ロシアの悪童マラト・サフィン その3 2008年ウィンブルドン編

2012年09月07日 | テニス

 前回の続き。

 他を圧倒するを持ちながら、それをもてあまし、なかなか気持ちよく勝てないときが多かった、ロシアのマラトサフィン

 ロシアの同僚のミハイルユーズニーだったかが、

 おかしいんだよ。

 マラトの才能なら、あと最低5個はグランドスラムを取っていなきゃ、おかしいんだ。

 心底不思議がっていたが、それはいいテニスをしながらも、肝心なところで安定感を欠いてしまうから。

 それゆえ大きな勝負で、笛吹けど踊ることなく、敗れてしまうのだ。

 このあたりのことは、どうもあの完璧すぎたUSオープンの記憶に原因のひとつがあったようだ。

 本人も『スマッシュ』誌のインタビューで、

 

 「なぜ、あのときみたいにできないのか」

 

 いつも悩まされている、と語っていた。

 不安定な天才の「あるある」に、



 「なまじ、すごいプレーができるだけに、自分へのハードルが上がってしまい、《平凡なプレー》や《つまらないミス》に対する怒り失望が、凡人よりも激しい」



 というのがあるが、まさにそれのようだ。

 そのプレーが明らかにまぐれなら、とっと忘れてしまえばいい。

 が、マラト・サフィンの場合はなまじ「できてしまう」から、逆に始末が悪いのかもしれない。

 100の力を持つ者は、よく、

 

 8割くらいでプレーすると、リラックスして、かえってキレがよくなる」

 

 とかいわれるが、150とか200の力があるのもにとって80というのは

 

 「半分かそれ以下」

 

 の出来なのだ。これは到底、受け入れられない。

 だから、よくあるミスや凡打にすぎないのに、ラケットを破壊するほど荒れてしまう。

 天才とは、因果な商売なのである。

 おそらくはツアーの選手たちも、サフィンをカモにしていたファブリスサントロのような、その

 

 「天才を狂わせるコツ」

 

 を、つかみつつあったにちがいない。

 そして、次第に勝てなくなってくる。

 だが、逆にいえば、ふだんがぐらぐらしている分、「強いとき」に入ると、とんでもなく見事なことをやってのける。

 それが如実に表れたのが、2005年オーストラリアンオープン準決勝であろう。

 相手はロジャーフェデラー

 2003年ウィンブルドン優勝から、無敵モードになってテニス界に君臨する、絶対王者である。

 昨年決勝の借りを返す、そして3年連続決勝進出をかけた大一番は、一進一退の攻防の末、ファイナルセット9-7で見事にリベンジを果たす。

 マッチポイント2つも逃れるという、大激戦であった。

 このときのサフィンは、かなりの覚醒モードだったのだろう。

 この時期のフェデラーにまともに勝てたのは、土のコートでのラファエルナダルと「スーパー」サフィン、この2人だけであった。

 その勢いで、決勝では地元の英雄レイトンヒューイットを倒し、ふたつめのグランドスラムタイトルを奪取。

 USオープン優勝から5年もたってのことだった。

 そして、これが最後のグランドスラム優勝となってしまう。

 この2005年をピークに、ケガもあってサフィンは第一線から姿を消すことが多くなってくる。

 何度か復活しては、満足のいくテニスが出来ず、また長期離脱していく。

 正直、このあたりでは「終わったな」という気がしていた。このまま引退かなと。

 だが、そこで素直に終わらないのが「悪童」サフィンのいいところである。

 おそらく現役最後の年になるだろうといわれていた、2008年のシーズンで彼は、最も苦手とする芝のウィンブルドンで、なんとベスト4に進出する。

 終わったと見せかけて、絶対活躍のあり得なかったウィンブルドンでこの快進撃

 スターは、やはり最後まで魅せるなと、その千両役者ぶりに惚れ直したものだ。

 あらためて、彼に惹きつけられた私は、



 「こうなったら、いっそ最後にウィンブルドン取って、この数年のくすぶりをバーンとひっくり返してしまえや!」



 相当応援にも気合いが入ったが、残念ながら準決勝ではロジャー・フェデラーの前に完敗してしまった。

 やはり、のコートではロジャーに一日どころか百日は長があったか。

 でも、このベスト4は、彼の最後を飾るに、充分すぎる勲章であったろう。

 こうして、最後の花火は上げて、サフィンは翌年現役を引退した。

 これを受けて、正直もったいなかったな、というのが素直な感想だ。

 ユーズニーがいうとおり、彼ほどの才能があれば、もっともっと勝てたはずなのに。

 ウィンブルドンは仕方ないにしても、本人がもっとも切望していたローランギャロスのタイトルは取ってほしかったものだ。

 だが、それでも彼のテニスには、圧倒的な華があった。それは事実である。

 それは、寝ぼけ眼の私とミノオ君をして、明け方に

 

 「すげー、いや、マジですげー」

 

 を連発させ、隣の部屋の人に、えらいこと怒られたほどに魅力的だった。

 たしかに彼のキャリアは物足りなかったが、そのぶん記憶に残る選手でもあった。

 もし私に子供が出来て、

 

 「お父さん、僕もテニスがしたい」

 

 といいだしたら、そのおもしろさをわかってもらうために、まず見せる試合の候補はいくつかある。
 
 そして、その筆頭が、サフィンの優勝した2000年USオープン決勝であることは間違いないところなのだ。



 ※おまけ サンプラス対サフィンのUSオープン決勝の画像。

  ハイライトは→こちら

  フルバージョンは→こちらから


 

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ロシアの悪童マラト・サフィン その2 2002年全豪オープン決勝 対ヨハンソン戦

2012年09月06日 | テニス

 前回の続き。

 2000年USオープン

 弱冠20歳で優勝し、世界ナンバーワンに輝いたのは、ロシアマラトサフィンであった。

 とにかく、その才能に関しては折り紙つきで、一度のせたら手が付けられなくなるのは、王者ピート・サンプラスに何もさせずに完封した、USオープン決勝戦で証明済みである。

 となれば、ここからはマラト時代がやってくると誰もが思ったはずだが、それがなかなかどうして、そう簡単ではなかったのである。

 その後サフィンは、まずまずの成績を残すが、センセーショナルだった対サンプラス戦のような活躍はなかった。

 その理由はハッキリしていた。

 彼のメンタルだ。

 才能ある選手というのはテニス界にも多々いるが、それだけではトップで戦う選手にはなれない。

 中には、その才能がありすぎるために、をもてあまし、制御できずにもがく者もいる。

 特にサフィンのような天才肌の選手がそうだった。


 
 試合の中で感情をおさえることが、大事なのはわかっているんだ。

 でも、できないん。コントロールをはずれて、コート上で叫ぶ。

 たとえそれで負けたとしても、それが僕なんだ。



 自ら言うように、フラストレーションを抑えることが、決して上手ではないのが彼だった。

 そんな不安定さゆえに、サフィンという選手はとにかく、いいときと悪いときのが大きかった。

 調子のいいときのサフィンというのは、とんでもない破壊力を秘めたプレーヤーだった。

 あのUSオープン決勝のように、スーパーショットを次々と繰り出し、相手になにもさせず、木っ端微塵に粉砕してしまう。

 その様はまさに問答無用であって、この状態の彼に挑むのは、素手タンクローリーと戦うようなもので、立ち向かいようもない。

 ただただ、相手に好きなように打ちまくられ、ペシャンコに押しつぶされ、「ご愁傷様」としか、いいようがない状態でコートを去ることになる。

 ところが、悪いときというのは、「え?」という相手に、あっさりと負けてしまったりして、見ているこっちをズッコケさせる。

 その代表的な試合が、2002年オーストラリアンオープン決勝戦

 ここでも、サンプラスをやぶってファイナルに進出したサフィンは、すでに優勝を確信していただろう。

 本人のみならず、ファンの多くも、そう思っていたはずで、というのも決勝の相手は、スウェーデントーマスヨハンソンだったから。

 いや、ヨハンソンが弱いわけではない。

 最高ランキング7位、後にウィンブルドンではベスト4にも入ることとなる実力者であるが、いかんせん彼は、サフィンとはが違った。

 また、こういってはなんだが、ファイナリストとしては圧倒的にがなかった。

 スターのオーラを身にまとい、「悪の華」の魅力に満ちたサフィンとくらべると、ヨハンソンは気の毒なくらい地味だった。

 そんな男が、この大舞台でサフィンに勝てるはずがない。だれもがそう思っても、それは責められまい。

 という戦前の予想というか決めつけは、思いっきり、くつがえされることとなった。

 ヨハンソンの派手さはないが巧み、かつ力強いテニスの前に、サフィンは力を発揮できず、苦杯をなめることとなった。

 まさかの番狂わせだが、一度くずれると立て直しがきかないのがマラト・サフィンのテニス。

 ヨハンソンからすれば、回転を失いかけた独楽のようにふらつく「天才」など、料理するのはお手の物だったろう。

 そういえば、サフィンが大の苦手とする選手に、フランスの選手である、ファブリスサントロがいる。

 ダブルスではプロ中のプロでも、シングルスではサフィンほどの実績がないサントロ。

 だが彼は、まさにその「弱いサフィン」を引き出すコツを、知っていたのではあるまいか。

 インタビューで、なぜサントロに苦戦するのか聞かれて、

 

 「なんか、勝てねえんだよな」

 

 サフィンはいつも口をとがらせていたが、ヨハンソンもまた、そんな尻尾をつかませぬ「なんか勝てない」テニスをしたにちがいない。

 まさに、よくを制す。

 こうしてサフィンは、大きなチャンスを逃してしまうこととなる。

 こういったタイプの選手は、当然の事ながら安定感に欠ける。

 1年通じて、コンスタントに成績を残すのがどうしても難しい。

 そこがサフィンが、絶対的チャンピオンになれなかった泣き所だった。


 (続く)



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ロシアの悪童マラト・サフィン 2000年全米オープン決勝 対サンプラス戦

2012年09月05日 | テニス

 マラトの才能ときたら、たいしたものだった。

 マラトサフィンといえば、近年まさかの政界進出を果たし、今ではすっかりロシアの未来をになう若手政治家だが、元々は1997年にデビューしたテニス選手

 そのポテンシャルは早くから買われており、ロシアからはエフゲニーカフェルニコフに続くナンバーワン候補として期待を集めていた。

 そんなサフィンは、1998年ローランギャロスで、いきなり頭角を現す。

 1回戦でアンドレ・アガシ、2回戦で過去3回優勝グスタボ・クエルテン

 というみたいなドローの中、ベスト16まで進出して、前評判に偽りがなかったことを、見事に証明して見せた。

 そんなサフィンが、まずやった大きな仕事は、2000年USオープン

 20歳で、グランドスラム大会初の決勝に進出したのだ。

 相手はUSオープンそれまで4回優勝を誇る、アメリカのピート・サンプラス

 この試合、私は友人ミノオ君と一緒に、テレビで見ていた。

 決勝戦の次の日がたまたま二人とも休みだったので、朝まで飲んで、そのまま試合を見ようという算段だったのである(時差の関係で日本時間の早朝に放送される)。

 試合前、テニスファンのミノオ君と、決勝戦の展望など語っていたが、結論としては



 「マラトにはまだ早いやろ」



 なんといっても、相手は王者サンプラス。

 さすがに一時期の圧倒的な強さはかげりを見せつつあるとはいえ、それでもその年のウィンブルドンではパトリックラフターをおさえて優勝している。

 いくら勢いがあるとはいえ、これを打ち破るのは並大抵のことではあるまい。

 下馬評は、どう考えてもサンプラス有利



 「ま、1セット取れれば合格やな」



 ということで、空も白みはじめた早朝。いよいよ試合開始。

 ところがである。試合は開始早々、思いも寄らぬ方向へと、転がっていくことになる。

 サンプラスのゲームの、ポイントとなるのはサービスだ。

 「ピストルピート

 と呼ばれたサンプラスのサービスは、そのスピード、コントロールもさることながら、ここ一番での決定力がすさまじい。

 特に、ブレークポイントや、タイブレークの大事なショットなどでは、神懸かり的なコースに決まり、相手を絶望の淵へとたたき落とす。

 彼のサービスを、ただ当てるだけでも至難の業である。

 なのに、血を吐く思いでブレークポイントまでたどりついたら、そこで目視できないエースが飛んでくるのだ。

 これは、ただの1ポイントであるだけでなく、相手のすら打ち砕くだけの威力がある。
 
 だが、その世界最高峰のサービスが、どうにもおかしなことになっている。

 いや、この決勝戦、サンプラスがコート上で、特別ヘマをやらかしたわけではない。

 いつもの通り、時速200キロのサービスをコーナーにたたきこんで、アグレッシブにネットへと出て行った。

 ところが、サフィンには、これが通じない。

 ロシアの若武者は、チャンピオンの放つスーパーサーブを、いとも簡単にリターンしてしまうのだ。

 それも、ただ当てるだけのものではない。しっかりと狙いを定めて、打ち返している。

 その証拠に、それらはすべて、ネットに出てくるサンプラスの足元に深く深く沈み、それ以上の攻撃を完璧に封じてしまうのだ。

 サンプラスがどれほど強打しようが、あたかもシューズのひもの結び目でも狙うようなスーパーリターンが、次々と返ってくる。

 これでは、いいファーストボレーが打てない。

 たまさかラケットに当てて返球できても、あまりの球の威力に、コントロールなんて出来るわけがない。

 甘く返ってきたボールを、まるで王者を鼻で笑うようなふてぶてしさでもって、次々とパスエースにしていく。

 こうして、好きなように打ちまくって、あっという間にファーストセットは、サフィンのものになる。

 このあたりで、テレビの前の我々にも、試合の異常な空気が徐々に察せられてきた。

 おいおい、サフィン、こいつどうなってんだ?

 試合は完全に、サフィンのペースだった。

 スピードにのったスイングから発せられるショットは、研ぎすまされた錐のごとく、次々とコート上で鋭角に決まる。

 ネットプレーを封じられたサンプラスは、後ろに下がってねばるしかなかった。

 これは、めったに見られない、サンプラスの負けパターンである。

 守勢に立たされては王者ももろいが、それを打開する策は、まったくといっていいほどなかった。

 まるで、大人が子供をいたぶるようなテニスで、サフィンは相手から次々とエースを奪っていった。

 6-46-36-4

 終わってみれば、あっけなかった。

 1セット取れればどころか、ほとんどパーフェクトゲームのような内容で、サフィンがグランドスラム大会初優勝を果たした。

 あまりの強さに、ニューヨークの観客もテレビで見ている我々も、ただただ口を開けてあきれるしかなかった。

 サンプラスは2002年に、このUSオープンで現役最後のグランドスラム優勝を果たす。

 それを花道に引退することになるのだが、それまでの2年間はスランプに陥ったかのように、まるで勝てなくなってしまった。

 それには、この決勝でサフィンに、完膚無きまでたたきのめされた、ダメージがあったからではなかろうか。

 それくらいに、ショッキングな結果だった。

 この試合を見て感激したミノオ君は、それ以降サフィンの大ファンになってしまったほどである。

 たしかに、この決勝戦はすごかった。

 20歳でこんなテニスが出来るなら、チャンピオンになるなど、簡単なことであるようにも思われた。

 事実、彼はその後すぐに世界ランキングで、ナンバーワンに輝くこととなる。

 こうしてあっさりと世界の頂点に立ってしまったサフィンにとって、テニス界に君臨するのは容易なことだと思われた。

 だが、彼はその才能にもかかわらず、その後のキャリアで、なかなか大きな仕事が出来ず、ファンをやきもきさせることとなるのである。


 彼のその苦闘ぶりについては次回に。



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