「変な人」が変に見えるのは「論理的」であるから ジョナサン・スウィフト編

2018年06月27日 | コラム
 「変な人は論理的である」

 
 というと、たいていの人は、

 
 「えー、そんなことないよ。変な人は考え方が論理的じゃないから、変なんでしょ」

 
 そう返してくるものだが、これがそうではない。
 
 そこで前回(→こちら)は、

 
 「論理的帰結により、マリファナ売春が合法になった国」

 
 について語ったが、まさに変な人とは論理的であるというか、「論理的すぎる」から、おかしなことになるのだ。
 
 この手の「すぎる」人の最上級といえば、これしかあるまい。
 
 アイルランドの大作家ジョナサン・スウィフト
 
 『ガリバー旅行記』など、不思議でゆかいな童話を書く作家というイメージを持つ人もいるかもしれないが、それは彼の一面にすぎない。

 当時の(今でも?)イングランドから搾取されまくっていたアイルランドの代表的知識人として、なんともシニカル、かつ気の狂った風刺劇を得意としたロックンローラーなのである。
 
 そのイカれっぷりが炸裂しているのが、有名な、

 
 『アイルランドにおける貧民の子女が、その両親ならびに国家にとっての重荷となることを防止し、かつ社会に対して有用ならしめんとする方法についての私案』

 
 匿名で発表されたこの文章、長いので中身を要約すると、
 
 

 アイルランドのみんな、今年は飢饉で生活が苦しいよね。

 でも大丈夫、ボクが飢えと寒さをしのぐ起死回生のアイデアを考えたから、聞いてくれよな!

 答えはカンタン。あまってる赤ん坊の肉食べればいいんだ。

 みんな、食べるものがなくてツライよね。結婚している家は、子供の分も食べさせなければならないから、もっとタイヘン。

 でも、ここからが逆転の発想。
 
 キミのおなかがすいて、その子供も飢えているなら、逆に子供を料理してキミが食べれば、キミのお腹はふくれて、子供も苦しまなくてすむ。

  働けないのにメシだけは食う、赤ん坊の口減らしもできて、一石二鳥さ! 論理的でしょ? ボクって天才!

 
 
 まあ、こういう内容なんである。
 
 イカれてると思うでしょ? まさにしかり。イギリスには縁の深い夏目漱石も、

 
 「コイツ、まじヤベーわ……」

 
 ドンびきに、ひきまくってました。
 
 しかも、この文章はこれだけで終わらず、その後も、
 
 

 「1歳になると、栄養も申し分なく、煮ても焼いてもいけるし、シチューもおススメ」

 「王国にいる12万人の子供のうち、2万人繁殖用に残しておくのがベター」

 「カトリックは子だくさんだから、そいつらを市場に回せばプロテスタント側もうれしいよね!」

  「私生児対策にもいいよ。だって、望まぬ妊娠をしたって、堕胎しなくても食べればいいからさ!」

 
 
 などといった、「おいしい子供の食べ方レシピ」や、

 
 「この案が通れば、こんなええことありまっせ!」

 
 という、大プレゼン大会が延々と続くのだ。
 
 これがねえ。もうメチャクチャに理路整然としているというか、ロジカル爆発というか。ともかくも、

 
 「子供を食べると、イギリス王国には、こんないいことだらけ!」

 
 といった話が、しっかりした文章で語られていくのだ。とんでもない劇薬
 
 もちろん、ジョナサンは本当にそうしろといっているのではなく、アイルランド人を人間あつかいしない非道なイングランドに、
 
 

 「オレたちは、自分の子供を食んで生きなければならないほど、貴様らに踏みつけられているのだ!」

 
 
 猛抗議する、怒りの鉄拳なのだ。
 
 鬼気迫るのも当然
 
 飢えた子供が死んでいくのを、なすすべもなく見ながらペンを走らせる、まさに血と涙と魂の叫び。
 
 それがこんなにも論理的に語られる。読んでて、頭がおかしくなりそうになるのも、むべなるかな。
 
 「狂気の天才」ジョナサン・スウィフトの、あまりにもすさまじい名文だ。「論理的な人は変」の究極系
 
 「スウィフト アイルランド 貧民救済」で検索して、ぜひ一読を。
 
 


 (空想的社会主義者シャルル・フーリエ編は→こちら
 
 
 
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「変な人」が変な理由は「論理的である」から オランダのマリファナと売春合法 編

2018年06月22日 | コラム

 「変な人は論理的である」。

 というと、たいていの人は

 「えー、そんなことないよ。変な人は考え方が論理的じゃないから変なんでしょ」

 そう返してくるものだが、これがそうではない。

 そこで前回(→こちら)は「家出して住むところがない事態を、空手で打開しようとした友人」を例にあげたが、今回は国の話でオランダ。

 オランダといえば、チューリップに風車、あとは運河の国というファンシーなイメージがあるが、ディープな旅行者にとってはそれより少しばかりイケナイ楽しみを求めていたりする。

 それが、マリファナと売春だ。

 というと、マジメな人から、

 「そんな犯罪行為がはびこるとは、オランダはなんという乱れた国なのか!」

 なんてお怒りの声が聞こえるかもしれないが、残念ながらそれは不許可である。

 なぜなら、オランダは基本的に、マリファナをはじめとするソフトドラッグが合法であるし、売春もまた、有名な「飾り窓地帯」など国の管理のもと行われているのだ。

 つまり、法的にはなんの問題もないわけで、だれはばかることなく吸い放題で、買い放題なのだ。そりゃ、一部のフリーダムな人はうれしいかぎりである。

 ではなぜにて、オランダ(主に首都のアムステルダム)では、そのような「非倫理的」なことがまかり通っているのかと問うならば、これが「論理的帰結」によるのだ。

 最近では、アメリカもカリフォルニア州をはじめ、一部の地域で大麻が解禁されているが、もともとマリファナ自体はドラッグとしても、そんな目くじら立てるほどの副作用などはないとは、昔からよく聞くところ。

 せいぜい「ええ塩梅」になって、勤労意欲が落ちたりするくらいだが、日本でブラック企業に酷使されるのとくらべたら、それくらいのペースの方がよほど「働き方改革」ではないかとすら感じる。

 そもそも、酒や煙草をたしなむ人には、ソフトドラッグを非難する道義的正当性もないわけで(このどっちもバリバリの麻薬です)、私自身ドラッグにさほど興味はないし日本では違法だからやりはしないけど、昨今の傾向に関しては、「別にいんじゃね?」くらいのスタンスだ。

 それだったら、とっとと解禁してしまえばいいじゃん。というのが、オランダの考え。

 オランダ人によると、マリファナの合法化は禁止するよりいいことが多く、まずそれでハッピーになれる人がいる。

 また「店内など、決められた場所で楽しむ」という原則があるので、「隠れてコソコソやるうちに悪い仲間とつるみ出す」みたいな心配も減る。

 さらには、堂々と手に入れられることにより、売人などへの仕事を割のあわないものにし、その金がそのまま「国の税収」となって返ってくるのだから、こらもう坊主丸儲けやないか!

 つまり「大麻=ドラッグだからよくない」という偏見さえ一回はずしてみれば、大麻解禁は「いいことだらけ」ということになってしまうのだ。

 ちなみに、コカインやヘロインなど、「マジで壊れる」系のドラッグは絶対ダメです。そこのとこ、誤解なきよう。

 同じく売春に関しても、裏で悪いやつがあやつるから、人身売買や非人道的な性行為の強要などもあるわけで、国が管理しておけば、ある程度はコントロールできる。

 反社会的勢力の介入も減らせるし、健康診断(!)を受けさせれば性病も防げると、やはりプラマイでいえばプラスが大きい。

 だったら、なんで解禁しないの? やればいんじゃね?

 となるのは「論理的に正しい」というのが、オランダ人の判断なのだ。

 ただ、それを本当にやっちゃうのがすごい。ふつう、思いついても躊躇はするよねえ。でもそこは、ロジックが優先するオランダの国民性なのか。

 実際、この大麻と売春合法は他の国から、またオランダ国内でも賛否両論で、オランダ在住の日本人に聞いてみたところ、アメリカとフランスから、かなりきびしくとがめられたそうだ。

 まあ、いくら「論理的帰結」とはいえ、そら言われることもあるわなあと思うわけだが、そこはオランダも負けてなくて、自国のドラッグがらみの犯罪が圧倒的に少ないことを根拠とし、

 「ちなみに、先進国で一番麻薬犯罪が多いのは、アメリカとフランスだよーん!」

 そう反撃したとか。あらら、そらぐうの音も出ません。

 もちろん、なんでも合法化すればすべてが解決するわけでもなく、倉部誠さんの『物語オランダ人』という本を読むと、「論理的思考」が過ぎるゆえの色々な齟齬などもあるようだし(日本人的な「忖度」に鼻もひっかけないとか)、私自身も「だからオランダみたいにやれ」とも言う気もないけど、

 「感情的、感覚的に受け入れにくいことを、しっかりと思考を整理して、しかも本当に実行しちゃう」。

 というオランダの発想力は、もう文句なく面白い。尊厳死とかも、そういうことなんだろう。

 もうオランダ人ったら、論理的で変な人!


 (ジョナサン・スウィフト編に続く→こちら

 

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「変な人」が変に見えるのは「論理的」であるから 空手番長編

2018年06月17日 | コラム
 「変な人は論理的である」。

 というと、たいていの人は

 「えー、そんなことないよ。変な人は考え方が論理的じゃないから変なんでしょ」

 そう返してくるものだが、これがそうではない。

 そこで前回(→こちら)は、「論理的帰結により、浴室で全裸になってトマトを食べる将棋のプロ棋士」を紹介したが、今回は強豪ひしめく我が友の話。

 「悪いけど、金貸してくれへんか」。

 そういって友人タカヤス君が我が家をたずねてきたのは、まだ学生時代のことであった。

 突然の借金の申しこみであったが、事情はすぐに理解できた。

 タカヤス君は当時、ある夢があったのだが、そんな若気の至り的時代の御多分にもれず両親が

 「そんなもんでメシが食えるか」

 と猛反対。そこで大げんかになり、家を飛び出していたころだったのだ。

 だが、いざ家出はしてはみたものの、当座住むところがない。

 しばらくは友人の家など転々としていたが、いつまでもというわけにもいかない。

 なので24時間営業のファミレスなどで夜を明かしていたが、

 「ボロ屋でもええから、なんとか屋根のあることろ探さんとなあ」

 会うたびにぼやいていたのだ。

 おそらくそのことであろう。アパートを借りたりするとなると、そのころだと、敷金などで10万から20万くらいかかってしまう。

 徒手空拳のタカヤス君に、そんなお金があるはずもない。そのための資金繰りではなかろうか。

 友は芸術家タイプの人間に多い、プライドの高い男である。

 そんな男が、頭を下げて、しかも数ある友たちの中から、あえて私を選び、助けを求めてきたのだ。

 ここで立ち上がらなくては私の中の大和魂は死ぬ。まかせろ。こっちも大した持ち合わせがあるわけではないが、他の友人たちにカンパを募れば、安アパートくらいなら借りられるのではないか。

 そこで「で、とりあえずいくらくらいいるの?」とたずねると、タカヤス君はこう言い放ったのである

 「8000円くらいかな」。

 8000円? 8万円の聞き違いかと思ったが、もう一度訊くとたしかに8000円だという。

 8000円なんかでは、どんなボロアパートでも1月の家賃にもならない。

 その金でなにをするのかと問うならば彼は笑顔で、

 「あのな、空手習おうか思ってるねん」。

 ふたたび、はあ? である。なんで空手なのかといえばその理由というのは

 「アパート借りたらお金かかるやろ。その金貯めるのに時間もかかるし。だからアパートはあきらめて、かわりに空手を習って心身を鍛えて、

 『屋根なんぞなくても、野宿で充分』

 って思えるような強靱な精神力を身につけた方が早いやん」。

 これには思わずうならされた。

 屋根がなければ、屋根なんぞいらんという境地に達すればいい。

 まさに逆転の発想だ。たしかに、それでいいなら問題は解決どころか、未来永劫われわれの生活費を侵食する「家賃」なるものに悩まされずにすむ。むしろ「勝ち組」の生活と言えそうだ。

 人に必要なのは「衣食住」だが、「それは本当に要るのか?」と固定概念をはずしてみれば、人の思考はこんなにも自由になれる。

 なにがどうということはないが、たしかに「論理的には間違っていない」気はする。

 なるほどなあ。ようそんなこと思いつくなあと、彼に道場の入会費3000円と、1ヶ月の授業料5000円、計8000円なりを手渡しながら感心したものだ。

 友はその常人離れしたセンスから「天才タカヤス」の名を欲しいままにしていたが、まさにその面目躍如ともいえるエピソードであった。

 ちなみに、その後彼は

 「空手でそこまで行くには10年はかかる。マジメに働いた方が早い」

 との結論に達し、アパートを借りるため、せっせとバイトにはげむというオチもつくのだが、結果はともかく『寄生獣』とともに、

 「変な人は案外と論理的かもしれない」

 という発想を持つに至った、最初のエピソードであった。



 (オランダのマリファナと売春編に続く→こちら



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「変な人」が変に見えるのは「論理的」であるから 森下卓九段 編

2018年06月15日 | コラム
 「変な人は論理的である」
 
 
 というと、たいていの人は
 
 
 「えー、そんなことないよ。変な人は考え方が論理的じゃないから変なんでしょ」
 
 
 そう返してくるものだが、これがそうではない。
 
 そこで前回(→こちら)は、中島らもさん書くところの
 
 
 「論理的帰結により髪型を《ザビエル》にしたサラリーマン」
 
 
 を紹介したが、今回は論理的思考といえばこの職業であろう、将棋のプロ棋士から。
 
 森下卓九段は、典型的な「マジメすぎて変」な人である。
 
 A級10期タイトル戦登場6回棋戦優勝8回という、押しも押されぬ一流棋士である森下先生だが、一緒にお酒を飲んだ女の子に、後日丁寧なお礼状とともに
 
 「一歩千金
 
 と揮毫した色紙を送ったなど、この手のシビれるエピソードに事欠かない。
 
 中でも最も奇抜なエピソードといえばやはり「森下全裸トマト事件」。
 
 森下九段の好物はトマトである。
 
 それもサラダにしたり、塩や砂糖をつけたりなどという軟弱な食し方ではない。九州男児の森下九段は、腰に手を当ててそのまま丸かぶりが好みだ。
 
 が、そんな豪快な先生だが、ここにひとつ悩みがあった。
 
 それは、トマトのである。
 
 がぶりとトマトに食らいつく。とすると、かじり口から、トマトの赤い汁が種とともに飛び散ってを汚すのである。
 
 キレイ好きの森下先生には、これが悲しい。
 
 ここで長考に沈んだ。トマトは食べたい。しかし、服が汚れるのはイヤだ。どうすればいいのか。
 
 そこで好手が思い浮かんだ。
 
 トマトを食べると、汁で服がよごれる。とすれば最初からなど着なければいいのではないか!
 
 これぞ逆転の発想、コロンブスの卵。
 
 たしかにそうすれば、服はよごれない。さっそく先生、トマトを冷蔵庫から取り出すと、着ている服を脱ぎ払って全裸になった。
 
 準備完了。さあ、いざこの赤い果肉を丸かぶらん! 
 
 と、大きく頭を振りかぶったところで、再びあることに気がついた。
 
 このまま食いついても、たしかに服は汚れることはないだろう。
 
 だがしかし、汁は服の代わり今度はに飛び散り、部屋に敷き詰めたじゅうたんをよごしてしまうではないか!
 
 キレイ好きの森下先生、これが悲しい。
 
 ここで長考に沈んだ。トマトは食べたい。でも床をよごすのはイヤだ。どうすればいいのか。
 
 そこで好手が思い浮かんだ。
 
 トマトを食べると床がよごれる。とすれば、最初から床がよごれてもいい場所で食べればいいではないか!
 
 なるほど、これぞユリイカ、コペルニクス的転回。では下がよごれてもいい場所とはどこか。トマト片手に先生は走った。
 
 そこは風呂場だ。
 
 浴室なら、汁が飛び散って体や床を汚したところで、シャワーでしゃーっとすすいでしまえばいいことだ。
 
 さすが天才は発想が違う、いろんな意味で。
 
 かくして、森下卓九段は服も床もよごすことなく、トマトの丸かじりを大いに堪能した。
 
 このエピソードのすごいところは、森下九段の思考が、徹頭徹尾論理的であるということ。
 
 
 「キレイ好きが、トマトを丸かじりするにはどうすればいいか」
 
 
 という命題に、ほぼ最適解に近いものをみちびき出している。
 
 で、その結果あらわれたのが、
 
 
 「浴室で全裸になって、腰に手を当てトマトを丸かじりする男」
 
 
 
 もう、森下先生ったら変な人!
 
 
 (空手番長編に続く→こちら
 
 
 
 
 
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「変な人」が変に見えるのは「論理的」であるから 河童のサラリーマン編

2018年06月10日 | コラム
 「変な人は論理的である」。

 というと、たいていの人は

 「えー、そんなことないよ。変な人は考え方が論理的じゃないから変なんでしょ」

 そう返してくるものだが、これがそうではない。

 そこで前回は「共産主義国家のサンタクロース問題」を例にあげたが(→こちら)、今回は中島らもさんの本から。

 らもさんの知り合いの編集者に、頭をカッパのように丸く剃り上げている人がいたという。

 学校の先生なら100%「ザビエル」とあだ名をつけられるタイプの髪型だが、ハゲているわけでもなく自らの意思でそのような髪型にするのは、なんとも面妖である。

 「オシャレ」とも思えないし、たとえどのような思惑があるにしろ、これはどう見ても「変な人」であろう。

 らもさんがその理由を問うならば「ザビエル」氏は、

 「私はね、変人なんですよ」

 はあ、それは見たらわかりますけど。

 といってもそれは「この髪型だから変」というわけではなく、

 「変だとされるがゆえに、この髪型にせざるをえない」

 順序が逆なのだという。続けて曰く、 

 「だから普通の頭にしてると、みんな普通の人だと思って話しかけてくる。この頭にしておくと、一目で変人とわかるでしょう。あとで変人だとか、やいやい言われなくてすむ」

 なるほど、そう説明されると理解できるところはある。

 つまり、この「ザビエル」氏は変人だが、自分でそのことを納得しているわけではない。

 なので「普通の人」として、ごくまっとうな普通の髪型をしていたのだが、いざつきあってみると、

 「え? この人って、こんなに変だったの」

 そうおどろかれてしまうことが、多々あるのだろう。

 こうなると、仕事や人間関係に問題が出る。

 なまじパッと見が「まとも」なだけに、そのギャップが悪い方に出て、「ドン引きされる」ということになるのだ。

 「こんな人だと思わなかった」と。

 よく昭和のマンガやテレビドラマなどで

 「動物を助けて好感度が上がるヤンキー」

 というキャラが出たりしたものだが、その逆パターンといえよう。

 そこで氏は考えたのだ。どうすれば、「変」であることに、おどろかれないのか。

 そこで思いついたのだろう。《普通に見えるのに変》だからビックリされるんだと。だったら、最初から

 《見た瞬間に変だとわかる》

 このようにしておけばいいんだと。

 そのためには、一番目立つところに異物を置くのがいい。で、選んだのが

 「カッパのようなハゲ」であると。

 これなら、第一印象で「変」だとわかるから、あとで「そんなはずでは」となることがない!

 中学生くらいのころ、これを読んだ私は、

 「なんと明快で、論理的な思考経路なのか!」

 と感嘆し、「ザビエル」氏の頭のよさに感心したが、同時にこうも思ったわけなのだ。

 「変な人……」。


 (森下卓九段編に続く→こちら



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「変な人」が変に見えるのは「論理的」であるから サンタクロース編

2018年06月05日 | コラム

 「変な人は論理的である」。

 というと、たいていの人は

 「えー、そんなことないよ。変な人は考え方が論理的じゃないから変なんでしょ」

 そう返してくるものだが、これがそうではない。

 そこで前回は『寄生獣』のミギーやドイツのV2ロケットを例にあげたが(→こちら)、今回のテーマは「メルヘンとロジックは両立するのか」について。

 ファンタジーと論理は、基本的には食い合わせが悪いものだが、荻原祐一さんの書いた『サンタクロース学』という本は、まさにその対立の火薬庫ともいえる緊張感をはらんだ内容となっている。

 サンタクロースの起源から、その歴史や商業主義的見方など様々な視点から解説したものだが、圧巻なのが後半にあるサンタクロース本の紹介。

 こういうところではふつう、

 「この絵本のサンタはステキ」

 「この歌に出てくるサンタはおもしろい解釈」

 なんてメルヘンなところをフィーチャーするものだが、どっこいこの本は、そんな生ぬるい思想ではできていない。

 どうも荻原先生は、真面目というか硬派なサンタクロースフリークであり、まがいものというか、サンタクロースのイメージを壊すような本はゆるせないらしい。

 『トンデモ本の世界』シリーズでこの本を取り上げた唐沢俊一さんによると、たとえば

 「なまけ者のサンタが、子供の願いを聞いてサンタの仕事の大切さに目覚める」

 といった本を取り上げた場合。

 「仕事」「責任」「大人になる」とはなにかを殊勝に問いかける、いい話だと思うのだが、先生は「こんな話はダメだ!」と断罪。


 「サンタクロースが怠け者だななんて、そんなことはおかしい。これは、子供たちに間違った情報を与えることになる。こんなものがはびこるようでは日本も終わりだ!」


 と大激怒。

 これだけで、充分に荻原先生の情熱が伝わろうというもの。他にも「動物がサンタに扮する」という話があれば、


 「サンタは動物ではない。安易に子供に媚びるな」。


 また、「サンタさんの奥さん」が出てくる話には、


 「サンタが結婚しているという話など聞いたことがない」。


 「サンタの玄人」として、設定の不備はゆるせないと。それだけならただ口やかましいだけと言えなくもないが、荻原先生は続けて、


 「それにこの話は、妻のサンタは家の仕事を押しつけられているという古いタイプの女性しか描いていない。現代風にアレンジするなら、サンタの仕事も家のこともお互いに平等にこなさなければならないのではないだろうか」


 実にスルドク、ジェンダー論にまで切れこんでくる奥の深さ。

 荻原先生はただの偏狭なガンコ者ではない、柔軟であり、女性の味方なのである。

 一番「論理的」だと感心したのが、中国を舞台にしたサンタ話。

 サンタクロースは世界中の子供、ヨーロッパだけでなく、アジアやアフリカにも出かけていってプレゼントを渡すもの。

 その中には当然、中国も含まれているわけだが、荻原先生はそれはおかしいと一喝。

 といっても別に、昨今流行りの嫌中というわけではなく、


 「中国というのは共産主義国家である。共産主義とは唯物論的思想であり、宗教は否定される。なので、中国にサンタという存在はありえないのである!」。


 つっこむとこそこかよ! と、思わず声に出したくなる、まこと見事な亜細亜サンタ論。

 クリスマス前にほのぼのした本を読みたくて、サンタと共産主義という視点が飛んでくるとは思ってもみなかった。

 まあ、たしかに共産主義バリバリ時代の中国では、キリスト教も肩身のせまい思いをしていたというのは、小田空さんの『中国いかがですか?』でも語られていたけど。

 また北欧文学者で翻訳家の稲垣美晴さんの『サンタクロースの秘密』によると、フィンランドは世界から届く「サンタクロースへの手紙」に返事を出すというサービスを行っていた。

 そこではスウェーデン語や英語にドイツ語、さらには日本語や韓国語のお便りにも、その国の言語で返事を返していたが、そこに中国語がなかったのも、おそらくは政治体制の影響なのであろうから、先生の言うことはもっともなのだ。

 以上の例などをとっても、どうであろうか、変な人というのは、実はそのおかしさの原理は「論理的」であることなのだ。

 空想の産物すらも容赦しない。まこと「論理道」の道はかくもけわしいのである。

 
 (河童のサラリーマン編に続く→こちら
 

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