2016年最後の夜に

2016年12月31日 | 日記

 2016年も、いよいよおしまいである。

 年末年始はどこにも出かけることなく、家でゴロゴロするのがここ数年のならいになっている。

 おせんべいとみかんを買いこんで、布団の中で読書とDVD三昧。嗚呼、なんて幸せな時間。

 ということで、冬休みでふやけた頭でもって今年度をざっと振り返り、今日はおしまいにしたい。

 個人的なことばかりなので、読んでもなんの得にもなりません。全然無視してくださって大丈夫。それでは思いつくままに、ドン。

 

 『おそ松さん』と『バーナード嬢曰く。』はおもしろかった、ノバクのグランドスラム達成にはこっちもホッとした、井山裕太には今年2回もビックリさせられた、まさかあの流れからポルトガルが勝つとは思わなかった、なおみちゃんは将来すごいことになりそうだ、夏のちょっとした心身の危機を救ってくれたのは東京03のコントだった、「自虐」「売れないバンド」「サングラス」「鬼才」どれもおもしろいけど「誕生日」の最後のセリフが好き、ラファとの銅メダル決戦は心臓に悪かった、話していて楽しいのは「論理的だけど、結論が狂ってる人」、ボルグ対ソロモンとかクレルク対ビラスといった古いテニスの動画にハマった、『総天然色ウルトラQ』の地上波放送が今年一番の収穫、木村一基にはもうワンチャンスあげてほしいとみんなが思っている、「読書芸人」で一番話が合いそうなのはカズレーザーさんかもしれない、デルポトロがようやく帰ってきた、思い切って本の断捨離をしてみたけど全然減らなくて呆然、夜ふかしのおともは山田玲司先生のニコ生とライムスター宇多丸さんの映画評、ノバクもそうだがアンディの「折れずについていく」精神力には脱帽しかない、大変なことも多いけど銭湯に行くとたいていの悩みは解決する、本のベストはガルシア=マルケス『百年の孤独』と長谷敏司『あなたのための物語』コニー・ウィリス『最後のウィネベーゴ』、映画のベストは『パシフィック・リム』と『ベルリン・天使の詩』『ローラーガールズ・ダイヤリー』『ゴーン・ガール』 







 今年面白かった本。

 
 宇月原晴明『安徳天皇漂海記』

 ベルトルト・ブレヒト『ガリレオの生涯』

 米澤穂信『真実の10メートル手前』

 オースン・スコット・カード『無伴奏ソナタ』

 猿谷要『ニューヨーク』

 サマセット・モーム『ジゴロとジゴレット』

 フェルディナント・フォン・シーラッハ『カールの降臨祭』

 山本弘『地球移動作戦』

 マリオ・バルガス=リョサなど『ラテンアメリカ五人集』

 ディーノ・ブッツァーティ『タタール人の砂漠』

 米原万理『愛の法則』

 レイ・ヴクサヴィッチ『月の部屋で会いましょう』

 カール・セーガン『百億の星と千億の生命』

 長谷敏司『あなたのための物語』

 コニー・ウィリス『最後のウィネベーゴ』

 キジ・ジョンスン『霧に橋を架ける』

 田中啓文『あんだら先生と浪速少女探偵団』

 パトリシア・A・マキリップ『妖女サイベルの呼び声』

 フレッド・キアンプール『幽霊ピアニスト事件』

 六冬和生『みずは無間』

 ローリー・リン・ドラモンド『あなたに不利な証拠として』

 深水黎一郎『ミステリー・アリーナ』

 ガブリエル・ガルシア=マルケス『百年の孤独』 
 


 おもしろかった映画

 『タイガー伝説のスパイ』

 『ヒッチコック』

 『メメント』

 『君よ憤怒の河を渉れ』

 『アニー・ホール』

 『パシフィック・リム』

 『白熱』 

 『英国王のスピーチ』

 『ローラーガールズ・ダイヤリー』

 『桐島、部活やめるってよ』

 『ベルリン・天使の詩』

 『風立ちぬ』

 『オデッサ・ファイル』

 『真昼の決闘』

 『ゼロ・グラビティ』

 『ゴーン・ガール』



 
 最後に、2017年に向けて、ある偉大な博士の言葉を紹介して締めくくりとしたい(改行引用者)。


 我々はいまだかつてなかったほど密に協力しなければならないのだが、何も健全な競争に反対しているわけではない。

 これからは核軍縮と従来の軍事力の大幅な削減に向けての道を探す競争、政治の堕落を排する競争、世界のほとんどの地域で自給自足農業ができるようにする競争をこそしようではないか。

 芸術と科学で、音楽と文学で、技術革新で競い合おうではないか。誠実さを競おう。人々を不幸や無知や病気から救い、世界じゅうの国の自立を尊重し、この惑星を責任を持って管理するための倫理を明確化し実行することにおいて張り合おう。



 ―――カール・セーガン『百億の星と千億の生命』


 
 それでは本日はここまで。

 サンキュー、バイバイ!

 また来年。


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年末年始読書マラソン2016 出走者を発表します

2016年12月27日 | 日記

 年末はおこもりで読書三昧の日々。

 年の瀬といえば、忘年会や海外で年越しなんて人もいるだろうけど、私の場合はオコタで読書三昧。

 出不精になる冬休みは積読を消費するにはもってこいの時期ということで、今日も本棚にたまっている未読の、もしくは再読しようと置いてある本を、ガシガシ読みまくる。

 飲み会も初もうでの誘いも全部断って、ただひたすらに本、本。嗚呼、これからの一週間を想像するだけでウットリ。

 というわけで、今年のラインアップは以下のようになりました。


 
 イザベル・アベディ『日記は囁く』

 小松左京『すぺるむ・さぴえんすの冒険』

 フアン・ルルフォ『ペドロ・パラモ』

 村田奈々子『物語 近現代ギリシャの歴史 - 独立戦争からユーロ危機まで』

 フォルカー・クッチャー『濡れた魚』
 
 福田ますみ『暗殺国家ロシア』

 フリオ・コルタサル『愛しのグレンダ』

 町山智浩『トラウマ恋愛映画入門』

 ジョーゼフ・キャンベル『神話の力』
 
 前川健一『いくたびか、アジアの街を通りすぎ』

 佐藤亜紀『ミノタウロス』

 ヘレン・マクロイ『歌うダイアモンド』

 関川夏央『ソウルの練習問題』

 エリック・ラーソン『第三帝国の愛人――ヒトラーと対峙したアメリカ大使一家』

 近藤紘一『したたかな敗者たち』

 スティーブン・ミルハウザー『ナイフ投げ師』
 
 諏訪部浩一『マルタの鷹 講義』

 ジョン・ウィンダム『海竜めざめる』

 スチュアート・ダイベック『シカゴ育ち』

 一ノ瀬泰造『地雷を踏んだらサヨウナラ 』

 カール・マルクス『ルイ・ボナパルトのブリュメール18日』

 皆川博子『伯林蝋人形館』

 バルドゥイン・グロラー『探偵ダゴベルトの功績と冒険』

 ケイト・サマースケイル『最初の刑事――ウィッチャー警部とロード・ヒル・ハウス殺人事件』

 ボブ・グリーン『チーズバーガーズ』

 

 まだまだあるけど、とても読み切れそうにないなあ。

 それではみなさま、よいお年を。



 

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女子テニス界屈指の技巧派 アグニエシュカ・ラドワンスカの魅力

2016年12月24日 | テニス
 アグニエシュカラドワンスカのファンである。
 
 ポーランドテニスプレーヤーであり、2012年ウィンブルドンファイナリスト
 
 世界ランキングの最高は2位で、2011年2015年東レパンパシフィックオープン優勝したことから、日本でも人気が高い選手だ。
 
 愛称は、東レの記者会見で本人が言っていた「アガ」。
 
 スポーツの世界には「技巧派」と呼ばれる選手がいて、私もパワーで押す選手よりも、どちらかといえば組み立てで勝負するプレーヤーが好みだが、彼女のテニスは、とにかく頭がいいのが特徴である。
 
 セレナウィリアムズのビッグサーブや、マリアシャラポワの斧でたたききるような重いストロークとは無縁で、サービスもフォアハンドもバックハンドも、一見いたって平凡
 
 一撃でエースをとれるウィニングショットや、さわると手の切れるようなボレーがあるわけでもない。
 
 試合中も、どちらかといえば、起伏なく々と事を進めるタイプの選手である。
 
 ところが、この一見なんの変哲もなさそうな彼女のテニスが、いざ戦ってみると負かしにくいのなんの。
 
 その力の抜けたようなフワッとしたテニスは、そのおだやかな外見とは裏腹に、一度はまると命取りになるアリ地獄
 
 当てるだけに見えるショットが、実にいいところに返る。プレースメントがいい。回転のかけ方が巧みで、スピードはないのに返球がなんとも難しい。
 
 そうやって、とらえどころのないまま、うっかり気を抜くショットを放つと、いつのまにかスルスルとネットに出ていて、そのまましとめられている。
 
 彼女はプロにしては細身であり、パワーにはかなりおとるところはあるが、それを適切な読み判断力でカバーできるのが強みなのだ。
 
 とにかく、アガからポイントを取るのは、けっこうな労力を必要とする。
 
 すごい俊足というわけでもないが、ランニングショットがうまい。これで、簡単にはエースを取らせない。
 
 振られても、かろうじて返球したフォアスライスが計ったように深く返ってくる。バックハンドの、当てるだけで返すカウンターショットや、逃げのロブが抜群にうまい。
 
 読みもすばらしいものがあり、をついて打ったつもりのスマッシュやボレーに対して、一歩も動かないままそこに待ち受け、簡単にパスエースを取ってしまうという光景を何度見たことだろうか。
 
 ディフェンスにすぐれた彼女は、その一方で攻めも、なんとも上手にこなす。
 
 のコートで、低くすべる弾道の球を地面につくほど、ぐっとひざを曲げて打ち返すのはウィンブルドンの名物であり、次々とエースを量産する。
 
 ドロップショットが得意で、丁寧にネット際に落とすのだが、彼女の真骨頂はその一発で決めるのではなくて、それを相手に拾われたとき。
 
 本来なら、ドロップショットは決まればいいが、相手に追いつかれると絶好のチャンスボールになる可能性もある、リスクの高いショットである。
 
 ところがアガの場合それを拾われても、ネットにおびき出された相手に対して様々な選択肢でもって対応できる。
 
 ショットの持ち札の数が、圧倒的なのだ。あとはパスでもロブでも、気分次第選んでで料理してしまえばいい。
 
 野球でいえば、まさに「七色変化球」でもって打者を翻弄することができるから、相手からすると頭をかかえるしかなかろう。
 
 中でも「反則だぞ!」といいたくなるのが、バックハンドフェイントショット。
 
 ストローク戦の中、バックのスライスを打つと見せかけて、そこからドロップショットというのは、よくある戦術だが、アガの場合はもうひとひねりある。
 
 彼女はバックのスライスを打つと見せかけてドロップショット、と見せかけてやっぱりスライス
 
 こういう2段階のフェイクを入れてくるのだ。
 
 これには「落としてくる」とに出たところに、するどい回転のかかったショットが、まるで顔面めがけてかのように飛んでくることとなり、相手はパニックになる。
 
 なんとも、いやらしい手管ではないか。
 
 これでじわじわとポイントを取られる者は、洗面器でゆるやかに煮られるカエルのように、気づかないうちにぬるま湯の中で料理されてしまうのだ。
 
 その真価が、いかんなく発揮されたのは、2015年度の東レ決勝
 
 相手はスイスの新星ベリンダベンチッチ
 
 6月エイゴン国際決勝で負かされた、勢いに乗りまくる18歳だが、苦戦が予想されたこの試合、アガはこれ以上ないくらいに巧みなテニスを見せた。
 
 若さにまかせて勝ちまくっていたべリンダを、大人のテニスで見事に翻弄。
 
 相手のスピードを殺すクレバーなゲームメイキングを駆使し、怖いもの知らずの10代に自分のテニスをさせなかった。
 
 6-26-2というスコア以上にを感じさせた内容で、試合途中、どうにもならなくなったべリンダはついに感情を爆発させ泣き出し、コーチである父親と口論を始める始末だった。
 
 これには、まったく惚れさせられたもの。なんという魅せるテニスなのか。
 
 パワーテニスの名のもとに、女子テニスからテクニシャンが駆逐されて久しいが、まさに
 
 
 「昔ヒンギス、今ラドワンスカ」
 
 
 といっていい、すばらしい「魔術師」ぶりだ。
 
 今女子テニス界で、間違いなく「もっとも対戦したくない」選手の一人であるラドワンスカ。
 
 彼女に足りないのは、グランドスラムのタイトルであろう。
 
 2013年ウィンブルドン準決勝で、ザビーネリシツキ相手にファイナル7-9で敗れたのが痛恨であった。
 
 決勝で待っていたのが、セレナでもシャラポワでもなかったことを考えると、ここは相当に大きなチャンスであったが、残念であった。
 
 ただ、彼女の実力をもってすれば、もう何回かはチャンスがあると見る。
 
 現に、2015年度はWTAファイナル優勝し、初のビッグタイトルを手にした。
 
 ぜひ好成績を残したこともあるウィンブルドンか全豪あたりを取って、パワー時代の女子テニスに「技巧派復活」の鐘を鳴らしてほしいものである。
 
 
 
 ■おまけ 負けたけど好勝負だった、2016年東レ準決勝vsウォズニアッキ戦は→こちら
 
 
 
 
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オーストリア&南ドイツのサンタクロースは実にワイルドギース

2016年12月21日 | 時事ネタ
 オーストリアのサンタクロースは、ワイルドでバイオレンスである。
 
 サンタといえば、日本ではヒゲを生やした好々爺といったメージがあるが、これが調べてみると、国によって姿や行動が違っていておもしろい。
 
 厚着をしており、住所はフィンランドということで北欧のイメージが強いが、出身地は東ローマ帝国
 
 その中の小アジアと呼ばれる地域であり、今でいうトルコなのだ。
 
 サンタクロースの出身地はトルコ。これはまた、ずいぶん日本人のイメージとははなれている。
 
 4世紀の東ローマ帝国ってことは、東方正教会の話だろうから、われわれがキリスト教としてなじんでいるカトリックやプロテスタントとは、ちょっと違うし、今となってはトルコはイスラムの国だから、ますます違和感である。
 
 また、南ドイツやオーストリアのサンタは、日本のようなやさしいおじいさんではなく、クランスプという従者を従え世直しをするという、なかなか社会派な人なんだそうな。
 
 しかも、このクランスプというやつが、見た目、全身黒い羊の毛皮
 
 顔は面長でツノがあり、耳はと舌は異様に長く、どうひいき目に見ても悪魔以外のなにものでもないというヤツ。
 
  
 
 
 
 
 
 
 Wikipediaからクランスプの画像。ハンパでなく怖いです。
 
 
 
 手にムチも持っており、
 
 
 「オラオラ悪いヤツはおらへんのか、おったらワシとサンタクロースのアニキが、しばきまわしたるどオラオラ!」
 
 
 そこいらにいる子供を、バシバシたたいてまわるというのだから、なんともクレイジーではないか。
 
 これは話をおもしろくしようと、誇張しているわけではない。
 
 実際に、オーストリアのクリスマスでは、このサンタ&クランスプのコンビがムチを持って街中を練り歩き、「世直し」と称して、子供をシバきまくっているのだ。
 
 それはもう、泣こうがわめこうがおかまいなし。子供だけではなく、大人も容赦なく
 
 「こいつめ、こいつめ、悪いヤツは全員死刑!」
 
 『デスノート』の夜神月君ばりの成敗にいそしんでいる。日本人的視点から見れば、ただのなまはげだ。
 
 一応、「よい子にする」と約束すればゆるしてくれて、お菓子などもらえるらしいが、散々ムチでしばかれて、泣いてわめいて強制的にいうこと聞かされて、そのあげくにもらえるのがお菓子だけ
 
 費用対効果を考えれば、あまりに少ない報酬という気もする。子供という職業も、なかなかに大変だ。
 
 だが、そこで心を入れ替えないと、お菓子どころではない、さらにとんでもないことが待っている。
 
 なんと、「悪い子はこうや!」とばかりに、背中にかついでいたずだ袋に入れられて、河に捨てられてしまうのだ!
 
 寒さの厳しいヨーロッパで、そんなことをされたら、まず間違いなく死んでしまう。
 
 ほとんど、スティーブン・キングの書く、ホラーの世界ではないか。
 
 そう、あのサンタクロースがかかげている白い布袋は、プレゼントが入っていると見せかけて、そうではない。
 
 その正体は、中に子供を放りこんで、スリングショットよろしく厳寒の河に投げこみ殺害するための武器だったのだ!
 
 また、サンタによっては、河に投げるどころか、子供を食ってしまうというさらに怖ろしいのもいるという。
 
 あの海原雄山でも手を出さない人肉食い。
 
 人類最大のタブーに踏みこむのは、かの子供たちの味方であるはずの、サンタクロースとは……。
  
 とんでもない話だが、殺人サンタは気にすることなく例の
 
 「ホーホーホー」
 
 という笑い声を上げながら、次なる獲物を探して、
 
 「行け、クランスプ」
 
 カプセル怪獣のごとく、相棒を派遣するのである。
 
 もともとは
 
 「身売りされる娘に、ほどこしをあたえた」
 
 「死刑囚の命を救った」
 
 ということで、聖人としてあつかわれていたはずのニックが、東欧経由でゲルマンの国にわたり、そこで子供殺しの人食いに華麗なるクラスチェンジ。
 
 このあたりは、おそらくゲルマン土着古代宗教が影響してるんだろうけど、なんにしろ実にワイルドだ。
 
 かくのごとく、クリスマスにしろサンタにしろ、国によってとらえ方は違うわけで、文化の伝搬というのは、おもしろいものだと思うわけである。
 
 
 
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冬はフィンランドの楽しい映画を アキ・カウリスマキ『レニングラード・カウボーイズ・ゴー・アメリカ』

2016年12月18日 | 映画
 『レニングラード・カウボーイズ・ゴー・アメリカ』を観る。

 ハリウッドのスタームービーや金のかかったアクションも楽しいが、たまにヨーッロパの地味ーな映画が心地よいときがある。

 スペインのブラックコメディ『みんなのしあわせ』や、ドイツのむさくるしい男2人ロードムービー『ノッキン・オン・ヘブンズ・ドア』、ハンガリーの老人反逆映画『人生に乾杯!』に、デンマーク版『シベールの日曜日』っぽい『エマ』などなど、おススメ作品は枚挙にいとまがない。

 そんな数ある名作から、今回はフィンランド代表をご紹介。

 『浮雲』『マッチ工場の女』でその名を知らしめたアキ・カウリスマキ監督の『レニングラード・カウボーイズ・ゴー・アメリカ』である。

 カウリスマキといえば定跡通り『浮雲』から入って、一時期ハマって観たものだが、作品的にもっともラブリーでお気に入りなのが、この『レニングラード・カウボーイズ・ゴーズ・アメリカ』。

 ストーリーはといえば、これはたいしたものは、ないといえばない。

 ロシアのシベリアでほそぼそと暮らす田舎のアンちゃんたちが、

 「バンドやろうノフ! 音楽の力でもって、アメリカで一旗揚げてやるスキー!」

 と故郷をはなれ、あちこちで演奏しながら旅をするというロードムービー。

 まあ、それだけといえば、それだけ。

 なのだが、このレニングラード・カウボーイズの面々が、なんとも愛らしくて楽しい。

 バンド映画というのは、たいてい出てくる連中は楽しくて気が良くてバカと相場が決まっているが、このおろしや国のカウボーイたちは、これまた飛びぬけてイカれている。

 10人編成くらいのバンドだが、見た目はサングラスに黒スーツ。頭は今時、昭和のヤンキーマンガでしか見ないような、それで釘でも打てそうなキンキンのリーゼント。

 いわば、『ブルース・ブラザーズ』に横浜銀蠅を足して、演奏するのが吉幾三、みたいなもの。

 映画というのは「つかみ」が大事だが、もう見た目のインパクトは100点満点で500点。「一回転してカッコいい」といえなくもない、超絶キャラ立ちバンドなのだ。

 地方どころか、シベリアという「世界レベルのド田舎」から出てきた世間知らずの音楽野郎。

 最初は故郷を思いながらロシア民謡を演奏していたのが、やがて少しずつ他の音の影響を受け、ついにははロックンロールなんて弾いちゃうんだから、もう愉快すぎる大人のおとぎ話。

 そのとぼけた味がなんとも幸せな映画なのだ。

 アキ・カウリスマキの映画といえば、その魅力の一つにふわっとした独特のユーモアがある。

 『浮雲』はリストラ、『コンタクト・キラー』は自殺願望が物語のきっかけになっているのだが、両作品ともそれに付随するイメージのような深刻さはあまり感じられない。

 といってもそれは、クストリツァのような、困難をあえてバカ騒ぎで表現しようとする不屈の笑いではなく、また太宰治的な自虐でもない。

 もっとこう、ある種の確信というか、苦しい流れでも不思議に殺伐としない楽天性というか、どこかに確固とした、

 「人間に対する信頼感」

 というものがあるではと思わされる。だから、どんなどん底状況でも見ていて安心感がある。

 そういったカウリスマキの明るい部分が一番開けっぴろげに出ているのが、この『レニングラード・カウボーイズ』。

 田舎バンドが楽器背たろうて車でアメリカを縦断し、どかちゃか好き勝手演奏し、ときおりバカな失敗をしながらメキシコを目指す。なんて能天気でお気楽な映画!

 ラストに待っているオチのゆるやかなバカバカしさと相まって、まったくラブリーで楽しい音楽ロードムービー。

 ほんわかとハッピーな気分になるには、これ以上オススメの映画もない。

 私は未見だが、『レニングラード・カウボーイズ、モーゼに会う』という続編もあるらしい。

 次また作るなら、今度はぜひ日本にきてブレイクしてほしいものだ。やはり、初音ミクとコラボとかになるのだろうか。

 で、アニメソングで一発だけ当てて、洋物バンドでよくある、

 「現地ではまったく無名なのに、日本でだけ人気のあるアーティスト」
 
 になって帰国するの。





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失敗した買い物は体重を落としてリベンジ! 財布にやさしい「ムダ使いリカバリー・ダイエット」 その3

2016年12月15日 | コラム

 前回(→こちら)に続いて、ダイエットに成功した話。

 腹式呼吸にグレープフルーツにビリーズブートキャンプと、世にダイエットは数あるが、私の提唱する「無駄づかいリカバリー・ダイエット」も、なかなか効果的である。

 やり方は簡単。ふだんの生活で「無駄遣い」や「損な買い物」をしてしまったとき、その損失の「差額」が埋まるまで、ちょっとずつ食べ物を減らすのだ。

 このダイエットのいいところは、ちまちましているけど、

 「買い物の失敗を取り返しつつ、健康的に痩せることもできる」

 ところであり、体にも財布にもやさしい。

 さらにいいところは、

 「ストレスの軸をずらすことができる」

 この効用が、もっともおすすめポイントだ。

 単に「損した」気分を取り戻すだけの節約とか、ダイエットでおかずを一品減らすだけというのは、誰でも思いつく話である。

 だがこれを、単体でやると思ったよりもしんどい。

 節約は気分がみみっちくなるし、食べ物が貧相になるのは悲しい。

 最初はいいが、一月二月となるとオリのようにモヤモヤがたまっていき、あるとき突然爆発。「やってられっけ!」とストレス解消の買い物やドカ食いに走る。

 それで財布も体重もリバウンド。典型的な、ダイエット失敗パターンだ。

 ではそれと「リカバリー・ダイエット」はどこが違うのかといえば、ストレスを感じたときに、一方からもう一方にスライドさせることができる。

 たとえば「無駄づかいした」「ちまちま節約して、みっともない」となったときには、そのことを悩むのではなく、

 「あ、でもこれでダイエットするいい機会になるわ」

 「3000円ムダにしたけど、その分カロリー減らしたら、2キロはいけそう」

 「節約」から「体重」に気持ちを持っていく。

 金をケチるのは気分的にマイナスだが、やせることはプラスだ。これで多少、気分は相殺する。あまり気持ちが落ちない。

 逆もまたしかり。「はあ、今日もまた肉なしのカレーかあ」とか「体重減らないなあ」なんてため息つきたくなっても、

 「でも、その分失敗した買い物をなかったことにできるから、いいよね」

 そう思える。やはり、気持ちが落ちない。100%とまではいかないが、かなりマシになる。

 文章で書いていると、「そんなもんかねえ」と半信半疑だろうが、実際にやってみると、想像よりも、存外メンタルに効くのがわかっていただけると思う。

 人はしんどいときに、それをむち打って「がんばろう」というのは、やがては限界が来るが、

 「こっちはだめでも、あっちでいいことあるから、いいよね」

 そうやって気持ちを少しずらすだけで、ずいぶんと楽になるのだ。

 「金」「体重」というリアルで重いものと直接向き合うのではなく、うまく「散らす」ことによって、気持ちを落とさない。

 結果、体にも財布にも心にもやさしい、ポジティブなノリでやせられる。

 以上が、私の提唱する「無駄づかいリカバリーダイエット」だ。

 元は、古本屋めぐりが趣味の私が、せっかく買った本が他の店やネット書店でさらに安く売っているのを見て、そのくやしさのために、

 「この差額分、おやつのチョコレートやおせんべいをガマンすることによって取り返せんやろか」

 なんてことをやってみたら、いつのまにかやせていたことからはじまったのだ。

 この「いつの間にか」というノンストレスなところがポイントだ。

 あともうひとつグッドなのは、このダイエットには

 「終わりが見えやすい」

  ダイエットでキツいのは、体重を落とすための努力ではなく、

 「その努力を一生続けなければならない」

 という重い十字架を背負うこと。

 ダイエットにかぎらす、禁酒禁煙などもそうだろうが、心が折れる瞬間というのは、

 「今は耐えられる。でもこのガマンを、酒を、煙草を、チョコレートを、これから自分は一生心から楽しむことができないのだ」

 こんな考えが、ふと脳裏によぎる、このときなのだ。

 これはねえ、泣きます。そんな大げさなというなかれ。なにをかくそう、私自身が泣いたことがあるからよくわかる。

 「一生」「死ぬまで」「永遠に」。号泣しました。いや、マジで。

 でも、この「リカバリー・ダイエット」なら、そんな苦悩も軽減される。

 なんといっても、これには「ゴール」があるのだから。「差額」に達成すれば、そこでやめてよい。

 で、それだけでも、意外と数キロくらいなら減るもんです。

 え? 減らなかったらどうするって? 

 安心してください。よほどのキッチリした人でなければ、世に「損した」と思うときの種は尽きまじ。

 何日かしたら、また別のところで「あ、やってもうた」と思うときが来ます。

 ほかにも、「人におごった」ときとかにもいいかもしれない。結婚式の招待状が来たときとか、想定外の出費でも、すぐに作戦発動。チョビチョビきざんで、身も財布も軽やかに。

 おっと、そんなこといってる今日も、ネット通販で買ったSFアンソロジー『ワイオミング生まれの宇宙飛行士』が、近所のブックオフだと300円安く入荷してたぞ!

 嗚呼、損した! じゃあ、最近ハマッてる「塩入芋けんぴ」を300円分ガマンするか。

 一袋150円やから、2日やめればええんやね。これでリカバリー。

 やった、これで1200カロリー分得した!



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失敗した買い物は体重を落としてリベンジ! 財布にやさしい「ムダ使いリカバリー・ダイエット」 その2

2016年12月14日 | コラム
 前回(→こちら)に続いて、ダイエットに成功した話。

 腹式呼吸にグレープフルーツにビリーズブートキャンプと、世にダイエットは数あるが、私の提唱する「無駄づかいリカバリー・ダイエット」も、なかなか効果的である。

 やり方は簡単。ふだんの生活で「無駄遣い」や「損な買い物」をしてしまったとき、その損失の「差額」が埋まるまで、ちょっとずつ食べ物を減らすのだ。

 具体的にいえば、あなたが1万円で買った服が、別の店で7000円で売っていたのを発見したとしよう。

 これはなんとも不幸な事態だ。先にこっちの店に来ておけば、安くに買えたものを。

 このときの「損失額」は3000円だ。

 この損を埋めるために、その分の食費を減らす。

 ここで大事なのは、いきなり3000円分取り戻そうとしてはいけない。あくまで小銭単位できざみ、「結果的に3000円」まで行ければいいのだから。

 たとえば、出勤前に喫茶店でモーニングを食べたり、コンビニでサンドイッチを買って始業前にお腹に入れるという人はいるであろう。

 そういう人は、数日だけヨーグルトにしてみる。

 うちの近所のスーパーで、3つ入りのが120円で売られている。1個が40円。
 
 モーニングが350円として、これだけで310円リカバー。

 昼食は、いつものラーメンに半チャーハンをラーメンのみにしたり、立ち食いそばの天ぷらを抜いて、かけそばにして100円もうけ。

 ペットボトルのジュースを、「今日だけ」ガマンして150円くらい支出を抑えられる。

 晩ご飯も外食しているのを、「気分を変えて、自炊でもするか」で、野菜炒めでも作れるかソーメンでもゆでれば数百円は浮くというもの。

 これを意識的に数日やれば、ひいふうみいよと、あっという間に3000円くらいリカバーできる。

 ほら、「損」したはずのお金は、あなたのもとに戻ってじゃないですか! 

 というと、「そらそうだろ」「単に節約しただけじゃん」といわれそうだが、それはその通り。

 いくらリカバリーしたとはいえ、3000円損したものが返ってきたわけではない。
 
 でもである、ここでもしあなたがやはりいつも通りの食事をしていたら、3000円は相変わらず「損」のままだった。

 それを「変化」させたのだから、やはりこれは「取り返した」といってもいいのではないか。

 なんたって、上記のような節約って、意識的にやらないと、案外とできないものなのです。

 それこそ、ジュースなんてスーパーで買えば78円のものがコンビニで買うと150円。

 でも、ふだんはわざわざスーパーまで行って買わないですよね。

 というか、そもそもジュースなんて、飲まなくてもいいものといえる。糖分多くて健康には良くないし。

 それを「3000円取り返す」という気持ちでやると、具体性があるおかげで、けっこう無駄づかいが押さえられる。

 なにより、そうやって細かく作業することによって、

 「損をチャラにした!」

 あの落ちこんだ気持ちを払拭できる。

 人間、ミスをしたときに、ただ落ちこむよりも「それに対してやることがある」と、これはなかなかに精神衛生上いいものだ。「達成感」もバカにならない。

 でもって、キモはもうひとつの効用。

 そう、例を見ればわかるように、この「リカバリー」における対象はすべて「食べ物飲み物」に限定すること。

 これによって財布だけでなく、気がつけば「体重減」によって別のご褒美があらわれる。これが大きいのだ。

 まとめると、

 「損な買い物をした!」

    ↓

 「じゃあ、その損の差額を取り戻すまで、食べるものを少しだけ減らしてみる」

    ↓

 「差額分チャラにしたら、あれ? 気がついたら、その分カロリーも減って体重落ちてるやないの、ラッキー!」

 こういうことである。

 見ると「そんな単純な話かいな」と鼻で笑われそうだが、意識してやってみると、これが意外と効果的なんです。

 現に私がほぼノーストレスでやせているわけだし、器具やジムに通うお金もいらないのだから、やってみる価値はあるのではないか。

 やってみるとわかるが、このダイエットのもっとも大きなポイントは、

 「ストレスの軸をずらすことができる」

 これこそが、このダイエットをおススメする最大の理由でもある。


 (続く→こちら



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失敗した買い物は体重を落としてリベンジ! 財布にやさしい「ムダ使いリカバリー・ダイエット」

2016年12月13日 | コラム
 今回はおすすめのダイエット方を紹介したい。

 ゆで卵ダイエットとかリンゴダイエット、水中ウォーキングにノンカーボなど、古今東西数多くのダイエットが存在するが、私がいつもやっているのがコレ。

 その名も「無駄づかいリカバリー・ダイエット」。

 名前だけだと、なんのことかサッパリかもしれないが、まあこれは私が命名したものなので、だれも知らないのも当然。

 ただ手前味噌ではあるが、これはなかなか優秀なメソッドだと自負している。

 「1週間で5キロ減」とか「ニックネームが『魔神ブウ』だったボクにはじめて彼女が!」みたいな劇的な効果はないけど、それなりに結果も出ているからだ。

 実際、この夏も私は3キロほどやせて、しかもそれをキープすることに成功している。

 さらに、このダイエットですばらしいのは、付帯効果で「財布にも優しい」ということ。

 どうです、ちょっと興味がわいてきたでしょ?

 やり方はカンタン。日常生活において、

 「しまった! またムダ遣いをしてもうた!」

 とか

 「嗚呼、こっちの店で買っておいたら、もっと安く買えたのに!」

 なんて、買い物でちょっとした後悔をするときってありますよね。

 その「存した差額」分を、カロリーでカバーするというのが、このダイエットのやりかた。

 わかりにくいという方に具体的な例で説明すると、たとえば、あなたが1万円の服を買ったとする。

 モノ自体は気に入ったので、「いい買い物したなあ」とホクホク顔。ところが、数日後その店からメールが届いて、

 「お客様にオトク情報! 本日全品3割引の大セール!」

 なんてあったらどうであろうか。

 「しまった! もう少し待ってたらよかった!」

 そうなりますよね。でもって、

 「ホンマやったら7000円で買えたのに、大損ぶっこき丸や……」

 盛大に落ちこんでしまう。軽く死にたくなる。

 ホンマやったらといっても、そんなメールが来るなんて知らなかったんだから、そこはいっても仕方がない。

 でも、テンションが下がるのは止められない。金額のこともさることながら、さっきまでの「ええ買い物や!」という幸せな時間が胡散霧消してしまったのが、さらにつらい。

 まさに「死んだ子の歳を数える」不毛な事態に。

 こういうときこそ、私の提唱するダイエットの出番。

 3000円「損」をした。なら、別のところでそれをリカバリーするのだ。

 どこで借りを返すか、そう「カロリーを3000円分減らす」のだ。

 といっても、ここで急に

 「今日から晩ごはんを抜く!」

 「3日、こんにゃくゼリーだけですませる!」

 なんていうど根性に走っても、ストレスが溜まるだけ。

 ダイエットの天敵は「体重が落ちないこと」ではなくて、

 「ストレスでやけっぱちになっての盛大なリバウンド」。

 これにつきる。

 そのリバウンドのタネというのは、こういう「一気のカロリー減」による逆方向への爆発。

 即効性こそあるものの、長い目で見たら肉体的にも精神的にも不健康で、結局はマイナスの方が大きい。

 ここで大事になるのは「きざむバッティング」。

 3000円といっても、1回の食事で盛り返すのではなく、少しずつできる範囲で行うのだ。

 もっと楽にというか、習慣的に摂取しているものを、小銭の単位で減らしていくことによってムリなくリカバリーしようという試みこそが、このダイエットの骨子なのだ。


 (続く→こちら



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ゴッド・セイブ・ザ・クィーン 浪速の女王陛下万歳! その3

2016年12月10日 | 若気の至り
 前回(→こちら)の続き。

 美術の宿題に、

 「あんたが描いたにしてはうますぎる! だれかに描いてもらったんだろう!」

 なるヤカラを入れられた、中3時代の私。

 カマしてきたのはユウコちゃんという女子生徒だが、「女王様」の異名をとる彼女はオラオラだけど、ヤンキーではなく勉強も得意なタイプ。

 で、私も当時はそこそこ優等生で、彼女と同じくらいの偏差値だったのだ。

 しかも、受験する予定だった大阪府立U高校は、ユウコちゃんにとっても第一志望。

 そう、志望校のバッティングする彼女にとっては私は、追い落とすべきライバルだったのである。

 となると、私の苦手な美術というのは「直接対決」で差をつけるチャンスだった。

 それが、アメトークにも呼ばれようかという「絵心無い芸人」のくせに、まあまあな絵を提出している。

 私にとっては「アウェーの引き分けは勝ちと同じ」くらいの感覚だが、むこうからすればとんでもない話だ。

 これはおかしい、そんなことがあっていいのか。

 だからきっと、不正があったにちがいない。物言いをつけて、なりふりかまわず足をひっぱりに来たのだ。すごい執念である。

 このストレートパンチには、美術の先生もドン引きだったが、ユウコちゃんのは気にすることもなくこちらに、

 「ねえ、誰かに描いてもらったんでしょ。友だちでしょ? それともお父さん? そうなのね、そうなんでしょ?」

 まさに被告に詰め寄る敏腕検事のようである。

 思わず、「すいやせん、あっしがやりやした」とすべてを白状しそうになるほどだ。なるほど、警察による自白の強制というのは、こんな感じで起こるのであるなあ。

 とはいえ、正義はこちらにありである。ここは私もなめられてはいかんと、

 「ふざけたことをいうな! ちょっと皆に一目置かれているからって、図に乗るんじゃないぞ!」

 と、ここは本気でガツンと言ってやった。

 ……としたら、さぞかしスッキリするだろうなとは思ったが、間違いなく、どつきまわされるであろう。そんなこと、ようしません。

 「ウソだ、絶対にウソだ!」

 まっ赤になって、爆発寸前のユウコちゃん。

 「白状しなさいよ、卑怯よ!」

 卑怯だといわれても、こちらもまいっちんぐなのである。それにしても、先生とクラスメート全員の前で、そこまで言えちゃうのもすごい。

 ようやるなあと、ビビりまくりながらも、感心するやらあきれるやら。なんで私が、こんな目に合わんとあかんのや。

 そこでせめて助けを呼ぼうと、クラスの友人にSOSのアイコンタクトを送ったが、みなあわてて窓の外を見たり、ツメをいじくったり、わざとらしくも教科書に読みふけったりしていた。

 だれも目を合わせてくれない。

 そりゃないぜ。友がピンチだというのに、なんというあつかいか。

 もし逆に彼らがユウコちゃん相手に追いつめられていたら、私ならもちろん勇気を振りしぼって助けに入るかといえば絶対に他人の振りをするけれど、救助は無理にしても、怒りの矛先をそらすために非常ベルを鳴らすとか、教室を爆破するとか、それくらいの陽動作戦くらいは起こしたらどうなのか。

 どうとも言いようのないこちらに、頭から湯気吹く勢いのユウコちゃんは、とうとう

 「ここでもう一回、同じもの描いてみなさいよ! そしたら信用してあげる!」
 
 そう言い放つと、腕の立つフェンシング選手のごとく、ビシッと絵筆を突きつけてきたのである。

 もう一回描け。そこまでいうか。というか、あまりに勢いよく突きつけられたので、眉間をえぐられるかと観念したくらいだ。一瞬、死んだと思ったよ。

 ここまできたところで、ようやく先生が「いい加減にしなさい」と間に入ってくれて助かった。

 さすが先生に止められては、ユウコちゃんも引くしかない。釈然としない目で引き返しはしたが、依然こちらをにらみつけていた。ビームでも出そうな勢いである。

 私も一応笑顔で「ホントに自分で描いたんですよ」と念押ししたが、情けなくも

 「ホ、ホ、ホ、ホホホホントに、じぶ、じぶ、じぶぶぶ」

 と唇が、風に吹かれたこんにゃくゼリーのようにプルプル震えた。その憤怒の表情に、まともに発音などできません。もう、腰が抜けそう。

 授業がはじまる前にトイレをすましておいたのを、ひそかに神様に感謝したものだ。でなければ、尿ちびってました。コワイ、コワすぎる。パワーがちがう。

 この事件で発憤したのでもないだろうが、その後ユウコちゃんはテストでもバシバシ高得点をはじき出し、当初の志望校よりも2ランク上の名門Y高校を受験し、合格した。

 さすが女王ユウコちゃん、私のような下々の者とはモノがちがうことを、しっかりと見せつけた。さすが、その負けん気と根性は一級品である。

 こうして、全面的な衝突こそ避けられたが、受験戦争においては大いに水をあけられてしまうこととなった。

 だが私はこの敗北を、さほど気にしてはいない。

 というのも、ここは偏差値うんぬんよりも、私としてはユウコちゃんと違う高校になって内心ホッと息をついていたのであったからだ。

 もし同じ学校に進学して、もしそこでも対決することになったら。

 今度こそ、本当にちびりそうだものなあ。

 以上、季節外れの、ものすごく怖かった女の子の話でした。




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ゴッド・セイブ・ザ・クィーン 浪速の女王陛下万歳! その2

2016年12月09日 | 若気の至り
 前回(→こちら)の続き。

 勉強ができて、クラスの中心的存在である中学時代の同級生ユウコちゃんだが、基本オラオラ系で、口が悪く、表現がストレートなのが玉に瑕。

 出すテストが簡単な先生をつかまえて、

 「あたしとバカの差がつかないから、もっと難しくしろ」

 などと要求するのだから、その気の強さもわかろうというもの。

 おー、コワ!

 こんなキツイ子とぶつかったら、私のようなショボい男子など、どんな目にあわされるかわかったものではない。

 なので、なるたけ見つからないようそっとしていたのだが、ひょんなことから、戦いの舞台に引きずり出されることとなってしまったのだから、災難というのはどこに転がっているかわからない。

 それは、夏休み後すぐの美術の授業であった。

 この夏休み、先生はある宿題を出していた。中身は単純で、風景画でも自画像でもなんでもいいから、絵を描いてくるというものである。

 これを聞いたとき、私はまいったなあとボヤくはめになった。自慢ではないが、絵心というものがまったくないのである。

 が、そうはいっても仕方がない。いつもならバックレてしまうところだが、時は中学3年生。そんなことをしては内申点に響いてしまう。

 こうなればやるしかない。下手は下手なりにがんばろうと筆をとったのだが、これがその謙虚な姿勢がよかったのか、思ったよりもうまく描けてしまった。

 もちろん、描ける人とくらべたら落書きみたいなシロモノだが、アウェー科目なら5段階で「3」をもらえれば御の字。それには充分の出来だったのだ。

 提出すると予想通り、「まずまず描けてますね」と先生に及第点をいただいた。

 よしよしである。これで赤点だけはまぬがれそうだと、ホクホク顔で席に戻ろうとすると、そこに立ちふさがった人がいた。

 そう、天下の女王様、ユウコちゃんであった。

 ユウコちゃんは腰に手を当て、私の前で仁王立ちしながら、

 「先生、これはおかしいと思います!」

 ビシッと響きわたる声だった。

 突然の強烈な意見表明に、ややたじろいた先生が「なにがですか」と問うならば、

 「それ、彼が描いたにしてはうますぎます」。

 うますぎる。おお、うれしい。

 思わず、よろこんでしまった。私は人生において、絵をうまいと言ってもらったことが一度もなかったのである。

 だが、よろこんでばかりもいられない。どうやら私は彼女の逆鱗にふれるなにかをやってしまったようなのだ。

 ユウコちゃんは、こちらに対し、石に変えようとするメデューサのごとくにらみつけると、

 「これ、絶対にインチキです! だれかに描いてもらってるんですきっと!」

 おーい、おいおいおいおいおいおい! なんちゅうこと言い出すのかキミは。

 前回に続き、またもや直球ど真ん中である。顔面グーパンチだ。

 思いっきりイチャモンをつけられた私は、思わず長いため息をつきそうになった。

 うわー、めっちゃ怒ってますやん、と。

 ハッキリ言ってヤカラだが、なぜにて彼女がそのような主張をするのかは、いかなボンヤリの私にもうっすら理解はできないこともなかった。


 (続く→こちら



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ゴッド・セイブ・ザ・クィーン 浪速の女王陛下万歳!

2016年12月08日 | 若気の至り
 季節外れの、怖い話をひとつ。

 昔は日本人が怖いものといえば「地震、雷、火事、親父」といったものだが、最初の3つはともかく、現代では親父よりも圧倒的に「女」のほうが怖いのではないか。

 そのことを感じさせてくれたのは、中学時代のクラスメートであったユウコちゃんだが、そのキャラクターは一言でいえば女王様。

 気が強くて、勉強もできて、見た目こそ地味だったが、その存在感は十分なもの。一言でいえばオラオラ系だ(ただしヤンキーではない)。

 なんといっても、男子といえばたいていが女子を呼び捨てなのに、彼女だけはかならず「テヅカさん」と「さん付け」だったのだから、その威圧感もわかろうというもの。

 事件が起こったのは、中学3年生1学期の期末テストのことだった。 

 中3といえば、大変なのは高校受験である。となると大事なのは定期テストの成績だが、ひとつ問題というか、気にかかる教科があった。

 当時、理科を担当していたスミヨシ先生というのが少し変わった人で、テストを作るときいつも副読本の問題集から7割くらい、そっくりそのまま出題してくるのだ。

 問題集には模範解答もついていたから、それを丸暗記すれば、どんな勉強ができない子でも6、70点は確実に取れることになる。

 今考えても、めちゃくちゃにゆるいテストであって、ほとんど合法カンニングというか、ともかくも理系科目が苦手だった私にとっては実にありがたいことであった。

 そんな素晴らしきスミヨシ先生のテストだったが、ここに立ち上がったのが、なにをかくそうユウコちゃんであった。

 期末テストが近づくある日、出題範囲を言おうとしたスミヨシ先生に、ユウコちゃんはすっくと立ち上がって、こうぶち上げたのである。

 「先生、問題集からそのままじゃなくて、ちゃんとオリジナルの問題作って出してください」

 楽に70点は保証されるサービス問題に、まさかのクレーム。

 虚をつかれ、なぜかと聞き返すスミヨシ先生に、彼女はその長い髪をさっとかき上げると、こう言い放ったのだ。

 「だって今のままじゃあ、あたしたちとバカとの差がつかないじゃないですか」

 その瞬間、クラスの空気が凍った。いや、凍ったどころではない、地球温暖化もはだしで逃げ出すブリザードが吹き荒れたのであった。

 ひえええ、なんちゅうこと言うんや、この女は!

 さすがは女王様。すごいこと言うなあ。「バカ」って言い切りましたよ。

 その「バカ」に「なんだと、テメエ!」と怒られるとか考えないんだろうか。

 考えないんだろうなあ。怖くもなんともないんだろう。相手は「バカ」だから。

 もちろん、だれもつっこめません。唖然呆然。

 スミヨシ先生からすると、内申点に不安のある生徒のため、なるたけ「努力点」をあげるべく(なんたって、理系なのに丸暗記でOKなのだ)そういうテストにしているのだ。

 ちょっと極端なやり方かもしれないけど、我々に損はないから、みんな黙認している。

 そこを「バカと差がつかないからやめてくれ」。女王様のアッパーカット、炸裂しまくりです。

 まあ、そんな温情がなくてもいい点を取れる彼女からしたら、ライバル、それこそ私のような、理科を苦手とする生徒の点数が楽して上がるのは損なわけだ。

 内申点というのは人と比較しての「相対評価」だから、そこはわからなくもないけど、それにしてもストレートである。

 スミヨシ先生は苦笑いし「考えておきましょう」と答えたが、その後もテストはまったく内容は変わらなかった。

 これに対して、その後も「バカがいい点とるのはゆるせない」と激おこだった彼女だが、それ以上は言っても聞かれることはなかった。ユウコちゃん無念である。

 まあ、先生からしたら「救済」でやっているのに、その助けるべき「バカ」を蹴落とせというのだから、そもそも通じるわけもないか。共産党に「完全歩合制」を要求するようなものだ。

 ただ、意見は通らなかったが、この事件によって我がクラスは、ますます「テヅカさんおそるべし」という空気で満たされることになり、その意味ではデモンストレーションの効果はあった。

 いやあ、あんなこと言える人には、だれも逆らえませんわ、と。

 このように、納得はできなかったものの、その存在感をまざまざと見せつけることとなったユウコちゃん。

 まあ、クラスの中では地味な存在であった私にはあまり接点はなかったので、彼女の「炎上」はほぼ他人事だと高をくくっていたのだが、あにはからんや。

 ひょんなことから今度は私が、教室内で彼女と直接対決に見舞われることになったのである。

 これがまさに、尿をちびるほどの恐怖体験であったのだ。

 

 (続く→こちら



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サイモン・シン『フェルマーの最終定理』 数学者たちを人生を狂わせた証明

2016年12月05日 | 

 サイモンシンフェルマーの最終定理』を読む。

 前回(→こちら)はサイモンの『暗号解読』を紹介したが、やや似たようなテーマで今回は数学の証明。

 フェルマーの定理といえば、数学が鼻血が出るくらい苦手だった文系人間の私でも聞いたことくらいはある。

 17世紀フランスの数学者であるピエールフェルマーが、ある日、読みかけの本の余白に、こんなことを書きつけたという。


 「nが3以上のとき、n乗数を2つのn乗数の和に分けることはできない。この定理に関して、私は真に驚くべき証明を見つけたが、この余白はそれを書くには狭すぎる」。


 これをフェルマーの息子死後に発見し、発表したのだ。

 数式にすると


「n≧3のとき、Xn+Yn=Znを満たす、自然数 X、Y、Zは存在しない」。


 ザッと並べてみても、



 X3+Y3=Z3 


 X4+Y4=Z4


 X5+Y5=Z5(以下同文)



 これらを成立させるに入る自然数ない

 つまり、これらの式は絶対に成り立たないとういことである。

 と言われると、なんとなくであるが、すごいような気がしてくる。

 なにより数学者の死後に発見されたの定理とは、ミステリファンとしては、なんだかダイイングメッセージみたいで、ちょっと楽しいではないか。

 とまあ、根っからの文系人間である私は能天気に考えるとことだが、ところがこれが、あにはからんや。

 なんとこの単純な、文章にすればたった2行の単純きわまりない定理、じゃあいざ、



 「はい、ほな今からこれが正しいことを証明してみてちょ」



 と言われてみると、これがなかなかできないらしい。

 いや、実際のところ、なかなかなんてものではない。

 なんとこの定理、一見簡単なように見えて、実は、古今東西のあらゆるスーパー数学者になっても解くことのできなかったという、超弩級超絶ウルトラ難問だったのである。

 結論から言うと、一応この定理もでは証明されてはいる。

 いるんだけど、その解き明かされるまでの期間がえげつない。

 なんと360年もの年月がかかったのである。

 360年

 ちょっと待てーい! とんでもない長さである。

 さかのぼっていけば、そのころ日本はまだ江戸時代なのだ。

 それも、長い間歴史から忘れられてたから、とかではない。
 
 世界中の有象無象のあらゆる数学者があの手この手を使って、縦に横に、こねてたたいてひねくり回しての360年なのだ。

 つまりは歴史上の最強に近い理系頭脳集団が、ドリームチームの知恵のかぎりを駆使して挑んで、それで360年かかったのである。

 それはもう、とほうもない時間手間労力なのだ。

 こう語られてみると、このフェルマーの定理がとてつもない、それこそ気の狂うような超絶難問であったことがよくわかる。

 その苦闘の歴史は、ぜひサイモンの本で読んでほしい。

 この歴史的難問に果敢に挑んだ数学者たちの、熱い想いには感動をおぼえる。

 が、同時に有能で将来を嘱望されながらも、この定理にとりつかれ、すべてをこの証明に費やし果たせず、一生に振ってしまった悲劇の数学者たちのことを考えると、なんだか空恐ろしくもなる。

 それはまるで、ある女性を愛し、絶対に振り向いてくれないにもかかわらずすべてを捧げ、破滅していく男の姿のようでもある。

 そういえば、『暗号解読』でも、

 

 「これを解けば、途方もない額のお宝が見つかる」



 と書かれた「ビール暗号」について言及している。

 たった3枚手紙に書かれたこの超難解な暗号。

 お宝に目がくらんだもの、純粋に「暗号という財宝」に魅せられたもの、その他有象無象の腕自慢が世界中から集まって、あの手この手でロックをはずそうとしたが、ついに誰も解くことができず、多くの人々の人生を狂わせた。

 あまつさえ、なんと財宝を掘り当てたというビール氏から暗号をたくされた持ち主自身が、家族友だちから



 「頼むからもう暗号のことは忘れてくれ」



 何十年も泣いて懇願された末に、



 「わたしは暗号を解くのに疲れてしまった。こいつのおかげで、たった一度の人生を無駄づかいしてしまった。もうあきらめることにする」



 悲しすぎる敗北宣言をしたそうだ。

 たった一度の人生の大空費

 そのむなしさには、背筋も凍るおそろしさを感じる。

 まさに、ファム・ファタール。まこと難解な謎というのは魅力的で、罪作りであるなあ。




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サイモン・シン『暗号解読』を読めば、キミもエニグマやロゼッタストーンが解読できる!

2016年12月02日 | 

 サイモンシン暗号解読』を読む。

 1585年、10月15日。

 スコットランド女王メアリースチュアートがフォザリンゲイ城の法廷に入ってきた。

 英国をゆるがした女王エリザベス1世暗殺計画。その首謀者としてあげられたのが、政敵である彼女の名前だったからだ。

 裁判の焦点となったのは、ある手紙

 そこにはメアリーによる、エリザベス1世の暗殺指令の署名が記されているという。

 だが、それはまだ決定的な証拠とはならなかった。

 なぜなら、その文書は暗号で書かれていたからだ。

 これが読み解けなければ、メアリーの有罪は証明できない

 無罪断頭台か。

 イングランド王室は果たして王家の安寧のため、暗号を解読することができるのか……。

 といった、シブすぎるオープニングで幕を開けるこの『暗号解読』。

 タイトルのまま古今東西の暗号を、それにかかわった事件人物のエピソードを絡めつつ、登場した経緯や、その解読プロセスについて解説していくというもの。

 合い言葉は「スクランブラーを解け」。

 この本を読むと、暗号というのが、いかに世界史の裏で秘密裏に活躍してきたかが、よくわかる。

 ミステリ小説にも出てくるヴィジュネル暗号

 太平洋で日本軍を苦しめたナヴァホ族の暗号。

 そして解読不可能といわれ、第二次大戦中縦横無尽に大活躍したドイツ軍エニグマ暗号機。

 これは暗号作成側と解読側の知力をふりしぼった戦いである。

 作成者が複雑に入り組んだ暗号を提出すれば、解読側は知性とひらめきと、そして気の遠くなるような地道な検証作業によって道を切り開く。

 それを見て作成者はさらに2重3重と文にロックをかけ、解読側はそれをまた、しらみつぶしに解除していく……。

 まさに、脳みその中で血で血を洗う、究極の知能ゲームであり、終わりのない記号のイタチごっこ。

 読んでるだけで目まいがするというか、阿呆の私は正直

 

 「もう、ついていけませんわ〜」

 

 肩をすくめたくなるくらい、この戦いは複雑怪奇であり、わけがわからなくなり、最後には心身ともに迷路にはまりこむ。

 たかが記号でつづられたものに、これほど人間くさいドラマがあるというのが、なんともいえず魅力的だ。

 また、暗号というのは、決して解かれることを望まないものだけではない。

 エジプトロゼッタストーンや、古代ギリシャの謎の言語である線文字Bなどといった、「失われた言葉」に挑む学者たちの奮闘も描かれている。

 文法語法も、いやさその文字が表音文字表意文字かすらわからない言語を現代の言葉に翻訳するなど、一体可能なのであろうか。

 ロゼッタストーンに対してシャンポリオンが行っていた作業など、怖ろしいほどの気力と知力と精神力を必要とする、気の狂いそうなシロモノ。

 その様はまるで、とっかかりのないつるつるの壁面を、小指ほどのくぼみを手探りで探して、それをひとつひとつ指先にひっかけながら巨大なを登るようなものだった。

 そんなもんに、よく挑戦しようという気が起こるものだが、そこが暗号の魅力なのであろう。

 中には「フェルマーの定理」のように、それを解くためだけに一生を費やし、あたら才能人生空費するという、なんともいえない悲劇を起こした暗号もあるという。

 阿呆の私には、そこまでパズルに淫する覚悟はとても出てこない。

 とにかく読みながら、暗号の進化の歴史に驚嘆し、それにとりつかれた人々にこちらも魅入られ、あいだ中ずっと「ホンマ、ようやるわ」と感心するやらあきれるやら。

 とにかく脳みそがきしむ、めちゃくちゃにおもしろい本。オススメです。



 (『フェルマーの最終定理』編に続く→こちら




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