スターリンの本名はとても発音しにくい

2014年02月27日 | コラム

 キラキラネームというのが、なにかと話題になっている。

 これに関して賛否はあるが、世の中には逆に本名が地味なのにニックネームの方が、やたらといかつい人というのが存在して、おもしろい。

 たとえば、ウィンストン・チャーチルなどその不屈の闘志から「タンク」と名づけられている。

 関西人の私としてはお笑いのシンクタンクのタンクさんを連想し、図らずも歴史書をひもときながら笑ってしまうが、その同盟国ソ連の指導者スターリンも、なかなかにキラキラしたニックネームの持ち主である。

 スターリンというと、名前は「ヨシフ・スターリン」であると歴史書などには書いてあるが、実はこれ本名ではなくニックネーム。

 本名は、「ヨシフ・ヴィサリオノヴィチ・ジュガシヴィリ」という舌を噛みそうになるような、いかにも東欧っぽい名前。ちなみにスターリンの出身地はロシアではなくグルジア。

 なので、この「スターリン」というのは鈴木一朗が「イチロー」と名乗るようなもので、いわば登録名みたいなもの。

 で、その意味というのが、

 「鋼鉄の男」。

 おお、かっこいいではないか。鋼鉄の男。鉄男くん。強そうである。さすが権力者にありがちな、

 「みんながオレ様の地位をねらっている」

 という妄想だけで、2000万人もの人々を粛正し、ビビリ倒されていた人。たしかに、それくらいのドッシリした名前がよく似合う。

 「2000万人」である。南京やアウシュビッツなど鼻で笑われる数字であるというか、2000万人ってヨシフ……。オーストラリアの人口と同じだよそれ……。

 独裁者といえば、とかくババリアの伍長殿が取りざたされるが、鋼鉄の男とくらべたら小さいもんだ。数がヒトケタ違う。たしかに、たいした「鋼鉄」っぷりである。

 まあ独裁者といえば、毛沢東主席も大躍進政策では3000万人、文化大革命は2000万人と、これまたけた違いの数字をはじきだして、こちらも全然負けてないところもすごいですが。

 大東亜戦争の日本人の死者が全部で約300万人。不謹慎を承知で、つい「たった」とつけそうになるのが怖い。共産主義は命が安い。

 あと、これはまったくの余談だが、高校時代の友人ムラサキ君のあだ名はスターリンと同じ「鉄の男」であった。

 なぜムラサキ君が「鉄の男」と呼ばれていたのかといえば、彼がスターリンのような冷酷な独裁者だったから……。

 ではなく重度の鉄道マニアだったからであった。日本は平和でなによりである。



 

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

バレンタインデーに反対! と言いたいところだが……

2014年02月13日 | モテ活
明日、2月14日はバレンタインデーである。

 こう書き出すと、ふだんからここをお読みの酔狂な読者諸兄は、


 「どうせモテないオマエのことだ、ここでひとくさりバレンタインの悪口でも書くのだろう」


 などと推測されるかもしれないが、これが案外とそんなこともない

 意外かもしれないが、実のところ私はバレンタイン賛成派なのである。

 常日ごろ硬派な日本男児を自認し、クリスマスハロウィンにもほとんど興味がないのだが、


 「好きな子にチョコを送って愛を告白する」


 というこの日だけは、少しばかり寛容なのである。

 その理由は高校生のころの思い出というかトラウマというか。

 当時高1だった私は同じクラブのコトコちゃんという女の子に恋をした。

 話せば長くなるのでかいつまんで言うと、2年生のときに彼女に告白したら、「」の返事をもらったわけだ。


 「今さら、そんなこと言われても困るよ」


 そうだよなあ。これまではいい友達だったのに、この先は気まずくなっちゃうよなあ。でも、自分の気持ちに嘘はつけんしなあ。

 これだけなら、よくあるフラレ虫の哀歌だが、続けて彼女の口から飛び出した言葉には、文字通り腰が抜けたのを覚えている。

 


 「あたしは1年生のとき、ずっとキミのことが好きだったのに」



 彼女は続けて、



 「でも、なにも言ってくれなかったじゃない。どうして今になって、あきらめて、整理もできた後に、そういうこというわけ?」



 これを聞いたときの私の心境は、察していただけるだろうか。

 そう、私は1年生のころからコトコちゃんのことが好きだったが、同じころ彼女もまた私のことを想ってくれていた

 その時期はハッキリと、二人はこれ両想いだったのだ。

 でも、双方


 「けど、なんにも言わないってことは、脈がないんだろうな」


 そう勝手に思いこんでいた。

 で、1年後、もう人生ののステップに進んでいるところに、思わぬところからの告白

 そら、「なんで今さら」だろうけど、それはこっちだって同じだ。

 今そんなこと言われても、どないしたらいいのよ

 それからも、またいろいろとややこしいところはあったんですが、それも長くなるので割愛するとして、こういった経験があるためか私は恋に関しては、


 「好きなら、結果をおそれず告白しろ」


 そう頑強に主張する人間になったのである。

 好きなら言え。じゃないと、想いは伝わらない。

 伝わらないと、お互いが想い合っていても、いつまでたっても気づかない

 私とコトコちゃんみたいに。

 だから私は、だれかが日本人的なの感覚で、


 「そんなの、言わなくてもわかるだろ」


 ってため息をついたり、女性が鈍感な男子に、


  「黙ってても、こっちの気持ちくらい察してよ」


 なんて言いがちなのを、あまり認める気になれない。

 だって、それはきっと、わからないから。

 世の中には、私とコトコちゃんのように、好きで、お互いのことを求め合っていても、言葉が足りないというその一点だけで、こんなにもすれ違う。

 愛し合っていても、その手をつなぐことができない。 

 だから、だれかを好きになったら、かならずその気持ちは伝えるべきなのだ。

 言葉にしないと、それはわからない。


 「目と目で通じ合う」

 「言わなくてもわかってくれる」


 というのは幻想だ。

 少なくとも、もし本当に伝えたい、わかってほしいなら、そんな独りよがりのようなものに頼ってはいけない。

 もちろん、自分が好きだからといって、相手も同じように愛してくれるとは限らない

 いや、むしろシビアなこの世の中では、そうでないことのほうが多いかもしれない。

 じゃあ、どうしたらいいか。

 それでも私は、「行きなさい」と言うことにしている。たとえ結果がどうあれ。

 そこは私の友人や後輩は、いわゆる「リア充」的なタイプは少ないので、「行ってこい」とアドバイスすると各所から、


 「サカイ君、クラスメートのミチコちゃんにフラれ轟沈!」

 「ミサキ君、職場の先輩を誘って壮絶な戦死をとげました!」

 「キシワダ君、後輩に告白し、その後の消息不明。各隊、心当たりの場所を捜索してください!」


 などといった、ミッドウェーのごとく「連合艦隊壊滅」な悲報が次々届くことになる。

 気分はすっかり「特攻隊」であり、望みもないのに告白するのは、どうかという意見もあることもわかる。

 けど、それにしたってやっぱり、好きだったら言うべきだと思うんだよなあ。

 こればっかりは、若きころに背負った「」としかいいようがないので、私に恋愛相談するときは注意してほしい。

 勝算あろうがなかろうが「行け」としか言わないんで。

 もう腹は決まっていて、最後後押しがほしい人だけにしたほうが無難だ。

 そんなわけで、ともかくも愛を成就する、そのきっかけを与えてくれるかもしれないバレンタインという行事を、私はそんなに嫌いにはなれないのだ。

 もっとも、好きでもなんでもない男子に告白されて、いちいちフラなければならない女子のストレスもなかなからしいですが。

 


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

受験会場での正しい時間の過ごし方 その3

2014年02月07日 | 時事ネタ
 前回(→こちら)の続き。

 大学受験日当日、旺文社の罠(?)にかかって試験開始までギリギリ単語やイディオムを復習する受験生たちの中で、ひとり赤塚不二夫のギャグマンガ『大バカ探偵はくち小五郎』を読んで浮きまくっている大バカ三太郎な私。

 なんだこれは、

 「試験前はジタバタせずリラックス」

 なのではないのか。

 これではまるで、ヤクルト時代の野村克也監督がID野球の高度な理論を語っている中、ひとりマンガを読んでいた長嶋一茂と同じシチュエーションではないのか。「受験生」「浪人生」というストイックな響きの存在でなく、ただのスットコ野郎ではないのか。

 これはいかん。私はすぐさまマンガをカバンに戻した。自分がアホなのは生まれつきだが、それを周囲に悟られるのはマズイ。

 勝負の世界はなめられたら終わりなのだ。まわりの受験生が見て、

 「なんや、オレのライバルはアホばっかりか」

 なんて思われたら、えらくリラックスされて、試験でも力を発揮されるかもしれない。それはいかん。

 マンガなら、せめて『ベルサイユのばら』とか『あさきゆめみし』とか受験にも活用できるマンガを持ってこなかったのかと深く後悔したのである。

 ではどうするのか。試験開始まではまだ時間はある。その間、することがない。

 参考書でも読んでいればいいのであろうが、旺文社の罠(だから違うって)のおかげで私は単語帳やその種のものを持ってきていなかったのだ。

 かといってひとり所在なげにしているとヒマである。その上、することがないと不安や妄想が自然にわきあがってきて、どんどん緊張してくる。

 こういったときどう一息つけばいいのか。平時なら「コーヒーを飲む」「気付けに一杯やる」「ヒロポンを打つ」などが考えられるが、受験会場ではそうもいかない。困った、それにつれてどんどん精神状態が悪くなってきた。

 だが本番で沈んではいられない。当初の戦略が功を奏しなければ素早く転進するのが戦の掟である。

 そこではたと思いついた。

 気を落ち着けるために瞑想をするというのはどうか。

 これなら心の中から不安を払い、集中力を高めることができるだろう。おまけに、道具もいらない。メンタルはコントロールできるのだと、囲碁の伊角慎一郎初段も語っている。

 そこでまず肩の力を抜くべく、軽く深呼吸する。すって、はいて、すって、はいて、すって……うん、いい感じだ。

 次に目を閉じ、呼吸によって上下するお腹のあたりに意識を向ける。深呼吸を深くし、頭の中の雑念を取り払う。落ち着くのだ、焦ってはいけない、自分はできるのだ、そういったポジティブな言葉を並べる。

 イメージトレーニングというやつだ。できれば座禅のポーズなどを組みたいところであるが、目立つ上に集中しすぎて空中浮遊などしてしまうのも困る。蓮華座は断念で、胸の前で手を組むだけにしておいた。

 そして自分が合格した様を思い浮かべる。合否を告げる掲示板の前で「やった、受かった!」とよろこんでいる姿を想像する。

 できる。落ち着け。これまでやったことをすべて出し切れば、落ちるなんてことはない。できる、できる、オレはできる。

 いい感じだ。テニスの松岡修造さんなら「この場面、彼集中してますよ」と解説してくれたことだろう。

 そうしてコンセントレーションが最高潮に達した瞬間、「では試験開始です」という声が響いた。

 破裂寸前の風船のごとくテンションの高まっていた私はその声にかっと目を見開くと、シャーペンを手に取り、指も折れよという勢いで、まずは自分の名前と受験番号をゆっくり丁寧に記入した。これを忘れては意味がない。

 そこからは怒濤の進撃であった。ひとり安らかに待つのが結果的にはよかったらしい。

 私は快調に答案用紙の空欄を埋めていった。リズム良く長文を読み進め、設問を解読し、次々と、それこそ庖丁人がキャベツを素早く切り刻んでいくかのごとく回答欄に答えを記入していった。

 回答欄をすべて埋め、すりきれるほど何度も何度も見直しをしていると、やがて試験時間が終わった。思わずため息が出た。長いようで短い時間だった。

 よかった。アホはさらしたが、とりあえず全力を出して戦うことはできた。見事なリカバリーショット。やはり私はただ者ではない。

 ところがここに、驚異の集中力のツケが回ってくることを、誰が予想しただろうか。

 解答用紙を試験官に提出し、さてお昼でも食べに行こうかなと腰を上げたところである。「あのー、すみません」と、後ろから、背中を指でつつかれた。

 なんじゃいなと振り向くと、それは後ろの席に座っていた青年なのであった。唐突なことに、

 「いい質問だ。でもはっきり言ってね、僕は腹が減っているのさ」

 などと、なぜか村上春樹口調でそう答えると、彼は申し訳なさそうな声で言った。

 「すいませんけど、貧乏ゆすりやめてもらえませんか」

 とたんに頭が春樹からしらふに戻った。ガーン!!である。

 私は瞑想をし、周囲の雑音を遮断することによって集中を高めたのだが、それによって自分が出していた雑音をも耳から遠ざけていたのだった。

 それゆえ、自分がカタカタいっていたことに、まったく気がつかなかった。集中するのは大事だが、あまり周囲が見えなくなるのも考え物である。

 嗚呼、試験中に貧乏ゆすりとは、なんてはた迷惑な。これは今でも反省してます。受験生のみんなも、気をつけてね。




コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

受験会場での正しい時間の過ごし方 その2

2014年02月05日 | 時事ネタ
 前回(→こちら)の続き。

 大学受験本番。試験会場での休み時間をどう過ごすかは難しいが、私は

 「ギリギリまで単語を覚える」

 といったストイックな道ではなく、

 「あえてなにもせず、リラックスをして望む」

 そんな余裕を持った対応を選ぶことにした。

 その選択は正解だったようで、ゆったりと読書にふける私をよそに、みなオレンジ色の表紙がまぶしい桐原書店の『英語頻出問題総演習』を開いて、最後のチェックに余念がない。

 だが、その姿はいかにも追いつめられているというか、なんとも肩に力が入りすぎのような気がする。

 それにくらべて、こちらの余裕ときたら。さすがは私、伊達に一年浪人をしていない。経験値では私の方が豊富なのだ(まったく自慢にはならないが)。悪いね、合格は人生の先輩の私がもらった!

 なんて勝利を確信しているところに、どうも不協和音を感じたのは気のせいだろうか

 ここに落ち着いて周囲を見渡してみると、その「リラックス派」というのが、存外に見あたらない。

 いや、見あたらないどころか、ざっとながめたかぎりでは、一人も存在しないのではないか。

 窓際の席では男の子が、やはり桐原の英頻を開いている。必死だなあ。まあたしかに英頻は当時のバイブルでしたが。

 その斜め横の子も英頻で最終チェックをしていた。やたら人気だな、桐原。その隣も桐原か。売れてるなあ。桐原書店、大もうけやないか。

 そうして見ていくと、教壇前にすわるメガネの女の子も桐原の英頻。

 廊下でマーカー片手にアンダーラインを引いているのも桐原の英頻。たった今教室に入ってきたセーラー服のかわい子ちゃんも桐原の英頻。

 などと数えるまでもない、いつのまにか会場にいる受験生全員が桐原の英頻を手にしていたのである。教室はオレンジに染まり、まるでサッカーオランダ代表の応援団である。

 おいちょっと待て、旺文社、これはなんの罠だ。「本番前はリラックス」なのではないのか。

 みんな、最後まで復習に余念がないではないか。必死じゃないか。ひとり阿呆みたいにリラックスしているボンクラ受験生は、もしかしたら私だけなのではないか。

 さらに問題なのは、私が読んでいた本だ。

 こういうときは、脳にやさしいエッセイとか、「やればできる」系の自己啓発本などを用意するのが基本であろう。

 ところがどっこい、私が会場に持参したのは赤塚不二夫のマンガでタイトルが

 『大バカ探偵はくち小五郎』

 であった。

 みなが「桐原の英頻」に首ぴっきの中、私は「はくち小五郎」である。

 それはどうなのか。そもそも「はくち小五郎」というタイトルはいかがなものなのか。放送コードにひっかからないのか。第一、私は世代的に赤塚不二夫にはたいしてなじみはない。

 なのに、なぜ赤塚マンガを持っているのか。それも、やたらとマイナーなタイトルである。せめて『おそ松くん』とか、もっと知られてるもん読めよ!
 
 って、そんなことはどうでもいいが、みんな必死ではないか。ここで『大バカ探偵はくち小五郎』を読んでいるなんて私こそが大バカ三太郎なのではないのか。

 あせった私はせめて『英単語ターゲット1900』など取り出して学習しようとしたが、カバンの中に入っていたのは「はくち小五郎」の2巻と3巻であった。

 針のように研ぎすまされた空気の中、ひとりギャグマンガなど読んでゲラゲラ笑っていた私は会場では完全無欠に浮いている。

 リラックスどころか赤っ恥であり、それに加えて、いかにいい参考書とはいえ教室中が同じ本を開いて勉強しているという事実にも驚愕した。

 なんぼ名著といわれた「桐原の英頻」とはいえ、皆が皆読んでるって……日本人の「みんなと同じが一番」信仰ってすごいなあと、あらためて感心したのである。

 さらには、その輪には入れてないオレって……と、和を重んじる日本ではあるまじき「怒濤のマイナー野郎」である自分に愕然とし、リラックスどころか試合開始前からテンションだだ下がりである。

 こうして二重、三重の意味で選択を誤った感のある私。

 どうするどうなるこの話はさらに次回に続く(→こちら)のである。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

受験会場での正しい時間の過ごし方

2014年02月03日 | 時事ネタ
 試験の空き時間をどう過ごすのがベストか。

 受験シーズンのまっただ中、勉強の具合もさることながら、本番のテスト会場でどうふるまうかというのも、なにげに合格に大事な要素である。 

 開始一分前まで単語帳とくびっぴきの子もいれば、余裕なのかあきらめているのか、リラックスして友達とおしゃべりしている子もいたりする。今なら、どちらにしてもスマホをいじっているのかもしれない。

 そこで今回は、私が受験生だったころは空き時間のつぶし方として、どのように対応したのかを思い出してここに記したい。悩める現役受験生たちの一助になれば幸いである。 

 私は受験時代、1年の浪人を余儀なくされた。

 それは高校生のころ、一応は進学校と呼ばれるような高校に通っていたにもかかわらず、ロクに授業にも通わず、街をぶらつくか、部室で寝転がって本でも読んでいるかというフーテン生活を送っていたら、進学どころか卒業が危うくなったからである。

 もっともそこは私のこと、追試の嵐をくぐり抜け、終業間際にはなんと学年トップの成績まで持ち直して見事卒業を決めたのだからたいしたものだ。人間、やればできるのである。

 劣等生だった私がトップの成績とは、まったく努力は人を裏切らない。ちなみにトップというのは、下から数えてトップということであり、見事な学年最下位の滑りこみ卒業なのであった。人間、やればできるのである。

 そこから1年、今度こそまじめに勉強して、と断言できるほどしたかどうかはわからないけど、それなりに仕上げて試験当日。一応、がんばりました。

  よく悩める子供が、

 「なんで努力なんかしないといけないの?」とか「どうせ無駄なんだから、やってもしゃーねーじゃん」なんて言ってみたりするが、その答えは簡単で、それは

 「努力はかならず報われるから」

 ではない。

 おそろしいことに、世の中には「ムダな努力」や「かなわない夢」というのは山ほど存在する。というか、むしろ「そっちの方が普通」かもしれない。

 じゃあなぜ、「ムダかもしれない」ことをするのかといえば、努力をすると、

 「自分にできること」と、「自分にはできないこと」が見え「根拠のない全能感」を払拭することができるから。

 「根拠なき全能感」とは、要するに「オレはまだ本気を出してない」とか「今の自分は本当の自分ではない」といった、「傷つくのを怖れるがゆえの自己判断の保留」のこと。

 これにいつまでもとらわれていると、なにかと思春期の悩みをこじらせがちだからだ。下手をすると、「そんなことを言っているうちに人生が終わってしまう」なんてことにもなりかねない。

 そこで一回努力して、「あー、オレってこんなんもでけへんのかー」とヘコんだり、「あれ、無理やと思ってたけど案外でけるやん!」と意外に自信がついたり。

 そうするとだいたい「自分の位置」がわかってくるようになる。嫌でも、わからざるを得ない。すると、具体的な「それをカバーする(伸ばす)ため、次やるべきこと」がイモヅル式に見えてくるのだ。一言で言えば、「人生の目標」がわかってくる。

 最初はプライドが傷つくこともあるだろうけど、そのステップを経ると、あとが絶対に楽になる。

 だから、やるべきなのだ。

 話が少しそれたが、そういうことで、もうやるだけのことはやった。1年の成果がここに試されるのだ。もうジタバタしても遅い。人事を尽くして天命を待つ。私は受験票を手に、第1志望の千里山大学(仮名)文学部の試験会場へと向かった。

 会場に着いてから、試験がはじまるまでの時間をどうすごすかは難しい問題である。最後の最後まで英単語などのチェックをするのがいいのか、それとももうジタバタせず静かに集中力を高めるのがいいのか。

 私は後者の方法を取ることにした。当時勉強するのに利用していた旺文社のラジオ講座(私は予備校などに通わず自宅浪人をしていた)のテキストにこうあったからだ。

 「試験本番はとても緊張します。変にあがくより本など読んで、リラックスして万全の精神状態で望みましょう」

 なるほど、それはものの道理。会場に向かう電車の中でも単語カードなどめくっている子がいたが、みな一様にプレッシャーからか青ざめた顔をしていた。

 これでは本番に力を発揮できまい。ふっふっふ、早くも私の作戦勝ちである。やはりこのような場面は全力でリラックスしたものが勝利を得るのだ、と一人悦に入っていた。ボーッとした昼行灯のような私にとって、リラックスは得意中の得意なのである。

 すでに合格を確信しながら会場に着くと、カバンから本を取り出して開いた。見よ、この余裕っぷりを。

 眺め回してみると、一番後ろの席では、女の子が『英語頻出問題総演習』を開いている。受験生なら誰でも知っている、オレンジの表紙がまぶしい(当時)いわゆる『桐原の英頻』である。私の学校でも副読本で使っていた。

 フッフッフ、思わず余裕の笑みが出る。今さらあがいても遅いのだよ。こういう場面では私のように落ち着いて待つのがベストなのだよ明智君。これだから素人はあなどられるのだ。

 勝利を確信した私は、受験生たちの苦悶の声をBGMに、温泉気分で時間つぶしの読書にふけったのだが、これが実に甘すぎる見解であったことに、まだ気づいていないのであった。

 (続く【→こちら】)


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする