「苦しいでしょ? さあ、悪手を指してください」

 

 と待ち構えている。そこで「正解」を突きつけるのは至難である。

 苦渋の末、藤井は目をつぶって△54金と最強の手を選ぶ。

 以下、▲42歩成△21飛▲52と△55金と大きな振り替わりに。

 後手もかなりせまっているが、そこで▲68金直と上がるのが冷静な一手。

 

 

 

 これがもう、ギリギリの場面でのすばらしい落ち着きで、先手陣に速い攻めがない。

 だれが言ったか、こんな言葉があるという。

 

 「羽生の舟囲いは固い」
 

 以下、△56歩、▲48銀、△47歩と追及するが、攻めが遠のいたところで▲21桂成と飛車を取る。

 やむを得ない△52金に、▲92香で、後手陣は寄り。

 

 

 

 あの遅そうに見えたタレ歩が、ここで間に合ってくるのだから、まったくおそろしい。

 この将棋は、中盤の難所で手を渡す度胸見切り

 そして終盤の落ち着いた受けと、どちらも地味な手ながら、羽生将棋の強さと魅力が存分に発揮されている。

 これに勝って、スコアをタイに戻した羽生は第5局も制し、逆転防衛を果たすのだった。
 
 
 
  (谷川浩司と羽生善治の運命が分かれたシリーズ編に続く→こちら
 
 (羽生が久保利明に見せた驚異の一手パスは→こちら
 

 


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