映画『ブラックブック』 ポール・バーホーベンはいつもガチ 

2020年11月30日 | 映画

 映画『ブラックブック』を観る。

 

 『ロボコップ』

 『インビジブル』

 『スターシップ・トゥルーパーズ』

 

 などなど、気ちが……作家性の強い作品で名を成すポールバーホーベン監督の歴史サスペンス。

 そのアクの強い作風ゆえ、ハリウッドを追い出され、

 

 「じゃあ、もうコッチで好きにやらせてもらいまっせ!」

 

 居直って地元オランダに帰ったバーホーベンが、ナチスものを作るとなったら、そらなかなか一筋縄ではいきませんわな。

 ストーリーの骨格としては、ナチに家族を殺されたユダヤ人女性がレジスタンスに加わって復讐を試みるが、お約束の裏切り者や、敵の卑劣な策などもあり逆にドイツへの協力者に仕立て上げられ……。

 といった、わりかし、わかりやすいといえば、わかりやすいもの。

 それこそ古くは、アルフレッドヒッチコックあたりが撮れば、スリルあり、ロマンスあり、シャレたセリフもあったりしてハラハラドキドキのエンタメに仕上がりそうだが、これがバーホーベンにかかると、そんな期待など、ものの見事に裏切ってくれます。

 とにかくこの映画、ナチスものでよくある

 

 「ドイツ人=悪」

 「連合軍やレジスタンス=善」

 

 といった、それこそポールが最後までなじめなかった、ハリウッド的な二元論を徹底的に否定する。

 家族の仇で、どうしようもない悪党ギュンターフランケンは音楽を愛し、ピアノと歌の才能にも恵まれている「芸術家」という設定。

 ルートヴィヒムンツェ大尉は「ナチなのに立派」と描写されているけど、もちろん直接見せないだけで、SSである彼のせいで多くの人が殺されている。

 レジスタンスにも裏切り者や、差別意識を見せる者、家族への想いゆえに理性的行動を取れなかったり、きわめて人間臭い。

 「被害者」であるオランダ人やユダヤ人だって、いったん「勝者」側につけば、正義の名のもとに「ナチよりひどい」蛮行におよぶ。

 こういった、ポールによる徹底的にペシミスティックで、諦観に満ちたというか、お茶でも飲みながら

 

 「人って、そういうもんやろ

 

 とでも言いたげなクールが過ぎる描写に、観ている方は本当にカロリーを使う。

 さらにはそこに、陰毛脱色、足をトイレにつっこんで洗う、血みどろに糞尿まみれ。

 まさに「バーホーベン節」ともいえるエログロが炸裂しまくって、なんかもう、とにかくポール絶好調

 特にキツイのが、戦争が終わったあと、対独協力者にオランダの「善良な市民」がリンチをかけるシーン。

 もう、これでもかというテンションの高さで描写される「魔女狩り」は正直、正視に耐えない。

 こんな明るい醜さ、よう描けるもんだ。
 
 昔、第二次大戦のドキュメンタリー映像で、「パリ解放」のシーンを見たときのことを思い出す。

 そこではパリ市民が、ドイツ人と仲の良かった女を、これ以上ない満面の笑みで丸刈りにし、「私はナチのメスブタです」と書かれたプラカードを下げさせ、顔にハーケンクロイツを落書きし、市中を引き回す。

 子供も大人も、さわやかすぎる残酷さで彼女らを足蹴にするのだが、とにかく、メチャクチャ楽しそう

 それを見て、本気で吐き気をおぼえたけど、それをポールは見事に再現しているんだ、コレが。

 もちろん、それに私が嫌悪をもよおすのは

 

 「自分にも、そういう【正義をバックにつけて、思う存分に暴力をふるいたい】という願望があるから」

 

 にほかならず、いわば近親憎悪なのだが、だからこそ、それをむき出しにされるとキビシイ。

 ポールから「突きつけられてる」気がするからだ。

 

 「オレもオマエも、しょせんは、こんなもんやで」と。

 

 作中、ヒロインがあまりの試練に耐えかねて、

 

 「苦しみに終わりはないの?」

 

 そう叫び、嗚咽するシーンが見せ場だが、観ているこっちも

 「もう勘弁してください

 音を上げそうになる。まだ終わらんのかい、と。

 登場人物は、ドイツ人もオランダ人もユダヤ人も、それぞれにインパクトを残すが、もっとも印象的なのはやはり、主人公ラヘルの「友人」ロニーであろう。

 この女というのが、いわゆる尻軽で、ドイツがブイブイ言わしていたときはその愛人になり(相手はラヘルの家族を惨殺したフランケン)。

 ナチスが追い出されたら、いつの間にか連合軍兵士の彼氏を引き連れ、なんのかのと楽しく生きて、最後まで幸せになっている。

 この人をどう見るかは、

 

 「強い」「したたか」「クソ女」「天然」「ビッチ」「いい人」

 

 など人それぞれのようだが、ポールはあまり、否定的に描いているようには見えない。
 
 なぜ腰の定まらないロニーが、「天罰」のようなものを受けないのか。

 たぶんそれは彼女だけが、この救いのない物語の中で、唯一「憤怒の罪」をまぬがれているからではあるまいか。

 そこに「意思」があるかに違いはあるけど、ブラッド・ピット主演の『フューリー』(「憤怒」の意だ)における、最後にアメリカ兵を助けたドイツ兵のように。

 その意味で彼女は、徹底して戯画化されたリアリズム(というのも変な表現だけど)の中でファンタジー的存在。

 「天使」のようでもあり、他者の不幸の上に幸福を築く、無邪気な「悪鬼」のようにも見える。

 なんて見どころはタップリなんですが、なんせとにかく、全編

 

 「ポール・バーホーベンのガチ」

 

 を見せつけられて、そこがもう大変でした。

 鑑賞しながら、しみじみ思いましたね。

 そういや、この人って、こんなんやったなあ、と。

 傑作なのは間違いないけど、ここから5年くらいポールの映画お休みしてもええわ、とグッタリ。

 おススメですけど、すすめはしません。

 いやもう、とにかく疲れましたわ(苦笑)。

 

 

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史上最強のオールラウンダー 羽生善治vs谷川浩司 2009年 銀河戦

2020年11月27日 | 将棋・好手 妙手
 形のきれいな将棋を観ると、とてもさわやかな気分になれる。
 
 将棋というのは、観るだけなら悪手や疑問手の多い泥仕合のほうが盛り上がったりするが、学術的興味や、自身の上達のためには、やはり本筋の多い好局を観戦するのがいい。
 
 前回は大山康晴十五世名人が、めずらしい横歩取りの将棋で見せた受けの妙技を紹介したが(→こちら)、今回はさわやかな「さばき」を見ていただきたい。
 
 
 2009年銀河戦
 
 羽生善治四冠(名人・棋聖・王座・王将)と谷川浩司九段の平成ゴールデンカードから。
 
 羽生が当時、後手番の有力策とされていた4手目に△33角とあがる形を採用し(▲76歩、△34歩、▲26歩に△33角)、角交換振り飛車に。
 
 
 
 
 
 
 
 図は先手の谷川が、飛車先を交換したところ。
 
 後手は桂頭がうすく、▲34歩をねらわれているが、ここで振り飛車党なら一目こうやりたいという手がある。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 △55歩と突き捨てるのが、こういった際の筋。
 
 ▲同銀角道がとまって重く、△45桂と跳ねられる筋も出てくる。
 
 ▲同歩△23歩▲28飛△44歩とでも突かれると、△45桂から△56歩という攻めがいやらしい。
 
 そこで▲同角と取るが、△23歩と一回打って、▲28飛△54飛が、これまた、いかにも振り飛車の極意。
 
 
 
 
 
 軽いさばきを好む振り飛車党なら、自然とここに指が行くようにしたいもの。
 
 以下、▲68銀△34飛と、自在な動きで好位置に据える。
 
 こういう流れが見えるようになると、飛車を振るのが、楽しくて仕方なくなるだろう。
 
 以下、谷川も2筋や3筋だけでなく玉頭もからめ、きれいな攻め筋を見せるが、羽生もそれにのって、うまく駒をさばいていく。
 
 テニスのロジャー・フェデラーのような、
 
 
 「史上最強のオールラウンダー」
 
 
 と呼ばれる羽生善治は、どんな戦型でも指しこなすが、スペシャリストである藤井猛九段も舌を巻くよう振り飛車も絶品
 
 対局者名をかくして見れば、「さばきのアーティスト」こと、久保利明九段の将棋と言われても納得してしまいそうだ。
 
 その後も、そのまま手筋講座の教材に使いたいような将棋が展開され、むかえた最終盤。
 
 
 
 
 ▲64歩も、これがなにげに一手スキになるきびしい一撃だが、ここで後手に決め手がある。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 △87角▲88玉△96角成が美しい寄せ。
 
 この角成は▲72馬△同銀▲74桂
 
 あるいは▲72馬に、△同玉には▲63歩成という詰み筋も消す(どちらも△同馬と取れる)、攻防兼備の作ったような「詰めろのがれの詰めろ」。
 
 ▲同香に△87飛と打って、先手玉は即詰み。
 
 最後まで目にやさしい、さわやかな好局でした。
 
 
 (「受ける青春」中村修の大トン死編に続く→こちら
 
 
 
 
 
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海外旅行は博物館がおもしろい 大英博物館や故宮博物院に行こう! 山田五郎『知識ゼロからの西洋絵画入門』

2020年11月24日 | 海外旅行

 「美術教師なんて、ホンマ信用ならんわ!」

 そんな怒声をあげそうになったきっかけは、山田五郎『知識ゼロからの西洋絵画入門』を読んだときのことであった。

 私は博物館が好きである。

 旅行好きの中には「美術館めぐりが趣味」という人も多く、ガイドブックやネットの観光案内などでも大きくスペースが割かれているが、どうもそちらには食指が動かない。

 もともとに造詣が深くないうえに、絵画鑑賞の基礎教養も足りていないから、いまいち楽しめないのだ。

 というと、絵画を味わうのに、そんな小難しい理屈などいらないではないか。

 美しいものを、その感性のままに受け取ればいいではないかという意見はあるかもしれないが、どうもその考えにはくみせないところがある。

 それには、まだ中学生だったころの思い出がからんでおり、当時、美術の時間に教科書に載っている絵や彫刻のなにがいいのかサッパリわからなかった。

 そこで先生に、

 

 「こういう美術ってミケランジェロもゴッホも、なにがええのかピンとけえへんのですけど、どこがええのか、鑑賞のポイントを教えてください」

 

 そう訊いてみたところ、

 

 「解説とか、絵を頭で理解しようとする必要はないのよ。心のおもむくままに、素直に感じればいいだけよ」

 

 なんて諭され、そのときは、まあそんなもんか、ワシって感性が鈍いもんなと「素直に」受け取ったが、後年、『知識ゼロからの』をはじめ、美術の本などをあれこれ読んでみて、

 

 「なんかそれって、おかしいんでねえの?」

 

 思い直すことになる。いやいや、ちがいますやん、と。

 特に西洋絵画はそうなのだが、ヤツらの絵というのはセンスで描いているように見せかけて、実はメチャクチャに理詰めである。

 感性どころか、むしろ「記号的」といっていいほどの理屈っぽいものばかり。

 たとえば、片隅にそっと描かれたヘビは「背徳のシンボル」だったり、「女の後ろの壁に掛けられた海図」は夫が船乗りなので、

 

 「妻がさみしくて、『他の男によろめきかけている』という合図」

 

 だったり、それはそれはロジカルなのである。

 つまるところ、西洋絵画を楽しむというのは、そういった「作者側の仕掛け」にどう反応するかという「かけひき」なのだ。

 

 「あ、この絵のあそこにある小さな黒い影は死を象徴しているから、一見幸せそうに見えるこの場面には、のちに不幸が起こるという暗示になってるわけやね。死はペストのことかな、それとも時代的には三十年戦争?」

 

 などと、読み解きながら鑑賞するのが「」なのだ。

 そこに「感性」などというフワッとした武器だけで挑むなど、バットも持たずにバッターボックスに入るようなもの。

 

 「わからんヤツはここで置いていく」

 

 とばかりに完全に相手にされない。連続三振の山。なーんにもわからず、トンマなことこのうえない。

 つまるところ、美術鑑賞に必要なのは「感性」よりも「教養」。というか、そもそも「感性」なるものは、「教養」によって磨かれるのだ。

 世界史全般は当然として、各国の古代の神話キリスト教やら政治体系やら歴史的事件から絵の技術まで、全方向的になんでも知ってないといけない。

 その材料をもって、さらに対象とする絵を「読み取る」頭脳も必要なわけで、そらパープリンな中坊に歯が立つはずもない。

 これは西洋絵画のみならず、それこそカンボジアアンコールワットでも、あのレリーフのすばらしさは『マハーバーラタ』や『ラーマーヤナ』の知識が、かすってる程度でもないと、その感動も半減である。

 それがわかったときは、心底腹立ちましたね。

 コラァ、美術教師! ガキや思うて手ェ抜くなよ!

 あんとき教えてくれてたら、オレももうちょっと美術に苦手意識を払拭できたかもしれないのに。

 ……なんて過去のグチとくらべて、博物館気楽である。

 もちろん、博物館でも「深い教養」は必要とされるのだろうが、そんなもんなくても、それなりに楽しめるのがいいところ。

 ハッキリ言って、なんにもわからず絵だけ見てもたいしておもしろくはないが、博物館は彫刻あり、古本あり、アンティークあり、もちろん絵もあって、バラエティーに富んでいて飽きない。

 まさに今目の前にある「マテリアル」の存在感で、充分に惹きつけられるのだ。

 要するに、モノって案外、見てるだけでも楽しい。

 一番のオススメは、やはり略奪……じゃなかった大英博物館

 台北故宮博物院もすばらしかったが、大英博物館もその中身は負けていない。特に私はが好きなので、中世ヨーロッパの本棚とか、本当にワクワクしました。

 気分はカール・マルクス。毎日でも通いたい。

 あと、なにより「無料」というのがすばらしい。

 私のような美術スカタンでプロレタリアートでも、そこそこには楽しめる大英博物館。

 でも、ロンドンは他の物価が、血の尿でるくらい高かったな……。

 
コメント (2)
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助からないと思っても助かっている 大山康晴vs中原誠 1970年 第9期十段戦 第4局

2020年11月21日 | 将棋・好手 妙手
 「受け将棋萌え」には、大山康晴十五世名人の将棋が楽しい。
 
 昭和将棋界の巨人である大山名人といえば、そのしのぎの技術が際立っており、どれだけ攻めのうまい相手が挑んでも、涼しい顔で受けとめてしまうのだ。
 
 中でも、「ようこんなん、守り切れるなあ」と感心したのが、この将棋。
 
 前回はの力で屋敷伸之を圧倒した羽生将棋を紹介したが(→こちら)、今回は大山名人の得意とする受けを見ていただきたい。
 
 
 1970年の第9期十段戦、第4局
 
 大山康晴十段と中原誠八段の一戦。
 
 中原の3連勝でむかえたこの勝負、2人の対戦にしてはめずらしく相居飛車、それも横歩取りという幕開けになる。
 
 空中戦らしい、飛角の乱舞する華々しい攻防となったが、序盤の指しまわしが機敏で大山がリードを奪う。
 
 ポイントを取られて、なにか動くしかなくなった中原は、をからめてせまり、むかえたのがこの図。
 
 
 
 
 
 △39銀と打たれたこの場面。私もそうだが、わりと多くの人が、
 
 「先手つぶれ形」
 
 と見るではあるまいか。
 
 放っておくと、△28銀成、▲同金に、△47角成
 
 ▲36金を取るのも△28銀成
 
 ▲38飛△27角成▲39飛△38金くらいで、とにかく飛車を取ってしまえば、先手陣は薄すぎて、とても持たない形。
 
 一方、後手は大駒の打ちこみに強いという、中住まいの強みが発揮され、手をつけるところがない。
 
 いわゆる「固い、攻めてる、切れない」の、必勝態勢のよう。
 
 横歩取りというのは、
 
 
 「一回、食い破られたら、そこからねばれない」
 
 
 というむずかしさがある。
 
 ましてアマ級位者から低段クラスなら、先手をもって受け切るのは至難だろう。相当に後手が、勝ちやすい局面に見えるのだ。
 
 ところが、プロ筋で見れば、ここはすでに先手がやや優勢
 
 大山の妙技が冴えわたるのだ。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 ▲37飛と打つのが、「受けの大山」らしい一着。
 
 受け将棋といえば自陣飛車で、今でも森内俊之九段木村一基九段が得意としているが、2枚くっついてのというのは、かなりめずらしい形ではあるまいか。
 
 こうやられてみるとアレや不思議な、一気に攻めつぶす手が存外見つからない。
 
 中原はとりあえず△28銀成と取って、▲同金に角取りだから△54角と逃げる。
 
 大山は▲66角と好所に大駒を設置するが、本人によればこれが、
 
 

 「このごろの悪い癖【一目指し】」

 
 
 後悔を生んだそうだが、急所のラインを押さえて、そこまで悪い手にも見えないから、むずかしいもの。
 
 後手は△19飛と打ちこみ、▲45銀打と受けたところでは大山も自信がなかったらしいが、先ほどとくらべると、かなりしのぎの形が見えてきている。
 
 
 
 
 
 △39銀と打たれたときは風前の灯火に見えた先手陣だが、たった数手でこんなに手厚くなっているのだから。
 
 中原は△16香を補充しながら、先手陣を乱そうとするが、▲同香に△27歩と打ったのが悪手
 
 
 
 
 
 
 ここは△45角、▲同銀、△16飛成で後手優勢だった。
 
 ▲27同飛△16飛成を取られても、▲54銀を取って、△同歩に▲22飛成が好手。
 
 
 
 
 
 
 △同金、▲同角成で、一気に後手玉が見えてきた。
 
 
 
 
 
 この局面でふつうは先に▲22角成としたいところだから、中原もそう思いこんでいたのでは、と大山は推測している。
 
 次に▲21馬と取られて、▲84桂挟撃されると、後手玉は一気に寄り形に(「だから現代では△72銀型にする」とは行方尚史九段佐藤天彦九段の弁)。
 
 あせらされる後手は、△19竜と入って、▲39金△36香と「歩の裏側の香車」で攻めるも、▲37銀打として受け切り決定。
 
 
 
 
 
 網をやぶられたら、ねばれないはずの横歩取りで、こんなしぶとく指せる大山はさすがの一言。
 
 先手は金銀の数が多く、なかなかつぶれないのに対し、後手は陣形をまとめる手がない。
 
 以下、△89飛▲69香△99飛成▲21馬と取って、いくばくもなく大山勝ち。
 
 
 
 
 こうして見ると、大山の指し手はどれも自然で、さしてむずかしいところもなく受け切っているようだ。
 
 
 「助からないと思っても助かっている」
 
 
 有名な大山語録があるが、まさにそんな感じ。
 
 受け将棋を好む私は、もうウットリなのです。
 
 
 (羽生善治の絶品振り飛車編に続く→こちら
 
 (その他の将棋記事はこちらからどうぞ)
 
 
 
 
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マイクル・フリン『異星人の郷』 「ファースト・コンタクト」の意義とは

2020年11月18日 | 

 マイクルフリン異星人の郷』を読む。

 
 14世紀のある夏の夜、ドイツの小村を異変が襲った。突如として小屋が吹き飛び火事が起きた。

 探索に出た神父たちは森で異形の者たちと出会う。灰色の肌、鼻も耳もない顔、バッタを思わせる細長い体。かれらは悪魔か?

 だが怪我を負い、壊れた乗り物を修理するこの“クリンク人”たちと村人の間に、翻訳器を介した交流が生まれる。中世に人知れず果たされたファースト・コンタクト。


 地球人が、異星人と出会ったときの反応や、ハプニングを題材にする「ファースト・コンタクト」ものはSFの定番だが、この小説がめずらしいのは、その時代設定

 そう、なんと漂流してきた「クリンク人」と出会うのは、われわれ21世紀人でも、科学の発達した未来人でもなく14世紀

 いわゆる「中世ヨーロッパ」の世界に、生きる人なのだ。

 14世紀のヨーロッパ。

 といわれても、日本人にはなかなかイメージしにくいが、教科書的にはこちらの鎌倉から南北朝時代くらい。

 アヴィニョン捕囚とか、カペー朝が断絶したり、ハンザ同盟が生まれたり。

 ワットタイラーの乱があったり、ダンテが『新曲』を完成させたり、あとは百年戦争とか。

 なんか昔、受験勉強でおぼえさせられたなあなんて思い出しながら、やはりピンとこないけど、とにかく飢饉とかペストとかあって。

 カトリックの教義でやや息苦しく、魔女狩りも盛んで、俗に「中世暗黒期」と呼ばれる時代にあたるわけだ。

 そんな、宇宙人といえば、必然的に結び付けられる科学技術はもとより、モラルや価値観も今と違うどころか、ややもすると未発達と思われがちな時代に「ファースト・コンタクト」など、そりゃ、おもしろくないわけが、ないのである。

 とまあ、まずは設定から、グッとつかまれるわけだが、この『異星人の郷』のおもしろいところは、意外とお話の展開は地味ということ。

 魔女狩りや、ペスト全盛のころとなれば、異星人といえばすぐさま

 

 「悪魔だ」

 「殺してしまえ!」

 

 「野蛮な人々」が声をあげ、そこから争いや、悲劇が生まれるとかするのかと思いきや、わりとそこは、すんなりと受け入れられ、拍子抜けといえば拍子抜け。

 では、つまらないのかといえば、もちろんそんなことはなく、当時のドイツ庶民生活や、の描写が達者で惹きつけられる。

 また、そもそも中世の人が「異星人」というものを、本当にとらえきれているのかどうか、という周囲の反応などにも、そこはかとないユーモアも感じられて、そういったところが読みどころになっているのだ。

 つまりはSFとしてだけでなく、「歴史小説」としても、すこぶるスグレモノということで退屈だなんて、とんでもない!

 それには作者の力量や、時代背景への深い造詣にくわえて、主人公であるディートリヒ神父の存在に負うところが多い。

 歴史小説や、ノンフィクションを読むと、おちいりがちな定番のというのがあり、それは、どうしても現代の視点からすると、の人の考え方や行動が、

 

 「遅れている」

 「愚か」

 「野蛮」

 

 などと見えてしまうこと。

 でもそれは、あくまでわれわれが「歴史の結果」を知っているからであって、根本的には文化の違いもあり、それをベースに過去を判断するのはフェアではない。

 囲碁将棋をやっている人ならわかると思うけど、他人の対局で「好手」とか「悪手」というのは、から見てると、

 

 「こんなの、だれでもわかんじゃん」

 

 なんて簡単に思えるんだけど、「正解」を知らないで自分で考えてみたら、そこにたどり着くのは至難なのだ。

 そう、

 

 「歴史を現代の視点で裁いてはいけない」

 

 と言われるのは、「知っている」状態のわれわれが過去を断罪するのが、

 

 「模範解答を見ながら、だれかのテストの結果に説教する」

 

 というような、欺瞞を生む可能性が高いからなのだ。

 戦前戦中を舞台にした、NHK朝ドラにリアリティーがないことがあったり、福井晴敏終戦のローレライ』の最終章がトホホなのは、まさに、

 

 「昔の人間(登場人物)が、なぜか現代(作者と同時代)の知識や価値観でもって『彼ら彼女らにとっての今』を語っている」

 

 この罠におちいってるから。

 そら、そんなん、なんとでもいえますわね。偉そうにすんなよ、と。

 しかもその筋違い感に、書いている人が、まったく気がついていないところも苦笑を禁じ得ない。

 その点、この『異星人の郷』ではディートリヒ神父をはじめ、登場人物があくまで、その時代の価値観から飛躍することなく(もちろん完璧にではないだろうが)、それでいて今のわれわれから見ても、十分に共感できるだけの「倫理観」を提出している。

 そこが、読んでいて感心させられるところだ。

 そのベースにあるのは「論理学」。

 作中でも解説されるが、当時「暗黒」と語られがちなヨーロッパだが、そこで大きく発達したのが「論理学」だった。

 それを身につけ、誠実な思考を怠らない神父は、いわば時代を超えた普遍的な「知性」と「モラル」(と人間らしい弱点も)持っている人物なのだ。

 だから、このぶっ飛んだ設定の物語を託せるし、同時に「昔の人」や「暗黒時代の人」を今の視点から「愚か」と安易に断じさせない。

 人のやることや考えることなど、時代や場所を問わず、大して変わらない

 そのことを、説得力充分に、描きだしているのだ。

 そうして、また感動的なのはクライマックスだ。

 この物語は、クリンク人と、14世紀ドイツ人との交流と並行して、現代人のパートも語られる。

 そこでは歴史学者トムと、宇宙物理学者シャロンが、

 

 「あるとき忽然と姿を消したドイツの村」

 

 について、いがみあいながらも調査していくのだが、最後に過去現在のパートが結びつく瞬間、この物語の大きなテーマが明かされることになる。

 ネタバレになるので、そこはぜひ自分で読んでみてほしいけど、まさに人類、いやクリンク人もふくめた、生きとし生けるものすべてにとっての、願いであり、祈りであり、希望

 一言でいえば「ファースト・コンタクト」の意義と、それに対してわれわれがすべきことの答えがある。

 言葉にすると、なんてことないけど、それが様々な距離時代言語文化性差意志志向

 その他にも、多くの「差異」がまじりあうこの物語で、こんな見事な収束を見せられると、そこに大きく胸を打つものがある。

 過去と現代が交差するそのとき、トムとシャロンが取った行動には、これ以上ない、さわやかな感動を呼び起こされる。

 SFとは、まさに「このこと」を伝えるために、あるジャンルなんじゃないだろうかと、読み終えた本を閉じながら、思いをめぐらせたものだった。

 

 

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「馬を作るのがいい」と村山聖は言った 羽生善治vs屋敷伸之 第42期王位戦 第3局

2020年11月15日 | 将棋・好手 妙手
 「将棋はを作るのがいいんですね」
 
 そんなことを言ったのは、今は亡くなってしまった村山聖九段であった。
 
 なんでも大山康晴十五世名人と対局した際、馬を作って活用する指し回しに感銘を受けたからだそう。
 
 たしかに馬という駒は、竜とくらべて作りやすいうえに、守備力も高くてオトク感のある存在。
 
 前回は大内延介九段が、真部一男九段から図らずも引き継ぐことになった「幻の名手」を紹介したが(→こちら)、今回も角や馬が乱舞する将棋を見ていただきたい。
 
 
 2001年の第42期王位戦
 
 羽生善治王位に挑戦したのは、屋敷伸之七段だった。
 
 羽生と屋敷のタイトル戦はこれが初めて(であり意外なことに唯一となった)ということもあり、熱戦が期待されたが、当時の羽生はタイトル五冠を保持する充実ぶりで、強敵相手に2連勝の開幕ダッシュを見せる。
 
 挑戦者が負ければ、ほぼお終いの第3局。
 
 羽生の四間飛車急戦を選んだ屋敷は、機敏なステップで角交換に成功し、自分だけ飛車先を突破するという、大きな戦果をあげる。
 
 序盤でポイントを取られた羽生は、ひねった手順で飛車をさばこうとするが、屋敷も冷静に応対し微差ながらリードを保つ。
 
 むかえたこの局面。
 
 
 
 
 
 ▲44角と打って、屋敷がやれるのではという評判だった。
 
 直接のねらいは▲54歩で、△82玉と先逃げすれば、▲37歩と打って飛車が死ぬ仕掛け。
 
 以下、△35飛▲同角、△同歩、▲31飛で、あとは
 
 
 「鬼よりこわい二枚飛車」
 
 
 で攻めたてれば、先手陣が盤石なこともあって優勢だ。
 
 後手は△38飛成と飛車を助けるが、やはり▲54歩ド急所の一撃。
 
 
 
 
 
 
 3連敗ではシリーズが盛り上がらないと、つい屋敷に肩入れしてしまう控室の面々も思わずひざを乗り出すが、ここで羽生に好手が出る。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 △35角と打つのが、なるほどと言うしのぎ。
 
 ▲11角成は攻め駒が逆方向に行くから、△57桂と攻め合って、こっちの方が速い。
 
 ▲53歩成も、△同金、▲同角成、△同角、▲52金△43角がピッタリ。
 
 
 
 
 
 
 あざやかな切り返しで、一撃必殺をねらった屋敷の意図をくじくことに。
 
 やむを得ず、▲35同角とするが、△同竜で後手が厚い形。
 
 ここで屋敷は自信がないと感じたという。
 
 そこからもねじり合いは続くが、羽生がこまかくポイントを稼いでいる感じで、いつのまにか後手もちの形勢に。
 
 当時話題になったのが、この局面。
 
 
 
 
 
 先手陣もまだ金銀4枚が残っていて、すぐに切り崩す手はまだ見当たらないが、ここで後手に決め手がある。
 
 
 
 
 
 
 
 
 △27角と打ったのが「大山流」の辛い手。
 
 フワッとしているようだが、次に△63角成と引きつければ、後手玉は無敵状態で、まったく手をつけるところがない。
 
 「馬は自陣に」の格言通り。これで後手は負けようがない陣形に。
 
 以下、△26歩から、着実なと金攻めが間に合って圧勝してしまう。
 
 
 
 
 
 この一局にはちょっとした後日談があって、勝又清和七段の本によると、将棋連盟でこの将棋を並べていたら、そこに佐藤康光九段が通りかかった。
 
 △27角を見ると「それはいい手ですね」と感心。
 
 さすが、トップ棋士は一目で感触の良さがわかるのだ。
 
 そこで「羽生さんが指したんですよ」と教えると、佐藤は一瞬、
 
 
 「あ、しまった」
 
 
 という顔をしたそうである。
 
 私はこのエピソードが大好きで、うっかりライバルをほめてしまった「うかつさ」に、自分で腹を立てたのだろうが、それがついに出るのが、なんとも会長らしい。
 
 今の若手でも、八代弥七段なんかが、
 
 
 「(ふだん仲の良い)高見や勇気や三枚堂の活躍してるところは見たくない」
 
 
 なんてインタビューで語っていたし、そういう若者の対抗心はいいもんであるなあ。まぶしいッス。
 
 
 
 (大山康晴十五世名人の横歩取りでの受け編に続く→こちら
 
 
 
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男の紹介する「いい人」「おもしろい人」は、どこまで信用できるの?

2020年11月12日 | ちょっとまじめな話
 「コイツ、めっちゃええ奴やねん」
 
 
 という言葉は、どこまで信用していいのか、わからないことがある。
 
 よく、だれかから、その友人を紹介されたりすると、「エエ奴」なんて言われたりするが、ちょいちょい、
 
 「そうかぁ?」
 
 首をかしげざるを得ないケースがあったりするのだ。
 
 そういう人の言動はわりとハッキリしており、紹介者の前ではナイスガイだが、われわれなど他人の前ではそうでなかったりするから。
 
 先輩に礼儀正しい分、後輩にはメチャクチャいばるとか、変な「カマシ」を入れてきたり、要するに、この場合の「エエ奴」というのは、
 
 
 「その人の前だけエエ奴」
 
 
 というだけの話で、単に「ヒエラルキーに敏感」なだけだったりする。
 
 私の定義では、立場や力関係を軸に接し方を変える人というのは、「いい人」に入らないが、これが「エエ」態度を受けている側にはわからないのだ。
 
 似たようなものとして、
 
 
 「コイツ、めっちゃおもろいヤツねん」
 
 
 これもほとんどの場合、実際におもしろいというより、
 
 
 「内輪の人気者」
 
 「単に明るいだけ」
 
 「紹介するほうもされる方も、芸人気取りのカン違いさん」
 
 
 このどれかであって、たいていがトホホである。
 
 飲み会などで、「おもろいヤツ呼んだろか」と言われて、延々とそっちの友達の間だけで流行ってる、身内ノリのギャグやフレーズを連発された日には、もう苦笑しかないではないか。
 
 もちろん、本当に「性格がいい人」「おもしろい人」を連れてくる場合もあるが、結構な確率で「なんでこの人が?」という過大評価を感じさせる人もいるのだ。
 
 これはまったく他人事ではなく、かくいう私の身近にいる人も被害にあっていて、友人タカツキ君は学生時代にある先輩から、
 
 
 「キミ、メッチャおもろい男やな」
 
 「オレ、友達いうより、もはやファンやから」
 
 
 なんて、かわいがっていただいたことがあったそうな。
 
 芸人さんが言うところの「ハマった」状態で、まあそれはありがたいことだが、ひとつ問題だったのが、その先輩がことあるごとに、それをよそで吹聴すること。
 
 「こいつオモロイ」
 
 「センス抜群」
 
 とか、お世辞として聞いてる分にはいいけど、それはあくまで「身内のノリ」であり、外の世界で通じる普遍性はないし、なによりタカツキ君もそれを理解する冷静さを持った男だった。
 
 それこそたとえば、先輩の中でタカツキ君の「毒舌」がウケたとて、それは「共通の知人の悪口」のような、すでに関係性が出来上がったうえでのものである。
 
 それを、
 
 
 「おい、あの得意の【毒舌トーク】披露したってくれや」
 
 
 という、身も凍るようなフリから語ったところで、その熱量は通じないどころか、
 
 「単に人の悪口を言ってよろこぶ、性格の悪い人」
 
 というだけのあつかいになってしまうのは、想像に難くない。
 
 もちろん話題も、先輩のことを知っているから、そこに関したものを選ぶし、たとえ話とかも、彼の趣味から選んでみたりと、ニーズに合った対応もできるが、つき合いのない人ではそれもできない。
 
 そんなもん聞かされても、タカツキ君の「ファン」でない人には「はあ……」であるし、ましてや関西のヤングはたいてい、
 
 
 「オレはおもしろい」
 
 「自分には笑いのセンスがある」
 
 
 なんて勘違いしてるから、「おもしろい」なんて評価(しかも仲良しゆえの幻想の)を受けている男を素直に受け入れるわけもなく、
 
 
 「さーてキミは、笑いの才能アリなオレ様に、どんな【おもしろ】を見せてくれるのかな」
 
 
 みたいな、ブラック企業の人事担当者のごときビッグな態度でマウントを取りにこられて、迷惑なことこの上ないのだ。
 
 結局、「メッチャおもろい」タカツキ君はテンション下がりまくりで、「センスがある」くせに消極的になり、たまに口を開いてもシラけるしで、いつこの場から撤退するかに血道をあげることになる。
 
 あまつさえ、アウェーの状況で苦戦するタカツキ君を見かねた先輩が、
 
 
 「お前ら、こんなオモロイ男が一所懸命ボケてくれてるのに、なんで笑わへんねん!」
 
 
 なんて怒り出した日には、もういたたまれない気分である。ここは地獄か。
 
 友曰く、
 
 
 「先輩には、ようさんおごってもらいましたけど、ああいう状況で呼び出されたときは、食いもんの味がせんかった」
 
 
 皆様も、だれかを紹介するときは一回
 
 「いい人とか、おもしろいとか、それ感じてるのはオレだけでは?」
 
 そこを検討していただきたいものだ。みんなが不幸になります。
 
 
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そして妙手はよみがえる 大内延介vs村山慈明 2007年 第66期C級2組順位戦 その2

2020年11月09日 | 将棋・好手 妙手

 前回(→こちら)の続き。

 2007年の第66期C級2組順位戦

 大内延介九段と、村山慈明四段との一戦。

 ここで、その一月前に指された、真部一男八段豊島将之四段の将棋と、同一局面が出現したのだ。

 

 

 

 体調を悪化させていた真部は、次に狙っていた手があったにもかかわらず、ついに指せず、投了せざるを得なかった。

 ところが、なんとここで、大内が「幻の一手」と同じ手を盤上に放ったのだ。

 

 

 

 

 △42角と打つのが、真部が指せなかった絶妙手

 パッと見、意味がわからないが、このがにらんでいる先を見れば、なるほどとうなずくことに。

 そう、照準は遠く9筋を見すえている。

 次、後手が△92香から△91飛と「スズメ刺し」にすると、この超長距離射撃によって、なんと端の突破を受ける術がない!

 ▲86角△64歩と止められて、打った角がヒドイ駒になってしまう。

 真部の敬愛する升田幸三九段風にいえば、

 

 「この遠見の角でオワ」。

 

 ただ、この△42角もすばらしいが、むしろ私が紹介したいのは、この手に対する村山の対応だ。

 △42角が名手なのは村山も瞬時に察知した。「あらゆる変化が悪い」と。

 果たして真部の予想通り、村山は長考に沈んだ。

 このままでは圧敗必至。かといって、適当な受けもなければ、攻め合いも望めない。

 ならどうするか。

 1時間50分(!)もの大長考の末に指した次の手が、色んな意味で感嘆をもたらす一手だった。

 

 

 

 

 ▲89銀と引くのが、見たこともないすごい手。

 アマチュアのファンは振り飛車党が多いと思うが、序盤の駒組の段階で、▲38から▲29銀と美濃囲いをくずした人など、まずいないであろう。

 まさに「わたしが悪うございました」と、すべての失敗を認める手。

 人によっては「死んでも指せない」というかもしれないし、それこそ、「美学派」真部が先手なら、絶対に指さなかったろう。

 ここからもすごい。△92香▲78玉と早逃げし、△91飛▲79角(!)。

 

 

 端への受け以外にまったく働きのない角を打ち、△95歩、▲同歩、△同香には▲98歩(!)。

 

 

 とにかく、すべてを屈服で受け入れる。まさに土下座、土下座、また土下座

 なんといわれても、アアもコウもない。こうでもしないと負けてしまうのだから、指すしかない。

 昭和のボキャブラリーでいえば、これが「順位戦の手」である。

 この一連の手順には、ある種の感動を覚えた。

 この△42角▲89銀の交換というのは、将棋における「ロマン主義」と「リアリズム」の交錯。

 将棋の手にこめられた思想には二種類ある。

 ひとつは

 

 「将棋とは、良い手を指して勝つものだ」

 

 もうひとつは

 

 「将棋とは、悪手さえ指さなければ簡単には負けない」

 

 △42角と▲89銀は、まさにその象徴

 この2手は、将棋の手が持つエッセンスをギュっと詰めこんだ、非常に「純度の高い」やり取りといえるのではあるまいか。

 家宝の鎧で床下浸水を食い止めるような、必死の防戦が実ってか、村山はなんとか急場をしのぎ切り反撃に移る。

 一方、大内は「怒涛流」の攻めでせまるが、しぶとさが持ち味の村山に、なかなか決め手をあたえてもらえない。

 むかえた、この局面。

 

 

 

 村山の攻め駒が重いところなど、いかにも「不利ながらも食いついてます」感バリバリ。

 先崎学九段の著書『千駄ヶ谷市場』によると、大内の次の手が良くなかったそうだ。

 ただ、これは見ていただければわかるが、先崎も言う通り、

 


 「プロなら誰でもやってみたくなる」

 「素敵な一着」


 

 だが、プロレベルの将棋を語るとき、よく出てくるのが、こういう「筋の良い手」が通らないケース。

 それがシビアなところであり、将棋というカオスなゲームのおもしろさでもある。

 そう、大内は冴えていた。

 ただ、運が悪かっただけなのだ。

 

 

 

 

 △43銀と引いたのが、「素敵な」疑問手。

 手の意味だけたどれば、すばらしいのがおわかりだろう。

 △34で遊んでいる銀を取らせて活用し、▲同成桂と前の▲54成桂と引いた手を無駄手にさせながら攻め駒をソッポにやり、かつ眠っていた大砲を△55角と大海にさばいていく。

 「創作次の一手」のような妙手で、強くて手が見える人ほど、指してしまうだろう。

 そして、それが悪いというのだから、まったく、なにが正義かとうったえたくなるではないか。

 △55角に、先手はここで勝負とばかり、▲45飛と飛び出す。

 ここでも、△88角成と切って、▲同角△87歩成と勝負すれば超難解な終盤戦が続いていたが、大内は△66角としてしまう。

 自然な手のようだが、それには▲85桂と飛車をに使うのが好手。

 

 

 

 見事なサイドチェンジで、これで後手が受けにくい。

 △同金▲同飛△84銀打▲73銀から先手勝ち。

 経験に裏打ちされた見事な駒さばきと、それをひっくり返す気力とド根性

 まさにベテラン若手の戦いといった感じで、実に見ごたえがある将棋だった。

 最後に気になるのは、大内が△42角の逸話を知っていたのかどうかだ。

 先崎が訊くと大内は知らなかったようで、世界にはときに、こんな奇蹟のような偶然が起る。

 真部のことを聞くと大内は、

 


 「残念だな。勝ってやらなきゃいけなかったな」


 

 そう言って笑顔を見せたという。

 


 (羽生善治による馬を作る好手編に続く→こちら

 (大内が名人になり損なった痛恨の角打ちはこちら

 

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そして妙手はよみがえる 真部一男vs豊島将之 2007年 第66期C級2組順位戦

2020年11月08日 | 将棋・好手 妙手

 「幻の名手」というのが存在する。

 将棋には実際に盤上だけでなく、その水面下の読みや、本当はあったのに対局者が気づかなかったことによって、実現しなかった手というのがあるのだ。

 前回は米長邦雄永世棋聖の「ゼット」をめぐる妙手を紹介したが(→こちら)、今回は指されなかったかもしれない、それについて。

 話をはじめる前に、まずこの局面を見ていただきたい。

 

 

 

 2007年C級2組順位戦

 真部一男八段豊島将之四段との一戦。

 まだ序盤で駒組の段階だが、ここで後手の「次の一手アンケート」を取ってみると、どんな手が考えられるだろうか。

 角交換型の将棋は打ちこみがあるから、気をつかうんだよなあ。

 ふつうは△32金かな。次に△44銀から△33桂とか。

 △85歩と突くのもあるけど、▲同桂、△同桂、▲86歩の筋には気をつけないと。

 あとは△14歩とか、△55歩は1手の価値がないか。となると、飛車を動かして千日手狙いで……。

 なんてあれこれ考えてみるけど、知らないで答を当てた人は、いないのではないか。

 正解は「投了」。

 なんとこの場面で、真部八段は次の手を指さずに、投げてしまったのだ。

 と聞くと、

 

 「すわ! 八百長か!」

 「おいおい、無気力試合とかマジ勘弁」

 

 なんて苦笑いする人がいるかもしれないが、これには事情があって、このとき真部の体はに蝕まれ、すでに将棋が指せる状態ではなかった。

 事実、一月後に亡くなることになり、この将棋が絶局になるのだ。

 このエピソードには続きがあり、入院中の真部のもとに、弟子である小林宏六段が訪れた。

 このとき真部は投了図からのある一手を示し、それで自分が有利になると語ったという。

 なら、なぜ指さなかったのかと問うならば、そうすると間違いなく豊島四段は大長考に沈むはず。

 自分の体調では次の手を待てないから、ここで投げるしかなかったと。

 真部はその手を引き継いでもらいたかったそうで、小林が居飛車党なのを残念がったとか。

 そんなことがあって、真部による「幻の手」はプロ間で少しばかり話題になったそうだが、このエピソードにはまだ続きがあったというか、ここからが本番である。

 その一月後のC級2組順位戦大内延介九段村山慈明四段との一戦。

 なんとそこで、あの真部-豊島戦と同一局面が出現したのだ。

 しかも、この日は真部の通夜が営まれていた。

 また、弟子の小林宏は対局で、この日将棋会館にいた。

 さまざまなが絡み合うようなシンクロニシティで、これだけでも一遍の短編小説のようだが、話はここで終わらない。

 なんとそこで大内は、真部が小林に語った「幻の一手を指し控室は騒然となるのである。

 

 (続く→こちら

 

 

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「トルコの魅力をわかってほしい!」と全バックパッカーが叫ぶ

2020年11月05日 | 海外旅行

 「海外旅行でトルコは超オススメ!」

 と言っても、いまいちピンと来てもらえないというのは旅行者の間で、たまに聞く話である。

 私は海外旅行が好きで、ザックひとつで安宿ユースホステルなどを利用する、いわゆるバックパッカーというやつだが、この世界にもさまざまな「あるある」ネタがある。

 「世界の果てまで行きたいぜ!」と鼻息も荒いヤングだった2000年代前半ごろなら、

 

 「白人バックパッカー(特にドイツ人)の荷物が信じられないほどデカい」

 「カナダ人旅行者はなぜか、バックパックにカナダの国旗を縫いつけている」

 

 なんてのが定番。それぞれ理由は、

 

 「ドイツ人は自炊用の鍋とか山歩き用の靴とか、日本人ならはぶくような荷物も持ってくるけど、体力あるから重くても平気」

 「アメリカ人はあちこちで戦争して世界で嫌われてるから、それと間違われないようにカナディアンであることをアピールをしている」

 

 とのことで、カナダ人に関しては『旅行人』編集長であった蔵前仁一さんの本にも書いてたから信憑性はあるけど、ドイツ人に関しては

 「荷物を見せてもらった」

 という人もいれば、

 「聞いた感じ、たぶんそう」

 といった、あいまいな伝聞情報まであって、いまひとつ確証的な話がなく、今でもあのでかいザックになにが入っているのかは宇宙神秘のままである。

 こういった、割とだれもが「あるあるー」「わかるなー」と笑ってくれるネタのほかに、個人的な感覚として冒頭に書いた、

 

 「トルコの良さが、なかなかわかってもらえない」

 

 これもある気がするのだ。

 トルコはいい国である。

 魅力あふれるイスタンブールの街並み、アヤソフィアスルタンアフメットジャミイ(ブルーモスク)などの歴史あふれる建造物。

 カッパドキアの奇岩やエフェスの遺跡群、パムッカレの美しい石灰棚などなど見所が満載。

 宿はリーズナブルで清潔、食事は「世界三大料理」のひとつであり、物価も安く、イスラムのエキゾチックさも旅のスパイス。治安もいい。

 なんといっても、トルコ人はビックリするほど親切でフレンドリー(トルコは「親日」のイメージがあるけど、たぶんトルコ人はだれに対しても「親」なのだ)。

 イスラムだけどは飲めるし、甘物も充実してるし、パンはうまいし、長距離バスが快適で移動もラク。

 もう、いいところをあげていったら、キリがないくらいなのだ。

 現に私の周囲でもトルコに行ったことのある人から悪口を聞いたことがないし(ボッタクリ店とナンパがうっとうしいくらい)、それどころか「オールタイムベスト」にあげる人も多い。

 まだコピー誌時代の『旅行人』でも、「行ってみたい街」というアンケートで、たしかイスタンブールが1位になっていたところからして、その実力がわかろうというもの。

 シーズンでは欧米からの旅行者でもごった返すし、トルコ大人気やないか!

 なんて気炎をあげたくなる、海外旅行ファンのトルコ好きだが、これが日本で言ってみても、なんだか伝わらない。

 

 「トルコってどこにあるの?」

 「なんか、全然ピンとこない」

 

 なんて、ちっともヒットしない。あまつさえ、

 

 「イスラムだから、テロとか怖いんでしょ?」

 

 なんてイメージもあったりして、どうにも日本ではマイナーな存在のようだ。

 うーん、そっかー。でもなあ、一回行ってみたら、絶対にハマると思うんだよなあ。

 それこそ、女性の意見では

 

 「初めての海外旅行先でもオススメかも」

 

 という声すら聞くほどだ。それくらい、いいところ。

 でも、知られてないのは『地球の歩き方』のトルコ編が、「イスタンブールとトルコの大地」となっていることからもわかる。
 
 「トルコ」だけだと、弱いんでしょうねえ。

 ということで、私ももう一度行って、ぜひともトルコの良さをアピールしてみたいけど、コロナの影響でちょっと無理に。

 旅行という趣味のネックは、たいていがお金休みが取れるかなんだけど、まさかこんな罠があったとは。

 トルコと並んで、なにげに旅行者に評判な国にシリアもあったんだけど、今では戦争の影響でそれどころではない。

 仮に戦争が終わっても、観光施設インフラなども破壊されて、旅行どころではないだろう。

 人としてはもちろん、いち旅行好きとしても、悲しいことになってしまった。

 やっぱ、旅行は行けるチャンスがあるうちに行った方がいいことを、再認識させられたものだが、今回の件でますますそう感じる。

 旅行好きにはツライことだが、すべてがクリアになったら、みなさまもぜひトルコを訪れて、どっぷりとその魅力に浸かっていただきたいものだ。

 

 

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将棋 「ゼット」なんて怖くない! 米長邦雄vs森安秀光 1983年 第43期棋聖戦

2020年11月02日 | 将棋・好手 妙手

 「絶対詰まない形っていうのを、プロは嫌うんですよね」

 

 というのは、将棋の解説を聞いていて、よく聞くセリフである。

 絶対詰まない形とは、穴熊の王手すらかからない王様のような、昔なら「」(「羽生世代」の棋士は今でもこっちを使いますね)今なら「ゼット」と呼ばれる局面のこと。

 こうなると相手は1手の余裕があるうえに、駒を何枚渡してもいいという、攻撃的にフリーハンドな状態になってしまう。

 そこで自玉に必至をかけられたりすると、負けが確定してしまうからなのだ。

 




「振り穴王子」時代の広瀬章人八段の寄せ。
先手
玉は「絶対詰まない」から、角を捨てても攻めが切れなければ大丈夫。これが「ゼット」の強み。
△同桂、▲32歩、△同銀に▲42金と貼りついて先手勝ち。

  

 

 ただ逆にいえば、

 

 「自玉はその間に寄らない」

 

 ということを読み切ってさえいれば、一瞬相手が詰まない形でも、なにも怖くはないわけで、むしろ難解な局面で自らそこに飛びこむ手を選ぶ人は

 

 「しっかり読んでいて強い」

 「恐れない精神力がすごい」

 

 評価が上がるくらいのもので、前回は谷川浩司九段の「光速の寄せ」を紹介したが(→こちら)、今回は逆に落ち着き払って指した寄せの妙手を。

 

 1983年の、第43期棋聖戦五番勝負。

 森安秀光棋聖米長邦雄王将・棋王との一戦。

 米長と森安の将棋というのは、プライベートでもウマが合い、またそれぞれ

 

 「泥沼流」

 「だるま流」

 

 という、ねばり強さを持ち味とする棋風が共通していたせいか、熱戦や珍局が多い。

 この第1局も、森安の四間飛車に米長が「鷺宮定跡」で対抗。

 中央と端で、ねじり合いが展開され、両者らしい力のこもった将棋。

 むかえたこの局面。

 

 

 

 敵陣に並んだ3枚が、いかにも米長と森安の対戦らしい。
 
 形勢は難解だが、ここで米長が披露したのが、おどろきの手だった。

 

 

 

 

 

 ▲92歩と打ったのが、米長本人も、

 


 「我が将棋人生でもめったに指せない手」


 

 

 そう自賛する一手。

 米長流のサービス精神あふれる、やや大げさな言い回しのようだが、なかなかどうして、これは簡単に指せる手ではない。

 この手のなにがすごいといって、この終盤の競り合いに、あまりに悠長に見えるから。

 具体的には、次に▲91歩成と成った手がなんでもなく、その次に▲81と、まで指して、やっと詰めろなのだ。

 いわゆる「三手スキ」という形だが、後手からすると、この形がほとんど「ゼット」なうえに、もう一回▲91歩成とされても、まだやはり「ゼット」が続く。

 その2手の間、好きなように先手玉にせまれる。

 そして先手は、そのスピードを変えることができない

 2手の間、完全に相手の言いなりにならなくてはならないのだ。

 しかも、相手は自玉を見なくていい。ノープレッシャーで攻めに専念できる。これはメチャクチャに怖い。

 いや、怖いどころか、これでもしそのまま無抵抗で寄せられでもしたら、まったくバカバカしいではないか。

 それくらいリスクのある手なのだが、先ほども言ったが、それはあくまで「自玉の安全を読み切れていない」場合。

 ここで米長が、堂々と歩を打ったということは、当然のこと成算があったから。

 この危ない形を、難解な終盤をすべて切り抜けられると踏んだから、「ゼット」でも恐れることはない。

 だからこそ「めったに指せない手」と胸を張ったのだ。

 「好きに攻めてこい」と門を開けられた森安は、△55桂と寄せに行くが、先手は悠々と▲91歩成

 △67桂成と取って、▲同金に△55桂とおかわりするが、これが詰めろになっておらず、やはり堂々▲81と、と取って先手勝ちが決まった。

 

 

 

 すごい見切りだが、ではこれにて米長の快勝かといえば、それがそうでもないのが将棋のむずかしいところ。

 後手は△55桂と打つところで、△73桂と受けに回るのが正解。

 

 

 これで、森安優勢の終盤戦だった。

 ただ、これもなかなか指せない手だ。

 なんといっても敵が、

 

 「2手の間、好きなようにしてください」

 

 といっているのなら、そのスキに敵玉を攻略してやれと、腕まくりするのは自然なところ。

 そこをあえて△73桂。

 「2手の間、受けのことを考えなくていい」

 という局面の最善手が、受ける手とは……。

 もちろん米長は、「そんな手など指せるわけない」と見切ったうえでの▲92歩なのだろう。

 読みだけでなく、その気持ちの面での強さもたいしたもので、このあと米長は棋聖奪取し、一気に四冠王への階段を駆けあがるのだ。

 

 (真部一男の幻の妙手編に続く→こちら

 

コメント (2)
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