修学旅行で女装パーティー その2

2014年01月22日 | 若気の至り
 前回(→こちら)の続き。

 高校の修学旅行で、「女装パーティー」をやることになった、我が大阪府立S高校2年B組。

 我が校は第二次大戦のことを「太平洋戦争」でも「大東亜戦争」でもなく、「大祖国戦争」と呼称するような思想的におもしろい学校だったので、前の年までは修学旅行でも「討論」「総括」「自己批判」といったイベントが行われていた。

 他校の生徒が沖縄や北海道でバカンスをエンジョイしているのをよそに、宿で夜中まで、

 「○○君はいつも制服の着方がだらしない。アメリカ資本主義の奴隷です!」

 などと議論し合っているというのは、なかなかに素敵な青春であった。

 それが、次の年には「女装パーティー」。まあ、S高を仕切っていた思想的におもしろい先生方が異動でいなくなったせいもあるのだが、それにしても急激に軟弱である。反動というのはおそろしいものだ。

 それはともかく女装であるが、衣装や化粧などはすべて女子が持ってくることになっていた。女子が企画したのだから当然だが、やたらと張り切っているのが印象的だった。

 「一回、やってみたかったんだ」とか「あたし、弟に化粧して遊んだことある」とか、ずいぶんと楽しそうである。どうも、女装というのは女子の琴線にふれるなにかがあるらしいのだ。よくわからんけど。

 修学旅行当日。いよいよパーティーの開始。男子一人に女子一人が担当として付き、女子の見立てや本人の希望などから服や化粧など選んでいく。

 さてこのイベント、一見女子の体のいいおもちゃにされているようで、私は、いやクラスの男子たちは密かに楽しみにしていたのである。

 というのも、みな口には出さないが

 「いざやってみると、オレってマジでかわいいんじゃないの」

 と思っていたからだ。特に、ビジュアルに自信のある男子はそうである。

 不肖、この私もちょっとだけそういう期待があった。

 というのも、私は子供のころ、自分でいうのもなんだがめちゃくちゃに愛らしい子供であったのだ。

 というと、「お前のどこがやねん」と鼻で笑われそうだが、これが嘘ではないから世の中はコワイ。なんといっても、子供のころの私は近所のショッピングモールの洋服モデルなどつとめていたのである。

 ムチャクチャ生意気なガキである。その写真は今でも残っているが、子供用の礼服など着て笑顔で写っていやがる。女の子と手を組んで、舞台でポーズなど取っていて今となっては信じられないリア充っぷりである。おいおい、お前ホンマにワシかいな。爆発しても知らんよ。

 さらには、子役タレント事務所からスカウトの電話もかかってきたことがあるという、嘘のような本当の話もあったりして、どうも私が人並みはずれてかわいい子であったことは相当に間違いはない。世の中には、まだまだ不思議なミステリーが点在している。

 そんな私であったため、

 「女の子の格好をすると、なんだかすごいことになるのでは」

 などとついつい考えてしまったのも無理はあるまい。もしかしたら、あまりの妖艶さに何かが「目覚めて」しまうのではないかなどとドキドキしたりしていた。

 担当になったのはイシズミさんという女の子で、私はマンガ好きの彼女に少女マンガを借りて読んでいたりしたので、

 「大島弓子の『綿の国星』に出てきた須和野チビ猫みたいにお願いします」

 などとかなり具体的にリクエストしたりした。

 そしていよいよ結果発表。様々な装いで登場する我々女装男子。キャリアOL風あり、女子に制服であるセーラー服を借りたものあり、当時まだいたワンレンボディコンあり。

 しかしどれも「いろいろ失敗した残念なニューハーフ」といった域をを出ておらず、私は勝利を確信した。間違いなく私がこの店……じゃなかった、このクラスでナンバーワンの美女であろう。

 そんな思い出もあったりして、昨今の「男の娘」ブームはそんな昔のことを楽しく思い返したりして、たいそうなつかしい気持ちになったのだった……。
 
 ……て、おいおい、そこで終わりかい。肝心のお前の女装の結果はどうだったのかと意見に関しては、一応その写真は残っているものの私の基本的人権のためにここはひとつ非公開ということにしたい。

 結論としては、

 「まあ、笑いを取れたからオッケー」

 と、前向きな解釈をすることによって、今後につなげたいところである。


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修学旅行で女装パーティー

2014年01月20日 | 若気の至り
 「男の娘」というのがブームであるという。

 ウィキペディアによると、

 「男性でありながら女性にしか見えない容姿と内面を持つ者を指す言葉」

 とのことらしい。素人男子にはこの手の趣味や嗜好のことはよくわからないが、まあここはざっくり「スカートの似合う男子」くらいにとらえて話を進めたい。

 私自身自分の中に女子的要素がほとんどないため、こういった「女の子へのあこがれ」みたいなものは、もうひとつピンと来ないのであるが、過去に「女装」というものをしてみたことは何度かある。

 一時期演劇をやっていたことがあるので、そういった衣装自体はわりと着る機会はあったが、初めてのそれといえば、高校生のころまでさかのぼることとなる。

 高2の修学旅行(我が校では「HR合宿」といっていたが)だが、私の通っていた名門(自称)大阪府立S高校は夏休みの課題図書に太宰治『人間失格』やヘルマン・ヘッセ『車輪の下』と並んで、堂々とマルクス&エンゲルス『共産党宣言』が入っているという思想的におもしろい学校であった。

 そのために修学旅行でも、普通ならレクリエーションの時間になる夕食後の時間も「キャンプファイアー」「花火大会」「肝試し」なんていうイベントはあろうはずもなく、

 「討論」「総括」「自己批判」

 という行事になっていた。時代もすでに平成だったというのに、どんな学校や。

 そこではメガネをかけた学級委員長の女の子などが

 「○○さんが校則で定められた以上のおみやげ代を持ってきているのを見つけました。帝国主義的行動だと思います」

 などと口角泡飛ばしていた。

 また私の友人フルエ君は当時放送していた『不思議の海のナディア』を見たいがために討論を抜け出したところを発見され、

 「僕はアニメ見たさに学校行事をさぼろうとした腐ったプチブルです」

 と自己批判させられていたりなんかして、友には悪いが大爆笑なのであった。ええやん、アニメくらい見ても。ナディア、おもしろいよ。

 そんなふうに、他校の子らが学校の金で海外に遠征したり、ディズニーランドとか行ってるのに、我々は

 「アメリカの核は悪だが、中国の核はきれいな核」

 などについて語っており、楽しいはずの青春時代にいったい何をしてるのかと、当時はきわめてトホホな気分であった。

 ところが我々が2年生になるころ、どうも教育委員会やお役人たちが、そういう「思想的偏向」をよく思わなくなったらしく、我がS高を仕切っていた「私のカレは左きき」的な先生たちがみなパージされ、学校の雰囲気はかなり変わった。

 修学旅行からも「討論」などが廃止され、普通に「フィーリングカップル」みたいなイベントが行われるようになったのだ。

 自己批判からフィーリングカップル。ものすごい振れ幅というか、いきなりゆるすぎるような気もするが、それくらいに生徒たちも、「思想とか、ウザ」と感じていたわけだ。

 そらそうだよなあ。やっぱ健全な高校生たるもの、修学旅行で「ソ連の計画経済」についてなんか、語りたくないよなあ。枕投げしたいよ。

 そこで話し合った結果、我がクラスは「女装パーティー」をやることになった。

 これは女子が強く希望したもので、またなんともゆるいというか、パージされた先生が聞いたらゲバ棒持って追いかけてきそうなイベントであるが、私としては「女っちゅうのはなあ」という思いとともに、心中期するところがあった。

 それは女装パーティーなるものに秘かなる「勝算」があったからだが、その中身については次回(→こちら)に。


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日本史と世界史どっちを選択しますか? その3

2014年01月16日 | 若気の至り
 前回(→こちら)の続き。

 高3の授業選択時、「履修者が少ない」という理由で世界史の時間をなくすと通告されそうになった。

 これには世界史選択者の私は怒り心頭である。いくら授業をしぼった方が教えるのに楽だからといって、少数派を切り捨てるとはなんたる暴挙か。それどころか、世界史の先生からも、「日本史にしたら?」と言い放たれる始末。

 この学校の、この国の教育はどうなってしまったのか。偏差値のために学問の自由と生徒の自主性を奪おうとしている。こんなファッショは、天が許してもこの私がゆるさんぞ!

 なんて息巻くと、先生はため息をつきながら、

 「でもなあ、ホンマに今年は世界史取る子がおらへんのや」

 だから、数の問題ではない。私は学問の本質について語っているのだ。学ぶことは有利不利ではない。偏差値も関係ない。学ぶものの、本当に歴史について学びたいという情熱こそが大事だと、再三言っているではないか。

 それを、数が多い日本史にしなさいとは。そりゃあ、世界史は少しばかり人気では劣るかもしれないけど、それでもゼロというわけではあるまい。じゃあ、いってみなさい。そんな、クラスも構成できないほど人数が少ないなら、その数をここで教えてみろ!

 と、高ぶる心でガツーンといってやると、その答えというのが、

 「3人やねん」

 そうであるか。3人であるか、たしかに日本史とくらべるとその総数では……て、え? え? え? さ、さ、3人?

 ちょう待って。3人ってことは、指を折ってひい、ふう、みいの、みいで3人?

 静かにうなずく先生たち。え? え? ホンマにたった3人なの?

 ここで、ふたたび指を折りながら計算してみた。えーと、うちの学年はAからHまで8クラスあって、1クラス平均45人おるから、まあざっくりと全部で350人おるとしよう。

 そのうちの3人ッスか?

 「そうや」とおっしゃる先生方。これには、思わず「えー!」という声が出た。3人。1学年350人おって、その中で世界史を取ったのが、たったの3人。
 
 私は振り上げた拳の降ろしどころもなく、その場で棒立ちになってしまった。350人中3人。はあー、そらあかんわ。先生が言うのも当然や。なんぼなんでも、たった3人のために授業はできません。

 それどころか、すでに他の2人は「日本史にしてくれ」というと、特にこだわりもなく「はい、そうします」とすぐにOKしたのだという。

 この2人は、もともと日本史でも世界史でも、どっちもでよかったらしい。それで、なにも考えず世界史に丸をしただけで、別に日本史でも倫理でも政経でもよかったのだ。

 これで、残ったのは私ひとり。堂々のひとりぼっちだ。私も趣味や生き様などについて多数派になかなか乗れないことは、当ページでもよくネタにはしているが、それにしても349対1というのはまた極端な。

 同期の中で、私ひとりが世界史。あとは全員日本史。こんなことあるんかいな。

 よく恋愛ドラマで

 「世界中を敵に回しても、僕は君を守る」

 なんていうセリフがあったりするが、まさにそれである。我以外皆敵。大東亜戦争末期、ドイツ降伏後の大日本帝国みたい。世界全部対オレ様。

 あっけにとられた私は、言葉も失って「はは、こら大爆笑……」と茫然自失したのであるが、先生の「じゃあ、納得やな」の一言には、凍りついた笑顔のままでうなずくしかなかった。

 そらそうですわ、たったひとりのためにクラスなんて作ったら、先生が大変すぎます。学問の自由とか、そういう問題ちゃいますわ

 なぜそこまで極端なことになったのかといえば、なんでも当時有名な日本史の予備校講師がいて、みなその人の本で勉強していたため、日本史が爆発的に人気になったのだと聞いた(今ググってみたら、菅野祐孝という先生でした)。

 そこから、なんとなく

 「社会なににする?」
 「オレ日本史」
 「じゃあ、オレもそうしよっかな」
 「え、おまえら日本史にするの? じゃあ、オレもそうしよ」

 と、倍々ゲームで増えていって、そうこうしているうちにいつのまにか「一党独裁」に決まってしまったのだという。げにおそるべきは、日本人の雰囲気に流されやすい民族性である。みんな、フワッとしてるなあ。

 いくら信念の人である私とはいえ、こうまではっきり差がついてしまえばいかんともしがたい。数の暴力は反対だが、349対1のパーフェクトゲームを食らってはぐうの音も出ない。

 もう、いっそさわやかすぎるマイナーっぷりだ。マツコ・デラックスさんは、ある番組で

 「あたしは常に、あえてマイノリティーでいたいの」

 と主張しておられたが、あえてとか全然思ってないのに、ごくナチュラルにマイノリティーであるというのも考え物である。再び言うが349対1。そうかー、仲間はひとりもいないのかー。さみしすぎるぞ。

 そうして私は転びバテレンとして、関係のない日本史の授業を1年間受けたのであった。

 そうなると、もちろんのこと受験では大きなハンディを背負わされたのではと心配される心優しい読者諸兄もおられるかもしれないが、実際のところ私が本格的に勉強をはじめたのは浪人が決まってからであった。

 なので、高3時の授業はサボるか本を読むか寝るかの3択であったため、今考えたら社会が日本史だろうが世界史だろうが銀河帝国興亡史だろうが、私の人生にはカケラの影響もなかったのであった。

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日本史と世界史どっちを選択しますか? その2

2014年01月14日 | 若気の至り
 日本史より世界史がおもしろい!

 そう主張してはばからない私であるが、これがなかなかどうして、世界史はイマイチ人気がない。世界史推しの私は、前回(→こちら)語ったように、大いに孤独な人生を送ることを余儀なくされている。

 そのことは私の被害妄想ではなく、はっきりと数字に表れているのである。それを痛感したのが高校3年生のころのことであった。

 受験をひかえた当時の我々3年生は、受験科目によって履修する科目があれこれと選択できた。

 まず文系と理系にわけ、理系なら理科は物理か化学か、数学なら微分積分と幾何のどちらに力を入れるのか。文系なら漢文のクラスは取るのかなどあったが、中でも大きな選択は社会であり、ここでなにを選ぶか。

 一応、日本史、世界史、地理、倫理政経と4つの選択肢があるが、まあごく一部を除いて、ほぼ9割以上が日本史か世界史を選ぶ。ずばり二択である。

 もちろん、私は世界史選択である。世界史は日本史とくらべて、暗記することが多いとか、名前などがわかりにくい(マルクス・アウレリウス・アントニウスなんてね)とかいわれて不人気であったが、好き者こその上手なれである。そもそも、学問において学ぶことを「有利不利」で決めるというのは、どこか感心できない話である。

 ところが、ここにまことしやかな噂が流れていた。それは、
 
 「今年は、世界史の授業がなくなるらしい」

 おいおい、そりゃどういうこっちゃ。受験の社会には日本史と世界史があるのに、世界史の授業をしないとなれば、世界史選択の生徒はどうなるのか。そもそも、授業がなくなるなんてことがあるの?

 と噂の主に問うならば、それは仕方がないことらしく、事前調査では世界史受験より日本史受験で挑む生徒の方が、圧倒的に多いのだそうな。

 それだったら、いっそ全員を日本史選択にしてしまって、先生方も一点突破の強化体制で教える方が、偏差値アップが望めるのではないかということである。進学校の考えそうなことだ。

 なるほど、それはしかりである。たしかに受験では、教える方も学ぶ方も単元をしぼった方が効率的に学力を伸ばせるかもしれない。

 だが、それでいいのだろうか。そんな受験競争だけに目を向けて、世界史の授業を切り捨てるとは、それは学問に対する冒涜ではないか。私のように、心から世界史を学びたいと思っている生徒の気持ちはどうなるのか。

 これには私としては断固として抗議するつもりであった。私は世界史での受験を変えるつもりはない。とすれば、たとえ数が少なくてもきちんと授業はやってもらわねば困る。

 私は正義が自分にあることを確信していた。ふざけるな、なにが受験に有利だ。おれたちは偏差値の奴隷じゃねえぜ!

 と息巻いていたところ、社会の先生から呼び出しがかかることになったのである。

 その内容というのが、予想通りというか、

 「○○(私の本名)、お前も社会は日本史にせえへんか」

 これには、ふだん温厚な私も頭に血が上った。やはりそういうことか。噂は本当だったのだ。我が母校である大阪府立S高校は、学問の魂を売り飛ばそうとしている!

 先生の話によると、今年は日本史選択者が世界史選択者よりも全然多い。なれば、いっそ全員が日本史にしたほうが時間割が作りやすい。お前が世界史選択なのは知っているが、ここは妥協して日本史にしてくれないか。

 来たよ、来た来たメフィストフェレスの誘いだ。だれがそんなもの聞くものか。なんだあ? 世界史選択の数が少ないだあ? 多数派がそんなにえらいのか、マジョリティーが正義なのか。

 そういった数の暴力こそが、数々のファシズムや独裁政権を生み出してきたのではないか。それに、この私にも安易に乗っかれというのか。そんなものはゴメンだ。

 思えば、腰の定まらないネヴィル・チェンバレンの妥協的な姿勢がヒトラーの増長を許したように、ここでも悪がはびころうとしている。

 不肖この私、成績の方は下から数えた方が早いというか、早いどころか下から1番目の劣等生なんだけど(おそろしいことに実話です)、その志だけは曲げるつもりはいっかな無いのだ。

 と頑固に主張すると、2年のときに世界史を教えてくれたカラホリ先生が、

 「○○君、そんなこといわんと、日本史にしたらどないや」

 これにはアゴに一撃食らったような、強烈なショックを受けた。ブルータスお前もか。おお、まさか日本史ならともかく、世界史の先生にまで「日本史にしろ」といわれるとは。先生、あなたの信念はどこで死んでしまったのか。


 (続く【→こちら】)


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日本史と世界史どっちを選択しますか?

2014年01月12日 | 
 インドロ・モンタネッリ『ローマの歴史』を読む。

 私は世界史が好きであり、その類の本を結構読むことがある。

 傾向としては、英文学者中野好夫の『アラビアのロレンス』や、シュテファン・ツヴァイク『ジョセフ・フーシェ』など、どちらかといえば重厚な専門書というよりは、おもしろさ重視の「歴史講談」みたいな本が好み。

 昨今、「歴女」なんて言葉もできて、一部では戦国武将とかお城とかについて語るのがブームだというが、私は歴史に関しては断然日本史よりも世界史派である。

 特に私は武将とか侍みたいなノリにそんなに興味がないため、日本史の中でも人気ジャンルである戦国時代と幕末にまったく目が行かない。なので、いまだにあの辺のことはよくわからなく、ますます日本史からは置いてけぼりである。

 戦国時代はまだしも、幕末から明治維新にかけてはまた特別にひどく、大人気の新撰組とかのことも全然知らないし、坂本竜馬がなにがすごいのかもサッパリだ。

 なもんで、この時代をあつかった映画を観ても、誰がなにをしているのか皆目見当がつかず、つい同行者に

 「で、これはどっちがええもんで、どっちが悪もんなの?」

 などとたずねて失笑されてしまったりする。私の新撰組の知識は、『大甲子園』に出てきた紫義塾高校から得たもののみなのである。

 そんな日本史では勝負できない私なので、やはりここは断固として世界史推しであるわけなのだが、これがあまり共感されにくいというか、世界史好きというのは存外に少ない気がする。

 周囲でも、武田信玄が好きで山梨までゆかりの地を訪ねる旅をしたり、趣味がお城めぐりとか、司馬遼太郎のファンとかそういった人には事欠かないけど、世界史好きはといえば、あまり話す機会がない。

 そこが、どうにも納得がいかない。世界史は日本史とくらべて圧倒的にスケールがでかい。なんたって世界だ。昨今、スポーツの世界では世界を目指すとかいう選手が増えているし、経済もグローバルスタンダードがどうとかいうではないか。もっとみんな、世界に目を向けたらどうなのか。

 武将が好きといえば、みな判で押したように武田信玄と上杉謙信だ。たしかに、織田信長とかすごいとは思うが、世界にだってアレキサンダーとかサラディンとかジンギスカンとかヴァレンシュタインとかネルソン提督とかケマル・アタテュルクとかモルトケとか、すごい連中が目白押しだ。みんなが好きな三国志だって、完全無欠に世界史チームだ。

 城だって、ノイシュヴァンシュタイン城とか、タージ・マハルに紫禁城にホーエンザルツブルク城にマルタ島の城塞都市にと、すごいもんが山ほどあるのだ。世界のレベルをなめるなよ!

 と、熱くプレゼンするも、「えー、世界史ってよく知らないし」とか、はては「外人の名前はおぼえにくいなあ」などといった理由で却下されるのである。嗚呼、なんたることか。

 思うに世界史とくらべて日本史の優勢は、やはり魅力的な歴史小説や時代小説が充実してるからであろう。

 特に吉川英治の『宮本武蔵』と司馬遼太郎の『竜馬がゆく』は、これはもう相当に強力な二本柱。作品自体がおもしろく、武蔵と竜馬というキャラが立ちまくり。また両者は作者による「解釈」が比較的自由であるため、マンガや映画などどんどん広がりを見せていくという強みがある。

 ちなみに私はどっちも読んでません。時代小説はもともと苦手なのだ。

 また、ゲームの影響も大きかろう。戦国時代がなぜにてこれほどメジャーかといえば、戦乱の時代は誰しも魅力を感じるものであるとともに、『信長の野望』がかなり貢献していることと思われる。

 私もよく遊んだが、これによって武将とか地名とかになじみがあるのがでかいのだ。三国志もまたしかり。あれも、ゲームのおかげで、原作をちゃんと読んだ人はそんなにいないにちがいない。

 ちなみに、私は友だちに借りて一応読みましたが、長くて苦行でした。中身も全然おぼえてない。

 それにくらべると、世界史はややそこで遅れを取っているかもしれない。

 私が読んでおもしろかった有名な世界史小説といえば、塩野七生『コンスタンティノープルの陥落』、ヘンリク・シェンキェヴィチ 『クォ・ヴァディス』、チャールズ・ディケンズ『二都物語』、浅田次郎『蒼穹の昴』、皆川博子『死の泉』『総統の子ら』、須賀しのぶ『神の棘』と、他にもあれこれと色々思い浮かぶけど、メジャー度では司馬遼太郎に全然かなわない。

 マンガでは『ベルサイユのばら』が圧倒的で、私は手塚治虫『アドルフに告ぐ』とか、川原泉『バビロンまで何マイル?』(塩野七生『チェーザレ・ボルジアあるいは優雅なる冷酷』と併せて読みましょう)とか読んだけど、これまた『バガボンド』とかにくらべると、ちょっと古い。

 ゲームに至っては、『ランペルール』とか『大航海時代』とか『蒼き狼と白き牝鹿』とか『アドバンスド大戦略』とか、マイナーかつマニアックすぎて誰も知らない。これで信長や戦国無双に対抗しようとは、いよいよ苦戦である。

 かように、どうも世界史というのは「メディア戦略」で遅れを取っているようである。ちぇ、世界史おもしろいのになあ、とブツブツ言いながら次はボルヘスの『汚辱の世界史』を読もうと思う。


 (この話題次回に続きます→こちら



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大伴昌司『怪獣図解入門』 その3

2014年01月06日 | オタク・サブカル
 前回(→こちら)、前々回(→こちら)に続いて、大伴昌司『怪獣図解入門』を読む。

 他のブログやツイッターでは、新年の抱負や初もうでの写真など載せているところに、


 「チブル星人のチブル脳 知能指数5万 銀河系のあらゆる知識を記憶している」


 みたいな話をしている私。2014年度もますます絶好調である。

 そんな夢とハッタリでいっぱいの『怪獣図解入門』だが、中にはどういうねらいなのかよくわからない、妙ちきりんな記事もあったりする。

 シュールとでもいうのだろうか、おそらくは「レッドキングの脳 レッド脳」みたいなことばかり書いているうちに、大伴昌司も

 「さすがに、こればっかりではあんまりやな……」

 と、良心の呵責のようなものをおぼえたのではないか。

 そこで、多少は変化をつけようとがんばってみたのだが、それがまた迷走して不思議なことになってしまっている。

 たとえば、『帰ってきたウルトラマン』に出てきた怪獣シュガロンの脳は「シュガロンレインボー脳」であり、その特徴は、


 「芸術的センスであふれている」。


 意味不明だ。一応ストーリーでは牛山画伯という絵描きの魂が乗り移ったのかもという設定があるが、それにしても、どこかずれた解説だ。せめて「人間の絵描きが乗りうつったから」とか加えておいてほしい。

 よくわからないといえば、『エース』に出てきたベロクロンの「ベロクロミサイル心臓」で、


 「ミサイルのもとになる液体をつくる」。


 どこからつっこみのメスを入れるべきか、非常に悩ましいフレーズである。

 ミサイルを液体から作るというのもすごいが、製造場所が心臓というのもソリッドな発想だ。感心していいのかどうか、まったくわからない。

 同じようなものに、


 「ジャミラ心臓 100万度の血液をつくり出す」


 そんなに熱かったら、ウルトラ水流ごときあっという間に蒸発させて効果がないと思うが。そもそも、ジャミラは元は人間なのに、ようそんな体質になったものだ。

 シュールといえば、この怪獣ははずせまいブルトン。

 ネーミングからしてアンドレ・ブルトンから取っているんだから(ちなみにダダも「ダダイズム」から来てます。昔の人はインテリですね)、やっぱり変わった怪獣。

 本編でも戦車を空に飛ばして、飛行機を地面に走らせたりと、おかしなことをやってウルトラマンを幻惑させたけど、そのブルトンの「ブルトン脳」というのが、


 「人間の腸のように長く、東京、静岡間もある」


 なんとなく、リアリティーがあるようなないような記述。さらに続けて、


 「すぐれた考えと、悪い考えがまじっている」


 「そうなのか……」としかいいようがない。まあ、人間だってたいていはそういうもんだと思うが。

 脳といえば、「ゴーストロン空気脳」の


 「なにもつまってないので、小さなおとでもひびく」


 とか、「ウー脳」の


 「雪の伝説をよくおぼえている」


 といった、やはりすごいのかどうか理解に苦しむ記述もステキだ。「よくおぼえている」って、それはただの記憶力のいい人だろ!

 なにかこう、一時期ブレイクした「点取り占い」に通じるわびさびさがある。

 独特の文体というか、俳句や短歌に通じるリズム感というか、ここまでくると、ほとんど「文学」のような気さえしてくる。

 この空気感にハマると、かつて栄えた「昭和特撮文明」から引き返せなくなる。

 怪獣アントラーの「砂あらし管」の注釈に「アントラー管ともいう」とあるのに、

 「その付け加えは、本当にいる?」

 とすかさずつっこめるようになれば、あなたも「大伴昌司 初段」の免許皆伝であろう。

 その勢いで現在、洋泉社のムック『円谷怪奇ドラマ大作戦』を読んでいる。表紙裏ピンナップの岸田森がシブすぎる。私の2014年も万全の充実ぶりといえよう。


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大伴昌司『怪獣図解入門』 その2

2014年01月04日 | オタク・サブカル
 前回(→こちら)に続いて、大伴昌司『怪獣図解入門』を読む。

 昨今では、山本弘さんの『MM9』など、こういった架空の生物だからこそ、あえて科学的生物学的にリアリティーを持って設定を作るというのが主流だが、昭和の時代の特撮にそんな姿勢など皆無である。

 そこには全編「その場の思いつきとハッタリ」で埋めつくされており、今読むとなんともいえず味わい深い。

 また、そんな本を新年度一発目に持ってくる私もさすがであるといえよう。攻める姿勢を常に忘れない。まさに、2014年早々のロケットスタートである。

 怪獣といえばまず語られるべきは、そのおそろしいパワーであろう。

 一撃で高層ビルを破壊する凶悪怪獣たちの腕力や蹴りの力を大伴センセイは説明してくれるのだが、それがすごいのかどうか、いまひとつわかりにくい。

 たとえば『ウルトラマン』に出てきたザラガスの「ザラガス尾」のパワーは


 「ブルドーザー20万台分」。


 すごいといえばすごいのだろうが、ブルドーザー20万台というのがピンとこない。

 同様にテレスドンの「テレス尾」は


 「ブルドーザー10万台分」


 いきなり半額の安値である。

 テレスドン、しょぼいな。いや、10万台でも強いんだろうなあとは思うけど、この豪快かつ適当な数字のあつかいが味である。

 怪彗星ツイフォンから降りてきたドラコの「ドラコ腕」は、


 「インド象10万頭分」


 だから、すごいのかどうか、よくわかんないってば。

 さらに味なのが、ゴモラの腕力で、


 「ジャイアント馬場の20万倍」


 ますます、すごいのかどうかよくわからん。

 20万倍といわれると、それはそれはパワフルであろうが、なぜ比較対象が馬場なのか。それは案外ショボいのではないか。

 すごいといえば、腕力以外でもむやみにすごい能力は目白押しである。

 たとえば『帰ってきたウルトラマン』のキングマイマイによる「マイマイふくがん」は


 「地球から月に落ちた1円玉が見える」


 驚天動地のスーパー視力。マサイ族も裸足で逃げ出す見えっぷりだ。

 でも、キングマイマイって、そんなすごい怪獣だったかなあ。ちなみに、こいつが脱皮するとパワーアップして「ストロングマイマイ」になる。

 なんか、かわいいぞ。

 よくアイドルなどで「麻衣」とか「舞」なんて子がいたら、ニックネームが「まいまい」になったりするが、私にそういう名前のガールフレンドが出来たら、まちがいなくこう呼ぶね。ストロングマイマイ。

 またメフィラス星人の「メフィラス目」は


 「5万光年はなれたところの音が聞こえる」


 って、それはもうとんでもなくはるか昔の音なのではとか、ビラ星人の「超高性能ビラ目」は、


 「宇宙のかなた何百億光年まで見える」

 ホンマかいなという話である。なにかもう、ものすごい「言うたもん勝ち」感だ。 

 こういうのをザーッと見ていくと、だんだんこっちの感覚もおかしくなってきて、


 「タッコングひふ 水爆でも平気だ」


 程度の記述では「ふーん」とばかりに、ちっとも心が動かされなくなる。「何百億光年」を出されると、今さら水爆程度ではオロオロしなくなるのだ。「普通やろ」ってなもんである。

 そんな、少年ジャンプ並に「強さのインフレ」を見せている『怪獣図解入門』。

 子供をグイグイ引きつけるには、とにかくハッタリでもって敵を強化していくというのは、今も昔も変わらないんだなあと、感慨深いものがあるが、そんなすっかりクールな大人の私でも「ええ?」と思わず声に出してしまったビッグなヤツがいた。

 それは『ウルトラセブン』に出てきた冷凍怪獣ガンダーであり、その胃である「ガンダーアイストマック」(また胃のダジャレだ)の説明は、


 「空気を氷点下1000度に冷凍する袋」


 そう、科学にくわしくない人でも「絶対零度」という言葉は聞いたことがあるだろう。温度は高い方に関しては、基本的に上はいくらでもあるが、下がる方に関しては今のところ-273.15以下にはならないということになっているのだ。

 そこを氷点下1000度と言い切るところが男らしい。

 やはりこういうときは、「言い切ってしまう、やりきってしまう」ことが大事なのだ。なにごとも中途半端はよくないという人生の真理を、私は大伴昌司から学んだのである。


 (続く【→こちら】)


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大伴昌司『怪獣図解入門』

2014年01月02日 | オタク・サブカル
 大伴昌司『怪獣図解入門』を読む。

 子供のころから本と怪獣大好きであった私が、生まれて初めて手に取った書物というのが、この『怪獣図解入門』である。

 読書好きにとって、書物とのファーストコンタクトというのはいつまでも思いで深いもので、ミステリ作家の北村薫先生などはヨーロッパの民話集を読み、なんとそれで自作のアンソロジーを作って遊んでいたそうだが、私の場合は怪獣もの。

 それも、よりにもよって大伴昌司であるとは、三つ子の魂なんとやらというか、私の因果な人生はすでにこのときからはじまっていたようである。ご愁傷様としかいいようがない。

 そんな思い出深い本書が平成版として復刻されているというので、さっそく読み返してみることにしたが、これが昔の印象と変わらず、なかなかにハッタリのきいた内容であるのには、うれしくなってしまった。

 昨今は、オタク文化の一般化により特撮やアニメに関しても、かなり詳細な設定集や研究本があまた売られている。

 だが、昭和の時代というのは、今のような充実したメディアなど望むべくもなく、全体的にかなりアバウトなシロモノであった。

 それはこの『怪獣図解入門』をひもとけば随所に見られる。本書はウルトラシリーズの人気怪獣のイラストにお腹や足などの部分解剖図を添付。それにより、怪獣を内部構造から考察していこうという作りになっている。

 そこで、たとえば「どくろ怪獣レドッキング」の章では、レッドキングの図解とともに、人間でいえば「前頭葉」とか「腎臓」「ハムストリング」といった身体機能を説明してくれるわけだが、そこでのネーミングというのが、


 レッドキングの脳=「レッド脳」。


 大伴、仕事をやる気があるのか?


 レッドキングの脳みそだからレッド脳。

 「ジーパンをはいているから、今日からおまえはジーパン刑事だ」

 といい放った七曲署のボス並のストレートすぎるネーミングセンスである。

 以下、レッドキングの内部というのは、


 鼻=レッド鼻
 歯=レッド歯
 心臓=レッド心臓
 胃=レッド胃
 つめ=レッドつめ
 尾=レッド尾
 うろこ=レッドうろこ



 と、怒濤のレッド攻勢。

 しかもその説明が


 「レッド脳 あまりかしこくない」


 みたいなもんだから、ステキだ。ますます「大伴、仕事やる気あるのか?」であろう。シンプル・イズ・ザ・ベストという言葉では表現しきれない、ある意味いさぎよい仕事っぷりであるといえるかもしれない。

 他にも、あまりにも有名な、


 「ゼットン火の玉は1兆度」


 とか(出た瞬間地球が燃え尽きると思われる。それでも壊れない科特隊の基地ってすごい)、


 「ネロンガ目 ヘッドライトの54倍の明るさ」


 とか(すごいのかどうかよくわからん!)、


 「怪獣オクスターの胃 オクストマック」


 とか(それはただのダジャレだろ!)といった、味のありすぎる記述がいっぱい。

 ハッキリ言って適当この上ないが、資料的充実著しい現代では決して望めないこのいい加減さは妙なパワーがあり、なんともいえず引き込まれる。

 さすがは大伴昌司、玄人の仕事だ。

 それにしても2014年早々こんな本を読んでいる私の人生は大丈夫なのか。今年もまた、一般ウケから「遠く離れて地球に一人」になりそうな予感がビシバシ、嗚呼。

 というわけで、みなさま、あけましておめでとうございます。どうか今年度も当ページをよろしくお願いいたします。


 (続く【→こちら】)




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