将棋 入玉形はこの人に学べ 中原誠vs谷川浩司の攻防 1985年 第43期名人戦

2019年05月28日 | 将棋・好手 妙手
 入玉模様の将棋は、頭がクラクラする。
 
 前回は佐藤康光九段の「三冠王」をかけた死闘について語ったが(→こちら)、今回の舞台は名人戦。
 
  
 将棋の終盤というのはスリリングで、詰むや詰まざるやのスプリント勝負もドキドキするが、玉が上部に逃げ出す形の競り合いも、迫力満点である。
 
 特に秒読みで入玉模様になると、駒の配置がゴチャゴチャしてわけがわからなくなり、まともな手筋が通じないカオスの世界に突入。
 
 解説するプロですら、
 
 
 「どひゃあ!」
 
 「ひええ!」
 
 「そっちですか!」
 
 
 など奇声をあげるハメに。
 
 そんな見る分には楽しい、入るか捕まるかの攻防だが、指している方はけっこう得手不得手が分かれるところで、たとえば谷川浩司九段が好んでないところは有名な話。
 
 「光速の寄せ」を売り物にする、切れ味で勝負の谷川九段からすると、ドロドロした入玉形は力が発揮しにくいのかもしれない。
 
 また、先崎学九段もエッセイの中、であまり好きではないようなことを書いており、これは苦手というよりも、
 
 
 「どれだけ駒を失っても相手の王様だけ仕留めればいい、というのが将棋の本質なのに、寄らないとなったとたんに《じゃあ駒数で点数勝負にしましょう》というのは、おかしい気がする」
 
 
 こういう
 
 「別のゲームになってしまう違和感」
 
 を持つ人は多いだろうし、そこはうなずける部分はある。
 
 一方、得意なのは昔の丸山忠久九段や、島朗九段
 
 テレビで人気の、桐谷広人七段もなにげにスペシャリストだった。
 
 そんな、得手不得手がわかれる入玉だが、なにげに達人として存在したのが、中原誠十六世名人
 
 「自然流」と呼ばれ、攻めにも受けにもバランスの取れた棋風の中原だが、敵陣へのトライもまたお手のものだった。
 
 特に不得意派の筆頭だった谷川九段は、大舞台で戦うことが多かったせいか、何度か痛い目に合っているのを見たもの。
 
 このあたりは、もしかしたら「ねらい撃ち」の意識はあったかもしれない。
 
 
 舞台は1985年、第43期名人戦第1局
 
 相矢倉から先手の谷川が攻めかかるも、中原も当時愛用していた、△22銀型の菊水矢倉で「前進流」をいなしにかかる。
 
 谷川の切っ先が、何度も届いたように見えながら、中原もギリギリの受けでくずれない。
 
 いつしか後手の玉は、手に乗って上部に脱出。
 
 ついに、入玉が見えてきた。
 
 だが、相手は「光速の寄せ」谷川浩司だ。手をつくして細い攻めをつなげ、ついに後手玉をあと一歩まで追いつめる。
 
 むかえた、この局面。
 
 ▲48飛と打って、一目先手勝ちだ。
 
 
 
 
 
 
 △28合駒すると、▲27角と打って、△29玉▲22竜を取る。
 
 △同金、▲38銀、△39玉に▲49飛でピッタリ詰み。
 
 図から合駒せず単に△29玉ともぐりこんでも、▲47角と打って、今度は▲31竜を取る筋で寄るため、やはり先手勝ちはゆるがない。
 
 とにかく、△22△31に落ちている、質駒の存在がメチャクチャに大きく、どうやっても捕獲されているように見えるのだが、なんとここで見事なしのぎがあった。
 
 
 
 
 
 
 
 
 △38香中合するのが、接近戦の手筋。
 
 これがいかにも入玉戦のアヤで、これがもし敵陣での攻防なら、この形は「▲同飛成」となるから、後手玉は簡単に寄りである。
 
 だが自陣での戦いだと、これには「▲同飛」と生飛車のままになるのだ。
 
 すかさず△29玉死角にもぐって、後手玉に寄りがなくなってしまう。
 
 それは負けなので、先手は香を取らずに▲27角と王手するも、一回△28玉と寄るのが、綱渡りのようで正解。
 
 ▲38飛と取らせて、やはり死角の△29玉にかわせば、これ以上の手がない。
 
 
 
 
 
 
 以下、先手も▲22竜、△同金、▲18銀
 
 せまいところで懸命に食いつくが、冷静に△同馬▲同飛△28歩と、コルクで栓をして盤石。
 
 
 
 
 
 
 
 後手玉は、しか味方がいないが、これで先手の攻めは切れている。
 
 ここで先手の桂馬香車が、まったく宝の持ち腐れになっているところも、自陣で戦う際の泣き所だ。
 
 これで勢いに乗った中原は、4勝2敗のスコアで名人を奪取する。
 
 「名人は危うきに遊ぶ」という、古い言葉を実践する形になったのだった。
 
 
 (続く→こちら
 
 
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台湾(台北)にある龍山寺は関羽と孔子もいて、とってもアバウトでステキなお寺 その2

2019年05月26日 | 海外旅行

 前回(→こちら)の続き。

 

 「台湾にある龍山寺は、とってもステキなところ」



 海外旅行のおすすめスポットをに訊かれて、まずそうぶち上げた私。

 

 

 

  信心深い台湾人でにぎわう龍山寺の境内   

 

 

 台北随一の観光名所であるこのお寺さんの、最大の魅力はといえば、



 「関羽が祀られていること」



 関羽。というと、もしかしてあの関羽? 

 そう疑問に思われる方も、おられるであろうが、そう、あの関羽


 日本人なら大好き『三国志』に出てくる、劉備玄徳の義兄弟、関聖夫子様である。

 知力83武力99

 私の世代なら、片山まさゆき先生の名作マンガ『大トロ倶楽部』の名セリフ、



 「関羽に書物をやろう」



 でおなじみの、あの関羽なのだ。オレは頭のいい武将が好きだぜ。

 なんて説明してみると、歴史ゲームにくわしい方なら、なんで関羽やねん、台湾関係ないがな。

 なんて、つっこまれるかもしれないが、それは実に正しい意見だ。

 関羽と台湾、ちっともゆかりがない。いわば、キリスト青森戸来村にあるようなもんで、なんでそんなところに、と。

 そこが気になって、宿泊していたユースホステルのオーナーさんに、



 「台湾やのに、なんで関羽なんですか?」



 そうたずねると、日本語が達者な林さんはニコニコと、



 「そうなんです。関係ないんです」



 断言されてしまった。やっぱ、ないんかい!

 続けて林女史が言うことには、



 「でもいいんです。台湾人は、めでたそうなものを、とりあえずなんでも神様にして祀るんですよ」



 とりあえず神様

 そんなんでいいのかと、さらなるつっこみが入りそうだが、林さんはさらに、



 「そのへんは、偉い人とかなら、なんでもいいんです。台湾とつながりないけど、孔子様も祀ってますよ」



 関係ないけど孔子。すばらしい発想だ。

 こちらでいうなら、法隆寺とか清水寺に「ナポレオン」とか「アレキサンダー大王」の像が飾ってあるようなものか。なんていいかげんな。

 もう一度発音してみよう。関係ないけど孔子

 何度聞いても、テキトーでステキなフレーズである。「声に出して読みたい日本語」というやつではないか。

 これには私も楽しくなって、



 「じゃあ、ドラえもんとかアンパンマンって海外でも人気だから、祀ってもいいんですか?」



 そう茶々を入れると、林さんはアッハッハと声をあげて笑い、



 「そうです、そのノリです。ドラえもん、いいですね」



 ええんかい! 嗚呼、なんて私好みなアバウトさ。

 めでたいから関羽も孔子も祀るけど、別にドラえもんでもいい。

 この脱力的発想が、外国旅行の醍醐味といえる。まさに究極の多神教で、究極の偶像崇拝

 マジメな一神教信者の中には激おこする人もいるだろうけど、私は大好きだ。

 これに感動した私は、すぐさま龍山寺へと走り、



 「関羽様、孔子様、健康と金運お願いします。台湾関係ないけど。あと、ウチからはウルトラマンがアルカイックスマイルで、仏様っぽくておススメですよ」



 そう祈るとともに、日本のキャラを売りこんでおいた。そのうち、M78星雲から台湾の寺デビューを果たすことだろう。

 かの名将、関羽雲長を参ることができるとは、光栄の『三国志』とナムコの『三国志 中原の覇者』を鼻血が出るくらい遊びまくった身としては感無量であり、しかもそれが、



 「特に寺とゆかりがあるわけではない」



 というズッコケな内容であることが、さらに私の胸を熱くさせるのであった。

 そんな、ゆるゆるな龍山寺、マジで超オススメです!

 

 (故宮博物院については→こちら

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台湾(台北)にある龍山寺は関羽や孔子がいる、とってもアバウトでステキなお寺

2019年05月25日 | 海外旅行

 「台湾にある、龍山寺はおススメやね」。

 先日、友人イケダ君と近所のバーで一杯やってるとき、そう宣言したのは不肖この私である。

 私は旅行が好きである。なればよく

 

 「今度海外行くねんけど、どっかおもしろい場所とかない?」

 

 そう訊かれることもあり、このときも家族旅行を計画していたイケダ君に「おススメの場所教えてくれよ」と頼まれたので、ちょっとばかし考えてみることにしたのだ。

 で、まず出てきたのが、台北にある龍山寺

 私もいろんな場所を旅してきたが、台湾はいいところである。

 はやさしいし、メシはうまいし、観光名所はそこそこそろっているし、治安もいいし、インフラ等もしっかりしていて旅行しやすい。

 文化的齟齬も比較的少なく、また日本語を話せるという人もけっこういるため、その点でもストレスが少ないのが良い。

 自分自身の経験でも、また他の旅行者の話を聞いても、



 「外国旅行をしながらも、外国にいるプレッシャーを感じさせない」



 というアドバンテージ(国内旅行と同じくらいの感覚でOK)は相当に大きく、それこそ旅行初心者などにも、とてもおススメできるところなのだ。

 あとまったくの余談だが、若い女子の黒縁眼鏡率がものすごく高いので、「メガネっ子萌え」の人もぜひチェックしてほしい。

 そんな、そもそもにしておすすめ度の高い台湾だが、中でも龍山寺は行く価値がある。

 私がこのお寺を愛するのは、そのゆるいところ。

 アジアの魅力はアバウトである。

 その民族性か、気候のおかげか、はたまた主に信じられている仏教などの影響か、特に熱帯系の国を旅していると、そのゆるいところになんとも惹かれるのだ。
 
 電車バスは時間通りに来ない、定価がない店があり、場所によっては都市計画などあってなきがごとしにゴチャゴチャして、さながら迷路。

 だが、その無秩序さが味である。

 だいたい、日本はきっちりし過ぎで、私のようないい加減な人間には敷居が高い。

 もっと、ゆるゆるでいいのではないか。

 はじめてタイに旅行したとき、昼飯でも食おうと食堂に入ったら、ウェイトレスの女の子が暑さでヨレていた。

 まあ、タイは暑いからなあと納得しかけたが、彼女がトレイを手にしたまま机に突っ伏していたのには、さすがにおどろかされたものだ。

 日本では考えられない、豪快な休憩っぷり。

 それだけでなく、その女の子はまだ18歳くらいにと見受けするのに、客がいるにもかかわらずをボリボリかきながら、堂々と大口を開けて「ふわあー」とアクビをしたときは、



 「なんてゆるくてステキなんだアジア!」



 感動したものだ。

 こんなんで、ええんや! ゆるゆるバンザイ

 うら若き女の子が、暑さでうだって、眠くて大あくびして、なにが悪い

 日本はきっちりしてるのはいいけど、ちょっと行きすぎというか、学校のブラック校則とか、心身を壊すほど会社が働かせるとか明らかにやりすぎだ。

 果てはトイレ素手でそうじとか、「空気読め」の同調圧力がすごかったり、なんかギスギスしすぎなところも多いのではないか。

 昔は「それで日本は経済大国になった」って言えたけど、最近はそれもすっかり過去の話だしなあ。

 客前であくびにしても、日本のバイト先だと大目玉かもしれないけど、私としては別に仕事さえしてくれれば、そのへんのことはどうでもいい。

 日本はサービス大国だけど、やや過剰というか、もうちょっとこう「いい湯加減」な塩梅にはできないものか。

 アジアを旅行すると、いつも

 

 「日本と足して2で割ると、ちょうどくらいかもなあ」

 

 という気分になってしまう。

 そんなアジアの魅力であるが、台湾はその中でも比較的しっかりした国であるというイメージがある。

 ゆえに、そういったアナーキーな楽しさはないのではないかと危惧していたのだが、あにはからんや。

 台湾には龍山寺があったではないか。

 このお寺さんが私の琴線にビビッとふれたことというのが、まさに「アジア的アバウト」にあるのだ。


 (続く→こちら


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将棋 豊島将之「三冠王」の価値 渡辺明vs佐藤康光 2007年 第20期竜王戦 その2

2019年05月23日 | 将棋・シリーズもの 中編 長編

 前回(→こちら)の続き。

 目標にしていた「三冠王」をかけて、佐藤康光棋王棋聖が、渡辺明竜王に挑んだ、第20期竜王戦七番勝負。

 佐藤から見て2勝3敗第6局は、先手渡辺の初手▲76歩に、2手目△32金(!)というオープニングから、早くも波乱の予感。

 そこから「力戦相中飛車」になり、むかえたこの局面。

 

 

 

 どう見ても前例のない形だが、こういうところは佐藤康光の土俵で、次の1手が渡辺の意表を突いた。

 

 

 

 

 

 △33金と上がるのが康光流の、体重がのったパワフルな前進。

 △32金型の振り飛車は、この金が働かないと苦しくなるが、それをずいと突き出すのが、見事な構想。

 以下、▲45銀△14歩▲66角△44金

 

 

 

 まさに、「オレが佐藤康光だ!」とでも言いたげなのハイパーハンマー。

 こういう将棋をいつも見せてくれるから、この男からは目が離せないのだ。

 そこから、難解な攻め合いとなって、この局面をむかえる。

 

 

 後手が△88銀不成として、飛車をいじめているところ。

 普通は▲96飛と逃げるところだが、△95歩とさらに追及されてしまう。

 ▲76飛△77銀成、▲86飛△67成銀とされると、▲同銀は△77馬が、両王手詰みになり先手が負ける。

 

 

 かといって、飛車を取らせるわけにもいかず、渡辺が苦しそうに見えたが、ここで30分ほど残っていた持ち時間をすべて投入し、妙手をひねり出すのである。

 

 

 

 

 ▲98飛△99銀成▲96飛で先手優勢。

 飛車取りに、一回▲98飛と沈むのがうまい手。

 △99銀成とされて、部分的にはゼロ手を取られる形だから先手が損しているように見えるが、そこで時間差▲96飛とすると、先手の飛車が相当な形。

 とにかく後手としては、成銀が僻地に飛ばされたのが痛く、これ以上先手玉にせまる形がないし、飛車をいじめる順も消されている。

 やむをえず△54飛と浮くが、▲61角で攻守所を変えてしまった。

 以下、△77馬▲68銀と埋め、△44馬▲75桂と攻めつけて圧倒。

 最後は▲99飛と、質駒になった成銀を補充しながらの寄せで、まさに

 

 「勝ち将棋鬼のごとし」

 

 という内容だった。

 4勝2敗で渡辺が防衛に成功し、これで竜王4連覇

 またしても、渡辺明のワザの前に、三冠を阻止された佐藤康光。

 結果は残念だったが、たとえここで敗れたところで、彼が「超一流」「Sクラス」の棋士であることを疑う者など居はしない。

 それほど男が、こんな命がけの将棋を指しても届かなかったのだから、豊島将之が達成した「三冠王」というのが、いかに偉業であるかが、よくわかるではないか。

 

 (中原誠の名人戦での入玉術編に続く→こちら

 

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将棋 豊島将之「三冠王」の価値 渡辺明vs佐藤康光 2007年 第20期竜王戦

2019年05月22日 | 将棋・シリーズもの 中編 長編

 前回(→こちら)に続いて、佐藤康光渡辺明の死闘を。

 


 「三冠王になるチャンスを生かせなかったが残念でした」


 

 『長考力 1000手先を読む技術』という本の中で、そんな内容のことを書いておられたのは、佐藤康光九段であった。
 
 将棋の世界で一流以上の「超一流」といわれる棋士の基準のひとつに、先日、豊島将之名人王位棋聖の達成した、

 

 「タイトル三冠を同時に獲得」

 

 というのがあると思うが(それにしても、一冠取ったらあっという間でしたね)、2006年度の佐藤康光棋聖は、

 

 「タイトル戦5連続挑戦

 

 という大記録を達成し、大きなチャンスをむかえるも、獲得が棋王一冠のみにとどまり、目標達成はおあずけとなった。

 それには天敵である羽生善治の存在と、竜王戦で食らった渡辺明鬼手が痛かったが、不屈の佐藤康光は次年度でも、ふたたび三冠獲得を目指して走り出す。

 まず「本丸」の棋聖戦では、因縁となった渡辺明の挑戦を退けて防衛に成功。

 返す刀で、またも予選を勝ち上がり、竜王戦の舞台に登場。

 渡辺明竜王への、リベンジマッチに挑むこととなったのだ。

 ただ、2連勝スタートだった前期と違って、今度は1勝3敗と苦しい星勘定に。

 それでも三冠王に燃える佐藤は、カド番をひとつしのいで、反撃ののろしを上げる。

 そうしてむかえた第6局は、はやくも2手目から波紋を呼ぶ。

 先手渡辺の▲76歩に、△32金(!)と秘策を見せたのだ。

 

 

 この2手目△32金自体は、昔からある形ではあって、浦野真彦八段が若手時代の羽生善治九段に指したことがある。

 かくいう佐藤康光九段も、第1期竜王戦の6組予選決勝という大勝負で、先崎学九段にこれをやられ、しかも完敗を喫した。

 

 

1998年の、第1期竜王戦6組決勝。佐藤康光四段と先崎学四段の将棋。
「佐藤君って、振り飛車できないんでしょ?」。2手目△32金の挑発に胸ぐらをつかみかえして熱戦に。
佐藤が優位に進めているように見えたが、先崎の△56歩の突き出しが好手で、そのまま勝利。
当時の先崎曰く、「今までで、もっとも悔しい敗戦が、C級2組順位戦の森内戦なら、一番うれしい勝利は、佐藤君に勝ったこの将棋」

 

 

 意味としては、この金上りは、相居飛車になるなら損はほとんどない。

 だが、振り飛車に対してはオーソドックスな急戦や、居飛車穴熊へのスムーズな移行などを消してしまい、展開によっては疑問手になる可能性がある。

 いわば、居飛車党の棋士に

 

 「飛車を振ってみろ!」

 

 そう挑発する手で、相手をカッカさせるだけでなく、場合によっては不慣れな戦型で戦うことを余儀なくさせる、心理戦術でもあるのだ。

 さらにいえば、この手にはもうひとつ因縁があった。

 前期の竜王戦も、このカードで戦われたのだが、2勝3敗と追いこまれた佐藤康光は、なんと第6局7局で、この2手目△32金を連投させたのだ。

 これには渡辺のみならず、棋士やファンも皆おどろかされたはずで、私なども

 

 ケンカを売っているのか?」

 「いや、緻密な研究の成果かも」

 「もしかしたら、ヤケのヤンパチだったりして」

 

 などなど、1日目の午前中から、楽しませてもらったもの。

 これに対して、渡辺も「乗った!」とばかり振り飛車穴熊にするが、リードして「浮ついていた」と本人も認めるように、いいところなく敗れてしまう。

 この敗戦で、

 


 「2手目△32金は振り飛車にされても、損ではないのかもしれない」


 

 そう思い直した竜王は、第7局では冷静に居飛車を選択。

 勝利をおさめ防衛を果たすが、どうもモヤモヤしたものは残ったようで、

 


 「△32金には▲56歩から中飛車にして、先手が指せるのはわかっている。次やられたら、そうやって勝つ」


 

 と宣言していたのだ。

 そうして、三度飛び出したこの△32金に、渡辺は堂々の▲56歩

 この手はなにをかくそう、前述の対浦野戦で、羽生が見せた対策。

 間違いなく意表をつかれたのに、なんの研究もない状態で16分の考慮の後、すっと指されたのがこの▲56歩。

 これが先崎九段も脱帽する「最善手」だというのだから、まったく羽生の才能も底が知れない。

 

 

1988年の第47期C級1組順位戦。浦野真彦五段と羽生善治五段の一戦。
浦野の2手目△32金に、羽生は▲56歩から中飛車に。
先手の駒組が機敏で、向飛車から▲86歩の仕掛けを見せられると、後手の△32金と△31銀の組み合わせが、壁になってしまい苦しい。

 

 

 佐藤もこのことは当然知っていて、一見挑発に見えるこの手が、

 

 「研究によって指せると見た手で、ただの挑発ではない」

 

 そう胸を張るのだから、話はややこしい。

 当時の佐藤康光は、独特の角交換振り飛車など「康光流」の新戦法を次々と生み出して(そしてなかなか理解されずボヤいて)いたころ。

 そんな男が、ただのイチビリで、こんな手を指すはずがないのだ。

 佐藤の新構想は、相手が羽生流の中飛車を選べば、なんと自分も飛車を振って「相中飛車」にするというもの。

 

 

 

 これで戦えるというのだから、まったくこの男の頭の中は、どうなっているのか……。

 こうして、前代未聞の「力戦相中飛車」となった戦いは、佐藤の力強さが存分に出る展開に。

 

 

 双方、駒組が整ってきて、そろそろ戦闘がはじまるか、それとももう少し間合いを図るか。

 考えそうなところだが、次の一手がまた、いかにも佐藤康光というものだった。

 

 (続く→こちら

 

 

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将棋 豊島将之「三冠王」の価値 渡辺明vs佐藤康光 2006年 第19期竜王戦 その2

2019年05月19日 | 将棋・シリーズもの 中編 長編
 前回(→こちら)の続き。
 
 
 「タイトル戦5連続挑戦」
 
 
 という大記録を達成しながら、なかなか奪取まではいたらず苦しんでいた、2006年度の佐藤康光棋聖
 
 渡辺明竜王に挑戦した竜王戦2連勝スタートでむかえた第3局は相矢倉からこの局面。
 
 
 
 
 飛車が押さえこまれそうだが、ここで佐藤がすごい手を披露する。

 
 
 
 
 

 

 ▲46角と引くのが、驚愕の一手。

 角を引くのはわかるとして、普通なら▲28飛△同と▲46角とか、行き掛けの駄賃にをいただきそうなものだが、別にいいですと放置プレイ。

 後手も当然△38とと飛車を取るが、▲91角成として、これで悪くないというのが佐藤の読み。

 渡辺も、△48と(!)、という銀のヒモをはずす意表の手で先手玉にせまるが、佐藤もタダで取れる駒にかまわず、▲34歩と打って拠点を作る。
 
 △38飛の攻防手にもかまわず、▲33香と打ちこんで、これぞ問答無用で相手の胸ぐらをつかむ「康光カツアゲ流」(と勝手に呼んでいた)の激しいパンチだ。
 
 


 
 その後は3筋に駒をバンバン打ちこんで、あっという間に渡辺陣を裸にすると、怒涛の押し出しを敢行。

 むかえた、この場面。
 



 
 ▲43同金とせまって、後手玉は寄り形に見える。

 飛車打ちの詰めろが受けにくく、先手が押し切ったに見えたが、ここからが熱戦の第2ラウンドだ。







 
 
 △21角と、ここに打つのが、しぶとい手。

 これに負けて3連敗となると、ほぼ勝負が決まってしまうため、渡辺も必死だ。

 先手の攻めもギリギリで、どう指すか非常に迷うところ。

 ここでは▲34金と、援軍をくり出せば優勢だったようだが、佐藤は▲34飛と打つ。

 △41玉▲42歩として、△51玉▲31飛成を作りながらの王手角取り
 
 
 
 
 決まったように見えるが、後手はその角をおとりにして左辺に逃げ出し、もうひとがんばりできる。

 △62玉▲21竜△69銀で、いよいよ最終盤のスプリント勝負。
 
 
 
 
 
 ▲53角の王手に、△73玉と逃げ、▲71竜△83玉▲81竜△82香の合駒。

 そこで▲96歩と突くのが、自玉の一手スキを解除しながらの、次に▲69金と取る手が詰めろになって勝ちという、攻防兼備の手。

 

 
 
 後手はを渡せないので、△78銀成は▲同金が自動的に後手玉への詰めろになり負け。
 
 流れ的には先手勝ちに見えるが、渡辺も懸命にしがみついていく。
 
 
 
 
 
 △72銀(!)と打つのが緊急避難のような犠打。
 
 ▲95桂△94玉▲72竜にでタダ取られるが、その瞬間が一瞬安全になるので△85桂と反撃。
 
 ド迫力の終盤戦だ。
 
 後手玉は「桂先の玉、寄せにくし」の格言通り、▲86桂と打つ筋以外では絶対に詰まない、俗に「桂ゼット」と呼ばれる形。

 なら、桂馬を渡さず、先手玉に一手スキをかければ後手勝ちだが▲79銀と受けて、△78銀成▲同銀で、この局面。



 
 
 先手はさえ手に入れば勝つから、△77桂成は寄らないと、ヒドイことになる。

 とにかく、先手は一手しのいでさえしまえば、▲74竜でも▲83桂成でもおしまいだから、ここが後手の最後のチャンス。

 いい手をひねり出さなければ、「佐藤竜王」がほとんど誕生するが、ここで鬼手が飛び出した。






 
 
 △79角と打つのが、一撃必殺の捨て駒。

 ▲同玉しかないが、△69金と打って、▲同銀、△同と、▲同玉に△67銀とかぶせて先手は受けなし。
 


 
 
 ▲同金には△77桂不成として、▲同桂に△57桂でピッタリ詰み。

 渡辺竜王によると、この△79角は秒読みの中、読み切れずに打ったが、考えているうちに△67銀で勝ちと、ようやく発見できたとのこと。

 まさにギリギリの綱渡りだったが、この手を指せなければ佐藤が、おそらく順当に勝ち切って竜王になっていたことだろう。

 そうなれば、竜王棋聖棋王三冠王

 私はタイトルの序列というのにさほどこだわらず、名人も叡王も他のタイトルも同格でカウントしてるけど、ファンへのアピール的には

 「竜王名人を取って三冠」
 
 というのは通りがいいのは間違いなく、そのチャンスを生かせなかったのは、佐藤にとって痛恨であったろう。

 その野望を打ち砕いた△79角は、今期名人戦第3局△67銀と同じく、秒読みのなか確証のないまま、とっさに手が伸びたところだった。
 
 
 結果的には「豊島名人」を生んだ運命の局面。
 ここでは▲34角成が、金を補充しながら▲67、▲78に馬を利かす絶好の攻防手で佐藤天彦が勝ちだった。
 残り2分の佐藤名人は▲85桂とするが、これが詰めろになっておらず一気の転落。
 
 

 そんな、いい手かどうか対局者にもわからない「シュレディンガーの妙手」とでもいうような不確定性で、「三冠王」か「竜王9連覇」に世界は分かれてしまう。
 
 人の運命なんて、こんな紙一重のもので決まってしまうんだと、なんだか不思議な気分にさせられる。
 
 もしかしたら名人戦での、あの
 
 「△67銀、▲85桂」
 
という2手の交錯は、「佐藤天彦二十世名人」と「豊島将之三冠」という未来を一瞬で分岐させた、おそるべき密度の数十秒だったのかもしれないのだ。
 
 
 (2007年竜王戦編に続く→こちら) 
 
 
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将棋 豊島将之「三冠王」の価値 渡辺明vs佐藤康光 2006年 第19期竜王戦

2019年05月18日 | 将棋・シリーズもの 中編 長編
 将棋の絶妙手は美しい。
 
 前回は羽生善治九段のデビュー時代を紹介したが(→こちら)、今回はそのライバルの将棋を。
 
 

 「三冠王になるチャンスを、生かせなかったが残念でした」。



 『長考力 1000手先を読む技術』という本の中で、そんな内容のことを書いておられたのは、佐藤康光九段であった。

 将棋のプロで「一流棋士」と呼ばれる定義といえば一般的には、


 「A級八段」

 「タイトル獲得」


 このふたつを達成すると、条件を満たしているといえるだろう。

 さらにはNHK杯朝日杯など、全棋士参加棋戦の優勝もあれば文句なしで、そこから数字をどれだけ上乗せできるかが、細かいランキングを決めることになる。

 まあ、だいたいそんなところが基準だと思うが、さらにその上の
 
 
 「超一流」
 
 「Sクラス」
 
 
 となれば、そのラインというのが、昨日新たな名人になった(とよピー、おめでとう!)豊島将之の達成した「三冠王」ということになるのではないか。

 実際、同時に三冠を獲得した棋士は、そう多くなく、歴代でも、



 升田幸三(名人・王将・九段 三冠王で当時の全冠制覇

 大山康晴(名人・十段・王将・王位・棋聖 五冠王で当時の全冠制覇

 中原誠(名人・十段・王位・王将・棋聖 五冠王

 米長邦雄(十段・棋王・王将・棋聖 四冠王

 谷川浩司(竜王・棋聖・王位・王将 四冠王

 羽生善治(竜王・名人・棋聖・王位・王座・棋王・王将 七冠王で当時の全冠制覇

 森内俊之(竜王・名人・王将 三冠王

 渡辺明(竜王・王将・棋王 三冠王
 
 豊島将之(名人・王位・棋聖 三冠王



 この9人しかおらず、いずれを見ても、その時代の最強棋士であったといってもいいメンバーがそろっている。

 佐藤自身もインタビューで「三冠王が目標」と語っていたのだが、その大きなチャンスが2006年度だった。

 本格派から力戦型への棋風チェンジと、自身の円熟味がうまく融合した形になり、その力強い将棋で、ものすごい勝ちっぷりを見せる。

 棋聖戦では、挑戦者決定戦で羽生を破り勢いにのる鈴木大介八段3-0のストレートで退け防衛
 
 通算5期で「永世棋聖」の称号を獲得する。

 トップ棋士選抜のJT杯日本シリーズ決勝では郷田真隆九段NHK杯決勝では森内俊之名人と、同年代のライバルをそれぞれ破って優勝

 中でも特筆すべきは、この年、佐藤康光はなんと


 「タイトル戦5連続挑戦」


 という前人未到の記録を打ち立てることとなる。

 つまりは、この期の佐藤康光は名人戦以外のすべてのタイトル戦に登場したうえに、ビッグトーナメント2個の優勝カップを獲得。

 もちろんのこと最優秀棋士賞と、くわえて升田幸三賞をも受賞し、鬼神のような勝ちっぷりというか、まさに他の棋士を無差別になぎ倒す、絨毯爆撃のようなすさまじさだった。

 ところが、佐藤の『長考力』によると、その大爆発にもかかわらず、このころは非常に苦しい時期だったという。

 それは次々と登場した、タイトル戦の結果だ。

 タイトル戦の挑戦権獲得となれば、並みの棋士なら一生モノの勲章だが、佐藤クラスになると、当然それだけでは満足してもらえない。

 勝ってナンボとなるわけだが、これがきびしい結果となり、
 
 

 王将戦 3-4 羽生善治

 王位戦 2-4 羽生善治

 王座戦 0-3 羽生善治
 
 竜王戦 3-4 渡辺明



 なんと、怒涛の4連敗

 天敵ともいえる羽生善治が君臨する時代となれば、勝利をおさめるのも大変だろうが、それにしてもこれはコタえるだろう。

 最後の棋王戦では森内俊之を3勝2敗で下し、二冠を獲得で最低限の結果は残したが、せっかくの5連続挑戦も全体で1勝4敗となれば、本人的にも納得がいくわけもない。

 少なくとも2勝3敗なら三冠王だっただけに、佐藤としても悔いが残るだろう。

 そこで今回は、佐藤の三冠獲得を阻止した渡辺明竜王の指しまわしを紹介したい。

 2006年の第19期竜王戦
 
 渡辺明竜王と佐藤康光棋聖の対戦は、挑戦者の2連勝第3局をむかえる。

 相矢倉から先手の佐藤が仕掛け、渡辺は△27の「羽生ゾーン」に銀を打って攻め駒を責める。

 むかえたこの局面。後手が△37歩成としたところ。
 
 



 先手の飛車が押さえこまれて、どう攻めを継続するのかむずかしそうだが、ここで佐藤が見せた応手が、まずすごいものだった。
 
 
 
 (続く→こちら
 
 
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テニス 地味……もとい「いぶし銀」プレーヤー列伝 パトリック・マッケンロー編

2019年05月16日 | テニス
 前回(→こちら)の続き。
 
 「マイナー選手萌え」である私が、テニスにおけるやや渋めの選手について紹介していこうというこの企画。
 
 前回は「1996年ウィンブルドンジェイソンストルテンバーグが勝つべき大会だった」。
 
 という、我ながら意味不明の提言をしたものだが、地味な選手シリーズの最後はUSオープン編。
 
 スポーツの世界には、家族同じ競技のプレーヤーというケースがたまに見られる。
 
長嶋茂雄長嶋一茂とか、マラソン宗兄弟とか、レスリング伊調姉妹
 
 テニス界でもマレーバ三姉妹とか「ジェンセンズ」ことジェンセン兄弟
 
 今だとボブマイクブライアン兄弟や、ミーシャサーシャズベレフ兄弟アンディージェイミーマレー兄弟なんてのもいて、それぞれに活躍していたりする。
 
 彼ら彼女らは、ときに刺激を受けて活躍しあったり、ダブルスを組んだり、中には少々格差が生まれたりもすることもあるが、テニス界でもっとも「キャラ的に格差」があるのがこの兄弟ではなかろうか。
 
 そう、ジョンパトリックマッケンロー兄弟
 
 ジョンのほうはいうまでもあるまい、元世界ナンバーワン
 
 グランドスラム大会7勝ウィンブルドン3USオープン4)、ツアー通算単複合わせて148勝
 
 実績だけでなく人気の面でも他の追随をゆるさない、世界に誇るテニス界のスーパースターである。
 一方、のパトリックのほうはどうであろうか。
 
 世界ランキングはシングルス28位。キャリア通算優勝回数も、シングルスでは1回のみ。
 
 それでもテニス選手としては、トップ100に入ってタイトルもとっているのだから十分すぎるほどの成功者なのだが、これが
 
 
「ジョン・マッケンローの弟」
 
 
 として見ると、どうにも見劣りすると言わざるを得ない。
 
 実際、「悪童マック」とおそれられた兄とちがって、パトリックのほうは温厚な人格者として知られ、プレーヤーとしてよりもデビスカップ監督として有名と見る人もいよう。
 
 もしかしたら、そのあたりの人の好さが、才能以前に彼がジョンほどの実績を築けなかった原因かもしれない。
 そんなナイスガイのパトリックが輝いた大会がふたつあって、ひとつが1991年オーストラリアンオープンでのベスト4
 
 もうひとつが、1995年USオープンでのベスト8だ。
 
ゴーランイバニセビッチ1コケしたドローから、ブレッドスティーブンアレクサンドルボルコフダニエルバチェクと、これまたいい感じにマニアックな中堅どころを倒しての準々決勝に進出。
 
 ここで当たったのが、兄に勝るとも劣らないスーパースターボリスベッカーだった。91年全豪準決勝でも戦った、因縁の相手だ。
 
 この試合、私もテレビで観戦していたが、とにかくニューヨークのファンからパトリックへの声援がすごかった。
 
 元からしてUSオープンの客はアメリカンでノリがいいが、このときはパワーがさらにちがう感じであった。
 
 パトリックがニューヨーカーであり、本当に地元中の地元選手であることにくわえて、各上のベッカー相手に3度タイブレークに持ちこむ頑張りを見せたこともあって、会場は爆発的な大盛り上がりを見せていたのだ。
 
 結果は4セットでベッカーが辛勝するんだけど、随所に「あわや」な場面を作りだし、それよりもなによりも、いかにも人格者である彼らしい、あきらめない、ひたむきなプレーが感動的であった。
 
 私だけでなく、あの試合を観戦したすべての人が、パトリック・マッケンローのファンになったのではなかろうか。そう確信できるほどの好ゲームであったのだ。
 
 私は世代的にピートサンプラスアンドレアガシジムクーリエマイケルチャンといった選手の洗礼を受けている。
 
 それ以前のレンドルベッカーエドバーグに関しては知ってはいるものの「同時代感」はなく、それより前のジョンやボルグコナーズといった面々はすでにして「伝説」であった。
 
 その意味では、1995年からテニスを見始めた私にとって、むしろリアルな「マッケンロー」といえばパトリックということになる。
 
 テニスを知らない人には
 
 
「マッケンローのジョンじゃないほう
 
 
 そう語られがちだが、私にとっての「じゃないほう」はむしろジョンの方なのである。
 
  
 
 ★おまけ 好漢パトリックの活躍は→こちら
 
 
 
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テニス 地味……もとい「いぶし銀」プレーヤー列伝 ジェイソン・ストルテンバーグ編

2019年05月10日 | テニス
 前回(→こちら)の続き。
 
 「マイナー選手萌え」である私が、テニスにおけるやや渋めの選手について紹介していこうというこの企画。
 
 前回は1996年フレンチ・オープンで活躍した、ベルントカールバッヒャーを紹介したが、ローランギャロスではベスト16くらいの「だれやねん」率が他の大会より高い。
 
 
 1997年大会 ガロブランコがベスト8
 
 1999年大会 フェルナンドメリジェニドミニクフルバティがベスト4
 
 2000年大会 フランコスキラーリがベスト8
 
 2003年 マルティンフェルカークが準優勝
 
 
 芥川龍之介羅生門』のごとく、だれも知らない選手が目白押しだ。
 
 まあ、専門色の強いクレーコートは他とくらべて、ややマニアックな選手が活躍しがちだが、ではウィンブルドンはどうか。
 
 ウィンブルドンはフレンチとくらべると、パワースピードにものを言わすアグレッシブなプレーヤーが勝てる大会。
 
 優勝者を見ても、ピートサンプラスボリスベッカーステファンエドバーグロジャーフェデラー
 
 などなどスターの名前が多いわけだが、中には「ほほう、こんな選手が」とほほが緩むような男が勝ち上がっていたりする。
 
 たとえば、1996年大会のジェイソンストルテンバーグ
 
 オーストラリアといえば、古くはテニス王国であり、私がテニスを見出してからも、マークフィリポーシスパトリックラフターレイトンヒューイットに、トッドウッドブリッジマークウッドフォードウッディーズ
 
 なとなど好選手を数多く輩出しているが、ジェイソンみたいな渋い選手も忘れてないところがである。
 
 私が勝手に選ぶ地味な選手の条件として、
 
 
 「見た目がおぼえにくい」
 
 「ツアーで準優勝が多い」
 
 「ダブルスが強い」
 
 
 などと並んで、
 
 
 「グランドスラムの最高成績が、軒並み4回戦どまり」
 
 
 現役選手ならフィリップコールシュライバーとかジュリアンベネトーあたりが当てはまりそうだが、ジェイソンもまた他の4大大会では、多くがベスト16止まりであった。
 
 ところが、どういった気まぐれか96年ウィンブルドンでは勢いが止まらず、準々決勝では、それまで2度決勝に進出しているゴーランイバニセビッチを破ってベスト4に進出したのである。
 
 この年の大会はにたたられたせいもあってか、ボリス・ベッカーやアンドレアガシといった優勝候補が総崩れして、ファンと大会側をガッカリさせていた。
 
 当時は私も、テレビで延々シートをかぶせられたセンターコートの映像を見させられて、うんざりしたもの。
 
 また、悪いことは重なるもので、絶対的な芝の王者であったピートサンプラス地元期待のティムヘンマンすら準々決勝で姿を消してしまった。
 
 こうなったら、残る楽しみはゴーラン・イバニセビッチの悲願の初優勝しかなかろうと期待していたら、なんとジェイソンに負けてベスト8で散り、もうコケそうになったのであった。
 
 なんや、この大会は。
 
 まあ個人的なグチはともかく、優勝候補であったゴーランを、しかもウィンブルドンの舞台で屠ったのは、ジェイソン・ストルテンバーグのテニス人生最大の勝利かもしれない。
 
 私はテレビの前でコケながらも、
 
 
 「こうなったら、いっそストルテンバーグが優勝したら笑うのになあ」
 
 
 なんて大会側のため息(だったでしょう間違いなく)を尻目に呑気なことを考えていたものだ。
 
 まあ、それはジェイソンに失礼な言い方だけど、でもホント、彼がチャンピオンになってたら、どうなってたかなあ。
 
 みんな、反応に困ったやろうなあ。その意味では、せめて決勝にはいってほしかったような気がいないでもないというか、しないかな、やっぱり(←だから失礼だって)。
 
 そんないぶし銀の男が魅せたウィンブルドンだが、この96年大会は決勝のカードもやや地味であった。
 
 
 リカルド・クライチェク対マラビーヤ・ワシントン。
 
 
 雑誌『スマッシュ』によると、アメリカのメディアではこの96年ウィンブルドンは、はっきり「はずれの年」といわれているらしい。
 
 アメリカ人のマラビーヤが決勝に出ているのに、ヒドイやんという気もするけど、まあベスト4のカードが
 
 
 クライチェク対ストルテンバーグ
 
 ワシントン対トッド・マーティン
 
 
 では無理ない気もするか。決勝も正直凡戦だったし。
 
 そこまで「はずれ」といわれるなら、やはりそこはとことんはずす方向で突き詰めてほしかった。
 
 そうなると、リカルドには悪いがそこはもういっそ
 
 
 「ストルテンバーグ優勝」
 
 
 という結果だったほうが、ハジケていたような気もする。
 
 テニスの世界には「この年は○○が勝つべきだった」と自他ともに認められる大会がある。
 
 たとえば97年USオープンマイケルチャンとか、2004年フレンチ・オープンギレルモコリアなどがあるが、私としてはそこに
 
 
 「96年ウィンブルドンはあえてジェイソン・ストルテンバーグが勝つべき大会だった」
 
 
 という一説を加えたいところ。賛同者ゼロは覚悟している。
 
 
 (マッケンロー編に続く→こちら
 
 
 
 ★おまけ 後輩のレイトン・ヒューイット(当時16歳)と戦うストルテンバーグの雄姿は→こちら
 
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テニス 地味……もとい「いぶし銀」プレーヤー列伝 ノバク、クベク、ビヨークマン編

2019年05月06日 | テニス

 前回の続き。

 「マイナー選手萌え」である私が、テニスにおけるやや渋めの選手について紹介していこうというこの企画。

 前回は1996年オーストラリアンオープンベスト4に入ったダブルスのスペシャリストであるマークウッドフォードについて語ったが(→こちら)、全豪では以降も、目を引くマニアックな選手が上位進出を果たしている。

1998年大会でのアルベルトベラサテギ(冗談みたいな厚いフォアハンドのグリップで94年フレンチ決勝進出)や1999年大会のビンセントスペイディアカロルクチェラ

2000年大会ではクリスウッドルフや、モロッコの元ナンバーワン、ユーネスエルアイナウイがベスト8。

2001年はフランスのアルノークレマン準優勝など、だれも知ら……もとい玄人好みの実力者が大活躍しているのだ。

 そんな精鋭ぞろい(?)の、2000年代における地味な全豪といえば、やはり2002年大会を忘れるわけにはいかない。

 というと通のテニスファンは、

 「あー、あの決勝ね」

 なんてニヤリとされるかもしれない。

 そう、この年の決勝戦はロシアのマラトサフィンとスウェーデンのトーマスヨハンソンというカードだったのだが、これがもう見てて笑ってしまうくらいタイプのちがう選手だったのだ。

 サフィンのほうは2000年USオープン決勝で王者ピートサンプラスをボッコボコにして優勝するという鮮烈なデビューを果たし、その後すぐにナンバーワンに。

 才能にあふれ、魅力的なうえにもまた魅力的なプレーだけでなく、その派手な言動や天才らしいもろさなどあいまって、キャラ立ちまくりのザッツ・スーパースター

 一方のヨハンソンはスウェーデンの選手らしく、安定感あるストロークが武器の実力者。

 その見た目や言動などはきわめて普通であり、スウェーデンのテニスといえばビヨンボルグステファンエドバーグなど華のあるイメージがあるが、実際のところはビジュアルでもプレースタイルでも「地道コツコツ型」が多いのだ。

 となると、これはもう「番長」サフィンの2つめのグランドスラムタイトルは間違いなかろうと、だれもが疑うことがなかったのだが、あにはからんや。

 勝負というのはやってみなければわからないもので、この大一番を制したのは「いぶし銀」ヨハンソンなのであった。

 アイヤー! そんなことがあるんでっか!

 私がこれまで、もっとも意外だったグランドスラムの結果というのが、2014年USオープン錦織圭の決勝進出なんだけど、その前といえばこのヨハンソン優勝かもしれない。

 いや、トーマスには悪いけど、マラトが負けるなんてたったの1秒も思わなかったもんなあ。

 彼からすれば、「オレだって、やるときゃやるゼ」てなもんだったろうが、この大会は彼だけでなく、上位進出者がけっこうな割合で渋いのも印象的だ。

レイトンヒューイットアンディーロディックといった、優勝を期待されたトップ選手が前半戦で消えてしまったことも相まって、そこをするするとダークホースが上がってきたのだ。

 それでもトップハーフはまだベスト8に、



 マルセロ・リオス対トミー・ハース

  ウェイン・フェレイラ対マラト・サフィン



 こういったメジャーどころがそろったが、ボトムハーフはといえばこれが、



イジー・ノバク対ステファン・クベク

  ヨナス・ビヨークマン対トーマス・ヨハンソン



 嗚呼、なんて渋い。

 ノバクかあ。昔レンドルベルディハと、チェコの選手は伝統的に目立たないなあ。

 ビヨークマンとか「地味界の名関脇」(横綱はレンドル、大関ミヒャエルシュティヒペトルコルダあたりか)が、しっかり勝ち上がっているのもうれしいではないか。ダブルスも強いというのが、またいい味だ。

 しかも、その前の4回戦など、



イジー・ノバク対ドミニク・フルバティ

  トーマス・ヨハンソン対アドリアン・ボイネア



 とか、これでチケットがはけるんかいな、と余計なお世話の心配をしそうになる組み合わせもあったのだ。ステキすぎるではないか。

 かくのごとく、オーストラリアン・オープン2002年大会は「地味萌え」な私にはなかなか興味深い大会なのである。

 まあ、ファンはまだしも、大会主催者からしたら、こんなシードダウンだらけの大会は「マジで勘弁してえ!」ってなるだろうけど。

 負けるな、マニアックなチェコスウェーデン選手!

 (ベルント・カールバッヒャー編に続く→こちら


 ★おまけ 2002年全豪決勝のハイライトは→こちら



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テニス 地味……もとい「いぶし銀」プレーヤー列伝 ベルント・カールバッヒャー編

2019年05月05日 | テニス

 前回(→こちら)の続き。

 「マイナー選手萌え」である私が、テニスにおけるやや渋めの選手について紹介していこうというこの企画。

 前回は2002年のオーストラリアン・オープンで活躍した、ステファンクベクアドリアンボイネアといった聞いたことな……もとい、知る人ぞ知る実力派中堅選手を紹介したが、今回はフレンチオープンで名をあげた地味選手を。

 パリローランギャロスで開催される全仏は、その「花の都」と称される土地柄と比べると、ずいぶん地味な大会である。
 
 その理由は球足遅いクレーコートというサーフェスにあり、スピードを殺すこのコートでは華のある攻撃的なプレーヤーが力を発揮できず、逆に



 「根性だけはガチッス」



 みたいな暑苦しくも、ガッツあふれる男たちが、上位進出しがちなのだ。

 それこそ1994年決勝戦など、セルジブルゲラアルベルトベラサテギという、



 「スペインの男汁」



 とでも広告を打ちたくなるような、若干人を選ぶカード。

 あのスーパースターであるビヨンボルグすらマッツビランデルと、延々終わらないラリーをやっていたときには、フランス人が、



 「こいつら、このまま世界の終わりまで打ち合ってるんじゃないか」



 なんて恐れおののいたというくらいだ。げにすさまじきは、いにしえのクレーコートテニスである。

 そんなふうに、かつて全仏オープンは華やかさとは無縁の「クレースペシャリスト」なる季節労働者が大挙して押しかけ、ここが稼ぎ時とばかりにトップスピンをぐりぐりと打ちまくっていたので、「だれやねん」な選手にこと欠かない。

 たとえば、1996年ベルントカールバッヒャー

 カールバッヒャーはドイツのテニス選手。

 80年から90年代のドイツといえば、ボリスベッカーミヒャエルシュティヒが最強のツートップとしてブイブイ言わしていたわけだが(ただし仲は悪かった)、その下には



 ダビト・プリノジル

  ヘンドリック・ドレークマン

  カール・ウベ・シュティープ



 といった、マニアックすぎて、書き写していてヤングなテニスファンに土下座でもしたくなるような、少々ガチすぎる地味選手が並んでた。

 ベルントもその一人だったわけだが、そんな彼もシュティープなどと並んで、ドイツのデビスカップ代表でも活躍するすごい選手。

 この年のデ杯でも準決勝ロシア戦で、勝利を決める一番にベッカー代役として出場。

 ロシアのスーパーエースであるカフェルニコフにボコられて、決勝進出を逃がしたりしていたものだ(←いや、それダメじゃん)。

 そんなドイツテニスの中間層をささえていたカールバッヒャーが、パリの舞台で大活躍

 4回戦ゴーランイバニセビッチを破る大金星を挙げて、見事ベスト8に。

 彼は特にクレーコーターというイメージはないが、静かに淡々としたストロークを打ち続け、何がどうということはないが勝ち上がっていったのだ。

 高速サーブやスーパーショットとは無縁だが、

 

 「よくわからんが勝った」

 

 この空気感が、地味選手の真骨頂といえなくもない。

 準々決勝ではスイスマルクロセフルセットの末敗れたものの、「ドイツはボリスだけやない!」と、その存在感を十二分にアピールしたのであった。

 また、ベルントといえば忘れがたいのが、そのヘアスタイル

 もともと容貌自体も地味なうえに、その頭に乗っている毛というのが、ヘルメットというかおかっぱというか。

 お笑いコンビ2丁拳銃小堀さんのごとき、独特すぎるビートルズスタイルなのであった。

 いや、ビートルズは偉大だが、当時でもすでに「古典」という時代であった。なにかこう、違和感はバリバリだったのだ。

 今だったら、「え? 売れようとしてるの?」とか、イジられまくりであったろう。  

 地味でも髪型が突飛でも、安定感と体力と根性さえあれば上位進出をねらえるのが、ローラン・ギャロスのいいところ。

 1996年大会のベルント・カールバッヒャーは準優勝したミヒャエル・シュティヒとともに、

 

 「じゃないほうドイツ選手」

 

 として大いに気を吐き、マニアックなテニスファンを大いに盛り上げたのである。

 

 (続く→こちら


 ★おまけ 派手さはないがグランドスラムの8強は見事! ベルントの戦いぶりは→こちら


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羽生善治と竜王戦 「19歳2か月 羽生竜王」への道 その3

2019年05月03日 | 将棋・シリーズもの 中編 長編
 前回(→こちら)の続き。
 
 ファンの熱い期待を背負って、竜王戦で勝ち上がっていく、若き日の羽生善治五段
 
 初挑戦まで、あと一歩の準決勝で対するのは、大山康晴十五世名人
 
 名人18期をはじめ、タイトル獲得80期(!)を誇る将棋界の大レジェンドであり、羽生があらわれるまでは、文句なしの「史上最強」棋士であった。
 
 今でいえば、第11回朝日杯準決勝、羽生善治vs藤井聡太戦のようなものだが、この2人には
 
 
 「なぜか大山(に限らず旧世代の棋士や評論家)は、羽生をあまり評価していなかった」
 
 
 という事情もあって、おそらくそれはあまりに「羽生世代」の将棋や思想がが昭和の価値観とちがいすぎたから。
 
 今で言う「AI否定論者」の見せるアレルギー反応と、新しい時代からの「侵略」を恐れる心理のようなものだったのかもしれないが、その意味でも両者負けられない勝負。
 
 まさに実力だけでなく、プライドもかけた「新旧最強者対決」だったのだ。
 
 この大一番、大山おなじみの振り飛車に、羽生が棒銀で対抗。
 
 中盤のねじり合いから、双方飛車が成りこんで難解な終盤に突入。
 
 を詰めた羽生が、今度は玉頭から襲いかかるものの、受けに定評のある大山のは重く、なかなか決め手をあたえない。
 
 むかえた、この局面。
 
 
 
 
 
 
 ▲75にいた△83を取り、後手が△同銀と応じたところ。
 
 自然な▲同香成△同角当たりで攻め切れない。
 
 ▲75金と厚くせまる手が見えるが、解説によると、ここに駒を使っては戦力不足になってしまうとのこと。
 
 攻め手が見えず、いかにも「受けの大山」のペースのようだが、ここで羽生が見せたのが、後手の守備網を問答無用で突破する、力強い1手だった。
 
 
 
 
 
 
 
 ▲66銀と出るのが、若き日の羽生が見せた、すばらしい進撃。
 
 守備の駒を、グイと前線に押し出すこの手によって、後手はどうにも身動きがつかないのだ。
 
 △53銀と引くが、続けて▲75銀とさらにくり出すのが、強烈すぎるショルダータックル。
 
 
 
 
 
 
 この上部からので、後手玉はシビれている。
 
 大名人の肋骨を折らんばかりに壁に押しつけ、モハメドアリなら
 
 
 「オレの名前を言ってみろ!」
 
 
 そう叫びそうな場面ではないか。
 
 以下、△72銀の必死の防戦に、▲74銀と取って△同歩▲83香成△同銀に、▲84銀の頭突きが、とどめの一撃。 
 
 
 
 
 
 △同角▲71角
 
 △同銀▲72金から、それぞれ詰み
 
 本譜△72銀打の受けにも、▲73金と打ちこんで詰んでいる。
 
 攻めあぐねて見えたところから、▲66銀から▲75銀の流れは見事で、まさに勝利への階段をあがるかのよう。
 
 ここで勝って、問答無用で自分を認めさせた羽生は、挑戦者決定戦でも、森下卓五段相手に2連勝し、ついにタイトル戦に初登場。
 
 七番勝負でも、先輩である島朗竜王とフルセットの激戦を制して、見事初タイトルを獲得。
 
 「100」への偉大なる第一歩を踏み出すこととなるのだ。
 
 
 (佐藤康光「三冠王」への挑戦編に続く→こちら
 
 
 
 
 
 
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羽生善治と竜王戦 「19歳2か月 羽生竜王」への道 その2 

2019年05月02日 | 将棋・シリーズもの 中編 長編
 前回(→こちら)の続き。
 
 若手時代の羽生善治は単に強いだけでなく、盤上盤外での読み筋でも質量ともに周囲を圧倒し、その力を見せつけていた。
 
 その例のひとつが、1987年の棋王戦。
 
 相手はプロ筋でも実力者と評価されている強敵、小野敦生五段
 
 
 
 
 
 
 
 小野の振り飛車に▲62銀△同金▲71銀の教科書通りの「美濃くずし」でせまる先手の羽生。
 
 △92玉▲62銀不成と取った図は、次に▲81飛成からの詰めろが受けにくく(△同玉には▲82金から▲71角△同銀▲93金から▲85桂)、先手玉に詰みはないため羽生が勝ちに見える。
 
 小野は△85桂と、先手からの桂打ちを消しながら迫るが、これが詰めろになっていなかった。
 
 羽生はしっかりと読み切って▲82金、△93玉、▲72金必至をかけ、そこで後手投了
 
 居飛車の順当勝ちだと思いきや、感想戦で羽生はこの局面はまだ難しいのではと語りだして、周囲をおどろかせる。
 
 受けても一手一手に見える後手玉は、△82銀と打てばしのいでいるというのだ。
 
 そんなもの、▲71銀不成と入って全然意味がないではないか、と検討している棋士たちが指摘するが、羽生は、
 
 
 「△93玉と逃げて詰みはない」
 
 
 そう、この先手勝ちに見える局面で、並みいる棋士たちを押さえて羽生だけが「後手勝ちでは」と感じていた。
 
 具体的には、図から△79角▲78玉△41歩▲同飛成(これで▲39歩の受けを消している)と下ごしらえをしてから、△82銀と打つ。
 
 ▲71銀不成で受けがないようだが、かまわず△47と、と取って、▲82銀成△93玉とかわすと、後手玉は詰まず、先手玉は受けなしで「オワ」。
 
 
 
 
 
 
 
 これを指摘されたとき、小野はどんな気持ちだったろう。
 
 ひと回りも下の少年に負かされたうえに、自分が読んでない手を次々指摘され
 
 
 「投了するの、ちょっと早かったんじゃないですか?」
 
 
 とおさまられたら。
 
 私なら「そうでっか……」としか言いようがない。
 
 こういうのを対局感想戦で「2度負かす」というが、やられたほうはたまったものではあるまい。
 
 羽生の強さは、ただ勝つだけではなかった。
 
 盤上だけでなく盤外でも、こういう「の違い」を見せつけ、周囲に特別の存在だと思わせる「羽生ブランド」を築きあげたことにあるのだ。
 
 この時期、羽生の将棋を観た中原誠名人が、こう言ったそうだ。
 
 
 「谷川君の時代も長くないね」
 
 
 名人は軽い気持ちで言ったのかもしれないが、こういう一言が伝説に彩りをそえるわけで、
 
 
 「レジェンドが認めた」
 
 「羽生の強さは本物」
 
 
 ますます注目を集めることとなる。
 
 このように、プロになるなり早くも「実力最強」の評価を得た羽生善治だが、意外なことにタイトル戦にはなかなかがなかった。
 
 王将リーグ王位リーグにも入っていないし、本戦トーナメントでは安定してベスト8くらいには行くものの、そのをなかなか破れない。
 
 挑戦者決定戦にも出たことがないのは、当時の勝ちっぷりとくらべると歯がゆいところがあった。
 
 なもんで、若手時代の羽生は「無駄勝ちが多い」と言われ、
 
 
 「実は勝負弱いのではないか」
 
 
 なんて、今考えればありえないような推測も呼んだりしたが(だから「今の評価」なんて案外アテにならないものです)、これもまた羽生への期待値が高いゆえのことであろう。
 
 ふつうの棋士は、デビュー時に「タイトル戦に出ない」ことを不満材料にされないものだ。
 
 そんな羽生がようやっと大舞台に登場したのが、1989年の第2期竜王戦
 
 予選3組優勝すると、決勝トーナメントでも強豪の南芳一王将を破るなど、快進撃でベスト4に進出。
 
 いよいよ羽生のタイトル戦が見られるかと期待は高まるが、続く準決勝では大山康晴十五世名人が待っていた。
 
 この2人はのちに
 
 
 「どちらが最強か」
 
 
 で将棋ファンの議論の永遠のテーマになるのだが、この時期はそれ以上にある「因縁」がからむ対決となったのであった。
 
 
 (続く→こちら
 
 
 
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羽生善治と竜王戦 「19歳2か月 羽生竜王」への道

2019年05月01日 | 将棋・シリーズもの 中編 長編
 羽生善治九段が、タイトル100期を取れるかは、ここ数年の将棋界を盛り上げてくれる話題であろう。 
 
 前回は先崎学九段による、あざやかな妙手を紹介したが(→こちら)、今回は羽生善治九段の若手時代について。
 
 タイトル100勝というのも、また気の遠くなるような記録だが、考えてみれば私は「羽生四段」のころからの将棋ファンだから、一応そのすべてを見てきたわけで、ずいぶん遠くへ来たものだと、ちょっとノスタルジックな気分になったりしている。
 
 歴のそこそこある将棋ファンならご存じの通り、羽生が初めてタイトルを取ったのが19歳2か月でのこと。
 
 これは後にすぐ屋敷伸之九段が、18歳6か月棋聖を獲得し更新されるまでの最年少記録であり、今振り返ってもすごいものだが、そのときの素直な感想はといえば、
 
 
 「意外と時間かかったもんやなあ」
 
 
 ふつうに考えれば、10代でタイトルを取って「時間がかかった」もないもんだが、羽生善治は、そのデビュー時から破格の存在としてあつかわれていた。
 
 「名人候補」というプロの見立てもさることながら、デビュー1年目から40勝14敗、0,741で勝率1位をマーク。新人王戦では、ライバル森内俊之を破って優勝
 
 NHK杯では大山康晴加藤一二三谷川浩司中原誠名人経験者をぶっこ抜いての栄冠(伝説の▲52銀もここで出た)で、優勝したこともさることながら、
 
 
 「こういうドローを引き当てるスター性」
 
 
 でも大いに話題になった。
 
 一時はやった言い回しなら「持っている」といったところであろうか。
 
 少し前に藤井聡太七段が達成し賞賛された、対局数勝利数勝率連勝の「記録4部門独占」を打ち立てたのもこのころである。
 
 ちなみに、羽生はこの4部門独占を4回達成している。
 
 藤井七段にはぜひ、これを超えることを目標にがんばってほしい。もちろん、他の若手棋士たちも遠慮せず。
 
 私は羽生ファンだけど
 
 
 「記録なんて、どんどんぬりかえていったらええやん」
 
 
 というタイプなので。
 
 ではここで、若手時代の羽生の将棋を紹介してみよう。
 
 1986年早指し選手権。相手は谷川浩司棋王
 
 
 
 
 
 
 相矢倉の中盤戦。
 
 ▲65が助からないうえに、▲46銀▲37桂も前進できる形がなく、一見先手の攻めが頓挫しているように見える。
 
 だが、羽生はここから華麗な手順で、攻めをつなげてしまう。
 
 その第一弾の強手とは……。
 
 
 
 
 
 
 
 
 ▲54銀と捨ててしまうのが、矢倉戦らしい激しい突撃。
 
 △同金の一手に、▲55歩と突き出す。
 
 逃げるなら△45金しかないが、ここででなく▲同銀と、こちらから取るのが筋のいい攻め。
 
 △同歩、▲同桂で一丁あがりの図。
 
 
 
 
 
 足の止まっていた2枚桂馬が、見事にさばけてしまった。
 
 その後も、ゆるまぬ攻めでタイトルホルダーに快勝
 
 新人がトップ棋士をこんな将棋で破っては、そりゃ耳目を集めるはずである。
 
 これがまだ16歳なんだから、19歳でのタイトル獲得を「ちょっと遅い」と感じても、さほど不自然でなかったことが、おわかりいただけるだろう。
 
 そして、これは今でもそうだが、羽生のすごいところは単に盤上での手だけでなく、そこにあらわれなかった水面下の読み筋でも周囲を圧倒し続けたこと。
 
 それによって
 
 
 「強い!」
 
 「勝てないかも……」
 
 
 相手の自信をゆるがし消耗させる、絶対的信頼感のおそるべき「羽生ブランド」を着々と築きつつあったことなのだ。
 
 
 
 (続く→こちら
 
 
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