将棋の終盤戦はおもしろい。
前回は「カミソリ流」勝浦修九段の切れ味を見ていただいたが(→こちら)、今回はその真逆ともいえるような、ゆるく見える手を紹介したい。
「手を渡す」ことが、将棋ではいい手になることがある。
双方とも指す手が難しかったり、また不利な局面で相手を惑わせたりするため、あえて1手パスするような手で手番を渡す。
私のような素人がやると単に1ターン放棄しただけになり、ボコボコにされるだけだが、強い人に絶妙のタイミングでこれをやられると、ムチャクチャにプレッシャーをかけられる。
2000年の第48期王座戦。
羽生善治王座(王位・棋王・王将・棋聖)に藤井猛竜王が、挑戦者として名乗りをあげた。
このころの将棋界といえば「藤井システム」が猛威を振るっており、天下の羽生ですらその対策をなかなか見いだせず、このシリーズも1勝2敗とリードをゆるす苦しい展開に。
カド番に追いこまれた第4局で、羽生はこれまでの持久戦模様を捨て、オールドタイプの急戦を選択。
システム攻略はとりあえず無理と見て、勝負にこだわった「戦略的撤退」だったが、この将棋の羽生が強かった。
▲45歩早仕掛けから、▲95歩と突くのが、郷田真隆九段が鈴木大介九段に放った手で「郷田新手」と呼ばれる形。
△同歩に▲同香と捨てて、△同香に、手に入れた一歩を▲43歩とタタいて使う。
△52飛に、▲44角と銀を取って、駒得に成功。
穴熊や左美濃と違って、舟囲いは玉が端から離れているし、▲43歩の拠点も大きく、これでやれるといのうが郷田の構想だ。
先手不利と言われたところから、この鮮烈な手で古い定跡がよみがえったのだが、ただ先手も歩切れだし、香を自陣に侵入されるのも、現実に相当気持ち悪い。
まさに「肉を切らせて骨を断つ」だが、以下、△55歩、▲同歩、△98香成、▲56銀と立って、中盤のねじり合いに突入。
ここから後手は、いったん先手の角を追ってから、5筋で歩を駆使して先手陣にせまっていく。
むかえたこの局面。後手が△65桂と打ったところ。
単騎の攻めだが、先手は9筋を明け渡し、自陣の桂香を取られているため、玉頭戦になると薄さが目立ってくる。
9筋は先に封鎖され、またいつでも△21飛と、質駒の馬を取られる筋がある。
他にも△54金とか、場合によっては強引に、△54飛とタックルをかましてくるかもしれない。
かなり怖い形だが、ここで飛び出したのが、まさに「羽生の手渡し」の真骨頂だった。
▲93歩と、こんなところにタラすのが、のけぞるような1手パス。
いや、正確にはパスではない。この手自体はよく見る形だ。
美濃や矢倉を相手にして、ここにじっと歩を置いておくのは、端攻めの基本のキである。
しかしだ、先手陣は▲77の地点がポッカリ空いていて、すでに桂馬の照準にとらえられている。
一方、先手の9筋には香がなく、▲95香のような追撃態勢がない。
持駒に桂もないから、▲94桂みたいな王手もできない。
つまり、この一手が後手陣に響いているのかは相当に不明なのだ。
それを承知でボンヤリと味をつける。
「好きに攻めていらっしゃい」
このくそいそがしい場面で、どんだけ度胸あるんや……。
これがねえ、本当に迷うんですよ。
棋譜だけ見たら「ただの緩手やん」てなもんだけど、こんなもん実戦で食らったら、もう頭をかかえます。
上手にポンと手番だけもらって「ありがたい」と思う反面、
「でも、本当にパスなの?」
「だって、相手は強いし……」
疑心暗鬼にもかられ、
「いい手を指さなくては」
というプレッシャーもあり、時間は削られ、攻めれば駒を渡すからそのカウンターも警戒しないと、とか、もう心は千々に乱れまくるのだ。
羅針盤もなしに、いきなり大海原に放り出され、目の前ではあの羽生善治が、
「苦しいでしょ? さあ、悪手を指してください」
と待ち構えている。そこで「正解」を突きつけるのは至難である。
苦渋の末、藤井は目をつぶって△54金と最強の手を選ぶ。
以下、▲42歩成、△21飛、▲52と、△55金と大きな振り替わりに。
後手もかなりせまっているが、そこで▲68金直と上がるのが冷静な一手。
これがもう、ギリギリの場面でのすばらしい落ち着きで、先手陣に速い攻めがない。
だれが言ったか、こんな言葉があるという。
以下、△56歩、▲48銀、△47歩と追及するが、攻めが遠のいたところで▲21桂成と飛車を取る。
やむを得ない△52金に、▲92香で、後手陣は寄り。
あの遅そうに見えたタレ歩が、ここで間に合ってくるのだから、まったくおそろしい。
この将棋は、中盤の難所で手を渡す度胸と見切り。
そして終盤の落ち着いた受けと、どちらも地味な手ながら、羽生将棋の強さと魅力が存分に発揮されている。