羽生善治の将棋にまだ哲学がなかったころ その2

2014年10月19日 | 将棋・雑談

 前回(→こちら)の続き。

 デビュー当時

 

 「将棋に哲学がない」

 「勝つだけで棋譜が美しくない」

 

 今を知るものには、にわかには信じがたい批判をされていた羽生善治名人

 そんな昔話を思い出したのは、飯島栄治七段(愛称「エーちゃん」)の本『横歩取り超急戦のすべて』の元となる『将棋世界』での連載を読んでいて、とある一枚の棋譜に目が止まったからだ。

 そこには若かりしころの羽生四段と飯野健二六段飯野愛女流1級のお父様。すごいハンサム)との将棋が紹介されていたのだが、これがすごかったのだ。

 

 

 

 ヤング飯野健二

 



 相横歩取りから、飯野六段のあざやかすぎる指しまわしの前に、羽生四段はじりじりと押され、気がつけば敗勢に。

 で、ここからいつものごとく、あの手この手で延命を図るわけだが、それが今の「羽生名人」からは考えられない、とんでもない手順。

 くわしくは『将棋世界』の2014年3月号か『羽生善治全局集』の1巻を手にとってもらいたいが、次々とくり出される羽生の必死の勝負手に、飯野六段はどこまでも冷静に対応。

 それでも羽生はあきらめず、なんとか食いついていく。

 

 

 

 図は羽生が▲32ととせまったところ。

 次に▲51金からの詰めろだが、飯野は見事な返し技で最後の望みを打ち砕く。

 

 



 
 

 △54歩と突いて、後手の勝ちが決まった。

 これが△53への逃げ道を作りながら、△67馬と追ってから△55金と打って詰ます筋を作った、きれいな詰めろ逃れの詰めろになっている。

 もうこのあたりは盤に並べながら、羽生さんのことなどどこへやら。

 その鮮やかすぎる駒さばきに

 

 「ジュリー(飯野六段のニックネーム)! もう抱いて!」

 

 と言いたくなる、見事な飯野劇場なのだが、ところが話はここで終わらない。

 完封寸前の羽生四段は、ここでどんな手を講じたか。

 もちろん、投了はあり得ない。かといって、もはや反撃の手段もない。

 ではどうするか。

 そう、恥も外聞もなく、ひたすらに逃げまくるのである。

 陥落必至の羽生玉は、手元の武器も付き従う配下もすべて見捨てて、着の身着のまま、ひたすらに遁走

 とはいえ、これはあまりにも差がつきすぎているという希望のないねばりで、残念ながら、ただ「投げない」以上の意味はない。

 

 

 

 

 この△37歩が心臓をえぐる痛打で、▲同桂△49飛で詰みだし、▲同金△49飛▲28玉△57馬のような自然な寄せで一手一手だ。

 さすがに指す手がない局面に見えたが、ここで羽生がおどろきの一着を見せる。

 

 

 

 


 

 

 なんと△37歩を放置して、▲59金と打って守る。

 もちろん△38歩成と、ボロっとを取られて悲惨なことに。

 自陣の網を破られた羽生玉が、守備の駒をボロボロと取られながら落ち延びていく姿は、もう「形作り」なんてどこへやら。

 昔、甲子園で、桑田清原PL学園29点取られて負けた学校があったけど、それを思い出させる虐殺であった。

 ただ著者であるエーちゃんも、フォローしているように、



 「羽生さんはこういった将棋を、数え切れないくらいひっくり返してきた」

 そう、そこが当時の羽生将棋の魅力でもあった。

 この将棋はジュリーが強すぎて実らなかったが、それでも、いやホント、すごいというか、エグいといった方がいいような、すさまじい頑張りなんです。

 今では絶対に見られない、ある意味、貴重物件。

 そこで、急激に「哲学がない」時代の羽生さんの将棋が見たくなって、こういうときにネットというのは便利なものだ、と色々と検索してたらありました。

 NHK杯戦の対福崎文吾七段戦。

 加藤治郎先生が解説で、聞き手が永井英明さんだったりと、オールドファンには感涙ものだが、ここでの羽生五段の終盤の指しまわしこそが、まさに当時の羽生流。

 どう見てもド必敗の局面から、あきらめずに指し続けます。

 投げない。秒に追われて、ひたすらに指す、指す、指す。

 あと一手で終了のところから、いつまで経っても終わらない

 これが、やたらめったらにおもしろくて、ちょっと見て寝ようと思ってたら、気がついたら最後まで走ってしまった。

 熱戦の果てにあるのは

 

 「あのころの羽生らしい大逆転

 

 か、それとも今では見られぬ

 

 「なりふりかまわぬボロ負け」か。



 最後まで、どっちかわからない結末は、ご自身の目でどうぞ。



 ■羽生善治vs福崎文吾 その1 その2 その3

 見所満点の最終盤は「その3」から。


 ★おまけ  羽生の若手時代については→こちら

       羽生と谷川浩司のライバル対決編は→こちら

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

羽生善治の将棋にまだ哲学がなかったころ

2014年10月17日 | 将棋・雑談

 「羽生の将棋には哲学がない気がする」。

 ある将棋の本だったか雑誌だったかに、そんな一文が載っていたことがあった。

 誰かは忘れたが、将棋好きな作家観戦記者の言葉だったような。

 そう聞くと、世の将棋ファンは

 

 「天下の名人になんたる暴言」

 

 そう憤るかもしれないが、ここにひとつフォローしておくと、この作家氏(もしくは観戦記者氏)の発言は今から25年近く前、まだ羽生さんがデビューしたての四段五段のころの記事なのである。

 ついでに、もうひとつ作家氏をフォローしておくと、たしかにデビュー当時の羽生少年の将棋は今のように洗練されてはいなかった。

 序盤は荒く、海千山千のプロ相手に作戦負けから、必敗になることも多かった。

 並の棋士なら、そのまま圧敗して「なんや、たいしたことあらへんがな」となることろ。

 ところが「天才」羽生善治は、そこからが腕の見せどころ。

 どう考えても投了しかない局面から、持ち前のガッツと曲線的指しまわしで、ねばりまくるのだ。

 このがむしゃらな粘着が、言ってみれば今の名人となった羽生には失われた(というか必要なくなった)資質なのかもしれないが、多くの棋士が敗色濃厚となるときれいに斬られようとする「形作り」に入る中、彼はひたすらに抵抗を続ける。

 その様は、手足を斬られ、鼻と耳を削がれ、とどめに両の眼をつぶされても、血だまりの中をはい回って、残った歯でかみつきに行く、そういった迫力に満ちていた。

 とにかくその「投げない」力と根性が、まだ10代の羽生少年の持ち味であったのだ。

 そして恐ろしいことに、その野球で言えば9点差の9回裏二死から10点取って勝つような、力ずくとしかいいようがない逆転勝利をもぎ取ってしまうのが、なんともすさまじいのである。

 羽生四段といえば奨励会時代から名を知られ、プロ入りしてからも、いきなり8割近く勝ちまくり「未来の名人」とのお墨付きをもらっていた存在。

 その原動力は、このなりふりかまわぬ「クソねばり」にもあったのだ。

 ただ、もうお察しの通り、そりゃ勝てばそれでいい。勝負の世界は過程はどうあれ、結果を出すヤツが偉いのだ。

 だが、いかな羽生少年も、すべての負け将棋をうっちゃれるわけではない。

 勝負の世界では8割勝つ者でも、10番戦えば2回は負ける運命だ。

 で、その負け方が問題。

 ボロボロになっても投げず、悲惨投了図を残すというのは、将棋という競技に一家言あるベテランや「美学派」の棋士にはウケが悪い。

 実際、私も棋譜を並べていて「そこまでやるか……」と思わされることがあったし、羽生さん本人も、



 「若いころの棋譜は、あまり見たくない」



 インタビューなどで、そう苦笑いされていることもあった。

 私は当時から羽生ファンだったから、まあそこはいいんだけど、焼け野原の真ん中、竹槍一本で本土決戦を決行するような羽生少年の執念に、芹沢博文九段のようなベテラン棋士が、そらなにかしら言いたくなったとしても、それなりの根拠もないこともなかったのだ。

 そこから件の「哲学がない」発言になるわけで、今となってはにわかには信じがたいが、かの羽生名人にも、そんなことを言われていた時期があったんですね。

 とまあ、そんな昔のことをなぜにて今思い出したのかといえば、飯島栄治七段(愛称「エーちゃん」)の本『横歩取り超急戦のすべて』の元となる『将棋世界』での連載を読んでいて、とある一枚の棋譜に目が止まったからなのである。


  (続く→こちら




コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

我、舌バカ味オンチの「自称グルメの人」にもの申す その3

2014年10月15日 | B級グルメ
 「自称グルメの人」が苦手である。
 
 というわけで、前回(→こちら)まで「味オンチ」な人に押しつけがましくごちそうされて、たいそう迷惑したという話をした。
 
 となると疑問なのは、なぜ彼らは舌バカなのに自分を「グルメ」と言い切れるのか。
 
 彼らはグルメの常として、食べることが好きである。生き甲斐といってもいい。
 
 こういった自称グルメの方々が、誤解しているのは、彼らが「味がわかる」から食べるのが好きになるのではなく、逆に
 
 
 「味がわからない」
 
 
 からそうなるのだ。
 
 味オンチなら、そら当然なにを食べてもおいしいわけ。
 
 そうやって添加物でもジャンクフードでも、なんでもうまいうまいと食べているうちに、
 
 
 「オレはグルメや」
 
 
 となる。
 
 だがそれは、単に「化学調味料の味」だったり、下手すると「味が濃い」が、おいしい同義だったりするだけなのだ。
 
 現に私の友人など、断食道場に行った際、山から下りた当初は異様なほど感覚が鋭敏になり、
 
 
 「舌がむちゃくちゃに、味をとらえるようになった」
 
 
 そう、おどろいていた。
 
 その結果どうなったかといえば、外食やそこいらのスーパーの食材で作った料理が、しばらく食べられなかったそうである。
 
 顕微鏡で見ると、どこもかしこも雑菌だらけのように、鋭敏すぎる舌
 
 
 「わからんでもいい味まで拾ってしまう」
 
 
 という意味で不幸なのである。
 
 そういったこともわからない自称グルメな人は、そのあたりにも鈍感であり、そういう意味ではハッピー
 
 以前、岡田斗司夫さんが、ファンからの
 
 
 「ある映画が、すさまじくつまらなかったのですが、ヒットしているようです。どうしてでしょうか」
 
 
 という質問に、
 
 
 「世間の人は、我々ほどには映画を見る目がないんですよ」
 
 
 クールな回答をされておられたが、それと同じ。
 
 「映画を見る目がない」
 
 というのは一見非難のようだが、見方を変えればその人は、脚本の破綻や演出のアラを理解する観察力知性がなく、どこがダメかがわからないから、
 
 
 「どんな映画を見てもおもしろい」
 
 
 という状態にあるわけで、映画好きとしてこのような至福があるだろうか。
 
 で、人は自分が良いと思ったものは、人に伝えたくなる。
 
 幸せは分かちあいたい。その意味では彼らは親切である。
 
 で、連れて行かされるのがマズイ店
 
 そこに誤解と悲劇が生まれる。周囲の人間はトホホのホである。
 
 グルメの人は、一度自分を振り返ってみてほしい。
 
 自分は本当に「舌が鋭敏」だから食べるのが好きなのか、それとも「舌バカ」だから、単になにを食べても美味しいだけなのか。
 
 こういった人の特徴としてもうひとつ、
 
 「料理人になりたがる」
 
 という傾向がある。
 
 そりゃ、「自分は味がわかる」と思っているのだから当然かもしれないが、これはさらなる悲劇を生む可能性が高く、勘弁してほしいものだ。
 
 きっと、彼らが好む「すぐつぶれるマズイ店」は、まさに彼らのような人が出してるんだな。
 
 そうして、「後継者」を生み出して、スパイラルが続く。
 
 なんで世界には、あんなおいしくない店がいっぱいあるんだろうって不思議だったけど、そういうカラクリか。
 
 なるほど、謎がひとつ解けましたわ。
 
 
 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

我、舌バカ味オンチの「自称グルメの人」にもの申す その2

2014年10月13日 | B級グルメ

 「自称グルメの人」が苦手である。

 世にはイラッとさせられる人というのがいて、知ったかぶりをする人、小銭にセコイ人、くだらないダジャレを連発する人。

 などなど数いるが、私は前回(→こちら)も言ったよう「グルメ」を自認している人がダメだ。

 こういう人は、よく「おいしい店」の情報を仕入れて連れていってくれるが、それが不味かったりすると災難である。

 おごってくれるならともかく、自腹切ってそういうものを食べさせられると、いかな平和主義者の私でも

 

 「世界のあらゆる、もめ事をおさめてきたのは戦争である」

 

 ロバート・A・ハインライン『宇宙の戦士』みたいな気分なってしまうのだ。

 友人キシ君もまた自称グルメであったが、彼の場合は連れ回す方ではなく、手料理派であった。  

 自分で作って、それをパーティーなどで、お客に振る舞うのが好きなのだ。

 が、これがまた作ってくれるものが、軒並み不味くて閉口したものだ。

 チャーハンはベチャベチャ、ハンバーグは生焼け、グラタンは焦げ臭く、味付けも、たいていは甘すぎたり辛すぎたり、明らかに加減がわかっていない。

 こういう人間にかぎって、調味料調理器具にはこだわって、いいものを使っていたりする。

 我々被害者は、猫に小判豚に真珠という言葉を飲みこむのに、多大なる努力を強いられることになるわけだ。落語の『寝床』みたい。

 いってはなんだが、キシ君はグルメを名乗る割には、たいしていいものを食っていない。

 なんたって、彼曰く

 

 吉野家の牛丼が世界一うまい」

 「2番目はラ王

 

 とのことだ。それの、どこがグルメなのか。

 いや、吉牛もラ王も、別にまずいわけではない。

 けどそれは、あくまで

 

 「あの値段なら十分満足」

 

 という意味でのおいしさであり、全食物の中で絶対的に美味い、というわけではない。

 それを「世界一」とはいかがな判断基準か。

 まあ、キシ君の場合はごちそうしてくれるわけだから、ツルミ君とちがって金銭的ダメージは少なく、その点では許せないこともないが、彼のフェイスブックに、



 「ボクは料理が大好きで、舌には自信があります」



 とあったときには、思わず「真珠湾奇襲やむなし」という気分になったものだ。

 あんなまずい飯食わせといて、よう言うたな、おまえと。

 根本的に私はあまり

 

 「舌に自信あり」

 

 と宣言する人を信じていない

 だいたい、子供のころから添加物だらけの食物で育っている我々は、もうすでに味覚に関しては、期待できないのではないか。


 だから、一流シェフ料理人は、圧倒的に田舎育ちの方が有利といわれている。

 育つ過程で、良い素材のものを食べいるから、自然にが育つのだ。

日本人のコックなんか、海外に修行に出たら、まず醤油アミノ酸を舌から抜くために、ものすごい苦労を強いられると聞いたこともある。

 そこまでやらないといけないくらい、「味覚」というのは繊細なのだ。

 それを、都会育ちでインスタント食品ファストフードもまりまり食べまくって「舌に自信」とは、たいした言い草である。

 とどめにキシ君、だいたいキミは重度のヘビースモーカーではないか。

 あんだけ煙突みたいに、パッパカパッパカ吸うといて、ようもそんな口たたけるもんや、ドあつかましいにもほどがあるで!

 と、なんかもう思い出してたら、だんだん本気で腹が立ってきた。

 私はどちらかといえば、性格的には温厚なほうだが、まこと、まずいものを食わされるというのは、これほどに人の神経を逆なでするのだ。

 年齢によっては「カロリーを返してほしい」という気にもなるしなあ。

 というわけでキシ君、次ごちそうしてくれるときは、手料理やなくて外食でお願いします。

 あ、「うまい店」やなくて、牛丼で充分ですから。


 (続く→こちら


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

我、舌バカ味オンチの「自称グルメの人」にもの申す

2014年10月11日 | B級グルメ
 「自称グルメの人」が苦手である。
 
 知ったかぶりをする人、小銭にセコイ人、くだらないダジャレを連発する人
など、人の心を微妙にざわざわさせる人というのは数いるが、私の場合
 
 「グルメ
 
 これを自認する人。
 
 そういう人は当然食べることが好きで、よく「うまい店があるんだ」と教えてくれたり、中には手料理で腕を振るってくれる人もいる。
 
 というと、ずいぶんといい人というか、便利でありがたそうな印象を受けるかもしれないが、これが店も手料理も本当においしければよい。
 
 問題はそれがもう、めまいがするほどに、マズいものしか出してこない人の場合。
 
 そういう意味での「自称」グルメである。
 
 友人ツルミ君はそんな自称グルメであった。
 
 「食にうるさい」という彼は、会うとかならず、美味いという店に連れていってくれる。
 
 それが、ものの見事にまずいのである。その確率は、なんと100%。よく
 
 
 「世界には絶対というものはない」
 
 
 なんていうが、ある
 
 ツルミ君の紹介する店は、これまでただの一度として、おいしかったためしがない。
 
 絶対にである。
 
 その証拠に、彼に連れられた店というのが、その後数ヶ月ほどすると、例外なく、すべてつぶれていくからだ。
 
 西原理恵子さんは
 
 
 「店はにきびみたいに簡単につぶれます」
 
 
 といったが、まさにそう。
 
 ツルミ君一推しの店は、本当にいともあざやかに、この世界から痕跡を残さず消えていくのだ。
 
 しかも、たいていが一年保たない。
 
 半年もたたないうちに、「空店舗」の札がシャッターにむなしく揺れているのである。
 
 とどめには、インターネットの「地元ふれあい掲示板」みたいなところをチェックすると、
 
 
 「あそこ、つぶれたらしいよ」
 
 「当たり前だよ、クソまずいもん」
 
 「二度と行くわけがない」
 
 
 とかけんもほろろ。
 
 これはもう私だけの偏見ではなく、「世界総意」という感じで、つぶれているのだ。
 
 ツルミ君がマーキングした店が、その後を追うように次々とつぶれていくところから、いつしか友たちは彼のことを「食べる死神」と呼ぶようになった。
 
 飲食店経営者にとっては、税務署海原雄山の次くらいに恐怖であろう。
 
 ところが、おそろしいことに、ツルミ君自身には、まったくそのような自覚がない。
 
 それどころか、周囲の悪評を
 
 
 「おかしいなあ、世間の奴らはわかってないなあ」
 
 
 不思議がっている。
 
 迷惑なのは、それにつきあわされる我々だ。
 
 ただでさえ、まずい店につれていかれるうえに、同い年なのでおごってもらえるわけでもなく、自腹でつぶれる店のメシを食わされる。
 
 正直、勘弁してほしい。
 
 ある日、後輩であるナカモト君がたまりかねて、
 
 
 「ツルミ先輩、悪いけどこの店、ちょっとひどくないですか」
 
 
 そう提言した。
 
 後輩がそんなことを言うのは、本来ためらわれるところだが、これは食後の我々があまりにも不機嫌な顔をしていたため、気を使って気持ちを代弁してくれたのだ。
 
 ところが、これに対するツルミ君の返しというのが、心底納得いかないという顔で、
 
 
 「なんだおまえ、味オンチなんじゃないか」
 
 
 これには、ナカモト君がキレた
 
 普段は温厚で、常に先輩を立ててくれる後輩の鏡のような男が、
 
 
 「てめー、ふざけんじゃねえー!」
 
 
 大声を張り上げて、ツルミ君に襲いかかったのである。
 
 ナカモト君のそんな姿を、見たこともなかった我々先輩陣は、あわてて止めたのであるが、後輩は義憤で顔を真っ赤にして、
 
 
 「止めないでください、ゆるせねえ、コイツだけは男として、マジゆるせねえッスよ!」
 
 
 ツルミ君に、ストンピングの嵐を見舞っていたのであった。
 
 あのおとなしいナカモト君が……と、我々一同は、ある意味食い物の恨みはおそろしいと戦慄したものだ。
 
 『ヒカルの碁』の若獅子戦で、和谷君が態度の悪い真柴初段に「テメー!」とキレて、おそいかかるシーンがあったけど、あそこを読んだとき私はツルミ君のことを思いだしたものだ。
 
 こうしてまたも、世界に無益な憎しみと、争いが増える。
 
 これだから「自称グルメの人」は困ったものなのである。
 
 
 (続く→こちら
 
 
 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

『アオイホノオ』の庵野ヒデアキはウルトラマン80について語りません その2

2014年10月09日 | オタク・サブカル
 「『アオイホノオ』に、庵野ヒデアキが『ウルトラマン80』を語るシーンが出てけえへんやないか!」
 
 前回(→こちら)はテレビの前でそう吼えて、『ウルトラマン80』がいかにダメな特撮番組かを語った。
 
 では庵野秀明さんはいったいそんなヒーローのなにを熱く語ったのかと問うならば、その答えは岡田斗司夫さんのコラムにあった。
 
 
 「ウルトラマン80って、どう思います?」
 
 
 まだ若かりしころ、庵野さんが岡田さんにそう尋ねた。
 
 80ってどう思います。といわれても、まっとうな社会人なら、
 
 
 「いや、どうとも思わんけど……」
 
 
 一蹴するのが模範解答だろうが、濃いオタク同士の会話でそのような無粋なことをしてはいけない。
 
 「あの庵野秀明が、あえて80について語りかけてくる」
 
 という時点で、なにかあると身構えなければならないのだ。
 
 岡田さんはとりあえず無難に、
 
 
 「80いいよね。特撮はレベル高いよ」
 
 
 そう返すと庵野監督はニッコリ
 
 
 「80の特撮はムダに良いんですよ」
 
 
 そこで終わればなんということのない会話だが、続けて庵野さんは、
 
 
 「ところで岡田さんはバルタン星人が出る回を見ましたか? え? 見てない? じゃあ、ここにたまたま80のビデオがあるから見ましょう」
 
 
 80のビデオが「たまたまある」というのがどういうシチュエーションかよくわからないが、そういえばドラマの中でも庵野ヒデアキが女の子を部屋にあげたときに、有無言わさず『機動戦士ガンダム』の全話をマラソン鑑賞させていたっけ。
 
 ビデオをセットすると映しだされたのは第45話。その名も
 
 
 「バルタン星人の限りなきチャレンジ魂」
 
 
 もうタイトル聞いた時点でトホホな空気が伝わってくるが、どんなストーリーかといえば、まずバルタン星人が地球を侵略に来る。
 
 その作戦というのが、バルタン星人がを投げ、その写真を「UFOの写真」ということで世に広める。
 
 そんな『月刊ムー』みたいなことをして、どうなるのかと問うならば、その写真を見た人々が、
 
 
 「これはホンモノだ!」
 
 「違う、ニセモノだ!」
 
 
 ケンカをはじめる。
 
 最初はささいな争いだったが、やがてそれがエスカレートし、懐疑派ビリーバーの世論はまっぷたつ。
 
 ついには戦争が起こり、地球人は全滅するというもの。
 
 そんなことで戦争が起こるか
 
 つっこみたくなるし、そもそも普通にウルトラマンがいる世界でUFOが「ホンモノかニセモノか」もないと思うが、そんな根本的にが抜けていることを気にもせずバルタン星人は
 
 
 「ふはははは、争え! ケンカしろ! 子供と子供がケンカする。親と親がケンカする。国と国とがケンカする。ミサイル発射! 戦争賛成! これがこのバルタン星人様の陰謀とはお釈迦様でもご存じあるめえ」
 
 
 ここで庵野監督が目を輝かせて、
 
 
 「ここですよ! このセリフ!」
 
 
 どうやら、大のお気に入りらしい。
 
 バルタン星人も地球来てから10年以上。「お釈迦様でもご存じあるめえ」とは、日本語もうまくなったものだ。
 
 『新世紀エヴァンゲリオン』の大ブレイクでいまや歴史に残る大監督の庵野秀明が、ダメ特撮のダメシナリオの回を見て、ほほを赤らめ
 
 
 「これがいいんですよ」
 
 
 この逸話が私は大好きで、『アオイホノオ』にも、きっと出てくるんだろうなあと期待していたら、出てこなくてガッカリであった。
 
 庵野さんと岡田さんいえば、
 
 
 「岡田さんは、仮面ライダーだめでしょ! 腹ではバカにしてるんですよ!」
 
 「当たり前や! あんなバッタのお面かぶって跳び蹴りしてるような、やっすい番組のどこを見たらええねん!」
 
 「そうでしょうとも。岡田さんはそういう人です。でもボクは違いますよ。ボクはウルトラマンもライダーもどっちもOKですよ!」
 
 
 という会話もすこぶるステキである。
 
 これも、出てくるかとワクワクしていたが、なかった。
 
 もし「2」が作られるなら、ぜひ登場させてほしい。ちなみに、ライダーに関しては私は岡田さん派です。
 
 
 
 ■おまけ画像
 
 
 □おまけ画像 その2
 
 バルタン星人の名セリフは→こちらから
 
 
 
 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

『アオイホノオ』の庵野ヒデアキはウルトラマン80について語りません

2014年10月07日 | オタク・サブカル
 「『アオイホノオ』に、庵野ヒデアキが『ウルトラマン80』を語るシーンが出てけえへんやないか!」
 
 テレビの前でそんな熱い咆哮を発しそうになったのは、第8話岡田トシオ登場のシーンを見ていたときであった。
 
 『アオイホノオ』に私がハマッていたことは先日語ったが(→こちら)、このドラマは原作者島本和彦氏の自伝ということで、様々な「伝説」ともいえるエピソードが盛りこまれている。
 
 庵野秀明さんが大学の課題で作った「じょうぶなタイヤ」や、岡田斗司夫さんの家には核シェルターがあったなどは、私でも知っている有名なネタ。
 
 「あー、聞いたことある」「やっぱ、この逸話ははずせへんわなあ」と見ていて楽しいものだが、となるとファンとしては当然、このような不満も出るわけですね。
 
 
 「なんで、あんなオモロイ話を使えへんねん!」
 
 
 そう、庵野秀明に関する私がもっとも気に入っている「あの」エピソードが入っていないではないか!
 
 それが、
 
 
 「若き日の庵野秀明、『ウルトラマン80』について大いに語る」
 
 
 これは岡田さんのコラムで紹介されていたのだが、そもそもまず『ウルトラマン80』とはどういう番組なのかといえば、これが実にスットコなヒーローである。
 
 たとえば、ウルトラマン最終回といえば、無敵だったウルトラマンがゼットン完敗を喫したり、瀕死モロボシダンアンヌ隊員に自らの正体を告げ最後の戦いに挑むシーンや、レオが一人、に向かって旅立つなどハードなものが多い。
 
 サブタイトルも大団円にふさわしく、
 
 
 ウルトラマン:「さらばウルトラマン」
 
 ウルトラセブン:「史上最大の侵略」
 
 帰ってきたウルトラマン:「ウルトラ5つの誓い」
 
 ウルトラマンA:「明日のエースは君だ!」
 
 ウルトラマンタロウ:「さらばタロウよ! ウルトラの母よ!」
 
 ウルトラマンレオ:「さようならレオ! 太陽への出発(たびだち)」
 
 
 などとシブイものが並ぶ。「さらば」という、日常生活ではなかなか使わないであろう言葉の語感がいいではないか。
 
 で、ここで80である。
 
 1980年代を代表するヒーローということで名づけられ、第2期ウルトラブームの最後を飾る男の最終回というのが、
 
 
 「あっ! キリンも象も氷になった!!」
 
 
 そうでっか……。
 
 いやまあ、氷にはなったんか知らんが、「史上最大の侵略」などとくらべると、あまりにも緊迫感がなさすぎではないのか。なんだか札幌雪祭りの宣伝みたいだ。
 
 まあ80自体が、
 
 
 「学校の先生がウルトラマンになる」
 
 
 という金八先生など学園ドラマブームに便乗したという、トホホ企画の番組であり、ついでにいえばデザインも微妙にダサく、ヘッポコピーな気分になるヒーローである。
 
 最終回だけでなく、他の回のサブタイトルを見ててもその思いは強まる。
 
 たとえば『ウルトラマン』など
 
 
 「無限へのパスポート」
 
 「恐怖のルート87」
 
 「禁じられた言葉」
 
 「故郷は地球」
 
 
 そのままシリアスなSF小説に流用できそうなものばかりだ。
 
 
 一方『80』の方を見てみると、
 
 
 「泣くな初恋怪獣」
 
 「ヘンテコリンな魚を釣ったぞ!」
 
 「がんばれ! クワガタ越冬隊」
 
 「ボクは怪獣だーい」
 
 「山からすもう小僧がやってきた」
 
 「さすが! 観音さまは強かった!」
 
 
 ……なんだかよくわからんタイトルである。
 
 だれなんだ、すもう小僧。「ヘンテコリンな魚」を釣ったと明るく言われても困る。
 
 『ウルトラマン』でもの怪獣は出てきたが、『大爆発5秒前』『沿岸警備命令』『海底科学基地』であった。イメージ違いすぎだろう。
 
 とどめは「さすが!観音さまは強かった」において怪獣を倒す武器は、スペシウム光線でもアイスラッガーでもなく、
 
 
 「ウルトラ観音光線」
 
 
 リアルタイムで見た子供たちが、どんな反応をしたか非常に興味があるところだ。
 
 そんな円谷黒歴史全開の80を庵野秀明が語る! もうその一点だけでも、興味津々であろう。
 
 
 (続く【→こちら】)
 
 
 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

テニスとサッカーの観客層の違い

2014年10月05日 | テニス
 「サッカーとテニスはファン層が違いすぎやで!」。

 そういって笑ったのは友人ダイモツ君であった。

 今年のスポーツといえばサッカーのワールドカップに錦織圭のUSオープン決勝進出と大いに盛り上がったが、サッカーとテニス両方を愛するダイモツ君は、いつもこの両スポーツをくらべると、会場の雰囲気に差がありすぎて吹き出してしまうのだそうな。

 サッカーと言えば、世界的に爆発的人気を誇っているが、にもかかわらず、その中身はと言えばかなりムチャクチャである。

 ワールドカップの試合をいくつか見ればわかるが、選手たちのプレーぶりはとんでもなく荒い。接触プレーの多いスポーツだからやむを得ない部分もあるが、それにしても激しい。

 チャージする、せりあいながら手で押さえつけるなどは、まだわかるが、よく見ると、いやさ別によく見なくても

 「後ろから押す」

 「脚をひっかける」

 「ヒジ打ちをする」

 「ユニフォームを引っぱる」

 「相手に抱きつく」

 などなど、どう考えても非紳士的プレーが散見される。

 子供のころ読んだ野球マンガ『ドカベン』に出てきた高知県代表土佐丸高校は、ビーンボールや危険なスライディングなどを駆使する「殺人野球」を売り物にしていたが、まさにワールドカップなどほぼ全チーム(日本をのぞく)「殺人サッカー」である。

 他にも、

 「反則ほしさにわざと転ぶ」

 「痛がっているフリをして時間を稼ぐ」

 「きたない言葉で相手を脅す」

 「審判の見てないところでセコイ報復をする」

 などなど、「もう、なんでもありかよ!」とつっこみたくなる世界。

 だが、そんな卑怯未練な手管もすべて

 「サッカーとはそういうもの」

 「南米勢はしたたか」

 「審判との駆け引きも見所」

 という言葉で、あたかも良きことのように語られるのがサッカーというスポーツの不思議。

 以前、テレビの日本代表特集から興味を持ったある友人が、「サッカーって、おもしろそうやな」というので、昔のワールドカップの試合のビデオを貸してあげたら、次に会ったとき、

 「初めてみたけど、サッカーってあんな汚いスポーツやったんか! ボクは認めへん! 正義はどこにあるんや!」

 などと、猛烈に憤っていて、「キミ、サッカー観るには向いてないなあ」と苦笑してしまったものだ。

 基本的に、スポーツマンシップとかルールとかモラルを重視するマジメな人とかは、サッカー観戦に向いていない。

 あのカオスなスポーツを楽しむコツは、ラフプレーもシミュレーションも汚いビッグマネーの動きも、審判買収や八百長や独裁政権の政治利用や、フーリガンの大暴れ、そういったもろもろの事情もすべて「ユーモア」として観ることなのだ。

 スポーツマンがどうとかよりも、そこには人間の持つ俗や悪といったもろもろのサガのようなものを見る、一種の「人生劇場」「人間喜劇」として鑑賞する。

 なんというのか、大げさに言えばドストエフスキーとかガルシア=マルケスの小説を読むような感じというか。私はそういう「文学」な目線でサッカーを見ている。

 その俗のカタマリのような土壌の上に、メッシやクリスチアーノ・ロナウドのスーパープレーといった神のごとき技が乗っかるからこそ、そこになんともいえない「美しさ」を感じることができるわけだ。そのギャップこそが、サッカーの魅力であろう。

 一方、テニスの方は実におとなしいものだ。

 選手も観客も紳士的。汚い野次もなければ、露骨な反則も審判の目をごまかすプレーもない。良いプレーには双方に拍手。特にウィンブルドンは白着用のドレスコードもあったりして、見た目にも地味。

 タトゥーを入れている選手など、サッカーでは当たり前だが、テニスなどたまにいると「おお!」とちょっとした話題になるほどだ。育ちがおよろしいことで。

 テレビで同時に鑑賞していると、この差違がハッキリして笑ってしまう。ワールドカップの狂乱のあと、ハーフタイムにチャンネルを変えてウィンブルドンを見ていると、パーンパーンというボールの乾いた音と、観客の温かい拍手がときおり聞こえるという、「皇室チャンネル」みたいな空気がそこには流れており、

 「これが、同じ地球の出来事なのか?」

 と、なんとも不思議な気分になってしまう。

 ゴッタ煮のようなワールドカップと、整然と落ち着いたウィンブルドン。好みは分かれるところであろうが、両方とも好きな私としては、人生が2倍楽しいのであるが、見るのが大変なので、願わくばどっちかを1月くらいずらしてほしいところである。



コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

映画『レッド・バロン』の致命的すぎる問題点

2014年10月03日 | 映画
 映画『レッド・バロン』には致命的な欠点がある。
 
 第一次大戦時における撃墜王マンフレート・フォン・リヒトホーフェンを題材にした伝記映画。
 
 タイトルは彼が、愛機を赤く塗装したことから「赤い男爵」の異名を取ったことに由来する。
 
 というと、カンのいい人には「あー、もしかして」となるかもしれない。
 
 そう、あの「シャア専用ザク」の元ネタになったのは、このドイツ空軍パイロットなのである(たぶん)。
 
 内容としては、まだ戦争というものに「大義」や「騎士道精神」といったアナクロニズムが幻想とはいえ残っていた時代をあつかっている。
 
 ドイツ軍、エースパイロット、貴族、複葉機、スポーツマンシップ、空への無限のあこがれ、敵味方を越えたライバルたち。
 
 何かもう男の子の好物をこれでもかと詰めこんだ「おとぎ話」であり、宮崎駿も『紅の豚』なんかよりも、ストレートにこの映画を作ってほしかったものだ。
 
 そんな『レッド・バロン』は絵的にもストーリー的にも楽しめて、なかなかの満足だったのだが、ここにひとつ大きな瑕疵が存在する。
 
 これはかなり致命的ともいえるもので、映画が開始したその瞬間に、
 
 「あー、こらダメ! これはもう、映画の出来がどれだけ良くても採点に4割減やな」
 
 ガッカリしてしまったものだ。
 
 そんなテンションダダ下がりなところとは、
 
 「登場人物が全員、英語をしゃべっている」。
 
 映画といえばハリウッドが支配している現状では、どの国が舞台で、どのような人種や民族が出ようが、英語で会話をするというのは、わりと当たり前のことである。
 
 『ローマの休日』だろうが『巴里のアメリカ人』だろうが、登場人物はイタリア語もフランス語もカケラもなく英語でしゃべる。
 
 スペイン階段で「ハロー」セーヌ川で「アイラブユー」である。古代ローマや『猿の惑星』ですら英語だ。
 
 まあこれらは古い作品だし、お話としてもファンタジーに近いからまだいい。日本でだって、『西遊記』の猿も河童も日本語でやりとりしていた。
 
 しかしだ、現代の映画で、しかもリアリズムな作品でそういうことをやられると、格段に冷める。
 
 特に戦争映画など、その国の特色がモロに出るものや、各国の人種が入り混じるようなシチュエーションで全員が英語だと、正直「はあ?」である。
 
 もう極端な話、そこでイスを立とうというくらいにドッチラケけなのだ。
 
 戦場経験の多いカメラマンの宮嶋茂樹さんも同じようなことをいっておられ、
 
 「ドイツ軍兵士や指揮官が英語を、特に《ドッグタグ》(認証評のこと。犬の首にぶらさげる鑑札みたいだから)みたいなアメリカ軍の用語を使うのにはホンマに興ざめや」
 
 まったくもって、その通りである。
 
 宮嶋さんがここで取り上げていたのは『スターリングラード』だが、この映画も廃墟と化したスターリングラードの街などは非常に雰囲気が出ていて良かったのに、ドイツ軍もロシア軍さえも(!)みな英語でしゃべっていて、「なんでやねん」と萎えること、おびただしい。
 
 『ワルキューレ』もそうだったよなあ。
 
 これがわかってる監督や制作陣だと、『プライベート・ライアン』ではドイツ兵はドイツ語を。『トラ・トラ・トラ!』や『硫黄島からの手紙』では日本兵はちゃんと日本語でしゃべってるのに……。
 
 この『レッド・バロン』も全編英語。でもなあ、英語って日本人にはそれなりになじみもあるせいで、ものすごく軽く聞こえるんだよなあ。
 
 「アイラブユー」とか「イエス、サー」とか「OK」とか、思わず
 
 「リヒトホーフェン男爵はそんな軽薄な口調やない!」
 
 憤りを感じてしまうほどだ。ドイツの貴族をなめるなよ! と。
 
 なにより許せないのは、この映画がドイツ映画なこと。
 
 なんでドイツで作って、スタッフも全員ドイツ人なのに、英語でしゃべっとるのや!
 
 意味わからんわ。アメリカとかで売りたいから? 日本で「海外を意識して」タイトルに『RONIN』『GOEMON』とか横文字を入れるようなもんか?
 
 しゃらくさい。だいたいそんなことする映画は、上滑りしとると相場が決まっとるんや!
 
 まあ、『レッド・バロン』はおもろしかったけどさ……。
 
 まったく納得のいかない英語セリフである。これだったら、日本語吹き替えで観た方が、なんぼかマシであった。
 
 色々と事情はあるんだろうけど、スタッフには猛省をうながしたい。なんでやねん、ホンマ。
 
 
 
 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする