「業の肯定」とフランス落語 カトリーヌ・ドヌーブ主演『しあわせの雨傘』

2020年10月30日 | 映画

 映画『しあわせの雨傘』を観る。

 あらすじは作品紹介によると、

 

 スザンヌは、朝のジョギングを日課とする優雅なブルジョア主婦。

 夫のロベールは雨傘工場の経営者で、「妻は美しく着飾って夫の言うことを聞いていればいい」という完全な亭主関白だ。
 
 ところがある日、ロベールが倒れ、なんとスザンヌが工場を運営することに。

 明るい性格と、ブルジョワ主婦ならではの感性で、傾きかけていた工場はたちまち大盛況! だが、新しい人生を謳歌する彼女のもとに、退院した夫が帰ってきた

 

 主演はカトリーヌドヌーブ

 といっても、この映画の彼女は『シェルブールの雨傘』や『ロシュフォールの恋人たち』のような、若くてコケティッシュな姿ではなく、もすでにいるというおばあちゃん役。

 ただ、そこはなんといってもフランスの名女優のこと。

 その存在感と華やかさはなかなかのもので、演技はもとより、ダンスと大はりきりと、その魅力をふんだんに振りまきまくって、まずそこを観ているだけでも楽しい映画。

 では肝心のストーリーはどうかといえば、これがまた実に良かった(以下、ネタバレあります)。

 物語のキーワードは

 

 「みんな間違ってるよなあ」

 

 家庭にしばりつけられた主婦が、ひょんなきっかけから社会に出ることになり、そこで自己実現のきっかけをつかんでいく、というのはストーリーとしては、さほど目新しいものではない。

 どっこい、これがフランス喜劇となると、そう一筋縄ではいかない。

 最初の45分くらいまでは、亭主関白の旦那がまくしたてるようにイバリ散らすため、この人が「悪役」として配置されているのかと思いきや、ことはそう単純ではないのだ。

 とにかく、この映画に出てくる登場人物は間違いまくりである。

 エラそうな旦那はもとより、カトリーヌ・ドヌーブも邪気のないおばあさんと思いきや、過去にはがいる身でガンガン男に抱かれてる。

 母親が横暴な父親の言いなりなのを、やや上から目線ながらも歯がゆく思っていたは、土壇場で裏切って、カトリーヌを社長の座から引きずり降ろし、

 

 「アンタ、家にしばりつけられてるウチのこと《飾り壺》やって、バカにしてたやないの」

 

 そう行動の矛盾をつっこまれると、

 

 「うん。ゴメンね。でも、パパと離婚はせんといて」

 

 的外れかつ、勝手なことを言う。

 なんといってもすばらしいのが、ジェラールドパルデュー演ずる左翼市長

 立派で高潔な彼はかつて一夜を共にしたカトリーヌと再会できて、やれうれしや、結婚しよう。

 さらには彼女の息子が、自分の隠し子だとカン違いして浮かれたあげく、彼女の放埓な一面を知ると、

 

 「ボクはブルジョアのメス豚にのぼせあがっとったんか……」

 

 突然、スゴイことを言い出す(笑)。

 あげくには、カトリーヌの息子が自分の落とし種でない(ついでにいえば夫の子でもない!)ことを知るや、家まで5キロもある郊外の湖に置き去りに。

 

 「ちょっと! ウチ、ハイヒールやのに、どうやって帰るのん?」

 

 という訴えにも、ガン無視で車を出してしまうところなど、ジェラール最低! でもって最高

 なんてちっちゃい男なんや、おまえはホンマと、もう大爆笑なのである。

 なんて書くと、なんだかこの映画の登場人物がみなそろいもそろって、愚か者エゴイストのような印象をあたえそうだが、そこはそうでもない

 たしかに彼ら彼女らは、たくさんの間違いを犯す。

 それも、なかなかに人としてヒドかったり、状況として最悪だったりと、観ていて「なにやってんのよ」と笑いっぱなし。

 でもねえ、これがフランス喜劇の底力なのか。

 そこがあんまり、怒ったり呆れたりといった感じにならないというか、むしろ、しみじみさせられるというか。

 なんか、人ってこういうバカなこと、言ったりやったりするよなあと。

 私も大人になって思うようになったことは、

 

 「人間って、そんなに賢くないよなあ」

 

 これは別に、「人類は愚かだ」みたいな、

 「どの目線でしゃべってるねん!」

 そう突っこみたくなるような文化人発言ではなく、なんかねえ、人ってそんないつもいつも賢明にはふるまえないじゃん、みたいな。

 

 「ここで、それやるか」

 「そこで、それ言うか」

 

 学校で、家庭で、仕事で、友人家族恋人に、そんなことばかりしてるのがというものだ。

 それらの多くは、あとで冷静に考えたら

 

 「なんであんなことを……」

 

 バカバカしくなったり、頭をかかえたりすることばかり。

 けど、そのときは感情がおさえられなかったり、それが最善だと思ってやってたりする。

 阿呆やなあとボヤきたくなるが、カートヴォネガット風にいえば、「そういうもの」ではあるまいか。

 それこそ、の立場からすると、ジェラールがカトリーヌをメス豚(何度聞いてもいい語感だ)呼ばわりしたあげく置き去りにするとか。

 下手すると「人間のクズ」というくらいヒドいんだけど、なんかわかる、とはいわないけど、自分だったらどうだろう。

 結構、似たようなことしちゃうんじゃないかなあ、少なくとも紳士的にふるまう自信はないよなあ……。

 なーんて苦笑してしまうというか。それは同じくカトリーヌやその娘の間違いも、それぞれの立場に共感できる人が見たら、

 

 「ヒドイ! でもなんか、わからんでもないわ……」

 

 そうなるんではあるまいか。その演出のさじ加減が絶妙なんスよ。

 この作品を見て思い出したのは、立川談志師匠のこんな言葉。

 

 「落語は人間の業を肯定する芸である」

 

 人間というのは完璧ではなく、間違いは犯すし、でもそれこそが人間であり、そこを笑って慈しむのが落語であると。
  
 もうひとつ、作家の池澤夏樹さんがギリシャ神話について語ったとき、こう言ってもいる。


 「神話というのは、人間の行動の基本パターンを物語化したものだと思う。

 人間は好色で、喧嘩好きで、すぐ裏切り、怒りに身を任せ、それでも崇高なものに憧れて、時には英雄的にふるまう」。

 

 ―――池澤夏樹『世界文学リミックス』 

 

 そう、この『しあわせの雨傘』はまさに「業の肯定」映画。

 「喧嘩好き」で、「すぐ裏切り」「怒りに身をまかせ」「時には英雄的にふるまう」。

 池澤先生の言うエッセンスが、すべて詰めこまれている。まさに「フランス落語」。

 それも日本の「人情喜劇」みたいに湿っぽくないのが良いというか、その理由に「間違い」に対する登場人物の反応もあるかもしれない。

 失敗失言に、もちろん怒ったりガッカリしたりはするし、それをゆるすというわけではないけど、そこでガッツリ傷ついたりしないというか。

 なんといっても、置き去りにされたカトリーヌは結局ヒッチハイクして帰るんだけど、そこで拾ってくれたたくましいトラック運転手とまんざらでもない雰囲気を出したりと(若き日のジェラール・ドパルデューもまた、かつてはしがないトラック運転手だった!)、メチャクチャこのあたりもカラッとしている。

 そこで泣きさけんだり、平手打ちしたりせず、このあっけらかんとしたところが、また良いのである。

 登場人物の愚かさに共感しつつも爆笑し、ついでに言ってしまえば、ラストでカトリーヌがとる行動が、またダイナミック

 アンタ、そこへ行きつきますか! パワフルやなあ。

 もうねえ、まいりましたよホント。なんて、かわいいおばちゃんなんや!

 フランス野郎がつくったから、しゃらくさいんだろとか思わず(のことです)、一度は見てください。

 ジェラール・ドパルデューとのダンスも最高。超オススメです。

 

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「光速の寄せ」と「鋼鉄の受け」 谷川浩司vs森内俊之 1998年 第57期A級順位戦プレーオフ

2020年10月27日 | 将棋・好手 妙手
 対局姿が絵になる棋士というのがいる。
 
 斎藤慎太郎八段のような風雅な空気感をかもし出す人もいれば、佐藤天彦九段のような、勝負の苦悩がそのまま動作に出る人もいる。
 
 中でも、もっとも様になる人といえば、やはり谷川浩司九段
 
 その美しい対局姿勢や、勝っても負けても綺麗な将棋を指すところなどは、まさに将棋界の貴族といえるだろう。
 
 実際、谷川将棋を見ていると、
 
 「ノブレス・オブリージュ」
 
 という単語が思い浮かぶ。
 
 ただ勝つ以上の、なにか大きな「義務感」のようなものを、常に背負って戦っているように見える。
 
 前回は本田小百合女流三段が、加藤桃子女流王座に放てなかった「幻の絶妙手」を紹介したが(→こちら)今回は、今でも多くの棋士があこがれてやまない、谷川浩司の将棋を見ていただこう。
 
 
 1998年度の第57期A級順位戦は、谷川浩司九段森内俊之八段がともに7勝1敗(村山聖九段の死去によりこの年は9人のリーグ戦)で並ぶハイレベルなレースとなり、佐藤康光名人への挑戦者決定はプレーオフまで持ち越されることとなった。
 
 後手番の谷川が四間飛車に振ると、森内が穴熊にもぐろうとする前に仕掛け、乱戦模様に持ちこむ。
 
 その動きは無理気味だったようで、自分だけを作った居飛車が必勝になったが、振り飛車もあれやこれやと手を作り、森内の乱れもあって、いつの間にか逆転模様。
 
 そこからも攻め切るか受け切るかギリギリの攻防で、プレーオフにふさわしい好勝負が展開され、むかえたのがこの場面。
 
 
 
 
 
 先手玉は身動きできず、上下からはさみ撃ちにあって陥落寸前だが、谷川も持駒を使い果たし、あと一矢がない。
 
 どうやって寄せるか、かたずを飲んで見守っていると、ここで「光速の寄せ」が炸裂することになる。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 △47飛成と、ここで飛車を捨てるのが「おおー!」と歓声のあがる一着。
 
 ▲同金は補充した一歩で、△95歩と打てば詰み。
 
 森内は秒読みの中、この瞬間に▲84角成とするアクロバティックなしのぎを披露する。△同銀に▲47金
 
 谷川はかまわず△95歩で、▲同銀、△98竜、▲97歩、△95銀▲85玉ときわどくかわす。
 
 まるで駒落ちの上手のような玉さばきだが、△84銀▲74玉と必死の逃亡劇。
 
 
 
 
 
 ここに逃げられるのが、△84を排除した効果だ。
 
 最大のライバルが待つ名人挑戦を目前に、森内の見せた執念
 
 山狩りにあう狼が、血を流しながら最後の望みをかけ、懸命に森を駆け抜ける姿だ。
 
 ここをなんとかすれば、右辺には大草原が広がって、▲11▲66の利きもあって、とてもつかまらない形だが、そのがんばりもここまでだった。
 
 谷川はすべてを読み切っていたのだから。
 
 先手玉はとっくに詰んでいる。
 
 腕自慢の人は、次の手を考えてみてください。
 
 
 
 
 
 
 
 
 △56角が、王様の逃げ道を捨駒で埋めつぶすという、詰将棋のようなカッコイイ手筋。
 
 ここで森内が投了。▲同金の一手に、△73銀上以下、簡単な詰みになる。
 
 それにしてもこの人の将棋は、なんでこんなカッコイイ手が、毎度のように飛び出す仕掛けになっているのだろう。
 
 この将棋は、その内容もさることながら、谷川の態度にも感銘を受けた。
 
 名人挑戦をかけた大一番。乱戦模様の難しい将棋に、通るか通らないかのギリギリの攻め、森内の頑強なねばりに、最後も一歩の差がモノをいう微差。
 
 そんな数々のプレッシャーにもかかわらず、まったく対局姿がブレないというか、まるで練習将棋でも指してるかのような落ち着いた雰囲気。
 
 なべても、最後の決め手である、△47飛成を指すときの華麗な手つきよ! 
 
 最終盤の、緊張感がピークに達する場面で、ようあんな舞うような手つきで駒を持てまんなあ。私やったら尿ちびってまっせ!
 
 それを、「なにかありましたか?」とでもいいたげな、涼しそうな顔でたたずむ谷川浩司。
 
 もちろん、心の中は興奮でシビれまくってたんでしょうが、それをまったく表に出さずクールな男を演じ切る。
 
 「王者の風格」というのは、ああいうのを言うんでしょうなあ。
 
 そら中村太地七段や、近藤誠也七段もリスペクトを表明するわけや。ホレてまいまっせ、ホンマに。
 
 
 
 (米長邦雄の「ゼット」をめぐる攻防編に続く→こちら
 
 
 
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エジプト ギザのピラミッドって登っていいの? カイロのサファリホテルで訊いてみた

2020年10月24日 | 海外旅行

 「ピラミッドが登れなくなって、残念っスよねえ」

 

 エジプトの首都カイロの安宿で、そんなことを言ったのは日本人旅行者センリ君であった。

 話の発端は、宿で仲良くなった日本人旅行者同士で話をしていたときのこと。その中のひとりが、こんな提案をしたのである。

 

 「みんなで、ピラミッド登頂にチャレンジしませんか」

 

 バカと煙は高いところが好きというが、高いところがあれば上りたくなるというのは人情というもの。

 ましてやそれが、世界一有名な観光地ともいえるギザピラミッドとなれば、特にうましか者でなくとも、やってみたくはなるではないか。

 ということで、

 

 「いいねえ」

 「山頂でピクニックでもしようか」

 

 大いに盛り上がったのだが、ひとつ気になるのは、それがゆるされているのかどうか。

 われわれのようなウカレポンチな旅行者が思い浮かぶくらいだから、世間では同じことを考える人が山ほどいるはず。

 中にはルールやマナーに無頓着な者もいるだろうし、なにかトラブルでも起こして、

 

 「阿呆の入場を禁ず」

 

 くらいの立て札があっても、おかしくはない。

 そこで少し調べてみると、やはりそうであった。

 ちょうどそこに帰ってきたセンリ君が、

 

 「あー、それダメっス。ピラミッドは登頂禁止なんスよねえ」

 

 やっぱりねえ。

 センリ君がピラミッド事情にくわしかったのは、彼が「サファリホテル」に滞在したことがあったから。

 今は閉鎖されてしまったが、一昔前のサファリは日本人旅行者のたまり場であり、それもそこを長年の住処にしているような「猛者」が多かった。

 そんなバックパッカーの本拠地のようなところからの情報となれば、これはもう間違いなかろうと、ここにピラミッド登頂計画は頓挫と思われたが、センリ君によると、

 

 「でもねえ、ダメと言われても、いや言われたからこそ、行きたいというヒマ人もいるんスよねえ」。

 

 彼によると、禁止ということになっているが、そんなことで世界のボンクラ旅行者を止めることなどできるはずもなく、主に夜中をねらって世界中から、せっせとあの石のカタマリに挑戦する者が後を絶たないらしい。

 もちろん、サファリの面々もそうであり、センリ君は昨年の年末年始に滞在したそうだが、

 

 「おおみそかから登り始めて、ピラミッドのてっぺんで初日の出を見る」

 

 というイベントが開催されており、そこに参加することに。

 ただ、もちろんそういう日は守備側もしっかりチェックしており、おまわりに追われながら、あの大ピラミッドを登ったそう。

 それはそれでルパンと銭形警部のようで楽しそうだが、これは一応犯罪行為ということで、捕まると割とシャレにならないそう。

 良い子はマネしてはいけません。

 まあ、私は冒険家ではないので、そこまでして登りたいとも思わないが、これが調べてみると昔は全然ふつうに登れたそうなのである。

 エジプト在住経験もある田中真知さんの『アフリカ旅物語』によると、ナポレオンのエジプト遠征についてまとめた本の影響で、ヨーロッパで「エジプトブーム」が起り、多くの旅行者がかの地をおとずれた。

 そこでは当然「登りてー」という人も出てくるわけで、エジプト人もそこはビジネスチャンスと、手を引いたり尻をついたりしてお手伝いをしていたそうな。

 いわばトレッキング感覚だが、これが20世紀に入ると、そういった案内人たちの間で

 

 「ピラミッド上り下り競争

 

 が開催され、しかも国王が観戦するほどのイベントだったというから、たいしたもの。

 優勝者は傾斜角52度、片道170メートル201段7分足らずで往復したというのだから、ちょっとしたアスリートではないか。

 ただ、やはり事故も多かったようで、山頂で下を見た瞬間めまいを起こして、あの高さから落下しミンチになったり、その他、登ってる途中で足をすべらせるなどしてバンバン死んでいたらしい。

 ということで1960年代には禁止令が出たのだが、それでもやはり、

 「やったるで!」

 という者は引きも切らず、なぜかそれには日本人が多かった。

 真知さんの本にも、やはりサファリホテルのことが書いてあって、「情報ノート」によると、なんと週一の割合でピラミッド・トレッキングが開催されていたとのこと。

 しかもそこには、風向きからルートの取り方、さらには官憲に捕まったときの対処法まで記されていていたとか。

 まあ、そこまで力を入れれば大したものという気もするが、やはり「捕まる」ことは事実であるようで、良い子はマネしない方が無難であろう。

 

 

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静岡と水戸の天才少女 加藤桃子vs本田小百合 2012年 第2期リコー杯女流王座戦

2020年10月21日 | 女流棋士

 「幻の妙手」について語りたい。

 将棋の世界には、盤上にあったのに対局者が発見できないか、もしくは発見しても指し切れず、幻に終わってしまった好手というのが存在する。

 前回は敗れたものの、王座戦で存在をアピールした久保利明九段に影響をあたえた「元祖さばきのアーティスト」こと大野源一九段の将棋を紹介したが(→こちら)、今回はある女流棋戦であらわれそうになった幻の妙手を。

 

 まず、現れなかった絶妙手として思い出すのが、この将棋。

 2006年、第64期A級順位戦

 名人挑戦レースは羽生善治三冠谷川浩司九段の一騎打ちとなり、双方ゆずらず8勝1敗でフィニッシュ。

 決着はプレーオフまでもつれこんだが、これがまたこの期一番ともいえる熱戦となった。

 最終盤で、むかえたのがこの局面。

 

 

 

 後手の谷川が△76金と打ったところ。

 ▲同竜でタダのようだが、それには△88飛と打って、王様が▲76に逃げられないから詰み。

 受けるべきか、それとも豊富な持ち駒を生かして、後手玉を詰ましに行くか。

 残り時間の少ない中、決断を迫られた羽生は、▲31角と打って詰ましに行くが、後手玉はギリギリで逃れており、谷川名人挑戦権を獲得。

 ここは▲58金と寄っておくのが冷静な手で、これが後手玉を上部に追ったとき、△47の地点に逃げこむ筋を消す

 

 「詰めろのがれの詰めろ」

 

 になって先手が勝ちだったが、秒に追われながら発見するには、あまりに難解な手ではある。

 

 

羽生の王手ラッシュで、超難解な「詰むや詰まざるや」。

△76金に▲58金と寄っていれば、ここで△47玉と逃げこめず、後手玉は詰みだった。

 

 

 ふだん、あまり感情を表に出さない羽生が、この将棋は敗れたあと、かなりハッキリと落胆する姿を見せていたのが印象的だった。

 やはり、2004年2005年と、2年連続で森内俊之に「十八世名人」獲得を阻止され、三度目の正直と意気ごんでいたところを足止めされたせいだろうか。

 ご存じの通り、羽生はその後「十八世名人」の座を、森内俊之に先んじられてしまう

 このとき▲58金と指していたら……。

 そんなことを想像してみるのも、またファン楽しみのひとつなのだ。

 

 もうひとつ思い出す幻の舞台は、2012年の第2期リコー杯女流王座戦

 加藤桃子女流王座本田小百合女流三段が挑戦したこのシリーズは、女流棋戦ではややめずらしい、相居飛車戦がメインの戦いとなった。

 第2局も角換わりの将棋となり、熱戦が展開されたが、最後は加藤が勝ちになったように見えた。

 

 

 

 

 後手玉は▲22飛成と、▲25桂打の詰めろが受けにくい一方で、先手玉には攻めのとっかかりがないため安泰に見える。

 加藤陣は絶対に詰まない、いわゆる「ゼ」とか「ゼット」と呼ばれる形に近く、典型的な一手勝ちのようだが、実はここで後手にすごい勝負手があったのだ。

 

 

 

 

 △97角と、こんなところから王手する筋があった。

 ▲同香△99飛と打って詰み。

 王手すらかからないように見えた王様が、いきなり詰まされるというのだから、おそろしい。

 突然天井から現れて、吹き矢で一撃。

 まさに忍者かアサシンのワザとでもいうべき一着だ。

 本田はこの手をかなり前からねらっていて、自玉が迫られる中、どのタイミングで放つのがいいのか、ずっとうかがっていたそう。

 その照準にとらえたのが、まさにこの局面なのだが、先手も▲88桂(!)と合駒して、その後のことが読み切れず断念してしまった。

 本譜は△21金と受けたが、▲25桂打から先手勝ち。

 代わって、ここではやはり本田の読み筋通り△97角最善で、桂馬を合駒で使わせてから△21金なら、▲25桂打の寄せが消えていて激戦だった。

 本田としては、結果はともかく、ずっと温めていた鬼手を指せないまま終わってしまったのは残念だったろう。

 それにしても、こんな角を「取らない」のがいいとは、将棋の手というのは色々な可能性があるものであるなあ。

 

 (谷川浩司の光速の寄せ編に続く→こちら

 

 

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河江肖剰『ピラミッド・タウンを発掘する』 考古学的ピラミッド解析はオカルトよりもおもしろい! その2

2020年10月18日 | 海外旅行
 前回(→こちら)に続いて、河江肖剰『ピラミッド・タウンを発掘する』の話。
 
 ピラミッド製作者が住んでいた「ピラミッド・タウン」を発見した河江さんをふくむ調査隊は、そこで「パンを焼くかまど」を手に入れることとなる。
 
 これさえわかれば、当時の労働者の「食事などの待遇」がある程度把握できて、
 
 
 「ピラミッドの労働者は《奴隷》なのか、それとも公共事業に従事する《肉体労働者》なのか」
 
 
 という大きなの解明につながるというのだ。
 
 ピラミッド建設における作業員といえば、私などは世界史の授業や、マンガ『北斗の拳』をはじめとした物語のイメージで、
 
 
 「ピラミッドは奴隷が作った」
 
 
 漠然と信じていたものだが、これには、
 
 
 「労働者は絶対的な権力を持つ支配者に搾取されていてほしい」
 
 
 という、戦後の左翼教育的な発想というか、「願望」の名残が強いせいだからとか。
 
 ついでにいえば、「ピラミッド=公共事業」説も、やはり戦後の高度経済成長における日本人から出た考え方らしい。
 
 どうも、人間の発想というのは時代流行思いこみに流されやすいようで、フラットな視点を保つのは大変なよう。
 
 今の視点から見れば、「なんやそれ」と、あきれる人もいるかもしれないが、なあに、今のわれわれだって未来には同じ程度のあつかいになるはずである。
 
 ともかくも、ピラミッド・メイカーは「奴隷」か「労働者」か。
 
 当時の「パン」を再現してみた結果、これが結構ボリュームがあった。
 
 他の文献壁画などに残った食料のデータなどを見ても、どうも石を切ったり運んだりしていた労働者は、仕事こそキツかったが、それに足るだけの満足いく食料はあたえられていたようなのだ。
 
 これにより、
 
 
 「ピラミッドを作った人」=「奴隷じゃなくて肉体労働者」
 
 
 という説がかなり有力になったわけだ。
 
 もちもん、これで決定ではないが、少なくともわれわれがイメージする「飲まず食わずで死ぬまで働く」的なものではなかった。
 
 なーるほどー、歴史ってこうやって解明していくんやー!
 
 この地道な論理の構築には、本当に感心してしまった。
 
 古代エジプト人が、あの重い石をひとつずつコツコツと積み上げたように、現代の発掘チームは地味なデータ実験から、仮説を積み上げる。
 
 なんてカッコイイ! これぞまさに、ロジックの勝利。まるで名探偵の仕事やないですか。
 
 私はミスヲタで、子供のころからホームズやポアロにあこがれていたけど、推理小説の登場人物になるには、現代なら考古学者を目指すべきだったか!
 
 逆にいえば、世間の人が「ピラミッドパワー」とかに走りがちなのも、ちょっと理解できるような気もする話だ。
 
 だって、あの巨大遺跡の神秘に迫ろうと思ったら、手間をかけて、気の遠くなるような地味作業にキュウキュウとして、それを集めた資料をもとに論理を駆使してを組み立てていかなければならない。
 
 しかもそれが、ときにはすべて無駄になる、あるいは
 
 
 「わかったけど、地味で退屈で、テンションだだ下がり
 
 
 という可能性も恐れなければならない。
 
 なんといっても本書のオープニングが、まさに河江さんの『仮説』が見事にご破算になって、
 
 
 「ああー! マジかああああああ!」
 
 
 頭をかきむしるところから始まるのだ。そりゃ大変ですわ。
 
 これが疑似科学なら、
 
 
 「宇宙人のしわざです」
 
 
 の一言ですむし、理解も早いし、たぶん本ももっと売れる(笑)。
 
 人は、地味な調査と論理よりも、わかりやすいおもしろさを求めるものなのですね。
 
 だが、そんな外野の心配もなんのその。河江さんのチームは今日もコツコツ発掘調査を進める。
 
 その安易に流れない姿勢が、ホントにシブい! ピラミッドのことが学べるだけでなく、発掘チームのメンバーたちの誠実なスタンスにも好感が持てる、とってもオススメな一冊です。
 
 
 
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河江肖剰『ピラミッド・タウンを発掘する』 考古学的ピラミッド解析はオカルトよりもおもしろい!

2020年10月17日 | 海外旅行
 河江肖剰『ピラミッド・タウンを発掘する』を読む。
 
 ピラミッド・タウン
 
 といわれても、われわれエジプト素人に、にわかにはピンとこないが、なんでもかつてピラミッドのすぐ近くには、建設を担った労働者スタッフが暮らすがあったのだという。
 
 著者である河江さんのチームは、その街の遺跡を主に調査し、実際にピラミッドとかかわった現地の人々の生活にふれることで、あの巨大建造物のを解明していこうというのだ。
 
 この調査報告が、すこぶる興味深い。
 
 ピラミッドといえば、ピラミッドパワー宇宙人が作っただ、アトランティスの遺物だ、などなど、まあオカルト疑似科学の世界でネタにされることが多い物件だった。
 
 これには「いいかげんなこと言うよなー」などとあきれる方もおられるかもしれないが、これはピラミッド側(?)にも責任があるらしい。
 
 この本によると、そもそもピラミッドはごく最近まで、測量したり、中の構造材質などを科学的な視点で分析するという当たり前のことが、ほとんど行われていなかったというのだ。
 
 理由はピラミッドといやあ、どうしても財宝ミイラに目が行きがちだから。
 
 それはまあ、しょうがないなという気もするし、きっと地味な調査には予算なんかもおりにくいんだろうけど、それにしたってずさんだと、あきれるようなところでもある。
 
 本書ではそういった基本的なデータから始まって、有名な学者の紹介や、
 
 
 「どうやって、あの重い石を運び上げたのか」
 
 「スフィンクスって、結局なんなの?」
 
 
 といった、我々のような素人も気になる論争までがコンパクトにまとまっていて、知的好奇心をかきたてられる。
 
 
 「オカルトじゃない、ちゃんとしたピラミッドの話が聞きたい!」
 
 
 という人に、すすめたい一冊だ。
 
 中でも「おお!」となったのが、古代エジプトの労働者が、どれだけのカロリーを摂取していたかという調査。
 
 河江さんたちにとって、長く「なんやこれ?」とだった古代のアイテムが、ひょんなことから「パンを焼くかまど」だということがわかる。
 
 ということは、ここはピラミッドを建てていた労働者たちの腹を満たす「キッチン」だったことになる。
 
 となれば、そこで見つけた「食器」を科学的に分析すれば、付着した調味料から、主食の「パン」が、どのようなレシピで作られていたかがわかる。
 
 この「パン」がどれほど重要かというと、これの内容がわかれば、当時の労働者たちの「食事の充実度」がはかれることとなるからだ。
 
 つまり、ここをうまくたぐっていけば、当時の現場の「待遇」や「労働条件」が見えてくることとなり、ピラミッド制作における地味ながらも大きな謎であった、
 
 
 「ピラミッドの労働者は《奴隷》なのか、それとも公共事業に従事する《肉体労働者》なのか」
 
 
 を解明する、大きな手掛かりとなるからだ。
 
 
 (続く→こちら
 
 
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久保利明と元祖「さばきのアーティスト」 大野源一vs升田幸三 1962年 十段戦

2020年10月14日 | 将棋・名局

 『大野源一名局集』をぜひ出版してほしい。

 平成の将棋界で振り飛車の達人といえば、藤井猛九段、鈴木大介九段らとともに「さばきのアーティスト」こと、久保利明九段の名前があがるだろう。

 そんな久保の将棋に、決定的な影響をあたえた棋士に大野源一九段がいて、それはまさに「元祖さばきのアーティスト」と言うべき、あざやかな振り飛車なのだった。

 そこで前回は、「20歳で名人挑戦」という大記録を成し遂げた加藤一二三を「さばき倒した」将棋を紹介したが(→こちら)、今回もまた大野の華麗な振り飛車を。

 

 1962年十段戦(今の竜王戦)。

 大野源一八段と、升田幸三九段との一戦。

 大野の三間飛車に、升田は5筋の位を取ると、居玉のまま▲66角▲77桂と、早めに跳ねだす趣向を見せる。

 

 

 図は升田が、▲34歩と突き出したところ。

 角取りだから、とりあえず△51角と逃げておいて……。

 ……と普通はなりそうなところだが「元祖アーティスト」は、この瞬間をチャンスと見るのだ。

 

 

 

 △65銀と出るのが、強気の一手。

 角取りを放置する怖い手で、『将棋世界』で久保と対談していた中田功八段

 

 「これは大野先生、怒ってるね」

 

 ▲同桂なら、△同歩、▲55角△同飛と切りとばして、▲同銀にそこで△51角と引くのが呼吸。

 

 

 これで次に△73角と、飛び出す味が絶品で、居飛車は押さえこめない。

 なので本譜は升田も、強く▲33歩成を取り、△66銀▲34角と反撃。

 

 

 ▲56の銀にヒモをつけながら、飛車取りという攻防手だが、大野は△77銀不成

 ▲同金にかまわず△56飛と切って、▲同角に△55角が天王山の角打ち。

 

 
 それこそ久保と並ぶマイスター中田功八段の将棋といえば、この中央で幅を利かす角打ちがトレードマークではないか。

コーヤン流三間飛車」で、イビアナ相手に何度、▲55角という手を見たことか。

 久保だけでなく、有形無形に「大野の振り飛車」を受け継ぐものは多いのだ。

 ▲66歩と金取りを受けたところで、△46角と出て、▲37歩の受けに△33桂と、ここでと金を払う。

 

 

 この△55角△33桂のコンビネーションは、先日の対加藤一二三戦でも出てきたが、八方にらみの角と左桂がさばければ、振り飛車大成功の図。

 すべての駒が働いて、手つかずの高美濃の美しさも神々しく、先手の居玉もたたって、飛車桂交換(!)の駒損などモノの数ではない。

 先手は▲32飛と打ちこむが、△45銀とかぶせて、▲47銀と、かわしたところに△57角成

 ▲67金△56銀、▲同銀、△45桂と跳ねる手の気持ちよさよ!

 

 

 まさに全軍躍動という図で、鈴木大介九段あたりなら、

 

 「振り飛車必勝でしょう。《投了してください》という手つきで△45桂と跳ねます」

 

 くらいのことは、言いそうな局面なのだ。源一先生、カッコよすぎや。

 以下、升田も必死のねばりを見せるが、大野は△62金打と、さらに玉を鉄壁にするという、盤石の勝ち方で圧倒。

 

 

 

 これこそまさに

 

 「固い、攻めてる、切れない」
 
 
 の見本のような流れ。強すぎますわ!

 いかがであろう、この大野の将棋。

 さばきのあざやかさも、さることながら、△65銀△45銀のような武骨で力強い手なども、われわれアマチュアの参考になりそうなところがある。

 やはり出版社は今すぐ『大野源一名局集』を出すべきである。

 絶対、売れると思うんだけどなあ。

 

 

 (本田小百合が加藤桃子に放てなかった鬼手については→こちら

 

 (大野源一の他の名局は→こちら

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コーエン兄弟の『ノーカントリー』は「萌え」にあふれた怪獣映画でしかない

2020年10月11日 | 映画

 コーエン兄弟の『ノーカントリー』は「萌え」映画ではないか。

 私は「萌え」というのにうといタイプで、もともとアニメ美少女ゲームなどに縁があまりなかったせいか、そういった文化にピンとこないところがある。

 いや、もちろんキャラクターがかわいいというのは理解できるし、『ゆるキャン△』とかも好きだけど、それこそ『月刊熱量と文字数』のサンキュータツオさんや松崎君のような熱さでは語れないし、『艦これ』みたいな「擬人化」とかなってくると、もう置いてけぼりである。

 そんな「萌え」に関してはド素人の私が、「これがそうかも!」と感じるところがあったのが、映画『ノーカントリー』。

 傑作『ファーゴ』でヒットを飛ばしたコーエン兄弟によるバイオレンス映画で、専門家筋の評価も高いが、これが確かにおもしろかった。

 あらすじとしては、テキサスに住むベトナム帰還兵ジョシュ・ブローリンが狩りの最中に、死体が散乱しているのを発見する。

 どうも麻薬取引の際にトラブったギャングたちが、壮絶に撃ち合った後のようなのだが、相撃ちで全滅した後に、大金だけが残されてた。

 危険極まりない状況だが、ジョシュはその金を拝借することにする。

 だが唯一、瀕死ながらも生き残っていたギャングのことが気にかかり、「をくれ」と訴えていた彼のため現場に戻ったのが運の尽き。

 そこでギャングと鉢合わせしてしまい、命をねらわれるハメにおちいる。

 そこからジョシュはメキシコ系のギャングと謎の殺し屋、また彼を追う保安官賞金稼ぎなどもまじっての追跡劇に巻きこまれるのだが、ここでやはり、キモとなるのがハビエル・バルデム演ずるところの殺し屋シガーであろう。

 この人がですねえ、とにかく存在感が抜群。

 出てきた当初というか、オープニングはこの人からはじまるんだけど、とにかく何を考えているのかわからず、メチャクチャにアヤシイ雰囲気が芬々。

 自分を逮捕した保安官を殺すシーンとかは、まあ必然性があってわかるとして、その後も彼はとにかくバンバン人を殺しまくるんだけど、そのほとんどに大した理由がない

 いや、一応はウディ・ハレルソン演ずる賞金稼ぎが

 

 「ヤツなりの論理とルールで動いている」

 

 みたいなことを教えてはくれるんだけど、その内容の詳細はないし、そもそも気ちがいだろうから説明されても理解不能だろうしで、あたかもターミネーターのような、ただの殺人マシーンにしか見えないのだ。

 ハビエルのコワいのは、まず見た目

 これは演じた本人も

 

 「オレは見た目が変だから、こんな変な役がお似合いなんだよお」

 

 とボヤくように、たしかにそれだけでインパクト充分。

 

 

 

 

 

 

 一目、「オフってる状態の竹内義和アニキ」であろう。

 目や鼻など各種パーツが大きいため、そこが目を引くのに、それが劇中まったく動くことがないんだから、その能面のごとき冷たさが気になってしょうがない。

 とにかく、人を殺そうが、自分が撃たれようが、後ろでなにかが爆発しようが、ずーっと無表情

 思わずFUJWARAのフジモンのごとく、

 

 「顔デカいからや!」

 

 なんて、つっこみたくなる迫力なんである。

 さらにハビエルのコワいのは、その武器

 この手のバイオレンスといえば、やはり描写がおなじみだが、ハビエルの使っているのは、われわれの連想するバンバンというアレではない。
 
 ボンベを使った空気圧で弾を打ち出すという、なんでも家畜専門の安楽死アイテムらしく、その「プシュ」という乾いた音とともに、

 

 「人間を、家畜程度にしか呵責を感じず殺す」

 

 という空虚感も表現されていて、これまたすこぶるオソロシイ。

 なにかこう、「処理してます」感が満々なのだ。

 とどめは妙な粘着性。

 物語前半の、ガソリンスタンドにおけるおじさんとのやりとりなど、観ていてストレスがすごい。

 善良そうなおじさん相手のなにげない無駄話に「なにがおかしい?」「どう関係あるんだ?」とネチネチからみまくり、

 

 「ちょっと、ヤバイ客やん……」

 

 テンション下がりまくりのおじさんに、

 

 「いつ寝るんだ?」

 「おまえの家は裏にあるあれか?」

 「その時刻に会いに行く」

 

 とか、あまつさえ突然コインを取り出して、

 

 「表か裏か賭けろ」

 

 なんて言い出して、「何を賭けるんだ?」と訊いてもまったく応えてくれなくて、たぶん外すと殺されちゃうんだけど、その殺人に動機とかもなくて……。

 いやわかるよ。ここでなんの理由もなく殺されても、
 
 
 「この世界は生も死も、不条理に与えられたり奪われたりする」
 
 「運命などといったところで、それがどうなるかに必然性などない」
 
 
 みたいな、虚無を表現してるとか、そういうのんなんだろうけど、それよりなにより、理屈抜きでこんなヤツに生殺与奪の権を握られたくないよ! 

 観ているだけで心がザワザワして、耐えられません。もう、東京03の飯塚さんのごとく、

 

 「こえーよー!」

 

 絶叫したくなるようなシーンが延々と続くのだ。

 そう、この『ノーカントリー』はラストの終わり方とか(コーエン兄弟によると「だって、原作がそうだからしゃーないやん」とのことらしいけど)、おびただしい数の殺人とか、イェーツの詩とかトミー・リー・ジョーンズのの話とか、それこそコインに象徴されるハビエルの思わせぶりな「悪魔的」行動とかで、

 

 「形而上学的で難解」

 

 と解釈する人もいるみたいだけど、私からすればこれはもう、

 

 「ハビエル・バルデム大暴れ映画」

 

 ということで、いいんでないかと思うわけだ。「怪獣映画」ですよ。

 いやーなんか、ストーリーとかどうでもよくて、

 

 「《無垢なる暴力》としての象徴」

 「人の運命は不条理で残酷なもの」

 「欲と悪にまみれた人間の悲劇」

 

 とかなんとか、そういうのはとりあえずに置いておいて、それ以上にやはりキャラクターとしての勝利ではないかと。

 なんかねえ、月影先生とか、黒い天使の松田さんとか、男岩鬼みたいに、

 

 「出ているだけでオモロイ」

 

 そういうことなんじゃないだろうか。

 で、そこでポンと手を叩いたわけだ。

 「これって、【萌え】っていうんじゃね?」

 つまりだ、「萌え」の定義は数あれど、そのなかのいくつに、

 

 「なにも事件など起こらなくても成立してしまう」

 「存在することが、もうかわいい」

 「見ているだけで癒される」

 

 こういうものがあるとすれば、まさにこの映画のハビエル・バルデムが当てはまる。

 以前、『けいおん!』を観たとき、なんとなく退屈で1話でやめてしまい、アニメファンの友人に、

 

 「その、なにも起らん感じがええのになあ」

 

 と諭されたことがあったが、たしかにあの作品の唯ちゃん律ちゃんをハビエルに変換すれば、今なら言いたいことはわかる。

 それなら絶対におもしろいし、観る。それこそ、まさにキャラクターの魅力であり、「萌え」ではないのか。

 ということで、早速『けいおん!』をすすめてくれた本人である友人イズミ君に問うてみたところ、

 

 「いや、違うと思うけど……」

 

 私の萌えへの道は2020年も遠そうである。

 

 

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久保利明と元祖「さばきのアーティスト」 大野源一vs加藤一二三 1961年 九段戦

2020年10月08日 | 将棋・名局

 『大野源一名局集』をぜひ出版してほしい。

 振り飛車というのは、いつの世もアマチュアに人気の高い戦法。

 中でも、先日の王座戦第4局で、驚異的な逆転劇を見せた「さばきのアーティスト」こと、久保利明九段にあこがれている人は多いと思われる。

 では、そんな久保があこがれた棋士には、どんな人がいるのかと問うならば、これはもう大野源一九段にとどめを刺す。

 なんといっても久保が5歳(!)の、まだまともに文章も読めないころながら、棋譜だけ追って「これや!」と目をつけたのだから、その影響ははかり知れないのだった(大野のさばきの傑作は→こちらから)。

 そこで前回は羽生善治九段の「七冠王フィーバー」について語ったが(→こちら)、今回は久保の根性リスペクトとということで、「元祖」さばきのアーティスト大野源一の将棋を観ていただきたい。

 

 まずは1961年の九段戦(今の竜王戦)。

 大野源一八段と、加藤一二三八段の一戦。

 大野の角道を止めるノーマルな中飛車に、加藤は▲46金型急戦で対抗。

 むかえた中盤の局面。

 

 

 

 3筋と4筋でゴチャゴチャ競り合った末に、加藤が▲11角成と馬を作ることに成功。

 駒得も作った先手がまずまずの戦果にも見えるが、ここから升田幸三が「日本一」と絶賛し、5歳の久保少年を開眼させた「大野のさばき」がきらめくのである。

 ポイントは「あの筋の」が、突いてないことで……。

 

 

 

 

 

 △64角と出るのが、ねらいすましたカウンターショット。

 美濃囲いの堅陣に飛車角が軽い形で、実際の形勢はわからないが、一目「振りペー」(振り飛車ペース)である。

 以下、▲37歩△36歩と合わせ、▲55歩の受けに△33桂と跳ねるのが、

 

 「振り飛車は左桂が命」

 

 という筋中の筋。

 

 

 この桂跳ねは振り飛車党が100人いれば1億人が指すというくらいの絶対手

 次に△37歩成から、△45桂の「天使の跳躍」を喰らってはいけないので、▲36歩と取るも、そこで△55角天王山に出て後手優勢。

 

 

 

 を取られているが、そこで作った馬を△33桂跳ねで封じこめて、その裏をついて△55角と中央を制圧するなど、これ以上ない振り飛車さばけ形。

 こういう形を見ると、菅井竜也八段をはじめとする振り飛車党の棋士が、

 


 「奨励会時代、香落ちの上手が得意で、多くの白星を稼げた」


 

 そう語る理由もわかる。

 上の図はを取らせても、飛車角桂が目一杯さばけて気持ちいいのに、「香落ち」だと、さらに先手はをもらうこともできないのだから!

 これは『将棋世界』2015年10月号に掲載された、「さばきの極意」という久保と中田功八段の対談で紹介されていたものだが、もう並べながらカッコよさにシビれまくり。

 久保によると大野振り飛車の特徴は、

 


1.金銀3枚の美濃囲いがしっかりしている

2.△33の角を△64に転回して居飛車の飛車を狙う作戦が多い

3.大駒のさばきがうまい


 


 まんま久保の振り飛車にもあてはまるというか、そもそもこの3項目自体が「さばきのエッセンスなのだけど、わかってても、なかなかできるものではないのだろう。

 前年度「20歳名人挑戦」という大記録を作った、若手バリバリのころの加藤一二三を、ここまで翻弄できるのだからすごいもの。

 これだけの振り飛車を、埋もれさせるのは惜しすぎる。

 ぜひ、どこかで「大野源一名局集」を編んでほしいもの。発売日に買います。

 

 (大野のさばき編はまだまだ続く→こちら

 

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カンボジアの観光名所アンコールワットは、とっても笑える遺跡です その3

2020年10月05日 | 海外旅行
 前回(→こちら)に続いて、楽しいアンコールワットのお話。
 
 私は常々
 
 
 「アンコール遺跡群は大爆笑のステキなところ」
 
 
 という説を唱えているが、前回はまずバイヨンの遺跡における「カメにかまれる男」などを題材に、それを語ってみた。
 
 こうなるとやはり、ご本尊ともいえるアンコールワット自体のゆかいなところも紹介せねばなるまい。
 
 こちらもバイヨンに負けない、極上の爆笑ポイントがあるのだ。
 
 ここに発動された「雷号作戦」により、アンコール遺跡を3日かけてじっくり見たが(ワットとトムは2回も見た)、やはりハイライトともいえるのは、アンコール・ワットの第一回廊に描かれた「乳海撹拌」のレリーフであろう。
 
 「乳海撹拌」とは古代インドの大叙事詩『マハーバーラタ』や『ラーマーヤナ』に出てくる、ヒンドゥー天地創世神話
 
 ざっくりいうと、神話時代には「アムリタ」という不老不死の薬があった。
 
 これをめぐって神様たちとアスラ(悪鬼)がチャカポコ戦っていたわけだが、いつまでたっても決着がつかないので、双方ともにヴィシュヌ神仲介を依頼。
 
 そこでヴィシュヌ神のいうことには、
 
 
 「どっちも、まあ一回落ち着いて。そこは協力して、海をかきまぜてみなさい。さすればアムリタは手に入るやもしれんね」
 
 
 町内のもめごとを、丸くおさめてもらおうと相談したら、ケンカはやめて、餅つき大会でもやって親睦を深めたらどないですやろ、と言われたみたいなものか。
 
 そうと決まってはりきったアスラは、大亀怪獣クールマを立て、大蛇ヴァースキを巻きつけてかきまぜ棒とした。
 
 日本の怪獣でいえば、惑星アップルから来た怪獣オニオンキングトータスカメーバでも可)に乗って、宇宙竜ナースを使って海をかきまぜるわけだ。
 
 で、アスラが大蛇の神々尻尾をつかんで、「いっせーのーせ!」でグリグリやると、大雨が降りだして、やがて海はミルクで一色に染まる。
 
 このあたりはいかにも「母なる海」のイメージだが、さらにかきまぜるとバターになって、中から太陽とかとか動物とか、要するに「今の地球」がそこから飛び出して、最後にとうとうアムリタがポンと出現。
 
 「それや!」の合図とともに、神々とアスラは第2ラウンドの戦いに。
 
 そこからは双方戦ったり、だましたり、かけひきがあったりして、最後は神々が勝つらしいんだけど、説明がめんどくさいので省略
 
 むちゃくちゃザックリまとめたけど、まあだいたいこんな感じなんですね。
 
 不老不死めぐって展開でバトルがあって、そのどさくさで地球が生まれた。
 
 で、「乳海撹拌」のシーンがアンコールワットの回廊に彫られているんだけど、これがどう見ても綱引きなんです。
 
 単に写真だけ見てもゴチャゴチャしてわかりにくいんで、明快にまとめたPEACE IN TOURさんの図を借りますが、
 
 
 
 
 
 
 
 
 右側神々左側アスラたちがバルタン分身みたいにズララララララっと50人くらい並んで(これだけでもスケールがでかい)、でかい大蛇代わりに引き合ってる。
 
 いや、写真を見ていただければわかるんですが、これがもう例えでもなんでもなく、ひたすらに「綱引き」。
 
 運動会とかで、先生とPTAの人たちが「オーエス!」いいながらヒーヒー引っぱってたのと、寸分変わらない光景なんですよ、コレが。
 
 まず、ここで大爆笑
 
 真ん中には仕切りヴィシュヌ神がいるんだけど、また、これがどこからどう判断しても「審判」なんですわ。
 
 双方の綱にそっと手をそえて、「ズルすなよ」みたいな顔でバトルを見下ろしている。間違いなくアンパイアです。
 
 上に「小ヴィシュヌ」みたいな神様が飛んでるんだけど、たぶんビデオ判定用の撮影をしてるね、アレは。テニスで言うラインズマン
 
 これを見たときの、私の感動はいかばかりか。
 
 世界の創世神話
 
 我々がこの大地に誕生したきっかけというのが、処女受胎でも神の声を聴いたのでもなく、「綱引き」というのがすばらしすぎるではないか。
 
 なんたるビジュアルイメージ。そういえば、日本もイザナギイザナミがなにかをぐるぐるかき混ぜてできた島らしいけど、元ネタはここか。
 
 すごい。壮大で、そして、どんなにかマヌケで笑えるんだ!
 
 みなが壁画と首っ引きで、
 
 
 「オー、グレイト……」
 
 「ワンダフル……」
 
 
 言葉を失う横で、ボンクラ日本人がひとり、腹をかかえて大爆笑。
 
 思わず、「ランランあかかて、しろもかてー」と歌いたくなる。なんてステキなんだ、アンコールの大遺跡よ。
 
 この光景を見て、カンボジアに来てよかったと、つくづく思った。
 
 不老不死をめぐり、ヴィシュヌ神の鶴の一声で大綱引き大会となり、そのどさくさに生まれた地球と生命。
 
 運動会の騎馬戦で、子供たちがあちこちでつかみ合って戦っているところ、ポケットからコロッと落ちたビー玉が、地球みたいなもの。
 
 ほのぼのと美しく、そして笑える
 
 アンコールワットといえば、
 
 
 「悠久の歴史」
 
 「悲惨な内戦を耐え抜いたシンボル」
 
 「おとずれたとき、感動で涙が止まらなかった」
 
 
 などといった感想で語られがちだが、やはり私としてはそういった重量感よりも、古代クメールの人からの1000年の時を超えた、
 
 
 「宇宙ができたのは、神と悪魔の運動会のおかげですねん」
 
 
 というキュートなメッセージにこそ、賞賛の念を送りたい。
 
 
 
 
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カンボジアの観光名所アンコールワットは、とっても笑える遺跡です その2

2020年10月03日 | 海外旅行
 前回(→こちら)の続き。
 
 カンボジア観光の目玉である、アンコールワットに出向いた私。
 
 ここに発動されたオペレーション「インドラの雷」だが、出動前から、ひとつ危惧があった。
 
 それはズバリ、
 
 
 「アンコールワットのこと、よく知らん」
 
 
 私はこう見えて、アジアの歴史にくわしくない。
 
 大学受験は世界史で受けたが、日本の偏った歴史教育のせいで、欧米列強中国のそれはそこそこ知っているものの、アジアやアフリカといった地域や国については空白である。
 
 カンボジアとか、ぶっちゃけ一ノ瀬泰造カメラマンの『地雷を踏んだらサヨウナラ』や映画『キリング・フィールド』など、戦争虐殺のネガティブなイメージしか持たないのだ。
 
 そこで、ガイドブックと首っ引きになって回ることになる。
 
 最初は、そんな本の通りに歩くなんて楽しくないのではと思っていたが、あにはからんや。
 
 他の街や遺跡はいざ知らず、ことこのアンコール遺跡群にかぎっては、絶対にガイドブックを読みこんで回った方がおもしろいはずだ。
 
 いや、もちろんアンコール遺跡の壁画なんかは非常に精密な技術により彫られているため、単に見ているだけでも面白いが、その内容というか、物語がわかると、格段に興味がわいてくる。
 
 さらにいえば、壁画の中にちょこちょこ入れこまれた「小ネタ集」みたいなのも理解できるようになる。
 
 で、このゲームにおける「隠しアイテム」みたいな小ネタが、私的には超おもしろかったのだ。
 
 たとえばバイヨン寺院には、昔のクメール人の軍隊日常生活などが表現された、歴史的意味の深いレリーフが存在する。
 
 
 「魚を焼く人」
 
 「海戦を戦う兵士」
 
 
 といった、当時の世相を表現していて歴史学的に意義のある情報がつまっているのだが、その中で整列している兵士たちにまぎれて、ひとりいぶかしげな表情で後ろを振り返っている人がいる。
 
 表情も、あきらかに「なんやねん!」といったツッコミが入っているのだが、これがガイドブックによると、
 
 
 「カメにかまれて痛がっている人」
 
 
 バイヨンといえば巨大な人面像とか、ヒンドゥーの神話、上座部仏教の仏像など、それはそれは貴重なアイテムが目白押し。
 
 まさに歴史ロマンの塊なのだが、そこにカメにかまれて痛がっている人。
 
 どんなセンスなのか。
 
 しかも振り返って、「カメかい!」とツッコミを入れている。
 
 これから戦争に行く大行進なのに、緊張感のないことおびただしい。
 
 他にも、
 
 
 「戦争に負けて泣いてるシャム兵」
 
 
 とか、もうめちゃくちゃガッカリしていて、すごい笑える。
 
 もう見ていて、「そない落ちこまんでも」と肩でもたたいてあげたくなるくらい。
 
 それはルーブルモナリザでも、ミケランジェロの「ピエタ」でも感じたことのない、圧倒的な親近感
 
 いやホント、思わず「元気出せよ、メシおごるぜ」って声かけたくなる。
 
 クメールの兵隊を見ても、整然と行進しているように見えて、ところどころ「おい、押すなよ」みたいに後ろに文句言ってる人とか。
 
 あとに乗ってたけど、振り落とされて「あーれー」みたいになってるエレファント・ライダーとか。
 
 よく見るとところどころ、ギャグというか、そういう「遊び心」みたいなものがあふれているのだ。
 
 これが実に楽しい。ただでさえ、ふつうに興味深いバイヨンの遺跡なのに、そこに
 
 
 「みんなで探してね!」
 
 
 といわんばかりの、お笑いポイントがあるのだ。これを見つけるのが、えらいことハマる。
 
 私は人間は文化言語などで様々に隔てられていても、その内実は日本でもアフリカでも南米でもあんまり変わらないと考えていて、「人類みな兄弟」ならぬ、
 
 
 「人類みなほどほどにマヌケ説」
 
 
 を唱えているが、このバイヨンの壁画はまさに、その哲学を補完してくれるものであった。
 
 今も昔も、人は勇敢に戦ったり負けて泣いたりする反面、カメにかまれたり象から落ちたりするし、それをイジって楽しむイチビリもいる。
 
 1000年前がそうだった、も大して変わらない、そしておそらく、1000年後も似たようなものだろう。
 
 この「歴史的遺産」「人類の宝」と位置づけられる場所も、かつてはクメールのスットコ職人たちが、
 
 
 職人A「今日も暑いなー、こんな日は仕事なんか、やってられへんで」
 
 職人B「せやなー、そこでこんなん彫ってみました」
 
 職人A「なんやこれ?」
 
 職人B「これはな、カメにかまれて痛がってる人や」
 
 職人A「アッハッハ、なんでそんなもん作った(笑)」
 
 職人C「こっちも見てくれ。これは象に乗ろうとして、ウッカリ落ちてるねん」
 
 職人A「マヌケなレリーフ作るなよ! きっと、この象使いは彼女かなんかが見学に来てて、イキってたんやろな」
 
 職人D「負けてられへんな。じゃあワシは悲しむシャム兵やな」
 
 職人A「いやいや、どんだけ泣いてるねん! 今にも甲子園の土を集めそうやな!」
 
 職人E「じゃあオレも、なんかおもろいもん彫ろうっと」
 
 職人D「やろう、やろう。で、みんなで写真撮って、boketeに投稿しようぜ!」
 
 
 なんて、やりとりをしていたのだろう。なんてステキな世界遺産。
 
 こうして私が、この偉大なアンコール遺跡群から受け取ったものは、
 
 
 「悠久の歴史」
 
 「悲惨な内戦を耐え抜いたシンボル」
 
 「過去と未来の架け橋になる想い」
 
 
 などと同時に、クメールのボンクラ職人たちによる、
 
 「見てくれオレのギャグセンス
  
 という古代からの中2病的メッセージなのであった。
 
 
 
 
 (続く→こちら
 
 
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カンボジアの観光名所アンコールワットは、とっても笑える遺跡です

2020年10月01日 | 海外旅行
 アンコールワットには、心の底から笑わされた。
 
 2015年の冬、私はカンボジアを旅行し、有名観光地であるアンコールの遺跡群をおとずれた。
 
 期待はしていたが、聞いていた通り、いやそれ以上にすばらしかった。
 
 感動した。そして大爆笑であった。
 
 というと、おいおいすばらしくて感動したはわかるけど、「笑わされた」とはどういうことか。
 
 爆笑とか、マジ、クメールdisってんスか? そう思う方もおられるかもしれないが、こればっかりは事実だから仕方がないし、声を大にして言いたいが、決して悪口でもない
 
 もう一度確認しておこう。アンコールワットはすばらしくて、偉大で感動的で、そしてなにより腹の底から笑えるナイスな遺跡だ。
 
 順を追って説明しよう。私はタイから入ったのだが、首都バンコクから遺跡のあるシェムリアップに行くには幾通りかの方法がある。
 
 飛行機で行くのがもっともだが、それになりに値が張るし、また日程的に余裕があったのでバスを利用することにした。
 
 以前は国境の街アランヤプラテートまで鉄道で行って、そこかトゥクトゥクに乗って行くらしかったのだが、これがアクセスは悪いし悪路だし、トゥクトゥクとの料金交渉はめんどうだしと、非常に評判が悪かった。
 
 それが今では直通バスでビュン。進化である。
 
 朝9時から7時間の旅は少々キツいが、それもこれも片道2500円程度なら文句もありません(飛行機だと8000円くらい)。
 
 人気観光地なので、国境では入国審査長蛇の列ができ、1~2時間は待たされるが、事前にビザもとっておいたので、特に問題なくカンボジア入国。
 
 初日は疲れもあって、タクシーのあんちゃんに割高感のあるホテルというかゲストハウスに連れていかれたが(まあそれでも、ツインで5000円程度。場所も中心街のど真ん中だったけど)、次の日はしっかり探して、こぎれいなホテルにチェックイン。
 
 小さなプールがついて、ツインで4000円くらい。シェムリアップはホテルが安いといわれているので、遺跡めぐり抜きでも、ホテルライフを楽しめそうだ。
 
 もっとも、夜中に屋根から豪快に水漏れしてきたのには、おどろきましたが。しかも、ベッドの上に。
 
 快適な宿で休息もとれ、プールで日光浴も楽しんでから、いよいよアンコール遺跡へ。
 
 チケットは1日券3日7日とあり値段はそれぞれ204060USドル
 
 時間がない人は仕方がないけど、ここは3日券を買うのがよかろう。
 
 ホントは2日分充分だけど、1日スキップしても、1日券2枚買うのと値段が一緒なんだから、ここは3日券がオトク。
 
 実際、ほとんどの人がこれを購入する。初日アンコールワット2日目アンコールトムなど、残りの有名遺跡を鑑賞するのが王道のコース。
 
 私の場合ヒマだったので(プノンペンなど他の場所には行かなかったから)、3日目も行ったが、内容的には1、2日目の「おさらい」だったので、2日でも充分満足できます。
 
 でも、何度も観る価値はあるから、時間があるなら3日目コースもおススメですよ。
 
 ではいよいよ、ホテルトゥクトゥクを出してもらって(半日1500円くらいだった)、アンコールワットへ向かう。
 
 近づくにつれ、お堀が見えてきて、その先にどーんとトウモロコシ型の3つの塔が見えてくる。
 
 西原理恵子さんが、マンガの中で少々下品な呼び方をしていたあれである。
 
 要するに、男子の股間にある「ゴールデンボーイ」みたいなわけだが、一回そういわれると、もうその形にしか見えないのが困りものだ。
 
 チケットも手にした、解説用のガイドブックも用意してある、私はに行ったが、夏休みに訪れる方は暑さ対策ともお忘れなく。
 
 さていよいよ、愛と感動と爆笑のアンコールワット観光の開始だ。
 
 私はこの3日間突貫観光計画を「インドラの雷作戦」と命名。勇んで寺院の門をくぐることとなったのである。
 
 
 (続く→こちら
 
 
 
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