ジョゼフ・ランザ『重力』からの思考実験

2023年08月01日 | うだ話

 「思考実験」というのは、おもしろいものである。

 映画『ダークナイト』で悪役をまかされたジョーカーは、

 

 「もしどちらか一人しか助けられない場合、【社会にとって大切な人】【あなたにとって大切な人】のどちらを選ぶか」

 

 「自分殺されるかもしれないとき、【先手必勝】で人を殺してもいいのか。もしためらうのなら、それが【死んだほうがいい】犯罪者たちならどうか」

 

 といった「心を試す」問題を突きつけることによって、人々やバットマンを苦しめた。

 これはマイケルサンデル教授の講義で有名になった「トロッコ問題」とかゲーム理論の講義に出てくる「囚人のジレンマ」みたいなネタだが、これらの分野に強いのは私も大好きなSFであり、

 

 「もしタイムトラベルが可能になって、過去に戻り自分の親を殺したら」

 

 「もし人類が滅んだあと、別の生物が【主】となった新しい生態系ができたら」

 

 「もし宇宙人が地球で犯罪を犯した場合【法】で裁くことはできるのか」

 

 といった、 シャーロットアームストロングも裸足で逃げ出す

 

 「あなたならどうしますか?」

 

 が満載で、大学のゼミディベート大会から飲み屋のウダ話まで、侃侃諤諤の議論を呼ぶのだ。

 なんて話をはじめたのは、こないだちょっと興味を惹かれる「思考実験」を読んだから。

 翻訳家柴田元幸さんによるエッセイ集『猿を探しに』の中で、こんなエピソードが紹介されていたのだ。

 ネタ元はジョゼフランザの『重力』から。

 

 1994年のこと。あるがビルから飛び降りて死んだ

 ところが死体を調べてみると、頭をで撃ち抜かれていて、どうやら死因は墜落ではなくこちらのよう。

 というのも、このビルは下に自殺防止用ネットがあって、もし撃たれてなければ自殺は成功しなかったかもしれないからだ。

 では、撃ったのはだれなのかと問うならば、ビルの向かいの建物で夫婦喧嘩が原因。

 激高した夫がピストルを取り出しを撃とうとしたが、はずれてしまう。

 それが落下中の男に、たまたま命中したのだ。

 すごい偶然の産物だったが、ではこれは「殺人事件」になるのか?

 それとも「事故」? 「殺人未遂」? 

 だとしたら、責任に対してか死体になったに対してか。

 

 てな感じでございます。

 でも、責任つっても、そもそも男は死のうとしてたし、それを殺したと言って「犯人を捕まえる」ことに意味はあるのか。

 いやいや、自殺未遂ではあるけど撃たれなければ

 

 「たぶん助かっていた」

 

 わけだし、その「あったかもしれないその後の人生」はだれかがつぐなわないといけないんじゃ……。

 さらにこの話には続きがあって、そもそも夫は銃で妻を撃つつもりなどなかった

 

 この夫婦はケンカになれば夫が「弾の入ってない銃」を振り回すのがお約束になっており、本当なら撃ってもなにも起こらないはずだったのだ。

 では、なぜが発射されたのかと問うならば、夫婦の息子が母親におこづかいを止められた腹いせに、こっそりこめておいたから。

 こうしておけば、いつも通りケンカになったとき、空砲だと思っていた父親が母親を撃って殺してくれるだろうと。

 

 うーん、じゃあ悪いのは息子

 でも、もしそうなってたとしたら「実行犯」は父親なわけだし、てゆうか死んだ男と息子は関係ないけど、やっぱりなんかに問われるのかとか。

 そうなると少年法とかもからんできそうだし、どこから手をつけたらいいものなのか……。

 

 という、なんだか法学部の試験に出てきそうな案件なのだが、なんかこういうゴチャゴチャした案件をワチャワチャ議論するのは楽しいなあ。

 みなさんは、どう考えますか?

 ちなみに、私が出した「自分なりの結論」が、柴田先生が書いていたオチとたまたま同じだったので、思わずニヤリとしてしまった。

 


 さんざん考えた末に、なのか、あるいは「なんかもう、どうでもいいよ」と思ったのか、とにかく検屍官が下した結論は「自殺」だったという。


 

 多くの思考実験同様、やはりふつうに地に足つけて考えれば、この結論に行きつくはず。

 いや、「自殺」じゃなくて、「どうでもいいよ」の方なんですけどね……。

 

 

 

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「《現代アート》とはお笑いのボケである」とパオロ・マッツァリーノは言った その2

2020年07月14日 | うだ話
 前回(→こちら)の続き。
 
 「現代アートって、どうやって鑑賞したらいいんですか?」。
 
 そんな難儀な敵との戦いに、ひとつの補助線をひいてくれそうな論としてこういうものがある。
 
 「アートとは、お笑いでいう『ボケ』である」
 
 こう喝破したのは、メイプル超合金のカズレーザーさんもおすすめ『昔はよかった病』などでおなじみの、パオロ・マッツァリーノさん。
 
 「アート」というのがむずかしいのは、個人的な感覚としては
 
 「リアクションの取りようがない」
 
 ということではないか。
 
 スポーツならスーパープレーは素人でも拍手を送りたくなるし、スコアを見ればどっちが有利か形勢もわかる。
 
 お笑いや手品、音楽はまさにそのライブ感覚で、わかりやすく反応できるものだ。
 
 ところが、これが芸術となると、そうはならない。
 
 すぐれた作品を見ても、それが良かれ悪しかれ、「うむ」とか、「なるほど」くらいしか口にしようがない。
 
 もっといえば、私のような自意識過剰な人間など「いい」と思っても、それをすなおに出すのは、
 
 「オレは芸術を理解できるぞアピール」
 
 で、なんだかイタいのではないかと心配になるし、逆に「ダメだ」となっても、それはそれで、
 
 「最新の芸術的センスについていけないポンコツ男」
 
 そう解釈されるのではと、気になって言い出せない。
 
 そうした苦悩の末、目の前にあるものをもう一度確認すると、マネキンがサイケデリックに塗られていて、そこに「原子への飛翔」とか題がついてたりして、頭をかかえることになる。
 
 そこで、この「どないせい」の部分に光をあたえるのが、パオロさんの論だ。
 
 「現代アートっていうのはとは、お笑いでいう『ボケ』」
 
 そこに続けて、こういうわけだ。
 
 「だから、その相手がくり出す珍妙なアイデアに、どんどん『つっこみ』を入れればいいんです
 
 現代アートはボケだから、つっこみを入れろ!
 
 まさに『つっこみ力』なる著書もあるパオロさんならではの意見だが、実はこれは単なるウケねらいではない。
 
 パオロさんの言葉を私なりに要約すると、アートというのものの本質は「非日常的な発想」であると。
 
 われわれがふだん生きていてとらわれがちな「普通」「当たり前」「常識」といった膠着した思考に、別角度の切り口をあたえ、そのことにより感性をゆさぶるのだと。
 
 つまりこれは、構造的にいえば「ボケ」であると。
 
 「サービス」には「レシーブ」「什麼生(そもさん)」といえば「説破」のように「奇想」には「常識からのつっこみ」が正しいリアクション。
 
 なるほど、われわれは難しく考えすぎていたのだ。
 
 それこそ、アートといえばこの人のアンディー・ウォーホールなら、
 
 
 「缶詰ばっかりや! キリスト教原理主義者の地下室か!」

 「毛沢東主席、多いな! これ全員で大躍進と文革やったら、どんだけ死人出るねん!」

  「『エンパイア』8時間て、どんだけやねん! 小林正樹監督の『人間の條件』と、《どっちが地獄かロングラン上映会》開催せえ!」
 
 
 この調子である。
 
 これだったら、どんなワケのわからない作品を見せられても、反応に困ることはない。
 
 ゆにばーすの川瀬名人でも、ラランドのニシダ君でも、好みの「つっこみ芸人」を参考に、どんどん見ていけばいい。
 
 かつて村上隆さんが、ある対談でこんなことを語っていた。
 
 「アートというのは、バカをやることなんですよ」
 
 それこそ村上さんの出すものなど、非常に賛否両論を呼ぶ時があるというか、正直私などもなにがいいのかよくわからないけど、そういうときも、「バカをやる人」に対するように、
 
 「全然おもんないやん!」
 
 「すべっとるがな!」
 
 もう、ガンガンいけばいい。
 
 だって、「アート」なのに、全然心が動かないというのは、漫才やコントでいえば「笑いが起きていない」のと同じようなもの。
 
 「奇想」「バカ」に対して、「ふーん」としか返ってこないなら、それは「すべっている」わけだから、そう伝えるしかない。
 
 お笑い好きの女子高生がライブ後のアンケートに書くように、
 
 「もう少し、ボケの方ががんばってくれると、よりおもしろくなったかもしれません」
 
 とか言っておけばいいのだ。すべってるのは「むこうの責任」なんだから。
 
 以上のようなことを、アビコ君に伝えてみたところ、
 
 「なるほど! それやったら、ボクにもできそうですわ。お笑いやったら、よう見てますし」
 
 こうして私は、一人の悩める後輩をまた救ったのだが、彼によると、後日に有名な「アート映画」に出かけて、彼女の隣で、
 

 「『みーなごーろーしー♪』って楽しそうに歌うな!」

  「火を吹いて後ろ向きに飛ぶとか、どういうセンスや!」
 
 「100万人ゴーゴー大会って、20人くらいしかいてないやんけ、いかす、いかすゥ!」
 
 
 などと、その感性のままにバンバンつっこんでみたそうだ。
 
 これが、思ったよりも痛快であったらしく、
 
 「そうかー、アートってこんなおもろいもんやったんかあ」。
 
 ミイラ取りがミイラというか、アビコ君自体すっかりアートにハマってしまったそうだが、肝心の彼女はといえば、
 
 「こんなオシャレなところで、バカみたいに大声出して、恥ずかしいったらありゃしない!」
 
 すっかりへそを曲げてしまい、気まずいデートとなってしまったという。
 
 嗚呼、まったく芸術をわからぬ無粋な女であることよ!
 
 
 
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「《現代アート》とはお笑いのボケである」とパオロ・マッツァリーノは言った

2020年07月13日 | うだ話
 「現代アートというのは、お笑いでいう『ボケ』なんですよ」
 
 そう喝破したのは、日本文化史研究家で『反社会学講座』『昔はよかった病』などの著作でも有名なパオロ・マッツァリーノさんであった。
 
 なんてはじめてみたきっかけは、少し前に地元の焼き鳥屋で一杯やっているとき、後輩アビコ君がこんなことをたずねてきたからだ。
 
 「現代アートって、どうやって鑑賞したらいいんですか?」。
 
 はて面妖な。アビコ君はふだん、スポーツとギャンブルを愛するガテンなタイプで、そういった文化系の趣味など縁が遠い男。
 
 それが唐突に芸術とか、ははーん、さては女の影響だなとアタリをつけてみたところ、
 
 「そうなんすよ、先輩。彼女が現代アートとかいうのにハマってて、困ってるんスよ」。
 
 ビンゴであった。彼は最近、彼女ができたのだが、くだんの女性が友人に誘われて「現代アート展」なるものを観に行ってから、話題の中心がもっぱらそこになっているのだという。
 
 それ自体は優雅な話であり、芸術で心を豊かにするというのはいいことだとは思うのだが、いかんせんアビコ君は、そういう素養がゼロ。
 
 なんといっても我が後輩は、アート系の友人と話していて、レンブラントやフェルメールを
 
 「日本ハムファイターズの助っ人外国人」
 
 とカン違いし、「ゴッホといえばさあ」と、流れでだれかがいったとき、
 
 「龍角散か」
 
 と答えた伝説の男である。アートなど、引越センターしか浮かばないのだ。
 
 そんな男が、彼女と「アート展」なるものに行って困惑するのも無理はなかろう。
 
 アートとのつき合い方といえば、私は大阪芸術大学に通っていた友人が多いから、その手のイベントには、いくつか行ったことはある。
 
 そこは実に多種多様な「アート」で埋めつくされており、絵画あり、彫刻あり、オブジェありと、なんともにぎやか。
 
 もちろん、まったく理解などできない。
 
 なめられてはいかんので、そこは渋面を作り、いかにも芸術を堪能しているようなふりを、仲代達矢並の演技力で周囲にアピールしているが、内実は、
 
 「これの、どこがおもろいねん」
 
 頭の中はクエスチョンマークでいっぱいだ。
 
 そりゃそうであろう。こわれた自転車の上にコーヒーカップを置いて「英雄の凱旋」。
 
 空き缶でピラミッドを作って「苦悩する静物」とか言われても、こっちはチンプンカンプンである。
 
 「そうでしょ、あんなん全然わからんでしょ。さすが先輩、話が合いますねえ」
 
 龍角散に、そこを「合う」といわれるのも、私としても不本意だが、まあ言いたいことはわかる。
 
 わけのわからん会場に連れていかれて、ちっとも理解できないうえに、横では彼女が、
 
 「ステキね。こういう才能って、なんだか、あたしをちがう世界へと連れて行ってくれる気がするの」
 
 などとほざい……もとい、ウットリ語っているのを見せられた日には、どうも反応しようもない。「そうでっか……」と。もちろん、
 
 「おまえ、そんなん言うてるけど、ホンマにわかってるんか?」
 
 なんてセリフは、ぐっとのどの奥に押し戻さなければならないのだ。えらいぞ、男の子。
 
 そこでこう、難敵「現代アート」にどう対処すればいいのか、アビコ君ならずとも悩むところであるが、そのひとつの回答をたたき出してくれたのが、冒頭のパオロさんである。
 
 「現代アート」=「お笑いの『ボケ』」
 
 この方程式からはじき出される答えとは?
 
 
 (続く→こちら
 
 
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2018年シャロン賞 アイドル部門は元アイドリング!!!の朝日奈央さん

2018年12月21日 | うだ話
 みなさん今晩は、今年もシャロン賞の季節がやってまいりました。
 
 シャロン賞とは私が今年1年で感動させられたり、感銘を受けたりした様々な人や物に対して贈られるもの。
 
 和文和訳すれば、
 
 「冬で寒くて超やってらんないから、思いついたものを起承転結とかなしでテキトーに並べて出します」。
 
 というもので、平成最後の当ページを飾るにふさわしい手抜……もとい、等身大でリラックスした企画であると言えましょう。
 
 ではどんどん行きましょう。
 
 まず「シャロン文学賞」からはミシェル・ウェルベック『服従』とクリストファー・プリースト『奇術師』。
 
 映画「アカデミーシャロン賞」はミヒャエル・ハネケ『白いリボン』。
 
 主演男優賞『処刑ライダー』の外の人。主演女優賞『ガルパン』でロシア語しゃべってた声優さん。
 
 続いて、「シャロン賞アイドル部門」からは、朝日奈央さん。
 
 元アイドリング!!!で、現在ではバラエティー番組を中心に大ブレイク中の彼女だが、感心させられたのはその明るい性格でも、ステキな笑顔でもない。
 
 たまたま見た『ゴッドタン』の「芸人マジ歌選手権」で見せた、お笑いコンビにゃんこスターの完コピ芸。
 
 ボーっと見てたらすごいクオリティーで、爆笑&大感動。おぎやはぎのお二人も感心する再現率の高さ。
 
 本人も「死ぬほど練習した」そうだが、それが伝わるレベルの高さ。いやあ、笑いました。下手したら、本家よりおもしろいんじゃなかろうか。
 
 あとですね、見てるとなにげにコンビを組む野呂さんが、どんどんかわいく見えてくるという(笑)。なんかもう、ハマりまくり。映像100回くらい見てですね、ついでに昔フジテレビでやってた『アイドリング!!!』とか今さら見たりして。
 
 これ、関西だとサンテレビでやってたんだよなあ。なんか、寝れない夜とかに、ちょいちょい見てた記憶がある。今の視点だと、推しメンにするなら森本さんだけど(←それメンバーじゃないよ!)、ガチでつきあうならさかっちかな。
 
 私は「女子っぽい」人は苦手なので、さばけた感じの酒井さんとは合いそう(あまったお弁当を持って帰るところとかステキ)。
 
 あとはルーリーと浮気して、「で、いつ奥さんと別れてくれるわけ?」とか詰められたい。若いところなら金持ちらしい石田氏がよさそうだけど、ちょっと細すぎるかな……て、全然朝日さん推してないじゃん!
 
 まあ、朝日さんは男女問わず「女子の親友」が似合うでしょう。
 
 なんにしても、これだけの芸ができたら、そりゃ売れるはず。朝日奈央さんと野呂佳代さんの2人が、堂々のシャロン賞アイドル(元)部門受賞です。
 
 
 
 ★おまけ プロもうなる完コピ率のにゃんこスターは→こちらと→こちらから
 
 

 
 
 
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最強の動物はどれかを激論! 熊も象もかなわない(かもしれない)ヤツの正体とは? その3

2017年10月22日 | うだ話

 前回(→こちら)の続き。



 「最強の動物はなにか?」



 という問いに対して、象でも熊でもなくラクダを提唱した私。

 一見おとなしそうなラクダだが、背中のコブがあれば長期間食料もなしで動けることから、



 「相手が餓死するまで逃げまくる」


 ことにより、どんな敵でもかなわないと言いたいわけだが、そこに



 「ラクダのスピードでは、熊や象と競争すると追いつかれてしまう」



 との物言いがついた。

 しかし、それにはこちらも反論がある。

 たしかに、これは戦いの場所が象のいる平原や、熊のいる山道などではラクダが不利であろう。

 だが、そのバトルフィールドはだれが決定するのか。そら、場所によって有利不利に差が出るのは当たり前で、かつ不公平であろう。

 いくらシロクマが強いと言っても、会場がタイの首都バンコクの特設リングでは、ほとんど実力を発揮できないだろうし、水中デスマッチならサメの機動力と攻撃力は相当な脅威だ。 

 ならばここは、不公平感を少しでもなくすために、「ホームアンドアウェー」で戦うべきではないのか。

 となれば、我が陣営がホームに選ぶのは、当然のごとく砂漠である。

 足元が砂地なら、たとえライオンですら、そのフットワークはラクダにおとるであろう。

 さらには、砂漠は熱い

 そんなところで力を発揮できる動物は少ないはずだ。それに、いったん持久戦に持ちこまれれば、今度はになると気温がいきなり下がる場面に遭遇することとなる。

 この寒暖差が、さらなるダメージを施し、ますます敵の足をおとろえさせる。

 そうすれば、たとえ時速30キロでも、相手を引き離すには充分の脚力である。

 そう、ラクダはホームの「サンドデスマッチ」では絶対に負けることはないのだ。

 いくら魚類の中は有利とはいえ、とか相手なら負けるときもあるのではないだろうか。どんな動物でも、勝率100%は望めるものではない。

 しかし、砂漠で強い動物はラクダのみである。は、言っても生物が住める環境だが、砂漠はそうじゃない。

 まさにの世界である。そこを生き抜けるラクダに勝てる動物など、この世界にはいないのだ。

 ホームで負けなしなら、アウェーでひとつだけ勝てばいい。

 どれほど不利な状況でも、100回やれば1度くらいは「まちがい」が起こることもあり得る。一方ラクダは、砂漠なら万一もあり得ない。

 なんたって逃げるだけなのだ。ポカの出現しようもない。そのミスしにくいシンプルなスタイルもまた、「砂漠の舟作戦」の売り。

 サドンデスでやれば、いつかはこっちが勝つのだ。

 そう反論すると、さらに議論は紛糾し、ならばラクダに勝てる動物とはなんなのかと再検討してみた結果、出てきたのは「サソリ」ではないかということになった。

 なるほど、これならたしかに乾燥にも強そうだし、スピードでも対抗できそうだ。

 なにより、持久戦と真逆たる一撃必殺の武器を持っているというのがおもしろい。

 スポーツでも、プレースタイルがちがうもの同士の試合の方が、観ていて楽しかったりする。なので、動物界最強トーナメント決勝戦は、



 「ラクダvs毒サソリ」



 というカードになりそうだ。好勝負を期待したい。



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最強の動物はどれかを激論! 熊も象もかなわない(かもしれない)ヤツの正体とは? その2

2017年10月21日 | うだ話

 前回(→こちら)の続き。



 「戦ったら最強の《動物》はなにか」



 とい中二病的テーマで友と語り合い、「答は」というところに議論は着地しかけた。

 だが、そんな当たり前の結論ではおもしろくない。無駄に議論を紛糾させるのが得意な私は、ここに新たなる秘策を用意していた。

 それは何者かと問うならば、それはラクダである。

 などと言ってみると、おいおいちょっと待て、お前は頭がおかしいのか。

 ラクダなんておとなしそうな動物が熊や象に勝てるはずはないではないか、という意見が返ってくるかもしれない。

 もちろん正攻法でぶつかれば、まず勝てないであろう。

 なんたってパワーが違うわけだが、そこは頭脳戦でカバーするのが、私の変化ワザだ。

 単にウェイトだけで勝負が決まっては、なにごとも興味半減である。

 では具体的に、どうやってラクダが象に勝つのかと問うならば、ポイントは、ラクダのコブである。

 ご存じのように、ラクダの背中にあるコブには脂肪がつまっている。

 これがいうなればエネルギーを備蓄するタンクの役割をしており、中身を消費することによって、ラクダはかなりの長期間飲まず食わずで活動することができるのだ。

 や天然資源に乏しい砂漠などでは、彼らが非常に重宝がられるゆえんである。

 私の提唱する「砂漠の舟作戦」は、これを最大限に利用した戦い方をすることであり、方法は簡単。



 「ただひたすら逃げ回る」



 これをやればよい。

 いくら最強の象とて生き物、食べたり飲んだりしなければいつかは死んでしまう。

 そう、この作戦は、



 「相手が餓死するまでひたすら逃げまくる」



 という、補給なしで長時間活動が可能なラクダのみが選択できる、究極持久戦なのである。

 どうであろうか。この「砂漠の舟作戦」。

 ヒトもそうだが、生物とは、食わないといつかは飢え乾き、死ぬことが運命づけられている。

 その避けられない弱点をついた、実に非情な戦い方ではないか。

 砂漠だけに、文字通りドライな作戦やなあ。フッフッフ、諸君、どうだい。このクレバーなファイトスタイルに対抗できる策があるなら聞こうではないか。

 なんて余裕しゃくしゃくでおさまっていると、議論に参加していた面々は、すかさず手をあげると、



 「いや、この勝負、ラクダの負けだ!」



 ほう、私の「砂漠の舟作戦」のどこに水漏れがあるのかねと問うならば、


 「熊も象も、案外動くと速いねんぞ」


 なんでも熊も象も、走ると時速40キロは出るらしい。

 あの図体で、本気を出せば人間より速いとは意外である。ティーガー戦車の最高速度(時速38キロ)よりも早いのか。

 その一方で、ラクダは時速30キロ程度。

 それなりには速いが、リング上ではすぐに捕まってしまう。持久戦に持ちこむ前に、接近戦瞬殺されるのでは。ということだ。

 なるほど、そういわれればそうかもしれない。論理的で、しごく筋の通った反論だ。

 だがそれでも、やはり私のラクダ推しは変わらないのである。スピードの差を埋めるその戦い方とは……。


 (続く→こちら



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最強の動物はどれかを激論! 熊も象もかなわない(かもしれない)ヤツの正体とは?

2017年10月20日 | うだ話

 「結局、世界で一番強いヤツはだれなんや!」



 いきなりそうブチ上げたのは、友人サヤマ君であった。



 「○○の中で最強なのは誰か」



 というのは飲み屋のウダ話では、よくとりあげられる議題である。

 最強の格闘技とはなんなのか。空手か、柔道相撲、それともムエタイ

 歴代サッカー選手で最強はペレマラドーナクライフ。今なら、メッシクリスティアーノロナウド、どっちが上なのか。

 将棋なら、大山康晴羽生善治はどっちが強いの? テニスなら、ロッドレーバーロジャーフェデラーは? などなど議論は尽きない。

 このように、語り出すと止め処がなくなる「だれが最強」トークだが、この日サヤマ君が出してきたテーマというのが、


 「動物の中で、最強なんはなんやと思う?」



 よく、ブログアクセス数を伸ばす方法のひとつに、



 「かわいい動物の写真を載せる」



 というのが紹介されているが、当ページではそのビジュアルではなく腕力

 読者にとっては、特に女性にとっては死ぬほどどうでもいい話題のような気もするが、それはともかく、この議題。模範解答はおそらく「」であろう。

 テディベアなどかわいいイメージがあるが、野田サトル先生のマンガ『ゴールデンカムイ』を持ち出すまでもなく、ヤツらの戦闘能力はハンパではないことは知られている。



 「超カワイイ!」



 なんて、うっかり抱きつこうものなら、ベアハッグを食らって、全身の骨を砕かれ即死である。

 なんといっても、マス大山が最強を求めて戦ったのが熊なのだ。

 まあ、バトルの際には極限まで弱らせていたのではという説もあるが、とにかく強い。最強の名にふさわしい猛者と言えよう。

 ところがそこに、



 「いや、熊よりやろ」



 提言したのは、友人アサヒ君である。

 なるほど、そうきたか。

 なんのかのいって、基本的に格闘とはウェイトの大きい奴はそれだけで有利だし、を使った遠隔攻撃も可能。

 さすがの熊も、象のボディアタックにはまいるのではないだろうか。あのゴツゴツした皮膚は、防御の際も頼りになりそう。

 攻防ともに、スキなしといったところか。

 というわけで、とりあえずのところ議論は「最強」ということで落ち着きかけたのだが、ここで終わってしまっては話がおもしろくない。

 ここで不肖このが起死回生の意見でもって、議論を再活性化させることとなる。

 あの最強のをも倒せる動物を思いついたからだ。

 いったいそのスーパーアニマルとは何者か。答えを言う前に、皆様も考えていただきたい。

 ヒントは、どちらかと言えばディフェンシブに戦う動物です。


 (続く→こちら



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クラスのイケてる男子と「なんでも笑う女の子」は恐怖の観客 その5

2017年10月02日 | うだ話

 前回(→こちら)の続き。

 演劇などの公演で関西の若い男の子の反応がうすいのは、



 「自分たちには笑いのセンスがある」



 皆がみな思いこんでいるから。

 そこには「格付」「勝負」の要素がからんできて、彼らはみな「負けたくない」から、「仲の良い身内」以外のことでは、なかなか笑ったりつっこんだりしてくれないのだ。

 高校時代のクラスメートであるマツダ君も、私のつまらないボケに「なんでやねん!」と反応した後、「しまった!」と口走った。

 そう、「笑いのセンスのある彼」にとって、会話というのは常に自分ボケて

 

 「その切れ味によって、本来ならつっこむ気もなかったはずの相手につっこませる」



 こういう流れになっているのだ。

 そんな彼にとって、「思わず、つっこんでしまった」というのは、



 「相手のボケを、反応に値すると認めてしまった」



 ということになる。

 これはまさしく「敗北」であり、ましてや素で「宇宙人おらんやろ」などといった、「センスのない」ストレートな反応をしてしまった。

 いや「させられた」ことは、屈辱以外のなにものでもないのだ。

 あやつるはずのオレ様が、逆にあやつられた、と。

 こちらとしては悪気も笑いにするつもりもまるでなかったが、これは大失敗だった。

 これ以降、マツダ君は「負けた汚辱」を雪ごうと、なにかにつけてこちらに、つっかかってくるようになったのだから。

 といっても人のいい彼のことなので、別に暴力的なヤカラではなく、



 「オレとおまえと、どっちのボケが勝るか勝負だ!」



 という、まあ罪はないものだったが、会話中やたらと一発ギャグを連発してきたり、こっちが軽い冗談でも言おうものなら、オチ前に入ってきて「ボケつぶし」に血道をあげたり、もうめんどくさいことこのうえなかった。

 そんな心配せんでも、地味男子のオレが女子から笑いなんかとれへんからさ!

 クラスの男子としては、キミのほうが「格上」って、みんな思ってるから!

 まあ、そういう問題でもないのだろう。彼からすれば、私がやったように



 「つっこむつもりもないのに思わず」



 な一言がほしいわけで、こっちも平和裏にコトが済むならそうするのにやぶさかではないが、「電話に出んわ」とか「パイン食べ過ぎて、お腹いっパイン」とか、悪いけどつまらないし……。

 いや、クラスの女子大爆笑ですけどね。

 くだらないジョークのはずが、なまじまぐれ当たりしてしまい、「勝手にライバル宣言」をされて、もう大迷惑というか、まあ自業自得ではある。

 この経験から、関西の男子にとって「笑い」というのは勝負であり、

 「笑わされる」

 「つっこまされる」

 ことは「負け」であり「屈辱」なのだから、そんなもん、こっちが舞台でなにやっても笑うはずがありません。

 たまさか、うまくいってひと笑い取れた日には、逆に地獄

 「敗北感」にさいなまれた彼らは、マツダ君のようにますます意固地になり、



 「もう二度と、あんなみじめなことにはならんぞ」



 腕組みをして踏ん張るのだ。

 『泣いてたまるか』は渥美清の名作だが、「笑ってたまるか」は、だれも幸せにならないド根性である。

 だからもう……土下座でもするから帰ってください、と……。

 そんな彼らの心をつかむ方法もないことはなくて、ひとつは「毒舌下ネタ」。

 彼らにとって笑いは「勝負」であり、そこでは「過激な話にちょっと腰が引ける」というのは「負け」になる。


 「オレ様は、この程度の毒ではまったく動じないね。それどころか、余裕をもって笑えるよ」


 そうアピールしたいから、がんばって笑ってくれる。

 もうひとつは「マニアックな小ネタ」

 やはりこれも「勝ち負け」で、一般ウケはしなさそうなセリフなんかに、


 「こういう素人さんには難しいネタにも食いつける、オレ様のお笑い知性


 をやはりアピールしたいから、これまた必死に笑ってくれる。要はプライドを刺激すればいいわけだ。

 でも、それでウケてもなあ、というのも正直なところ。

 こういうのって、勝ち負けじゃなくて、どっちも楽しんでってのがベストだと思うし。

 昨今のヤング諸君はどうか知らないけど、「ダウンタウン世代」のわれわれの青春時代は、こんな感じでした。

 松ちゃんの

 

 「結局、笑いのセンスがあるヤツが一番エライ」

 

 という価値観は、芸人の地位(とビッグな態度)を格段に上昇させたけど、ものすごい数の「カン違い男子」も生んだのであった。

 いやほんと、「若いときの笑いのセンスの自意識」=「ほぼ内輪ウケ女子への好感度」だからなあ。

 私の経験では、ホントにすごいヤツって、意外とみなに知られてない在野にいるもの。

 みんなが「暗い」とか「ヤバい」とか「そんなヤツいたっけ?」って言いがちな子の中に、人と違う発想やセンスが転がっていたりするのだ。

 だから今でも、私は人気者より、そういうかくれた人材を発掘するのが好きだ。

 あと、ここでは「関西の」と言ってますけど、それこそダウンタウンの影響で今では日本中が「オレ様」男子であふれていることでしょう。

 リア充系男子諸君は、ちょっと気をつけていただけると、「男前特権」に関係ないわれわれにはありがたいです、ハイ。

 

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クラスのイケてる男子と「なんでも笑う女の子」は恐怖の観客 その4

2017年10月01日 | うだ話

 前回(→こちら)の続き。

 男が文化祭の公演などで、全然ウケてくれないのは、演者の力量もさることながら、彼らが



 「自分は笑いのセンスがある」



 自負しているから。そのため、そこには「勝ち負け」「ヒエラルキー」がからんできてややこしい。

 今は知らねど、私がヤングのころの関西男子は「おもしろいかどうか」がスクールカーストの選考基準になっており、ところがそれはスポーツや勉強のような客観的数字で結果が出ないため、とかく「自己申告」で決まりがちだ。
 
 なので、必然クラスの人気者が根拠もなく「オレが一番」と君臨し、お笑い養成所でもないに日々「勝負」がくり広げられ、その格付けもほとんど「女子人気」と「身内のノリ」が重視されるからハタの者は困りものだ。

 その例として、高校時代のクラスメートであるマツダ君をあげてみるが、彼はいわゆる



 「特におもしろいわけではないが、明るい性格がいいおかげで女子から無条件の笑いをゲットできるため、自分のことを『笑いの才能がある』と、ややカン違いしている関西によくいる男子」



 なのであるが、「お笑いセンスのある」彼は女子相手ならともかく、「顔がいいから」という理由では好意的にはならない我々男子にも、同じノリでボケてくるのが玉に瑕。



 「シャロン君、キミ昨日遅刻してきたやんなあ。ちゃんと先生に電話した? でも《電話に出んわ》とかいったりして。今のおもろいやろ、アッハッハ」



 なんて言って女子から



 「いやーん、マツダ君めっちゃおもしろーい」



 などとウケを取っているわけだが、こちらとしては「そうでっか……」としか答えようのない状況だ。

 まあ、私もそこはを重んじる日本男児なので「なんでやねーん」なんて、いつもは笑顔でつっこんでいたのだが、あるとき少々めんどくさくなって、ちょっとした「仕掛け」をしてみることにしたのだ。

 彼の「遅刻して、電話に出んわ」というボケに対し、



 「いやあ、天気は関係ないねん。ただ、ちょっと2時間くらい宇宙人に誘拐されてただけやから」



 目には目をなハムラビ法典的「つまらないボケ返し」をしてみた。

 自分としてはこれは、あえてこれをかますことによって、



 「キミのやっていることも、この程度のことなんだぞ。どうだ、迷惑だろう。青年よ、今キミがあるのは、周囲の思いやりで成り立っていることを、たまには自覚しても損はあるまい。一度、これを機会に自己を振り返ってみてはどうか」



 という理解をうながす、そんな意図を持った、



 「友としての、遠回しで思いやりある啓蒙活動



 のつもりであった。

 要は「おもんな!」と思っていただいたのちに、「ということは、オレのギャグも……」と、「人の振り見て我が振り直せ」になってくれればいいかな、と。

 ところが、これが思わぬ方向に転がることとなった。マツダ君はふと真顔になって、



 「なんやそれ。宇宙人なんか、おるわけないやんけ!」



 そう、つっこんできたのだ。

 これだけなら、クラスメート同士の罪のないじゃれあいであり、高校生のくだらないやりとりだが、そのツッコミを発した瞬間のマツダ君の表情はそんな能天気なものではなかった

 その「おるわけないやんけ!」のあとすぐ、彼は「!」と小さく声をあげた。

 そうして、5秒ほど呆然としたように、私の顔を凝視していたのだ。

 その気の抜けたような顔には、ありありとこう書かれてあった。



 「し……しまった……」


 
  それを見て当時17歳の私は、同じように思ったのだ。



 こっちこそ……しまった……」



 (続く→こちら




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クラスのイケてる男子と「なんでも笑う女の子」は恐怖の観客 その3

2017年09月30日 | うだ話

 前回(→こちら)の続き。

 演劇、お笑い、ライブ問わず、



 「客には女の子(もしくはお年寄りでもファミリーでも)を入れろ。男は一歩たりとも中に入れるな」



 という、南アフリカ共和国のアパルトヘイト並みの人種隔離政策を奨励する私。

 これは私が狭量な差別主義者だからではなく、仲間内老若男女問わずみなが提言していたことなのだ。

 理由は簡単で、



 「とにかく、男どもは反応が悪い



 楽しむことに素直女子とくらべて、男子は固い、打っても響かない。ちっとも笑ってくれない

 なぜか。これまた理由は簡単で、特に私の住む大阪では

 

 「男は全員、自分は笑いのセンスがあると思いこんでいる」



 だからピクリとも反応してくれないのだ。

 そらそうであろう。彼らはみな大なり小なり「オレっておもしろい」「笑いの才能がある」と、なんの根拠もなく思いこんでいる。

 こういう人が客席に来ると、どういった態度をとるか。

 まず大部分は「上から目線」で来ることがある。

 当然であろう、彼らは「おもしろい」に関しては「優越者」なのだから、我々のような



 「センスのない下々」



 に対して、対等な目線でなど接するわけがない

 舞台に出た瞬間、こういう男子はすぐにわかる。

 たいていが偉そうにをそらし、を組んだりの後ろに両手をやったりして、うすら笑いを浮かべている。

 そのには、でっかい文字でこう書いてあるのだ。

 

 「さあ、キミたち凡人諸君は今からセンスの塊であるオレ様で、どのような愉快な出し物を見せてくれるのかな」



 まったくもって、おまえはどこの局のプロデューサー様や!

 とつっこみたくなるが、それくらい超キングでエンペラーなオーラをバリバリでのぞんでくるわけだ。根拠もないのに。
 
 その様はあたかも、剣闘士がライオンに食われるのを楽しむ、ローマの皇帝のごときである。メチャメチャえらそうなのだ。根拠もないのに。

 こうなると、もはや問題はウケるとかすべるではない。あきらかに彼らは「ジャッジ」しにくるわけ。「オレ様が認めてやれるものか、そうでないか」を。で、宣言するのだ



 「少々のことでは、オレ様は笑わんで」



 しつこいようだが、根拠もないのに。

 こんな態度で来られたら、もうどないしたって良い反応なんていただけない。笛吹けど踊らず。

 そういう人が「オレってお前らとは違うんだぜ」オーラを出してすわってると、客席の雰囲気も悪くなる。「なんだこの人?」「イタタタタ……」って。ある意味、マイルドなフーリガンだ。

 「もう、お金払うから帰って」と言いたくなる。嗚呼、ここは地獄だ。

 舞台でスベるのはつらいが、この「オレ様」君の存在はもっとキツイ。

 失敗した公演は自業自得だけど、最初から最後までマジノ線のごときかたくなな、「拒否モード」をつらぬき通されると、とにかく絶望的な気分になる。

 なぜにてこんな不幸が起こるのかといえば、こと笑いに関しては関西の男子は「勝ち負け」「マウンティング」「スクールカースト」といった要素が、かかわってくることだ。



 「コイツはオレより、おもろいかどうか



 というのは、関西男子のカーストに大きな影響をおよぼすのだ。

 もちろん、大半は若気の至り的錯覚だが(私だって思い当たるところありまくりですよ、ええ)、自意識の面ではそうなのである。

 そんな面々にとって、笑いは勝ち負け。笑かせば勝ちだが、笑わされるというのは大いなる屈辱なのだ。

 そのことを実感したのは高校時代、クラスの人気者であったマツダ君のおかげだった。



 (続く→こちら



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クラスのイケてる男子と「なんでも笑う女の子」は恐怖の観客 その2

2017年09月29日 | うだ話

 前回(→こちら)の続き。


 「男は入れるな。客は女の子に限る」



 落語会に出たり演劇の公演に混ぜてもらったりする機会があると、客の呼びこみも重要な仕事になるわけだが、そこでの鉄則がこれであった。

 なぜにて、こんな男女逆差別のごとき思想がまかり通っていたのかと問うならば、これはもう、



 「断然、女の子の客の方が笑ってくれるから」



 これにつきるのである。

 といっても、別に我々は人気若手芸人の追っかけギャルのごとく、



 「箸が転げてもおかしい、なにをやっても笑う女子」



 を求めているわけではない。そういう人はむしろ迷惑であるといえる。

 我々が理想の客として欲しているのは、「あ、これちょっとおもしろそう」くらいな感じで、ナチュラルに来てくれる女の子だ。

 そういう子がいると、なにがありがたいといって、彼女らの笑い声が場を温めることに大きく貢献してくれるから。

 お芝居でもお笑いでもなんでも、客席の雰囲気というのはものすごく大事である。

 お客さんが温かいと、やる方も力を発揮しやすいし、少々演者がまずくても多少は受け入れてくれるから修正もしやすい。

 逆にお客さんがに構えていると、これはもうこっちが体操の内村航平選手のごときウルトラ演技を見せようとも、ビクともしない地獄が待っている。

 それくらいに「客席の温度」というのは、公演の出来を左右するのだ。下手すると、素人レベルなら、演者の出来以上に、そっちでほぼ決まってしまうといってもいいくらい。

 こういうとき本当にありがたいのは、「あたたかい」お客さんや「楽しむ気満々」のお客さん。

 特に後者は女の子が多い。

 私の勝手な印象では、ライブでもお笑いでもお芝居でも、女性の客の方が楽しむのがうまい気がする。

 なんとうのか、変な邪念が入っていないというか、反応がストレート。



 「来たからには、目一杯楽しんじゃわないと損だし!」



 という女子的合理主義もあるのかもしれない。こういうお客さんは神さまです。

 もちろん演者の出来がまずければ、そもそも論外だが、そうでなければ彼女らの存在によって場の空気が開ける

 すると、客席の人が「あ、笑っていいんだ」という承認をもらった気分になるのだ。

 日本人はの民族であり、周囲の空気に反することをしたくない傾向がかなり強い。

 だから基本的に、自分のいる空間の多数派に乗っかろうとする。

 客席がシーンとしていれば自分も黙りこむし、反対にノリノリならじっとして「逆目立ち」するのを避けようとする。

 こうなると「率先してリアクションしてくれる素直な女の子」というのが、いかにであるか、わかろうというものだろう。

 彼女らが「アハハ」と声をあげてくれれば、周りの人たちも



 「あ、この子に合わせたらええんや」



 という気分になって、徐々に反応が良くなり、いったんノッてくればあとは自分の力量次第。

 とにかく、場を「ホーム」にしてくれるのが「気軽に来てくれた普通の女の子」なのだ。
 
 もちろん、ともかくも問答無用でこちらの味方であればいいわけで、若い女の子というのがとこちらのモチベーションという点ではベストだが、他にも、

 「温厚なおじいちゃん、おばあちゃん」

 なんかは「若い子ががんばっているみたいだから、応援してあげよう」という目で見てくれるし、

 「小さい子供連れの親御さん」

 なんかも、お子さんがよろこんでくれるとママさんパパさんもうれしいから、ハマると心強い存在になってくれる。

 もっとも、興味を持ってくれないと、クソガ……もとい元気なお子さんたちはさわいだりして大変ですが。

 なので、学生時代の文化祭から端を発し、とにかくあらゆる公演発表会においては、



 「若い女の子を連れてこい。あとはお年寄りかファミリー。男はNG



 という絶対死守の指令が出されたものであった。

 なんてことを語ってみると、よく男子諸君から、



 「なんでオレたちを呼ばないんだ。笑いのセンスクリエイティブなものを見る目は自信があるぜ」



 なんて主張されることもあるのだが、まさに彼らには痛い目にあわされてきた歴史があるのだから、苦笑するしかない。

 その「笑いのセンスがある男子」からの具体的被害状況は次回に(→こちら)。
 


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クラスのイケてる男子と「なんでも笑う女の子」は恐怖の観客

2017年09月28日 | うだ話

 「あれ? シャロン君て昔、『とりあえず笑ってくれる女子』はありがたいって言うてなかったっけ?」


 先日、友人ハマデラ君と一杯やっていると、彼がそんなことを言い出したのである。

 ことの起こりは、少し前にここで書いたある記事。そこで私は、



 「イケメン美人を『退屈』と感じてしまうのは、彼ら彼女らに周囲が好意的に接するせいで、なにをやっても肯定される。ゆえに、ひねった考え方や発言をしなくなる」



 と分析し、どちらかといえば屈折屈託から生まれるアクロバティックな論理をおもしろがるタイプの私には、もうひとつ物足りないと結論づけた。

 男の場合、特に関西のモテ男子は取り巻きの女の子たちが、



 「イケてることを称えたくて、どんなつまらないギャグやトークでも爆笑する」



 ということをやってしまうため、全員が



 「オレには笑いのセンスがある」



 とカン違いし、他府県の人にウザがられるうえに、「男前特権」の効かないどころか逆効果になりがちな我々男子には、退屈どころか大迷惑なのだ。

 くわしくは→こちらを参照してほしいが、これを読んだ友は「まあ、こういうこともあるかもな」と苦笑いするとともに、ひとつの疑問も生まれたというのだ。



 「おいおい、キミ学生のころはいつも、『楽しく笑ってくれる女の子が一番や』言うてたやんけ」と。



 それはたしかに事実である。

 あっさり認めると、待て待て、今までの流れだとモテ男子が「ウケてる」と思い違いをするのは「なんでも笑う女子」のせいだと言っていたではないか。

 いわばこのテーマにおけるA級戦犯ともいえる存在で、どちらかといえばディスり気味だったくせに、おまえも結局、そんな連中に頼って人生送っとるんかい!

 などと、「イケてないチームの分際で生意気な!」といったお怒りを買いそうだが、そこはいったん落ち着いてほしい。これには深いわけがあるのである。

 学生時代、私は演劇をやったり自主映画制作を手伝ったり、落語の舞台に立ってみたりと、そういった活動をして遊んでいた。

 で、お客さんの前で首尾よくウケたり、はたまた「よど号」をハイジャックして、そのまま北朝鮮に亡命したくなるくらいに客席を凍りつかせたりしながら学んだひとつの真理がありまして、それというのが、



 「会場に男を入れるな。客は女の子に限る」



 これはもう、先輩後輩同期の桜問わず、みながみな身にしみて味あわされること。

 もしかしたら我が街大阪(関西)限定のかたよった法則かもしれないが、ともかくも全員一致で過激なフェミニストのごとく、



 「女万歳! 男ども退場せよ!」



 そうシュプレヒコールを上げるのである。

 その理由は簡単で、とにかく女の子は「笑ってくれる」から。

 というとやはり、



 「なんだよ、やっぱりなんでも笑ってくれる女がいいんじゃん。それって結局、顔がいいから笑ってもらってカン違いしてるイケメン君と同じでしょ」



 眉をしかめられそうだが、これがですねえ、そういうことでもないんですね。

 我々は別に「わかってもないけど、なんでもかんでも笑ってくれる」ことを欲しているわけではない。

 いやむしろ、そういう人は問題だったりするのは、お芝居をやっていたころの中島らもさんがキャーキャー言うだけの女の子に、



 「ちゃんと、お話も見て……」



 辟易していたように、ちょっといかんともしがたいものがある。

 周囲はどっちらけになるし、演者もどうしようもない気分にさせられる。正直なところ、ありがた迷惑なのだ。

 島田紳助さんも「紳竜の研究」(ものすごく勉強になるのでおススメです)という講義で、


 「キャーキャーいうファンはありがたいけど邪魔」

 「こいつらがオレらをダメにする」

 「笑わすのが簡単やから、ついついここを笑かしにかかる。そしたら終わり」


 そうハッキリおっしゃっているのだ。

 ではなぜにて我々は、その諸刃の剣ともいえる「女の子の笑い」を必要とするのか。

 その理由については次回(→こちら)に語ってみたい。



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藤子・F・不二雄『パーマン』 バードマンが星野スミレをパーマン3号に選んだ理由 その3

2017年09月15日 | うだ話
 前回(→こちら)の続き。
 
 友人フカエ君の指摘により、
 
 「なぜバードマンは、死ぬほどいそがしいアイドルをパーマンに選んだのか」
 
 という命題について考えていたが、ラジオ番組「ライムスター宇多丸のウィークエンド・シャッフル」に、そのヒントが隠されていた。
 
 そこで宇多丸さんとコンバットRECさんが、アイドルの魅力について、こんなことを語ったのだ。
 
 
 「アイドルはMであり、プロデューサーがS。アイドルの輝きは、いかにスタッフ側が彼女たちに《負荷》をかけるかにかかっている」
 
 
 なるほど、そこか。
 
 たしかに、つんくさんにしろ秋元康さんにしろ、とにかくやることといえば、
 
 「アイドルに不条理な試練をあたえること」
 
 というのが定番である。
 
 「セールスが低かったら解散
 
 「チームをシャッフル
 
 「総選挙
 
 などなど、そんな無茶ぶりをかまし、それを少女たちがいかにボロボロになりながら乗り越えていくか。
 
 その健気な美しさに、ファンは涙するのだと。
 
 私自身がアイドルという文化にイマイチ乗れないのは、まさにこの「負荷」の部分が見ていてしんどいからだが(「そんなことしてやるなよ」とか思っちゃうのだ)、構造としては理解できる。
 
 岡田斗司夫さんは、「感動」という状態について、
 
 
 「自分には無理だと思う、努力や愛や達成感を、《自分の代わりに、だれかが色々なものを乗り越えてやってくれた》のを見ると人は心揺さぶられる」
 
 
 そう定義づけておられ、それはまさに、人の
 
 
 「応援したい欲」

 「他人を介した自己実現」

 「そんなことしかできない自分という罪悪感の陶酔」
 
 
 などを刺激し、涙を流さしめるのだ。
 
 たとえばキリスト教なんかも、《人間の罪を、すべて背負って死ぬ》というだれもできない無茶ぶりを、十字架にかけられることによって達成する。
 
 という行為によって人の心をとらえるとか、流れ的には同じようなものであるわけだから、宇多丸さんたちのいっていることは、わりと普遍的なことだとは思う。
 
 平たく言えば、クーラーの効いた部屋で見る、夏の甲子園の楽しさ。
 
 人というのは、
 
 「自分以外のだれかが、しんどい思いをしている」
 
 これを見ると、感動するわけなのだ。
 
 それが、まだか弱い少年や少女なら、なおのこと。
 
 この視点から見ると、バードマンが星野スミレに、パーマンセットをたくした理由がよくわかる。
 
 そう、まさに彼がやりたかったことは、
 
 「アイドルに負荷をかける」
 
 という行為であり、ただでさえ殺人的に働かされている彼女に、
 
 「無報酬多重労働
 
 を課すことによって、
 
 
 「睡眠時間のさらなる削減」

 「少女がかかえるには大きすぎる義務感による、精神的ストレス」

 「須羽少年登場による《恋愛禁止》事項との葛藤」
 
 
 などなどの、さらなる重荷を背負わせ、そこに責めさいなまれるアイドルを楽しく鑑賞しようというわけだ。
 
 これには私も、蒙が啓かれる思いだった。
 
 アイドル音痴の自分にはピンとこなかったが、さすがはプロの宇多丸さんとRECさん、本気で、心底感心させられた。
 
 以上の分析をフカエ君に伝えてみたところ、
 
 「なるほど!」。
 
 そう声をあげ、感に堪えたように、
 
 「だとしたら、天才の仕事や……」
 
 友は深くうなずきながら、
 
 「ええよなあ。オレも小倉優子に銃突きつけて、《クルクルパーにしちゃうぞ!》とかいえる店あったら、通うもんなあ」。
 
 などと気の狂ったような未来への希望を語っており、まさにこういうファンこそが「負荷」の最たるかもしれない。
 
 友の異常性は、その意味では「正しいありかた」なのだ。
 
 こうして、宇多丸さんとRECさんの鋭い指摘により、またしても謎がひとつ解き明かされた。
 
 ここにもう一度確認しよう。バード星の使者が、地球に残したかったメッセージとは、正義と地球の平和と、
 
 「見てくれ、オレのアイドルプロデュース能力」
 
 という、やはり中2病的自己顕示欲なのであった。
 
 
 
 ☆おまけ コンバットRECさんの選曲が冴えまくる「タマフル」アイドルソング特集は→こちらから
 
 
 
 
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藤子・F・不二雄『パーマン』 バードマンが星野スミレをパーマン3号に選んだ理由 その2

2017年09月14日 | うだ話
 前回(→こちら)の続き。
 
藤子・F・不二雄先生の名作マンガ『パーマン』。
 
 この作品ににおいて、パーマンの選出に「ガキサル」を選んだバードマンの意図は、完全に
 
 「ウケ狙い
 
 であったろろうと、友人フカエ君と結論づけた私。
 
 あきらかに、チョイスの基準がおかしいのだ。笑いを取りにいってるとしか思えない。
 
 きっと、吉本か人力舎あたりに所属して、
 
 
 「こんなパーマンはイヤだ」
 
 
 のような大喜利をやっているのだろう。いわば、パーマンセットを使った「モノボケ」である。
 
 これに関して、フカエ君はさらなる証拠を提示してくる。
 
 「3号なんかアイドルやぞ」
 
 パーマン3号。通称パー子。その正体は、星野スミレ
 
 売れっ子スーパーアイドルである。今でいうなら、さしずめ先日卒業された、元AKB48渡辺麻友さんのようなものか。
 
 たしかに、なんでそんな人を選ぶのか。
 
吉田豪さんの『元アイドル!』によると、アイドルなんて時給でいえば100円くらいで、分単位秒単位で仕事をしているという。
 
 文字通り、寝る間もないくらいに、働いているのだ。それに、さらに仕事をしろと。
 
 それも、「地球平和はまかした」って、それ責任重すぎである。 
 
 今の日本は、働きたくても仕事がない人とかいるんだから、そういうところを選んでみてはどうか。
 
 日本で一番いそがしい人を選ぶとか、選考基準が狂っているとしか思えない。
 
 タクシーの中とかで、
 
 「移動中に20分だけ寝られます。その後はラジオの生放送と取材3本とリハーサルで、終わったらすぐ収録にむかってください」
 
 とかマネージャーに言われているところに、バッジがピロリロリと鳴って、
 
 「パー子、聞こえるか。ソマリア沖で、日本のタンカーが海賊に襲われている。救出に行くぞ」
 
 とか、呼び出されるのである。
 
 そこいらのブラック企業も真っ青の酷使ぶりだ。鬼か、バードマンは。
 
 しかも、さらにおかしいことに、パーマンは正体をばらしてはいけないという決まりがあり、やぶると「脳細胞破壊銃」で、「クルクルパー」にさせられてしまう(なぜ?)。
 
 「見せるのが商売」なアイドルであるというメリットゼロなのだ。だから、選んでやるなってば。
 
 こんな理不尽きわまりない「パーマン3号」選考だが、ある日その謎が少し解けることとなった。
 
 きっかけはラジオ番組「ライムスター宇多丸のウィークエンドシャッフル」(略称「タマフル」)だ。
 
 その日のテーマがアイドルであり、宇多丸さんとゲストのコンバットRECさんが、その魅力について語っていた。曰く、
 
 
「アイドルはその魅力の中にある微妙な《ほつれ》がいい」

  「彼女らに大事なのは《やらされてる感》」
 
 
 などなど、アイドル素人の私には勉強になる内容だったが、そこにこんな言葉が出たのだ。
 
 
「アイドルはMであり、プロデューサーがS。アイドルの輝きは、いかにスタッフ側が彼女たちに《負荷》をかけるかにかかっている」。
 
 
 
 (続く→こちら
 
 
 
 
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藤子・F・不二雄『パーマン』 バードマンが星野スミレをパーマン3号に選んだ理由

2017年09月13日 | うだ話
 「バードマンって、ちょっとねらいすぎやろ」
 
 先日、友人フカエ君と一杯やっているときのこと、彼が唐突にそんなことをいい出した。
 
 バードマンってだれのことやねん、と問うならば、はたしてそれは藤子・F・不二雄先生の漫画である『パーマン』の話なのであった。
 
 その中に出てくる、バード星からの使者。またの名を「スーパーマン」。
 
 パワーを増強するヘルメットや、時速119キロで空を飛ぶマントなど、「パーマンセット」を人類にあたえて、「パーマン」として地球の平和のために働くよう指示するのが仕事である。
 
 そんな、バードマンであるが、なにをしてフカエ君に「ねらいすぎ」と言わしめるのかと問うならば、
 
 「あいつのパーマン選出の基準がイカれてる」。
 
 はて、なにかおかしなところがあるのか検討してみると、
 
 「1号から順に考えてみい」。
 
 パーマン1号といえば、言わずと知れた、ミツ夫君という男の子だった。須羽ミツ夫。
 
 まあ、どこにでもいそうな、ごく普通の少年である。
 
 これに、フカエ君は疑問を抱く。
 
 「変やろ」
 
 なるほど、少年といえば聞こえは良いが、和文和訳すれば「ただのガキ」。
 
 あらためて検討するまでもなく、パーマンセットというスーパーアイテムをあたえるには、若干信用がおけない相手である。
 
 地球をたくすのだ、もっと責任感があり、能力的にもすぐれた大人にするべきではないのか。
 
 それこそ、優秀な警官とか、自衛隊のレンジャー部隊とか。
 
 もし子供が、そんな大きな力を手に入れたら、とんでもないことをするのではないか。
 
 ムカつく先生をなぐりつけたり、イジメ万引きに使用したり、放課後に好きな女子のを、こっそり吹いたりするのではないか。
 
 もちろん私は、子供のころから正義とモラルを重んじる紳士であったため、そんなことはしないが、フカエ君ならやるだろう。
 
 そういわれると、たしかに判断基準が不明だ。そこで納得すると、フカエ君は「さもあろう」と大きくうなずき、
 
 「2号が、またおかしい」。
 
 2号といえば、サルである。
 
 なぜエテ公にパーマンセット。我々は『2001年宇宙の旅』のオープニングのごとく、がんばって進化して、地球を何度も木っ端みじんにできる人類になったというのに、あえて逆走してブービーとは。
 
 進化の価値はいずこ。
 
 サルで有名な大阪府箕面市では、ただでさえ野ザルが大暴れして問題になっているというのに、そこにパーマンセットをあたえてどうするのか。
 
 そんな超モンキーがいたら、街一個くらいなら壊滅させられてしまうのではないか。
 
 リアル『猿の惑星』である。このチョイスには、ダーウィン先生も砂を噛む思いであろう。
 
 うーむ、いわれてみれば。なんであえてガキとサルなんだ。わざとやってるとしか思えない。
 
 彼はこの選択から、我々になにを伝えたいというのか。
 
 そのことを解明すべく、フカエ君との深夜に及ぶ、侃々諤々の討論の末に出た結論。
 
 すなわちバード星の使者が、地球に残したかったメッセージとは、正義と地球の平和と、
 
 「見てくれオレのギャグセンス
 
 という、中2病的自己顕示欲なのであった。
 
 
 
 (パーマン3号編に続く→こちら
 
 
 
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